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師の苦悩

「師匠! あんた一体何を考えているんだ!」


 菜月が去り、一度は静まり返った研修室に怒号が響く。

 声の主は、もちろん和人だ。

 俊彦が引退を表明した時の憤りなど物の数にも入らないくらい、彼は怒り狂っていた。


「少し落ち着け、和人。廊下まで丸聞こえだぞ」

「これが落ち着いていられるか! 何で菜月を破門した。何で菜月に『出ていけ』なんて言った。あんた、菜月の未来をぶち壊したいのか!」


 何事もなかった。そう言わんばかりに悠然としている俊彦の襟首を掴み、和人が怒鳴り散らす。

 和人には、今の俊彦の態度が堪らなく憎らしかった。


 なぜ、いつもと変わらない様子でいられるのか。なぜ、少しも後悔する素振りを見せないのか。


 一年半くらいの付き合いとはいえ、苦楽を共にしてきた愛弟子を追い出しのだ。それなのに平然としていられる俊彦の神経が、和人には信じられなかった。


「もういい! 師匠、あんたはここで待っていろ。俺が行って、菜月を連れ戻してくる」


 掴み掛られてもまったく表情を変えない俊彦に業を煮やし、和人が踵を返す。

 だが、和人が部屋を飛び出すことは適わなかった。俊彦が和人の腕をつかみ、彼を引き止めたのだ。


「……放せよ」

「余計なことをするな」

「このままあいつを放っておけるわけないだろうが!」

「それが余計だと言っておるのだ!」


 どこにそんな力があるのか、和人の声を上回る声量で、俊彦が和人を怒鳴りつけた。

 さすがの和人も、これには驚いたのだろう。駆け出そうとしていた足を完全に止め、唖然とした様子で俊彦を見た。


「今が、最初で最後の好機なのだ……」

「え……?」

「菜月を儂という名の楔から解き放つ機会は、もう今しかないのだ……」

「……どういう意味だよ」


 絞り出すような弱々しい声で、俊彦が呻いた。

 今し方までの落ち着いた態度とは打って変わり、俊彦の顔には苦渋の色が滲んでいる。

 師の変わり様に怪訝な顔をしつつ、和人は先を促した。


「菜月が別の相手への師事を拒むことなど、儂だって予測していたさ。菜月が取り乱すであろうことも含めてな」


 師の告白に、和人が息を呑んだ。

 つまり俊彦は、一時の感情に流されたわけではなく、すべて承知の上で菜月を破門したということだ。


「お前も聞いたことがあるかもしれないが、菜月が修復家になりたいと思ったきっかけは、儂が行った講座だったそうだ」

「ああ、知っている。けど、それがどうしたってんだよ」


 前に企画の準備をしていた際に、菜月からその辺りの事情は聞いている。

 話の内容もさることながら、楽しそうに思い出を語る菜月の姿がとても印象的だった。

 けれど、それと今回の破門騒動にどういう関係があるのか、和人にはわからなかった。


「菜月は本当に馬鹿が付くほど真っ直ぐで、こうと決めたらどこまでも突っ走れる人間だ。それ自体は、あいつの美点とも言えるだろう」


 語る口調は明朗ながらも、俊彦の表情はどこか苦しげだ。

 今の俊彦の姿は、嬉々として師との出会いを語った菜月と対照的であると和人は感じた。


「だが、お前もさっきの菜月の言葉を聞いたらわかるだろう。あいつはその性分故に、儂に縛られてしまった。儂を通して修復家の道を知ったが故に、儂を修復家として特別視するようになってしまった……。あれでは、儂がいなくなった後の修業が辛くなるだけだ」


 誰よりも辛そうに語った俊彦が、椅子に座って項垂れる。


「……なるほど。そういうことか」


 意気消沈する俊彦を前に、和人は彼の破門発言の意味を悟った。

 俊彦があのような行動を取った理由は、単純明快だった。彼は菜月が自分を信奉した状態のままでいることに、危機感を感じていたのだ。


 俊彦の言う通り、今の菜月と修復家という職の間には、必ず彼の姿がちらつく。

 俊彦に憧れて入門し、俊彦を目指して修業に励む。それ自体は間違った動機ではないし、徒弟制という見方からすればありふれた師弟事情とも言えるだろう。


 だが、菜月はその傾向がやや強過ぎるのだ。

 これは俊彦が師匠である内なら、特に問題になることではなかった。いや、むしろ菜月の場合、元来のひた向きさと相まって、修業をより実り多いものにしていたくらいだ。


 しかし、一度(ひとたび)俊彦が師匠でなくなってしまえば、強過ぎる信頼がすべて裏目に出てしまう。その結果の一端が、先程の菜月の取り乱し様だ。


 このような状態では、次の師の元へ行っても俊彦との違いに苦悩し、修業に支障をきたしてしまうかもしれない。最悪の場合、新たな師との間に亀裂が生まれることも考えられる。

 俊彦が心配していたのは、正にそこだったのだ。


「つうかさ、師匠。そこまでわかっていたのなら、なおのこと師匠が最後まで面倒を見てやればいいじゃないか。それなら何の問題もなくなるわけで……」

「儂とて、できることなら自分の手で、菜月を一人前の修復家に育て上げたかったさ」


 あいつのことを誰よりも高く買っているのはこの儂だ。と、俊彦が和人の言葉端を食いながら反論する。


「当然だろう。あいつはお前同様、儂にとって自分の技を托してもいいと思えた数少ない弟子の一人なのだから……。だが、今の儂では、あいつが一人前になるまで修復家でいることはできない。いや、いてはいけないのだ」


 溜まっていた感情を溢れさせ、俊彦が自らの心情を吐露する。

 普段から口数の少ない俊彦がここまで饒舌に胸の内を語るのは、菜月を傷つけたことへの悔恨があるからだろうか。


「ならば儂が果たすべき最後の責任として、あいつが何の未練もなく次の師の元へ行けるようにしてやらねばなるまい」

「……だからわざと突き放すようなことをして、菜月の心を自分から引き離したってか」


 和人が呆れた様子で溜息をつく。


 弟子が弟子なら、師匠も師匠だ。この似た者師弟は、二人揃って互いを大事思っていながら、どこまで不器用なのだろうか。

 師匠に憧れるあまり感情を暴走させてしまった菜月も、弟子の将来を思うあまり誰にも相談せずに勝手に嫌われ役を演じた俊彦も、本当に二人とも大馬鹿だ。


「だけど師匠、いくら責任を果たすためだからって、菜月の修復家としての道を断ってしまったら意味ないだろう。あの言い方じゃあ、菜月が再起できなくなってもおかしくないぞ」

「お前に言われずとも、それくらいのことはわかっている。心配せずとも、あいつはこれくらいで修復家になることを諦めたりせんさ」

「は? 何でそうもはっきりと言い切れるんだ?」


 俊彦に捨てられたと思っている菜月が修復家を続ける確証など、どこにもない。

 それにも拘らず、「諦めない」と断言する理由は何か。

 疑問の眼差しを向ける和人に、俊彦はわかり切ったこととでも言いたげな口調で、こう続けた。


「儂という楔が切れた今、あいつは自分自身と向き合わなければならない。これから自分はどうするべきか。ここで引くべきか、それとも先へ進むべきか。自分の向かうべき未来と、もう一度真正面から対峙する必要がある」


 一年前の菜月なら、儂という楔が切れた瞬間、この世界から去っていたかもしれないな。と、俊彦は語る。


「だが、あいつもこの一年で様々な経験をし、様々な出会いをしてきた。それらは、菜月と修復家という道を結び付ける糸となる。一つ一つは細くとも、たくさんの糸が寄り集まれば、確かなつながりに変わる。それは儂への憧れなど軽く凌駕する力になるだろう」


 だから、大丈夫だ。あいつは必ずこの世界に戻ってくる。何の心配はいらない。

 まるで自分へ言い聞かせるように、俊彦はそう繰り返した。


「それに忘れたか? 一昨年の夏、菜月はこの儂を根負けにまで追い込んだほどの猛者だぞ。あいつの諦めの悪さは天下一品だ。儂との決別くらい、どうとでも乗り越える。どこかの信頼できる修復家にまた弟子入りでもして、またこの道を進み始めるさ」

「……期待して聞いてみれば、何だよ、それは」


 呵々と笑う俊彦を前に、和人は再び呆れた様子で頭を抱えた。

 俊彦の論は、あまりにも暴論過ぎる。確証がないどころか、勝手な主観に基づいた希望的観測だ。そんなもの、上手く事が運ばない可能性の方が圧倒的に高い。

 こんな穴だらけの理論で、よくもそこまで堂々と自信を持っていられるものだ。

 和人が心の中でそう毒づいていると、不意に俊彦が座っていた椅子から立ち上った。


「さて、話はここまでだ。儂はとりあえず事務方へ行ってくる。今回の件を説明してこなければならんからな。和人、すまないがその間に、菜月の机の片付けをしておいてくれ」

「……申し訳ないが、それはお断りだ」


 普段の彼らしくない皮肉な笑みを浮かべ、和人が俊彦の頼みを一蹴する。

 彼は「何だと?」と少し苛立たしげに目を細める俊彦へ、続け様にこう言い放った。


「師匠、あんた今、自分で言ったじゃないか。菜月は修復家になることを諦めないって。だったら、ここに戻ってくる可能性だって十分にある。何がしかの結論が出るまで、菜月の居場所をなくすようなことはしないし、師匠にもやらせない」


 部屋を出ていこうとする俊彦の道を塞ぐように、和人が彼の前に立つ。

 ここだけは、和人にとっても譲れない一線であるのだろう。彼の顔には、一歩も引く気はないという強い意志が見えた。


「……勝手にしろ」


 面白くなさそうにしつつも、どこか安堵とした様子で俊彦が返事をした。


「ならば、儂はもう帰る。和人、戸締りは任せたぞ」

「わかった。ああ、それとな、師匠……」

「何だ?」

「師匠が菜月の将来を案じていたことはよくわかった。あと、師匠が悩み苦しんでいたことも……。だがな、自分の思いを口にせず、単に突き放すようなやり方を取ったことは間違っていると思う。菜月なら大丈夫と期待するのは、単なる師匠の手前勝手だ。思うところがあるのなら、言葉にしないと相手に伝わるわけがない」

「若造が、一端の口を叩きおって。お前に言われんでも、それくらいわかっておるわ」


 苦虫を噛み潰したような表情で帰り支度を整え、俊彦がさっさと部屋から去っていく。

 そんな中、和人は俊彦が菜月の作業机へ目を向けていることに気づいた。

 都合のいいこととは思いつつも、もしかしたら俊彦も心のどこかで願っているのかもしれない。ここでもう一度、菜月の笑顔を見られるという奇跡を……。

 小さくなっていく俊彦の背中を眺めつつ、和人は何となくそう思った。


「さてはて、これから俺はどうするべきかねぇ……」


 誰もいなくなった研修室で、和人が一人呟いた。


 俊彦は菜月なら問題ないと、心の底から信じているようだった。

 それはある種の、師弟の間に生まれる信頼なのかもしれない。だが、和人はそこまで気楽に考えられるほど、楽天的な性格ではなかった。


 とりあえず菜月が戻ってこられる場所だけは確保したが、今のままでは不十分だ。

 第一、俊彦が引退して菜月の師匠がいなくなるという問題は解決していない。俊彦の思惑通り、菜月が別の師匠の下へ行くことを選んだとしても、何らかのフォローはすべきだろう。


「それに、師匠と菜月の関係をこのまま放っておくわけにはいかねえよな」


 度し難い大馬鹿二人ではあるが、和人にとっては大切な師匠と妹弟子なのだ。

 今回の騒動がどのような結末を迎えるにしろ、二人のこじれた関係をこのままにしておいていいはずがない。

 頭の痛くなる話ばかりで、本当に嫌になってくる。正直に言えば、すべて投げ出してしまいたいとさえ思えてしまう。

 だけど仕方ない。今、自分が動かなければ、何も始まらないのだから……。


「このまま何もしないってのも、寝覚めが悪いしな。俺なりにできることはしてみるか」


 あえて言葉にすることで、自分が傍観者の道へ逃げないよう釘を刺す。

 自分の理想を通すため、和人は一人、なかなかに困難な茨の道を歩き始めた。


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