破門
「修復家を引退するって……急にどうしたんですか?」
顔を青ざめさせ、菜月が縋るように俊彦へ聞き返す。動揺を隠せない菜月の声は、まるで壊れかけのラジオのように震え、擦れていた。
「どうもこうもない。言葉通りの意味だ。儂は、この仕事を終えたら修復家を辞める」
対して、俊彦の声にはまったく揺らがない。それはつまり、彼の心には一切の迷いがないことを意味していた。俊彦の中で、引退はすでに決まったことなのだ。
俊彦の態度に、菜月は何かを言おうとして、結局何もできずに口籠ることを繰り返す。
何か言わなきゃいけない。でも、何を言っていいのかわからない。
混乱する頭を必死に動かしつつも、菜月は悶々とした表情のまま動けなかった。
すると、菜月の気持ちを代弁するかのごとく、俊彦へ詰め寄る者がいた。和人だ。
「いきなり相談もなしに『辞める』なんて言われて、『はい、そうですか』って納得できるわけないだろうが。ちゃんと説明してくれよ、師匠」
和人の声も、俊彦同様、震えていたりはしない。極めて冷静に聞こえる。
いや、冷静を装っている、というのが正しいだろう。なぜなら和人の声からは、隠し切れない怒りが感じられるから……。
なぜ、そんな大事なことを今まで黙っていたのか。なぜ、自分たちに一言も相談してくれなかったのか。大事なことを相談できないほど、自分たちは頼りなく見えるのか。それとも、俊彦にとって自分たちは、相談するにも値しない程度の存在だということか……。
俊彦が一人ですべてを決めてしまったことへの怒りと、相談さえしてもらえなかったことへの悲しみ。口には出さずとも、和人が抱いている遣る瀬無さはひしひしと感じられた。
「きっかけは、去年の夏頃のことだ」
「……え?」
だからだろうか。これまで「決めたことだ」の一点張りだった俊彦が、不意に引退の理由を話し始めたのだ。
あまりに突然のことで、菜月はもちろん、和人も耳を疑うような顔をしている。
一方、俊彦はというと、弟子二人の様子などどこ吹く風だ。気にした素振りもなく、話を続けた。
「去年の夏頃、儂は自分の目にいくつかの違和感を覚え始めた。最初は単なる疲れ目かと思っていたのだがな。次第に目が霞むことが増えてきて、仕事にも支障をきたし始めた」
淡々とした口調で、俊彦が自らの身に何が起こったのか語る。彼の語り口はあまりにも単調であり、本当に俊彦の身に起こったことなのかと勘繰りたくなるほどだ。
だが、俊彦は冗談で引退など口にする職人ではない。師匠が今語っていることはすべて事実なのだ、と弟子二人は理解していた。
「さすがにこれはまずいと思い、眼科へ行ったら……あっさりと言われたよ。目の不調の原因は、白内障だった」
「白内障……。もしかして……」
菜月の脳裏を過ったのは、夏に館長から呼び出された時のことだった。
会議室から去る際に俊彦は、「照明が明る過ぎる」と言っていた。あれは病気の兆候だったのだと、菜月は今更ながら気が付いたのだ。
「幸い、他の病気を併発していたわけでもなかったのでな。年明けに手術を受けて、今では仕事をできる程度の視力を取り戻すことができた。何度か通院して、もう問題ないと医者からも言われている」
「だ……だったら、引退なんかする必要ないじゃないですか。視力が戻ったのなら、これまで通りってことでしょう?」
病気が治ったのなら、また仕事を続ければいい。引退する必要など、どこにもない。
半ば希望を込めて、菜月が訴えかけるように申し出る。
けれど、俊彦は静かに頭を振った。
「確かに、視力は戻った。だがな、今度のことで儂は気づいたのだ。……修復家としての儂の寿命は、もう尽きかけているとな」
「そ、そんなことは……」
「儂も今年で八十だ。病気で失っていた視力は戻ったとはいえ、老眼で衰えた視力は直しようもない。それに、最近は手が言うことを聞かなくなってきている。細かい作業をしようにも、これではどうしようもなかろう」
菜月の言葉を遮りながら、俊彦が話を続けた。
どんなに自分が先を望もうとも、老いには勝てない。自分に与えられた修復家としての時間は、もう終わりが近いのだ。
普段よりも饒舌に語る俊彦の顔には、どこか自嘲的な笑みが浮かんでいた。
「でも! 先生が最高の修復家であることは、疑いようもありません!」
一貫して辞意を示す俊彦を前にしても、菜月は諦めなかった。
ここで何かを言わなければ、厭世的になっている今の俊彦は、本当に引退してしまう。
故にそうはさせまいと、菜月は食い下がり、懇願し続けた。
「先生は元がすご過ぎなんです。少しくらい体が思い通りに動かなくたって、十分過ぎるくらい仕事ができます。だから……」
「菜月!」
久しぶりに放たれた俊彦の一喝に、菜月が身を竦ませる。
説得するつもりが、勢い任せに余計なことを言って、逆に怒らせてしまった。
菜月は怒鳴られた理由を、そう捉えたのだろう。まるで叱られた後のように項垂れてしまった。
そんな菜月を見かねてか、俊彦は教え諭すような声音で「菜月……」と切り出した。
「儂は、お前に何度となく教えたはずだ。職人として、自らが行う仕事に一切の妥協を許すなと」
「はい、何度も聞きました。でも先生……その時の自分にできる最高の仕事をする。それは妥協とは言わないのではないですか?」
「……未だ成長段階にあるお前や和人であれば、確かにその通りだろう。だが、儂の場合は違う。修復家としての最盛期を過ぎた儂がそれを言うのは、単なる甘えだ。過去の栄光に縋り、今の自分の不甲斐なさに目を背けているに過ぎん。それでは、本に込められた歴史――思いを守り、次代へ受け継がせることはできない」
「本に込められた思いを……次代へ……」
俊彦の言葉を繰り返して、菜月がうわ言のように呟いた。
それは菜月が高三の時、渡辺が俊彦の仕事を称して言ったのと同じ台詞だ。菜月にとって、修復家への憧れを決定づけた、俊彦の職人としての在り方である。
それを知ってか知らずか、俊彦はこの場で使ってきたのだ。
「そうだ……。いいか、菜月。儂らが行っているのは、単なる本の修理ではない。本に書かれた内容だけでなく、本と本が積み重ねてきた歴史を後世に伝えていく。そのために儂ら修復家はいるのだ。なのに、その儂らが自分本位な考えで動いてどうする。我が身可愛さに、衰えた体で修復に携わってどうする。そんなことでは何も救えないし、未来に何も残せない」
まるで畳み掛けるかのごとく、俊彦の話は続いた。
菜月としては、自分が俊彦を説得しているはずなのに、むしろ自分の方が説得されているような気分だ。「私が間違っていました」と言ってしまいそうになるのを、菜月は必死に堪えていた。
「儂の下にやって来る仕事には、貴重な文化財の修復依頼も多い。それ自体は、とても有り難い話だ。しかしそれ故に、儂が今ここで引き際を間違えれば、何か取り返しのつかない事態につながりかねないのだ。お前には申し訳ないことをしたと思っているが、わかってくれ」
「それは……、でも……」
言葉にならない言葉を重ね、やがて菜月は俯いてしまった。
俊彦が言っていることは、おそらく正しいのだろう。修復家としての在り方、その高潔な精神を見せつけられ、これ以上何も言えるわけがない。
俊彦に修復家を辞めてほしくないという思いは変わらない。
けれど今の菜月は、俊彦の哲学に対抗できるだけの真理を持ち合わせていなかった。
「師匠の考えはよくわかった。正直なところ、まだ憤りを感じてはいるが……俺も修復家の端くれだ。師匠の言っていることには、間違っていないと思う」
俯き黙り込んでしまった菜月の横で声を上げたのは、俊彦が語るのを静観していた和人だ。
俊彦を見る和人の目には、もう先程までの激しい怒りや悲しみは見えない。
言いたいことは、もちろん山ほどある。全く相談がなかったことも、まだ許せたわけではない。だが、俊彦に引退を思い留まらせようとは思わない。
まだ諦めきれない菜月とは違い、俊彦の考えを聞いた和人はそう判断したようだ。
この辺りは、二人の修復家としてのキャリアの差が如実に出たと言えるだろう。
和人とて俊彦の引退をドライに割り切っているわけではないし、できることなら現役を続行してほしいと思っている。しかし、修復家としての彼は、引退を撤回してほしいという思い以上に、俊彦の考え方へ共感してしまったのだ。
「で、ここからが問題だ。俺と菜月は未だに修業中の身。師匠が引退した後、俺たちはどうすればいいんだ?」
自分の中での指針さえ決まってしまえば、冷静な思考もできるようになる。
俊彦が引退したとしても、和人と菜月の修復家としての道は続くのだ。彼が今後の身の振り方について気にするのは、当然のことだろう。
俊彦も、その点については抜かりがない。「安心しろ。ちゃんと考えてある」と、事も無げに返事をした。
「まずは和人、お前はこれまでの七年で立派に力を付けた。師匠として儂が保証する。お前は、もう一人前の修復家だ。故に三月を持ってお前の修業は修了。工房もお前に譲ろう。これからはお前が工房の主として、自分の道を思うままに、邁進していけ」
「いきなり免許皆伝を言い渡された上に、工房経営まで任せるときたか。まったく、毎度のことながら勝手なことを言ってくれる」
「そう言うな。身内であるという贔屓目なしにしても、お前は儂が見てきた中で最高の弟子だった。お前なら、きっとすぐに儂より立派な工房主になれるさ」
弟子の門出を祝い、励ますように、俊彦が和人の肩を叩いた。
和人にしても、尊敬する師から一人前と認めてもらえたのは喜ばしいことなのだ。「まあ、やるだけやってみるさ」と、気負わない中にも微かに自信をのぞかせる言葉を返した。
「さて、次に菜月、お前の今後についてだが……」
「…………」
俊彦が続いて、俯いたままの菜月に目をやる。
しかし、話を向けられた当の菜月は、何の反応も示さなかった。垂れ下がった前髪の奥に顔を隠し、ただただ立ち尽くしている。
仕方なく、俊彦は菜月の反応を待たず、彼女の身の振り方についての話を続行した。
「できることなら、お前のことも和人に任せたいところなのだがな。さすがに和人も、弟子を持たせるにはまだ心許ない。そこで菜月、お前については儂の古い知り合いに修業を引き継いでもらえるよう、話をつけてある。儂と違って積極的に弟子を取り、何人もの修復家を輩出してきた男だ。きっと、お前にとってもプラスに……」
「嫌です」
俊彦の声を打ち消すように、拒絶の一言が響く。
その言葉の発生源である菜月へ、俊彦は訝しげな視線を向けた。
「……どういう意味だ?」
「先生が引退するなんて嫌です! 先生以外の人のところに弟子入りするなんて、絶対に嫌です!」
俯き黙っていたのから一転、顔を上げた菜月が、堰を切ったように喚き叫ぶ。
まるで幼い子供みたいに駄々をこね、菜月は俊彦を非難し始めた。
「先生は勝手過ぎます! 私は、先生と出会ったから修復家になりたいって思った! 先生に憧れたから、弟子になりたいって思った! 弟子にしてもらえて、修業を始めて、ようやくこれからだって思っていたのに……。こんなの、あんまりです!」
菜月も、自分が子供っぽいことを言っているとわかっている。
わかってはいるが……俊彦を説得できないと悟った今、菜月の中で押さえ込まれていた感情の箍が外れてしまったのだ。
修復家としての矜持なんか、どうでもいい。なぜ今引退してしまうのか。なぜ自分を見捨てるのか。どうして今、自分の前からいなくなろうとするのか。どうして自分の説得に応じてくれないのか。
なぜ? なぜ? どうして? どうして……?
取り留めもない思いが心の奥から噴出し、やり場のない感情が俊彦を詰る暴言となって口から溢れ出た。
「先生は卑怯です! 途中で投げ出すくらいなら、何で私を弟子にしたんですか! 先生にとって、私は一体何だったんですか!!」
違う。こんなことが言いたいんじゃない。
頭の中の冷静な部分が、悲鳴を上げた。
なのに、感情に支配された体は止まってくれない。次から次へと、俊彦に罵詈雑言を浴びせ続ける。
そして、荒ぶり昂った激情の波は、ついに止めとでも言うべき言葉を吐き出した。
「こんな思いをするくらいなら、先生に弟子入りなんてするんじゃなかった!!」
菜月の叫び声が、部屋中に反響する。
その瞬間、自らの口から出た思いがけない言葉に、菜月は目を見開いた。
頭の中が急に真っ白になり、俊彦への謗りを吐き出し続けた口も凍りついたように動かなくなる。
体の中で荒れ狂っていた感情の奔流は、一瞬にして静まり返った。
代わりに、言い知れない悪寒が菜月の体を包み込む。顔色が一気に青ざめ、全身が痙攣を起こしたかのごとく震え始めた。
「あ……、あ……」
動かない口を震わせ、菜月が呻き声を上げる。
覚束ない動きで視線を前に向ければ、痛罵を浴びせられてなお泰然と立っている師の姿があった。
「そうか……」
菜月の暴言をただ甘受していた俊彦が、重々しく口を開く。
俊彦は別に声を荒らげているわけでもない。それでも彼の声には言い知れぬ凄味があり、菜月は恐れるように体を強張らせた。
「お前の言いたいことは……よくわかった。そうまで言うのなら、是非もない」
俊彦の鋭利な視線に晒され、菜月がたまらず後退りする。
その逃避も、背後の机へ行き当たったことで、呆気なく封じられてしまった。
逃げ場を失った菜月へ、俊彦は静かに、はっきりとこう言い渡した。
「儂と袂を分かちたいと言うのなら……いいだろう。ここから出ていけ。どこへでも、お前の好きなところへ行くがいい」
冷酷なまでに落ち着いた声で、俊彦が菜月へ破門を突きつける。
決定的な決別を言い渡された菜月は、声を詰まらせ、無言のまま止め処なく大粒の涙を零した。
「おい師匠、ちょっと待てよ! あんた、自分が言っていることの意味、本当にわかっているのか!」
俊彦の発言には和人もさすがに黙っていられず、慌てて二人の間へ割って入った。
「師匠も菜月も、感情的になり過ぎだ。少し頭を冷やせ。な?」
部屋を満たす剣呑な雰囲気を何とかして静めようと、和人は躍起になって二人の間を取り成す。
和人は直感していた。
このままでは、本当に取り返しのつかないことになってしまう、と……。
「お前は黙っていろ! これは、儂と菜月の問題だ。お前の出る幕ではない!」
「なっ!」
しかし、俊彦は誰の介入も許さなかった。
間に入ろうとした和人を押し退け、俊彦は菜月へ肉薄する。
「菜月、儂にも修復家としての曲げられない信念がある。だから、いくら勝手と言われようが、引退を撤回するつもりはない。それが不服だというのなら、儂の元から去るがよい。その方が、お互いのためだろう」
涙で濡れた菜月の目に、どこまでも冷ややかな俊彦の目が映り込む。
彼の瞳の奥に宿っているのはただ一つ、拒絶の意志だ。
もうここに、お前の居場所はない。今すぐ立ち去れ。
菜月の目を射抜く俊彦の視線は、先程の言葉以上の雄弁さで、彼の意志を菜月へ伝えていた。
「……わかり……ました」
菜月が絞り出すように、声を発する。
言葉と意志の両方で、敬愛する師から見捨てられた。いや、それはあまりにも身勝手な言い分だ。自分は、その引き金を自らの手で引いてしまった。
そう覚った菜月は、弾かれるように身を翻し、荷物を片手に研修室を飛び出した。
「おい! 菜月!」
「和人、追うんじゃない!」
慌てて菜月を追いかけようとする和人を、俊彦が一喝して制する。
菜月の走り去る足音はすぐに遠退き、研修室内には重苦しい空気と痛いほどの静寂だけが残るのだった。




