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菜の花ルリユール  作者: 日野 祐希@既刊8冊発売中
第三章 先生が立った場所
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師匠の決断

 読書週間イベントが終了してからというもの、菜月はより一層精力的に仕事をこなすようになった。


 イベント準備の中で新たに身に付けた知識や技術。誰かに自分が修得してきた技術を教えるという得難い経験。講師としてイベントを成功させたという自信。そのすべてが菜月の修復家としての血となり肉となり、彼女をより逞しくしていた。


 そして何より、悠司との約束が大きかった。彼との約束は菜月の心に大きな変化をもたらし、精神的に何段階もステップアップさせたのだ。


 悠司との約束が菜月にもたらしたものの正体は、先駆者としての責任感だ。

 これまでの菜月には、周りに目指すべき人間しかいなかった。

 俊彦や和人、あと葵にしても、菜月にとっては自分より前を歩く相手、追いかけるべき先人だ。故にこれまでの菜月にあったのは、彼らに追いつきたい、並び立ちたいという、追いかける者特有の向上心のみだった。


 しかし、菜月は悠司と出会い、先を歩く者として果たすべき義務を知った。

 自分みたいになりたいと言ってくれる子がいる。あの子を落胆させないためにも、自分は走り続ける。だから、簡単に音を上げたりはしない。

 悠司と約束を交わしたあの日から、菜月の心にはそういった思いが芽生え始めていた。


 追う者のひたむきさと追われる者としての責任感の両方を知った今の菜月には、前へ進むためのエンジンが二つ備わったも同然だ。彼女が際立った進歩を遂げたのも、ある意味では当然と言えるだろう。


 加えて、変化を起こしたのは菜月だけではなかった。

 菜月の目覚ましい成長ぶりは、周囲の人間にも少なくない影響を与えていた。


 例えば和人だ。彼は最初、菜月の変わり様に、「お前、講師の仕事をやってから本当に変わったな。顔付きが新米っぽくなくなった」と目を丸くしていた。

 和人の目に映る菜月の成長ぶりは、それだけ著しいものであったのだろう。

 その上で和人は、自身が得た驚きを驚きのままで終わらせなかった。


「妹弟子がこれだけ頑張っているんだ。俺ももう少し、気合入れて修業するか」


 菜月の変化に触発された和人は、そう言って自分の修業の密度を上げ始めたのだ。

 和人と同じような心境の変化は、葵にも見受けられる。葵は葵で、自身の児童サービスに磨きを掛けるため、その方面の研究会へ通うようになった。


 二人とも妹分の成長を喜びつつ、同時に簡単には追いつかせないという意気を見せ始めているのだ。

 菜月の成長が波紋を生み、波紋を受けた周囲の人間が共鳴を起こす。新たに起こった波紋はさらに波紋を呼び、やがて大きな波になっていく。


 互いに切磋琢磨し合える最高の環境の中で、菜月は日々、一歩一歩着実に成長を続けるのだった。



          * * *



 ただ、充実した日々を送る菜月にも、一つ気になっていることがあった。

 それは、師匠である俊彦のことだ。

 菜月は近頃、俊彦が段々と元気をなくしていっているように感じていた。


 思い起こしてみれば、ちょうど年の瀬も迫ってきた頃からだろうか。俊彦は仕事の合間にどこか遠くを見つめていることが多くなり、元々多くなかった口数もさらに減っていった。まるで何かを自問自答するように、彼は一人の世界へとのめり込んでいったのだ。


 その姿は、普段の俊彦からは想像できないほど儚く、弱々しくて……。

 菜月だけでなく和人までも、塞ぎ込んでいく師匠を心配し始めていた。


 けれど、菜月が「どうかしましたか?」と尋ねても、俊彦は「大丈夫だ。気にするな」としか言わなかった。

 それは和人に対しても同様だ。孫である和人に対しても、俊彦は事情を明かそうとはしなかった。


 おかげで二人とも、師匠の急な変調に困惑するばかりだ。

 何かがおかしい。俊彦は何かを隠している。

 頑なに口を閉ざす師匠に対し、弟子二人は疑念を持ち始めていた。


 そして、菜月たちの疑念を裏付けるかのごとく、年が開けてから俊彦は何度となく有休を取り始めたのだ。

 たったそれだけのことで、おかしいと訝しむのは早計ではないか。

 そんなことは、二人にもわかっている。

 だが、これまでの俊彦の仕事振りを見ていれば、これは明らかに異常なのだ。

 これまで休みなんて取りもしなかった仕事人間が、立て続けに有給を使っている。そのあまりにも不自然な事実が、菜月と和人には気がかりだった。


 それ故だろうか。


「和人、菜月、少し話がある。二人とも、こっちへ来てくれ」


 二月も中旬に入ったある日、そう言って弟子二人を呼び出した俊彦の様子に、菜月は心がざわつくような嫌な予感を覚えた。

 具体的な言葉にはできないが、なぜか良くないことが起こりそうな胸騒ぎがする。どことない息苦しさと共に、菜月は俊彦の作業スペースまで出向いた。


「あの、先生……?」

「…………」


 菜月が姿を見せても、俊彦は自分の椅子に座り、静かに目を閉じたままだ。そこに、最近感じていた虚ろな気配は感じられない。

 それでも彼の泰然自若とした姿が、今はさらに菜月の不安を掻き立てた。


「悪い、遅くなった。それで師匠、話って何だ?」


 しばらく待っていると、自身の作業に区切りをつけた和人も合流した。

 弟子二人が集まったのを感じ、俊彦がゆっくりと目を開く。

 彼は二人の弟子へ向かって、重々しく、はっきりとこう告げた。


「今年度末、いや、この仕事を最後に、儂は修復家を引退することにした」

「……え……」


 俊彦の口から飛び出したありえない言葉が、菜月の頭の中を反響する。

 光り輝く時間は、これからも当たり前に続くと思っていた。

 しかし、照らす光は唐突に失われ、菜月の進み続けた道に、先も見通せぬ濃い霧が立ちこめ始めた。


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