なりたいものは……
「はい、これ。菜月はミルクティーでよかったよね」
「あ、どうもありがとうございます」
公園のベンチに座り、葵からミルクティーの缶を受け取る。
菜月が温かな缶で少しかじかんだ指を温めていると、葵が隣に腰を下ろした。
「話は植田さんからある程度聞いた。何か、大変なことになっちゃったみたいだね」
自分用に買ったカフェオレを飲みつつ、葵が話を切り出した。
大変なことというのは、言うまでもなく破門騒動のことだ。
聞けば、葵も今日は、わざわざ有休を取って様子を見に来てくれたらしい。自分の所為で周りに迷惑を掛けてしまっているという事実が、菜月には心苦しかった。
「先輩にも図書館の方にも、たくさん迷惑かけちゃっていますよね。本当にすみません」
「ああ、そっちは気にしなくていいよ。破門騒動のことは、今のところ私にしか伝わっていないし。あんた今、土日で旅行した挙げ句、インフルエンザに罹って寝込んでいることになっているから」
植田さんに感謝しときなさいよ、と葵が付け足した。
状況から察するに、どうやらすべて和人が取り計らってくれたようだ。無断欠勤をごまかすための言い訳は、『それじゃあ、ただの間抜けだ!』の一言だが、そこが取り繕える最大のラインだったのだろう。
菜月としては、もうクビになったものと思っていたので、これは何とも有り難い話だ。
葵の言う通り、手を尽くしてくれた和人には感謝すべきだろう。
ただ、それとは別に、菜月は思うところをありのままに口にした。
「でも、私なんかがまだ修復家を名乗っていて、いいんですかね……」
「菜月……?」
自虐的な笑みを浮かべた菜月が、缶を弄びながら俯く。
いつの間にか、菜月の心にはまたもや暗雲が立ち込め始めていた。暗く陰鬱とした感情は、菜月の口を伝って外へと溢れ始めた。
「私、この一週間ずっと考えていたんです。自分が修復家になりたいと思った、本当の理由は何だったかを……。で、気づいちゃったんです。私は結局のところ、自分が安心できさえすれば、何でもよかったんですよ……」
部屋に閉じ籠って考え続けていたこと、醜いとまで思えたその結論を、菜月はとつとつと語る。
ああ、いけない。これじゃあ、先生に破門された時と同じだ。私はまた、同じ過ちを犯そうとしている。
心のどこかで、感情が漏れ出すことへの警鐘が鳴っていた。
そのことを自覚しつつも、菜月はまるで懺悔でもするかのように言葉を紡ぎ続けた。
「あの時の、先生に出会った頃の私は、ちょっとどうかしていたんです。先輩はどんどん夢に向かって進んでいるのに、私は何をしたいのかもわからない。このままじゃ、先輩に置いてかれちゃう。一人ぼっちになっちゃう。そう思って、焦っていたんです」
菜月にだってわかっている。葵は菜月を見捨ててどこかへ行ったりする人じゃない。それはわかっているが……どうしても怖かったのだ。
後ろを付いて行くだけの自分では、いつか重荷と思われてしまうかもしれない。先輩の邪魔になってしまうかもしれない。
言い知れない不安を、当時の菜月は拭い去ることができずにいた。
「先生と出会った時は、本当にすごい人だと思いました。この人はまるで魔法使いみたいだって。私もこの人みたいになってみたいって、憧れもしました。でも……」
自然と目には涙が浮かび、声が潤み出す。
自分の醜さが許せなくて、それを先輩へ八つ当たりのようにぶつけているのが情けなくて、菜月は人目を憚ることなく嗚咽をもらした。
「でも、私は同時に思っていたんです。これなら先輩に見劣りしない。先輩にも親にも、堂々と『やりたいことを見つけた』って言える。もう置いていかれる心配をしなくていい。もう怖い想像をしなくていいって!」
零れ落ちる涙を止められず、菜月が俯いたまま手で顔を覆う。
いや、本当は違う。本当は、単に怖くて顔を上げられないだけだ。
顔を上げて、葵の顔を見るのが怖かった。自分の浅ましさを告白した今、葵がどんな顔で自分を見ているか、知るのが怖かったのだ。
「先生に弟子入りしてからの私も、負けず劣らず酷かった。私、ずっと先生や和人さんに甘えていました。先生や和人さんみたいに本の歴史を背負う覚悟も持たず、弟子という立場に胡坐をかいていた。先生たちが戦う後ろで、一人ぬくぬくと修業とは名ばかりのままごとをしていた!」
自分が何を言いたいのか、もはや菜月にもわからなかった。
それでも、まるで何かが憑りついたかのように、言葉は止め処なく溢れ出してきた。
「先生が引退すると言いだした時もそうです。結局、私は先生の庇護下から出るのが怖かっただけ! いつも守ってくれる人がいなくなるのが、嫌だっただけなんです!」
ああ、私は何でこんな話をしているのだろう……。
菜月の頭の中に、微かな声が木霊した。
私はどうして、ここまで自分を貶めているのか。こんな話を先輩にして、どうしてもらいたいのか。
同情してほしいのか。慰めてほしいのか。叱ってほしいのか。それとも、いっそのこと完膚なきまでに愛想を尽かしてほしいのか……。
頭の中の声は、責めるように絶え間なく問い掛けてくる。
それらの問いに一つも答えることができないまま、菜月はただしゃべり続けた。
「こんなんじゃ、先生に見捨てられて当然です! だって私は、修復家になるだけの覚悟なんて持ち合わせていなかったんだから! 自分が安心できて、近くに守ってくれる人がいれば良かったんだから……」
だから! と菜月は息を吸うことも忘れ、捲し立てるようにこの言葉を放った。
「こんな私が、これからも修復家を名乗っていいはずないんです!」
心にあったわだかまり、暗い感情をすべて吐き出し、菜月が荒い息をついた。
ベンチに座る二人の間に言葉はなく、ただ菜月がしゃくりあげる声だけが響いている。
だが、二人の間に落ちていた沈黙は、唐突に破られた。
「……そうだね」
不意に響いた葵の静かで澄んだ声が、菜月の耳を打つ。
「菜月にこの仕事は……向いていなかったのかもしれない。もう修復家なんて、名乗らない方がいいのかもね」
「――ッ!」
修復家を名乗らない方がいい。葵からそう告げられた瞬間、菜月は涙と呼吸が止まるのを感じた。
考えるより先に体が動き、隣に目をやる。
そこには、これまで見たこともないほどに厳しい顔をした葵がいた。
彼女の瞳に、ふざけているような気配はない。つまり、今の言葉は聞き間違いでもなければ、冗談でもないということだ。
同時に、一度は止まった菜月の涙が、また堰を切ったように溢れ出した。
修復家失格なんてことは、自分でもわかっていた。この一週間、自分に言い聞かせるみたいに何度となく口にしてきた。辞める覚悟もしていたし、辞めた方がいいと言われる覚悟もしていた。
そう……思っていた。
それがどうだ。結局のところ、自分はこの期に及んで、いまだどうしようもないくらい甘ったれな子供だった。覚悟なんて大層なもの、これっぽっちもできていなかったのだ。
たった一言、葵から「向いていない」と言われただけで、簡単に揺らいでしまった。耐えられなくなってしまった。
息が止まるくらい、涙が止まらなくなるくらい悲しかった。辛かった。悔しかった。
身勝手だというのは、自分でもよくわかっている。自分で「名乗ってはいけない」と散々言っておきながら、いざ人からもそう言われたら泣き出すなんて、我が儘もいいところだ。
それでも、菜月には滝のごとく流れ出る涙を止めることができなかった。
「……なんてね」
「え?」
不意に菜月の頭を、優しい温もりが包み込んだ。
厳しい表情から一転し、柔らかな笑みを浮かべた葵が、菜月の頭を撫でたのだ。
どういうことかわからず、菜月は涙を浮かべたまま、きょとんとした顔で葵を見る。
すると、葵は可愛らしく舌をのぞかせ、申し訳なさそうな顔で菜月を見つめ返した。
「ごめん。悪いとは思ったけど、ちょっと菜月を試させてもらっちゃった」
「どういう……意味ですか……?」
「口でどう言い繕っても体は正直だ、ってことだよ。特に菜月は嘘がつけないタイプだからね。確信をつく言葉を言えば、必ず体が反応すると思った」
菜月が素直な性格で助かったよ、と葵が安心とした顔で笑う。
当の菜月はまだ状況が飲み込めず、目を白黒させた。
「ええと、すみません。まだよくわからないんですけど……」
「簡単、簡単。今、菜月が見せた表情。それがすべての答えだってこと」
「私が見せた……表情……?」
「そうだよ。菜月さ、私が『修復家を名乗らない方がいい』って言った瞬間、自分がどんな顔したかわかる?」
葵の問い掛けに、菜月は緩慢な動きで首を振った。
あの瞬間は色んな感情が自分の中を駆け巡っていて、表情を気にしている余裕なんてなかったから……。
「あの時の菜月ね、今まで見たことがないくらい傷ついた顔をしていた。正直、あんたの顔を見て、自分で自分を殴りたくなっちゃったよ。『菜月を泣かすんじゃない、この大馬鹿者が~』って」
おどけた様子でそう言って、葵は取り出したハンカチで菜月の涙を拭った。
「でもさ、同時によくわかったよ。ああ、この子はやっぱり修復家って仕事が大好きなんだなって。私なんかとは比べ物にならない位、この子は自分の仕事に誇りを持っているんだなって……」
「そ、そんな! 私の誇りなんて先輩に全然……」
全然敵わない、と言おうとした菜月の口を葵が人差し指で押さえる。
突然のことに驚き、二の句を継げなくなった菜月へ、葵は語り聞かせるように話を続けた。
「菜月はさ、私がどんどん先に進んじゃうって言っていたけど……そんなことはないんだよ。私も必死だった。必死に前へ進もうともがいていた……」
「先輩が、必死に?」
呆然と聞き返す菜月に、葵がちょっと恥ずかしそうに顔を赤らめて頷く。
「そうだよ。だって、必死で進まなきゃ、すぐ菜月に追い越されちゃうと思ったから。『先輩として、大事な後輩に情けない姿を見せられるか~』って、全力疾走してた。菜月が私を追いかけてくれていたのと同じように、私も菜月を振り返りながら全力で走っていたんだよ」
冬の高い空を見上げ、葵がはにかんだ。
学生時代からずっと変わらない。菜月を見ていると、『自分も頑張らなきゃ』っていう思いが湧いてくる。それが、今も昔も私の原動力なんだから。
葵の語るそんな言葉が、菜月の心にやわらかく染み入る。
さらに葵は、「だからさ、私にはわかるんだ」と、確信に満ちた表情で菜月の目を見つめた。
「確かに、菜月の心には打算や甘えもあったんだと思う。でもさ、そんなの私だって同じだよ。やりたいことのためなら計算高くもなるし、時には誰かを頼ってしまうこともある。それくらい誰だって当たり前にしているし、気に病むことじゃない」
だから、あんたが本当に目を向けてあげなきゃいけないのは、そこじゃないよ。と、葵は力強く言い切った。
「大事なのは、そういう後付の思考や感情じゃない。もっと純粋な、菜月が最初に抱いた、『修復家になりたい』っていう憧れの方だよ」
「純粋な……憧れ……?」
「そうだよ。だって、菜月がさっき言ってた後ろ暗い感情なんてものは、すべて『憧れ』って核に付いた装飾に過ぎないんだからさ」
微笑みの中、葵が諭すように告げる。
その瞬間、葵の前で菜月の目が大きく見開かれた。
俊彦に破門され、一人で塞ぎ込む内に、すべてを悪い方へと考えてしまっていた。
自分では駄目なのだ。そう結論付けるための材料を探すようになってしまっていた。
だから、目を向けられなくなっていたのだ。『修復家になりたい』という思いがあるから、打算や他にも色々な感情が生まれてくる。そんな、単純な理屈に……。
「それだけじゃないよ。私はこの一年、菜月のことをずっと見てきた。仕事のことを楽しそうに話してくれる姿。イベントを成功させるため、夜遅くまで頑張っていた姿。悠司君に『弟子にしてほしい』って言われて、『待ってるね』って笑っていた姿。どれもちゃんと覚えてる。少なくとも、あの菜月に修復家を名乗る資格がなかったなんて、私には思えない」
そうだ。何で忘れてしまっていたのだろう。
確かに、自分はいつも周りに助けてもらってもらってばかりだった。守ってもらってばかりだった。
でも、決してそれだけではなかったはずだ。いつだって、何かをつかもうと必死にあがいていた。自分なりに考えて、必死に前を歩く人たちに追い縋ろうとしていた。
だからこそ、何かを成し遂げることができた時は堪らなくうれしかった。いつだって、もっともっと前へ進みたいと思っていた。
「菜月はさ、自分で言っていた通り、未熟なのかもしれない。『本を守る』って覚悟も、豊崎先生たちのレベルには及んでいなかったかもしれない。……でもね、菜月がずっとやってきたことは、決して遊びじゃなかった」
だからさ、と菜月の肩に手を置きながら、葵は続ける。
「他の誰、例えあんた自身が否定しても、私は認め続ける。あんたは私の自慢の後輩で、立派な修復家の卵だよ」
もう……我慢できなかった。
菜月の目から三度涙が溢れ出る。
ただし、それは今までの涙とは明らかに違う、喜びに満ちた涙だ。
自分のことを認めてくれる人がいる。修復家でいることを肯定してくれる人がいる。
それは、菜月が今この時に、何よりも求めていたものだったから……。
「あとね、もう一つ、いいことを教えてあげる。本当は館長から口止めされていたんだけど、今のあんたには必要だと思うから」
これ、秘密だからねと、まるで悪戯を始める前の子供みたいに葵が前置きする。
その上で彼女は、菜月にとっておきの秘密とやらを語り始めた。
「私さ、前に館長から教えてもらったことがあるの。豊崎先生が今回の仕事を受ける時に出した、二つ目の条件の話」
この話、聞いたことある? と聞く葵に、菜月は緩く首を横に振った。
俊彦が図書館の仕事を受ける際に条件を出した話は、確かに聞いていた。だが、菜月が聞いていたのは、『自分だけでなく、和人と菜月も一緒に雇うこと』という一つのみだ。二つ目の条件があったなんて、初耳だった。
「そっか。じゃあ、教えてあげる。豊崎先生が出した二つ目の条件はね、『菜月を育てるための時間をくれ』だったんだってさ」
「私を……育てるため……」
「そうだよ。豊崎先生ね、『あれがどんな修復家になるか見届けるのが、今の楽しみなんだ』って、うれしそうに言っていたらしいよ。館長も、あんなに楽しそうな豊崎先生を見たのは久しぶりだったって言ってた」
館長から教えてもらった話を、葵がまるで読み聞かせでもしているように優しく語る。
その話の一つ一つが、菜月にとってはかけがえのない宝物に思えた。
「豊崎先生にとって、あんたはそれくらい大事な弟子だったってこと。先生が何を思ってあんたを破門したか、私にはわからない。けど、今回のことはきっと、あんたのためを思ってのことだったんじゃないかって、私は思うよ」
「先生が、私のために……」
先生は、私のために動いてくれていた。私を一人前の修復家にするため、頑張ってくれていた。
葵から打ち明けられた事実を反芻するうちに、何かに気付いたのだろう。菜月の瞳に、確かな光が宿る。
自分は本当に大馬鹿だった。自分のことばかりで、今まで先生の気持ちをまったく考えられていなかった。
菜月の頭に、優しく微笑む師匠の顔が浮かぶ。
本当の理由は、本人に聞かなくてはわからない。それでも、今なら何となくわかる気がした。俊彦がなぜ破門という手段を取ったのか、その理由が……。
「私から言ってあげられるのはここまで。あとは、あんたが自分で決めなさい。菜月、あんたがやりたいことは……なりたいものは何?」
葵に問われ、菜月は考える。
自分が本当にやりたいことは何だったのか。なりたいものは何だったのかを――。
「そんなの……決まっています」
涙を拭いて、しっかりと前を見据える。
なりたいものは何か。
そんなことは、考えるまでもなくわかっていた。
なりたいもの、やりたいことは、先生と初めて出会った夏の日から、いつでも自分の一番近くにあったから。
「あの日見た、先生のような……ううん、違う」
それでは駄目だ。まだ足りない。先生の後追いをするだけでは、いつまで経っても追いつけない。並び立てない。今までと……変わらない。
「私は、あの日の先生に負けない、最高の修復家になりたいです」
先生よりも先へ進む。それくらいの心意気がなければ、今より前に進めない。
弟子とは、師匠の技を引き継ぎ、師匠より高い場所を目指す者のことなのだから。
「私、辞めません。今はまだ修復家を名乗れる実力を持っていないけど、必ず辿り着いてみせます。だって、これが私のやりたいことだから!」
きちんと居住まいを正し、菜月が力強い口調で宣誓した。
こんな不甲斐ない後輩を認めてくれた先輩に、もうだらしない姿は見せられない。私は、私の進むべき道をまっすぐに歩いていく。
その気持ちを、しっかりと態度で伝える。
菜月のまっすぐな思いを聞き届けた葵は、「うん!」と安心した面持ちで頷いた。
「やっぱりその方が菜月らしいよ」
「先輩、心配かけてすみませんでした。それと、本当にありがとうございました。私、もう大丈夫です!」
いつもの菜の花みたいに明るい笑顔を浮かべ、菜月が手に持っていた缶の蓋を開ける。
彼女はぬるくなっていたミルクティーを一気に飲み干し、勢いよく立ち上がった。
「……行くの?」
「はい! 今すぐ行かなきゃ、駄目な気がするので」
「そっか。なら、一発かましてきなさい!」
「了解です、先輩!」
送り出してくれる葵と、軽くこぶしをぶつけ合う。
二人で「えへへ」と笑い合った後、菜月は葵に向かって敬礼した。
「三峰菜月、ちょっと先生と戦ってきます!」




