天岩戸
「私……何やってんだろう……」
カーテンが閉ざされた薄暗い部屋の中、ベッドの上で膝を抱えた菜月は、何度目になるかわからない問いを自らに投げかけた。
俊彦から破門を言い渡され、図書館を飛び出してから、すでに一週間が過ぎた。
その間、菜月は何をするでもなく、来る日も来る日もベッドの上で蹲り、自問自答を続けていた。
「私、何で修復家になりたいなんて思っちゃったのかな……」
ここは就職を機に借りた、1DKのマンションだ。自分以外に誰もいないし、何の物音もしない。誰にも邪魔されることのないこの環境で、菜月はずっと考え続けていた。
なぜ自分は、修復家になりたいと思ったのか。なぜ、あんなにも俊彦に憧れてしまったのか。そう思った自分の根底にあった感情とは、一体何であったのか。
「やっぱり私は、楽になりたかっただけなのかな……」
重く暗い感情が頭の中に満ち、これも何度目になるかわからない結論を呟く。
抱いたクッションに顔を埋めて、菜月は過去を振り返った。
今なら、よくわかる。あの夏の日、俊彦の講座を受けたあの日、やはり自分はどこか焦っていたのだ。
先輩には司書という夢があるのに、自分には何もない。このままでは、先輩との差は開くばかりだ。前を歩く先輩に追いつくどころか、その姿はどんどん小さく、見えなくなってしまう。
あの頃の自分は、いつもそんなことを考えていた。
だから、意識せずとも心のどこかで恐れていたのだろう。
このまま何の目標も見出せないままでいたら、先輩に置いていかれるんじゃないか。先輩や両親から、駄目なヤツと見捨てられてしまうのではないか、と。
そんな時に出会ったのが、俊彦だった。
最初は興味七割、付き合い三割といった気持ちで参加した講座だったが、そこで見た俊彦の技は、焦る自分にとって格好の餌となった。
確かに、自分は俊彦が見せる修復家としての技に憧れを抱いていた。この仕事をやってみたいと本気で思っていたのも事実だ。
だけど、その裏では今の何もない自分から逃げ出したいという、暗い感情が渦巻いていた。我が儘で、子供っぽい見栄に満ちた、独善的な思いで溢れていた。
これなら、先輩の司書という夢にも見劣りしない。誰に聞かれても、胸を張って自分のやりたいことだと答えられる。何より、この道に入ってしまえば、もう誰かに引け目を感じなくていい。
心の裏側で、陰湿かつ打算的な自分は、ほくそ笑みながらそう考えていたのだ。
そんな自分の卑しさが情けなくて、堪らなく許せなかった。
「お母さんは、きっと私の裏側を見抜いていたんだな……」
今にして思えば、母の言っていたことは正しかったのだ。
自分はただ、焦るあまりに聞こえが良い『職人』という道に飛びついただけだった。
なのに、「夢を見つけた」なんて大層なことを言って、自分は母の言葉に耳を貸さなかった。
その天罰が、今になって当たったのだ。
「こんな軽薄な気持ちだったんだもん。破門されて当然だよ……」
破門されて当然だ。
自分で言った言葉が、また自分の胸を抉った。それによって引き裂かれた心が悲鳴を上げ、更に深い闇へと落ちていく。
この一週間、ずっとこの繰り返しだ。
俊彦と決別した時に付いた胸の傷は癒えることなく、自傷とも言える思考のループでさらに広がっていた。
「やっぱり私には、修復家になる資格なんてなかったんだ……」
傷つくのは自分だとわかっていながら、またもやその言葉を口にする。
溢れそうになる涙を押し止めるため、菜月は再びクッションに顔を押し付けた。
――ピンポーン!
その時だ。突然、来客を告げるインターホンが暗い部屋に鳴り響いた。
反射的に顔を上げ、菜月が玄関の方を見る。だが、それ以上は体が動かなかった。
今は平日の真っ昼間だ。おそらく、新聞の勧誘か郵便配達あたりだろう。だったら、出るまでもない。
それに……、と壁に立てかけた姿見に目をやる。そこには、梳かしもしないまま乱れた髪に泣き腫らして真っ赤な目をした自分の姿があった。
何の接点もない相手とはいえ、こんな姿で人前に立つことなんかできやしない。
そう思って、菜月が三度クッションに顔を埋めようとすると、外から声が聞こえてきた。
「菜月、居るんでしょ?」
「……先輩?」
ドア越しに聞こえてきた控え目な声に、菜月の動きが止まる。
自分に限って、あの声を聞き間違えることなどありえない。ドアの向こうから聞こえてきたのは、間違いなく葵の声だった。
だが、おかしい。今は金曜日の昼間で、葵は仕事中のはずだ。なのに、どうしてこんなところにいるのか。
菜月の頭の中に、たくさんの疑問符が浮かぶ。
ただ、相手が葵とあっては、より一層出ていける格好ではない。というか、色んな意味で合わせる顔がない。
せっかく来てくれた先輩には悪いが、居留守を使わせてもらおう。
良心の呵責に耐えつつ、菜月は無視を決め込む。
そのまま十分が経ち、三十分が経ち……遂には時計の長針が一周して、元の場所へ戻ってきた。
なのにドアの前からは、いまだに人の気配がし続けていた。
「先輩、もう諦めればいいのに……」
ドアの方を見つめ、菜月が嘆息した。
けれど、悲しいかな。菜月の願いは、外にいる葵には届かなかったようだ。
「菜月、ちょっとでいいから出てきてよ。私とお話しよう。ね?」
それどころか、菜月の心を揺さぶるように、ドアの向こうから葵がもう一度声を掛けてきた。
おそらく葵は、菜月が家にいるとわかっている。わかっているからこそ、菜月の顔を見るまで帰るつもりがないのだろう。
ドアを挟んでいても、葵の意志の固さが伝わってくる。こうなっては、葵は菜月が出てくるまで、テコでも動きそうにない。
これでは、まるで天岩戸である。しかも、今度は菜月の方が籠る側だ。
俊彦の工房へ押し掛けていた日々を思い出し、菜月の顔に苦笑が浮かぶ。もっともあの時の俊彦は、工房からまったく出てきてくれなかったわけではないが……。
そんなことを考えていたら、外から小さくくしゃみをする声が聞こえてきた。
誰のくしゃみかなんて、考えるまでもなくわかっている。一時間も冬の寒空の下に立っていて、体が冷えたのだろう。
これでは出ていかないわけにはいかない。このまま放っておいたら、葵は菜月を待ち続けて風邪を引いてしまう。それは、菜月の望むところではないから。
物音を立てないように着替えを済ませ、最低限の身だしなみを整える。泣いて充血した目はちょっと誤魔化せそうにないが、これは仕方ないだろう。
できる準備をすべて終えた菜月は、一度深呼吸をして、玄関の扉を開けた。
「ようやく出てきたか。一週間ぶりだね。久しぶり、菜月」
扉を開けた瞬間、やわらかな陽光とともに、温もりに満ちた声が差し込んできた。
菜月の天岩戸をこじ開けた張本人は、いつもと変わらない笑顔で、そこに立っていた。
「先輩、本当に諦めが悪過ぎです。もし私がこのまま出てこなかったら、どうするつもりだったんですか」
「ん? んー、それはあんまり考えてなかったかな」
呆れた口調の菜月に、葵はのんびりとしつつも確信に満ちた声音でこう答えた。
「だって、わかっていたからね。菜月は、絶対に私を無視し続けることはできないって。私が風邪でも引いたらどうしようとか考えて、必ず出てくると思ってた」
自分が男だったら、この信頼に満ちた笑顔に一発で落とされていたかもしれない。
菜月にそう思わせてしまう微笑を浮かべ、葵がちょこんと首を傾けた。
どうも自分は、どうあってもこの人に敵わないらしい。心の中で諸手を挙げて降参した菜月は、葵を招き入れるように体を横にずらした。
「まあ、いいです。とりあえず、上がってください」
「ううん、大丈夫。それより、ちょっとそこの公園まで行かない?」
「え? 公園ですか? 別にいいですけど、何でまた、そんなところに……」
今は二月だ。立春は過ぎたが、まだまだ冬本番と言っていい今日この頃である。
今日は比較的気温が高いとはいえ、好き好んで出歩きたい陽気ではない。寒いのがやや苦手な菜月としては、温かい部屋の中でぬくぬくしていたいのが本音だ。
「どうせこの一週間、ろくに外にも出ず、部屋の中に引き籠っていたんでしょ。だったら、気分転換も兼ねて少しは外に出なくちゃ」
外に出たくないという菜月の思考を見透かしたのだろう。葵は仕方ないなという笑みのまま、人差し指を菜月の鼻先へ突き付けてきた。
「うぐっ! そ、そんなことはありませんよ。あ、あるわけないじゃないですか。い、いやだな、もう……」
自分の行動を完璧に言い当てられたことに動揺しつつも、菜月が精一杯の虚勢を張る。
いかに事実とはいえ、さすがにそれを認めては、自分の沽券に関わる大問題だ。意地でも首を縦に振るわけにはいかない。
ただ、盛大に目を泳がせ、膝を震わせていては、図星を突かれたのが丸わかりだ。嘘を付き通せない自分の体が恨めしい。
「はいはい、わかりました。そういうことにしておきましょう。それじゃあ話も決まったし、さっさと行きましょうか。公園目指してレッツゴー!」
「ちょっ! 私、まだ行くなんて言ってませんよ。ああ、もう! 待ってください、先輩。せめてコートを着る時間くらいはくださいってば~!」




