一番弟子
西日が差し込む多目的室。二日目の講座が終わり、後片付けも完了したこの部屋の中央で、菜月は一人佇んでいた。
つい一時間前までは活気と笑い声に包まれていたこの部屋も、今はひっそりと静まり返っている。まるで別の部屋のように様変わりしてしまった多目的室を見ていると、本当に自分はここで講師をやっていたのだろうかとさえ思えてきた。
子供の頃、遠足から帰ってきた時に感じたのと同じ寂寥感が胸を満たす。
もちろん、無事にイベントを終えられて、菜月としてもうれしい限りだ。
そう。うれしいのだが……がむしゃらに頑張り続けてきた日々ともこれでお別れかと思うと、何だか無性に寂しいのだ。
「あれ? 菜月、まだここにいたんだ」
音一つなかった部屋に、聞き慣れたソプラノボイスが響いた。
菜月が声のした方へ振り返ってみれば、葵が部屋の入り口からこちらを見ていた。
「ああ、先輩。お疲れ様です」
「うん、お疲れ。今回のイベント、一日目も二日目もすごく良かったよ。本当にありがとう。……それと、はい、これ」
葵が差し出したビニール袋を反射的に受け取る。
よく見れば、葵はもう一つ同じ袋を持っていた。
何かと思って中を見てみると、ペットボトルの紅茶とコンビニのデザートが入っていた。
「ありがとうございます。これ、先輩のおごりですか?」
「ううん、違うよ。これは私じゃなくて……」
「俺からだよ。昨日今日と頑張った二人へ、ささやかだけど差し入れってやつだ」
「和人さん! どうしてここに?」
葵の後ろから姿を現した和人に、菜月が目を丸くした。
菜月たち豊崎工房の三人は、基本的に土日祝日休みという勤務体系で働いている。祝日である今日、和人がここにいる必要はないのだ。
なのに、彼がここに来たということは、どういうことか。
「俺も一応、今回のイベントには一枚噛ませてもらっていたからな。講座が盛況に終わったか、様子を見に来たんだよ」
「そうだったんですか。せっかくのお休みなのに、ありがとうございます」
「気にするな。どうせ家にいても、やることなんてないからな。それより、石田さんから聞いたぞ。なかなか堂に入った講師ぶりだったそうだな」
和人の口調からは、よくやったと褒め称えるような感情が伝わってきた。
こういう時の和人の褒め方や話し振りは、俊彦とよく似ているのだ。おかげで和人だけでなく、彼を通して俊彦にも褒められているような気がして、余計にこそばゆい。
けれど菜月は首を振りながら、「そんなことありません」ときっぱり言い放った。
「私なんて、まだまだですよ。去年受けた先生の講座と比べたら、私の出来なんて月とスッポンでした。二日とも緊張しまくりで、先輩やパートさんたちの助けがあったから、どうにかこうにか無事に終わらせることができたって感じです」
「それは比べる相手が悪過ぎるさ。師匠はキャリア半世紀オーバーの大御所なんだからな。向上心があるのは結構だが、修業一年目の新米なら、無事に講師を務め上げただけでも上出来だと思うぞ。とりあえず今は、その結果で胸を張っておけ」
「植田さんの言う通りだよ。今回のイベントのMVPは間違いなく菜月だから。菜月が講師をしてくれたこと、私は本当に感謝しているよ」
謙遜する菜月へ、和人と葵が穏やかな顔で微笑む。
自分にできることを精一杯やり切って、なおかつ企画を成功させた。それは十分に誇っていい成果だ。お前はよく頑張ったのだから、少しは自分の力を認めてやれ。
先輩格である二人の目は、雄弁にそう語っていた。
二人の顔を見ていると、新米のくせに「まだまだ」と言って粋がっていた自分が恥ずかしく思えてくる。それと同時に、この二人から認めてもらえたことが、堪らなくうれしい。
そんな複雑な思いを抱え、菜月が夕日の中でもわかるくらい顔を赤くした。
「あっ! こんなところにいた!」
その時、多目的室に再び新たな来訪者の声が響いた。
三人が反射的にドアの方へ目を向けると、そこに立っていたのは……。
「先生、みっけ!」
「あれ? 悠司君?」
予想外の珍客に、菜月が目を見張る。廊下からこちらを指さして笑っているのは、昨日の講座に参加していた少年、悠司だった。
「どうしたの? もしかして、昨日、何か忘れ物でもしちゃった?」
「ううん、ちがうよ。ぼくね、先生にどうしても言いたいことがあって、もう一回会いに来たんだ!」
「私に……言いたいこと?」
中腰になって悠司と目線を合わせた菜月が、不思議そうに首を傾げる。
菜月の目を見つめた悠司は、うれしそうに「うん、そう!」と頷いた。
「先生、きのうは本の作りかたをおしえてくれて、どうもありがとう。ぼく、すごくたのしかったよ」
「へ? ああ、うん。どういたしまして。私も悠司君が楽しんでくれてうれしいよ」
突然言われた感謝の言葉に、菜月が一瞬きょとんとした表情を見せる。ただ、彼女の表情はすぐに喜びで彩られた。
この子はわざわざこのお礼を言うために、ここまで来てくれたのだ。
願ってもない『ご褒美』に、菜月は心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
しかし、悠司の『言いたいこと』には、まだ続きがあったようだ。彼は菜月の前で、「それでね、あの……」と何か伝えたそうに口をもごもごとさせ始めた。
一体どうしたのだろうか。
悠司の顔をのぞき込み、菜月が再び首を傾げる。
しばらくの間そうしていると、彼もようやく覚悟が決まったのだろう。悠司が菜月に向かって深々と頭を下げた。
「ぼく、大きくなったら先生みたいに、本を作ったり直したりする人になりたい! だから大きくなったら、ぼくを先生の弟子にしてください!」
「ふえっ! で、弟子? 私の?」
「うん! だってぼく、先生みたいになりたいから! 先生にもっといろんな本の作りかたや直しかたをおしえてもらいたいんだ!」
驚き狼狽える菜月を、悠司が真っ直ぐな目で見つめた。
彼はおそらく、昨日からずっと真剣に考え抜いた上で、弟子入りを志願してきたのだろう。その証拠に、悠司の目には欠片の曇りも見られなかった。
一方、菜月は大わらわだ。
自分が弟子を取る。そのようなこと、考えたこともなかった。
当然だ。だって、自分はまだ駆け出しで、一人前には程遠いのだから。弟子を取るなんて、今の自分に考えられるはずもない。
悠司の願いを聞き、真っ先に菜月の胸に押し寄せたのは、そんな言い訳じみた理屈だった。
ただ、並べられた弱腰な理屈の奥で、菜月の胸に一片の光が灯っていた。
悠司は今、自分に対して答えを求めている。弟子にしてほしいと、全力の思いをぶつけてきている。
ならば自分も、彼の思いには嘘偽りない思いで応えたい。
自分が師匠と出会って夢を見つけられたみたいに、自分もこの子の夢になってあげられるのなら……。もし、そうなることが許されるのなら……
菜月の心の奥に灯った光は、次第に強さを増していった。
だが、自分にそれを言う資格があるのか、菜月にはわからなかった。
応えてあげたい。でも、応えていいのかわからない。
最後の殻を破れずに、菜月は逡巡し続ける。
「菜月」
すると、決断を躊躇う菜月を後押しするかのごとく、彼女の名を呼ぶ声が木霊した。
まるで縋るように菜月が振り向くと、そこには『思った通りに突き進め!』と笑顔で頷く和人の姿があった。
尊敬する兄弟子が、自分の決断を応援してくれている。彼が菜月に托してくれたのは、『勇気』という名の心の欠片だ。
菜月は和人に向かって、目配せで感謝の意を伝える。
最後のピースを心にはめ込み、すべての迷いを断ち切った菜月は、悠司の顔を真正面から見つめた。
確かに今はまだ、拙い未熟者かもしれない。こんなこと言う権利なんて、まだないのかもしれない。
それでも自分は、この子の夢に応えられる修復家でありたいから……。
意を決し、菜月は不安そうに答えを待つ悠司へ、ふわりと笑い掛けた。
「うん、わかった。それじゃあ私の一番弟子の椅子は、悠司君のために取っておくからね」
「本当! じゃあ、約束!」
「うん、約束」
悠司が差し出した小指に自分の小指を絡め、指切りをする。
この約束が本当に果たされる日が来るのかは、まだわからない。
わからないが、約束を交わしたという事実は、この子に誇れる修復家になりたいという思いと共に、菜月の胸に刻み込まれた。
「じゃあね、先生。ぼく、大きくなったら必ず先生のところに行くからね」
「うん、待っているよ。またね、悠司君」
はしゃいだ様子で帰って行く悠司を、手を振って見送る。
そうしたら、悠司を見送る菜月の顔を、二人の先輩格が茶化すような仕草でのぞき込んできた。
「弟子入り一年目にして、早く弟子候補が現れたか。これは責任重大だな、菜月」
「あの子ともう一度会う時までに、立派な修復家になっていないとだね。菜月、大丈夫?」
無論、二人とも本当に菜月をからかっているわけではない。なぜなら二人の言葉の端々からは、『頑張れ!』というエールが感じられるから。
だからこそ菜月も、二人に向かって力強く頷き返した。
「もちろんです。悠司君が『弟子入りして良かった!』って思ってくれるような修復家になって、彼を迎えてみせますよ!」




