豊崎工房の末弟子
それは桜が散り、緑が深まり始めた春のとある朝のこと。
古紙の香りと静寂で満ちた部屋、浜名市立中央図書館の研修室に、元気な挨拶の声が響いた。
「先生、おはようございます!」
「……ん?」
声を聞きつけ、部屋の奥で老人――豊崎俊彦が顔を上げる。
俊彦の視線の先にいたのは、どこか子供っぽさが残る一人の少女だ。
肩の辺りで切り揃えた髪と活動的な性格を現した二重の大きな目が特徴の、俊彦が去年の夏からほとんど毎日見てきた顔が、そこにあった。
「菜月か。おはよう」
朝から元気な末弟子の少女――三峰菜月へ、俊彦も最低限の挨拶を返した。
しかし、交わす言葉はそれだけだ。俊彦はすぐに自分の作業へ戻ってしまった。
もっとも、言葉が少ないのはいつものことだ。菜月も、先生は今日も元気だ、と思って小さく笑っている。
どうやら俊彦は、朝早くから図書館へ提出する報告書を作成していたようだ。内容は、昨日まで調査していた和装本コレクションの保存状態に関するものだろう。
と言っても、まとめ作業自体はすでにほぼ完了していたらしい。菜月が始業のための準備をしていると、珍しく俊彦が世間話でもするように声を掛けてきた。
「今日はいつもより少し早い出勤だな。何かあったのか?」
「いえ、特には何も。単に、いつもより早く目が覚めてしまったというだけです」
俊彦にどこか弾んだ口調で返事をしながら、菜月は手早くエプロンを付けた。
ただ今の時刻は八時十分で、始業開始二十分前だ。いつも始業五分前出勤の菜月にしては、確かに早い出勤と言える。
その理由は、とても単純明快である。今日の朝は、とても気分よく、スッキリと早起きできたからだ。それはもう、目覚まし時計にさえ頼らないほど、すんなりと目が覚めた。
朝が弱い菜月にとって、これは非常に珍しいことだ。『早起きは三文の徳』というが、気持ち良い目覚めはそれ自体に価値がある、と菜月はしみじみ思った。
「そういえば、和人さんはまだですか?」
「いや、あいつは今、下の事務室へ行っている。そのうち戻ってくるだろう」
「もう戻ってきているよ」
研修室の中を見回す菜月の後ろ、少し高い位置から気だるげな声が聞こえてきた。菜月が振り返ると、部屋の入り口に、作業用のエプロンをしたラフな格好の青年が立っていた。
「あ、和人さん。おはようございます」
「おはよう。今日は早いな、菜月」
菜月の横をすり抜けて、青年は部屋の中にある自分の席に着く。
彼は植田和人。菜月の兄弟子であり、歳は彼女より七つ上の二十五歳である。修業七年目のベテランで、菜月にとってはもう一人の先生とでも呼ぶべき相手だ。
初対面の人からはぶっきらぼうと思われることも多いようだが、実は面倒見が良くて頼りになる先輩。それが、菜月が和人に抱く印象だ。
一方、その頼れる先輩であるところの和人は、自分の席に着くなり溜息をついた。
「毎朝出勤簿を付けなきゃいけないっていうのは、なかなかに面倒くさいな。まったく、誰がこんなつまらない制度を考えたんだか……」
「ガタガタ言うな。世の勤め人は、皆そうやっているんだからな」
「だったら、じいちゃんも俺に頼まず、自分で出勤簿を付けに行ったらどうだ?」
「儂とお前はいつも一緒に出勤するんだ。一人分付けるのも二人分付けるのも、大して手間は変わらないだろうが。弟子ならそれくらい、快く引き受けろ」
「またそれか。弟子は小間使いじゃないんだぞ。あと、いつも庶務の人に苦笑いされる俺の身にもなってくれ」
呵々と笑う俊彦に、和人が溜息混じりの視線を投げかけた。
ちなみにこの二人、名字は違うが血のつながった祖父と孫だ。おかげで、二人のやり取りには師弟を超えた気軽さがある。
とはいえ、いざ仕事となれば、二人とも私情を挟んだりしない。師弟としての関係に徹して、阿吽の呼吸で着実に仕事をこなしていく。そうできるだけの職人としての信頼が、二人の間にはあるのだ。
早く私も、和人さんみたいに先生から信頼される仕事ができるようになりたい。
弟子見習いの期間を合わせて八カ月くらい二人の仕事振り見てきた菜月は、常々そんな風に思うのだった。
「さて、無駄話もこれくらいにして、ぼちぼち仕事を始めるとしよう」
菜月の準備が整うのを待って、俊彦が弟子二人に声を掛けた。
俊彦は毎朝、仕事を始める前に朝礼を行う。仕事の連絡を行うことはもちろん、自分と弟子たちの公私を切り替えるための欠かせない儀式だ。
「二人とも知っての通り、昨日までで『水城文庫』の状態確認がすべて完了した。よって、本日より本格的な修復活動に移っていく。とりあえず、これが当面各自の請け負う資料のリストだ」
そう言って和彦が弟子二人に手渡したのは、先程作っていた劣化状態に関する報告書のコピーと手書きの資料リストだ。菜月がもらったリストには、読みやすい達筆な文字で十冊分の資料名と管理番号が記されていた。
菜月の目覚めが良かった原因は、おそらくこれだ。今日から始まる修復活動が楽しみ過ぎて、思いきり早起きしてしまったのだろう。要するに遠足前の小学生と同じである。
「和人、お前はリストに従って、修復作業を始めろ。各資料の修復が終わるごとに、修理報告書を儂に提出すること。いいな?」
「はいよ、了解」
リストと報告書をざっと見て、和人が部屋を後にする。作業に取り掛かるため、資料を持ちに行ったのだろう。それを見届けた俊彦は、菜月の方へ顔を向けた。
「菜月、お前は今日から、本格的な修業の開始だ。とりあえず、リストの一番上にある一冊の修復を、儂と共に行ってもらう。その中で実際の修復工程を学ぶんだ。いいな?」
「わかりました。よろしくお願いします」
「それと一冊の修理だけでは、手が空く時間も多いだろう。その時は、図書館の貸し出し用資料の修復をやらせてもらえ。古書以外の修復法も、今後必要となる技術だからな」
俊彦が、事務室のある方向を指さして言った。
俊彦のところに来る依頼のほとんどは和装本の修復依頼だが、普通の本の装丁などを直してほしいという依頼も一定量あるのだ。持ち込まれる本の多くは依頼者にとって思い出深い本であり、修復には細心の注意と高い技術を求められる。
それを知っている菜月は、「はい!」と真剣な面持ちで頷くのだった。
「よし。では、儂らも早速作業に入るぞ」
「わかりました!」
師匠に向かって、菜月がビシッと切れの良い返事をする。
目覚め快調でモチベーションは十分だ。エネルギーが有り余っている菜月は、和人の後を追って一目散に部屋を後にしたのだった。
* * *
俊彦の一門が働き場所を自前の工房からこの図書館に移したのは、今からちょうど十日前のことだ。と言っても、一年間限定での間借りではあるが……。
三台の作業台と仕事に必要な道具類を置いてなお余裕のある研修室を、三人が間借りしているのには、当然ながら理由がある。
彼らがここにいるのは、図書館が持つ大規模な和装本コレクションの修復のためだ。
実は昨年、この浜名市は地元の名士から大量の和装本を譲り受けていた。
ところが、寄贈者の名に因んで『水城文庫』と名付けられたこの資料群は、保存状態が悪くてまともに使えるものがほとんどなかったのだ。
資料の保存状態を目の当たりにした図書館や市の文化財課は、何日も頭を悩ませた。
この資料を、今のまま図書館で受け入れることはできない。閲覧できない資料など、単なるオブジェでしかないからだ。
そうは言っても、『水城文庫』は郷土資料として価値があるものばかりだ。この資料を後世に残さないという手は、絶対に取れない。そんなことをすれば、市の文化遺産を大きく損なってしまうのは目に見えている。
何より、市の文化を守るためにと寄贈してくれた名士への義理立てだってしなければならない。
頭を悩ませ尽くした図書館と文化財課は、財務部や市議会へ掛け合った。さらに寄贈者である名士とも話し合いを重ねた結果、彼と市で費用を負担し合い、『水城文庫』の全面的な修復を行うことが決まった。
そこで白羽の矢が立ったのが、地元が誇る和装本修復の大家・豊崎俊彦だったというわけだ。
今年の初め、かねてから親交のあった図書館長に頼まれた俊彦は、二つほど条件を出しただけであっさりとこの仕事を受けた。ちなみに彼が出した条件の一つは、弟子の和人と当時はまだ弟子見習いだった菜月も一緒に雇ってもらうというものだ。
図書館側としては元よりそのつもりであったため、この条件を二つ返事で了承した。さらにもう一つ出された条件に付いても、市の利に適うものとして快く受け入れられた。
こうしてこの四月より、俊彦は和装本等調査補修専門職員として、和人と菜月は同事務補佐員として市に雇われることとなったのだった。
* * *
三人がこの図書館にやって来て最初に行ったのは、『水城文庫』の状態確認だった。
これは今後の修復方針、修復担当者を決める上で、とても重要な作業だ。
三人は手分けして、とりあえず貴重書室で保管されている資料を一点一点検分し、状態を記録していった。
菜月にとって初めての作業であることはもちろんだが、俊彦や和人をしても百冊を超える資料の修復依頼を一度に請け負った経験はない。その所為か、検分作業は思ったよりも時間が掛かり、あっという間に四月も上旬が過ぎ去ろうとしていた。
とは言え、検分作業も昨日で一段落した。ここさえ終わってしまえば、あとはいつもの修復作業となる。修復すべき本が多いので、いかに効率よく作業するか考えなければいけないが、そこは『餅は餅屋』というやつだ。経験豊富な俊彦と和人にとって、修復の効率化はお手の物である。
「先生、リストの一番上にあった本、持ってきました」
というわけで、残った要注意事項といえば、正式な弟子入りから一週間少々でまだ和装本の修復経験のない、この少女くらいなものだろう。
見習い時代に多少の勉強と練習を積ませたとはいえ、菜月は卵から生まれたばかりのひよっこだ。仕事の計画の立て方から道具の使い方まで、作業の一つ一つを一から教えていく必要がある。
ただ、俊彦だって伊達にこの世界で半世紀以上も働いてきてはいない。これまで幾人かの弟子を育ててきているし、自分なりの教育ノウハウも持っている。
俊彦ならば、菜月をすぐに一人で修復を行えるまでに育て上げるだろう。
「それでは、始めようか」
「はい!」
一方の菜月も、これから始まる修業に全力で向き合おうとしている。それはつまり、物事の上達に最も必要な資質を、菜月は十分備えているということだ。
修復家を志す少女の戦いは、今ここに本当の意味での始まりを迎えたのだった。