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菜の花ルリユール  作者: 日野 祐希@既刊8冊発売中
第三章 先生が立った場所
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折本を作りましょう

 慌ただしい準備期間を潜り抜け、遂に迎えたイベント本番一日目。


「……どうしよう、先輩。私、緊張し過ぎて、お腹がキリキリと痛みます」

「安心して、菜月。私も同じだから……」


 多目的室の扉の前に立った菜月と葵は、向かい合って喧々諤々と震えていた。


「ああ……。さっきまでは本当に調子良かったのに、どうしてこうなるかなぁ……」


 万力で締め付けられたように痛むお腹を押さえながら、菜月が呻いた。


 今回の読書週間イベントは、菜月と葵にとって、ある意味初の晴れ舞台だ。

 それぞれが講師と企画運営という責任ある役目を背負って、最初からすべて自分たちの力で作り上げてきた。当然、石橋を叩き壊すくらい慎重に準備をしたし、周囲からやり過ぎと言われるくらい練習もした。


 これなら、絶対大丈夫だ。一分の隙もありはしない。明日のイベントは必ず成功するに決まっている!


 昨日の夜、すべての準備を終えた菜月と葵は、そんな確信を持って互いの家路に付いた。


 おかげで二人とも睡眠はバッチリだし、体調も絶好調で今日を迎えることができた。できたのだが……いざ会場の前まで来てみたら、この有様だ。二人とも、急に緊張の渦に飲み込まれ、今に至るのだった。


 扉の方に目を向ければ、部屋の中から子供たちのものと思われる賑やかな声が聞こえてくる。扉に耳を近づけて中の様子を探ってみれば、イベントが始まるのを今か今かと待っている様子が窺えた。


「せ、先輩、どうしましょう! みんな、すごく楽しみにしているっぽいです。私、もう本格的にヤバいです! 今すぐここで倒れていいですか?」

「お、落ち着きなさい、後輩。倒れるなら、先輩である私が先よ!」


 期待という名の重圧を受け、菜月と葵が声をひっくり返して取り乱す。子供たちの期待が高まれば高まるほど、比例するように二人の緊張も瞬く間に高まっていった。

 いや、緊張はすでにピークを迎えていると言っても過言ではないだろう。なぜなら二人とも、完全に頭の中が真っ白になっているのだから。


「と、とりあえず、深呼吸しよう。話はそれからだ」

「そ、そうですね。まずは頭に酸素送って、冷静になりましょう」


 葵の賢明なアイデアを採用し、二人で大きく深呼吸を開始する。

 そして、思いっきり空気を吸いこんだ、その時だ。


「……二人とも、さっきからそんなところで何をしておるのかね?」

『ほわっ!』


 突然声を掛けられ、菜月と葵が完全同期した動きでその場から飛び退いた。

 激しく暴れる心臓を押さえつけ、二人が尻餅をついたまま振り返ると、そこには不思議そうな顔をした野田館長が立っていた。


「な、なんだ、館長じゃないですか。びっくりさせないでくださいよ」

「ん? ああ、それは済まなかった。君たちが何やら面白い動きをしていたので、気になってしまってね。時に石田君、そろそろ開講の時間だ。準備はいいかね」

「え? あ、もうこんな時間! はい、大丈夫です。いつでも行けます」


 そう言いながら葵はさっさと立ち上がり、素早く乱れた髪を整えた。

 どうやら思いっきり驚いたことが、ある種のショック療法となったらしい。葵の顔からは、緊張の気配が消えていた。


「良い顔付きになったな。三峰君、君の方は大丈夫かな?」

「ええ……。まあ、ぼちぼち……」


 一方、菜月はまだ若干緊張が解けていないようだ。館長へ微笑む表情も、少しだけ硬さが残っている。

 それでも、先程までのように一杯一杯になってはいない。葵ほどではないにしろ、菜月にも館長のショック療法が効いたようだった。


「そうか、そうか。うんうん、何事もほどほどが一番だ。……さて、ちょうど時間だね。二人とも、行くとしようか」

『はい』


 気を取り直した菜月と葵が、館長と共に多目的室へ入室する。

 その瞬間、部屋の中の喧騒がすっかり収まり、子供たちの視線が菜月たち三人へ集中した。


「じゃあ、行ってくる」


 まだ軽く硬くなっている菜月に耳打ちし、まずは葵が部屋の正面脇に置かれたマイクスタンドの前に立つ。

 子供たちの期待の眼差しを浴びつつ、葵は歯切れの良い明朗な声でしゃべり始めた。


「みなさん、こんにちは!」

『こんにちは!』

「はい、元気な挨拶をありがとうございます。私は本日のイベント、『昔の本を作ってみよう』の司会を務めます、石田葵です。みなさん、今日はよろしくお願いいたしますね」

『よろしくおねがいします!』


 普段のおはなし会で鍛えられた子供好きする口調で、葵が早速イニシアチブを取った。

 子供たちを始め、後ろに控える保護者たちも葵の司会に聞き入っている。本番前にあれだけ動揺していたのが全部嘘に思えるくらい、立派な司会ぶりだ。

 本番になって飛躍的に調子を上げた葵は、順調に諸注意の連絡を済ませ、館長に挨拶を求めた。


「皆様、本日は浜名市立中央図書館へお越しいただき、ありがとうございます。さて、長い話は子供たちに嫌われてしまいますからな。私の話は手短に……」


 葵に代わってマイクの前に立った館長は、いつもと全く変わらない。ユーモアを交えた語り口で保護者の気を引き、子供たちを笑わせる。

 館長の挨拶が終わる頃には、会場中がすっかり和やかな雰囲気で満たされていた。


「野田館長、ありがとうございました。続きましてはお待ちかね、本日の先生を紹介しましょう。本日の先生は、本のお医者さんである古書修復家の三峰菜月さんです。みなさん、拍手で迎えてください」


 葵の紹介が終わると同時に、部屋の中は拍手の音で包まれた。

 とうとうお呼びが掛かった。もはや逃げ場はない。こうなったら、なるようになれだ!

 菜月はとりあえず覚悟を決め、拍手の鳴り響く中、油が切れたブリキ人形のような動きで講師用作業台の前に出た。


「みなさん、こんにちは! 本日の講師を務めさせていただきます、三峰菜月です。どうぞよろしくお願いいたします!」


 受講者たちの顔をじっくり見てしまっては、頭が真っ白になってしまうかもしれない。

 そう考えた菜月が、やや早口に挨拶をして、勢いよく頭を下げた。


『よろしくおねがいします!』


 その時、小学生たちの一際元気な声が、菜月を包み込んだ。

 声に釣られて菜月が顔を上げてみれば、そこには星のごとく目を輝かせる子供たちの姿があった。


「あ……」


 子供たちの目を真正面から見た瞬間、菜月の表情が引き締まり、目が完全に本気のそれへと変わった。


 この子たちの目を見たら、もう緊張がどうのこうのなんて言っていられない。『なるようになれ』なんて適当な覚悟は、すぐにゴミ箱行きだ。

 みんな、今日のイベントを心待ちにしていてくれたんだ。今ここで半端なことなど、できるわけがない。

 このイベントが終わった時、この子たちに楽しかったと言ってもらいたい。この子たちの目をもっと輝かせたい。だからここで、練習の成果をすべて出し切ってやる!


 菜月は決意も新たに、人生初の講義を始めた。


「今日、みなさんに作ってもらうのは、折本と呼ばれる本です。この折本ですけどね、今の形の本が作られるよりも、ずっと昔からある本の一つなんですよ」



挿絵(By みてみん)



 まずは練習通り、これから作る本がどういうものかという解説から始める。

 菜月は子どもたちにもわかりやすいよう、予め自分で作っておいた折本を取り出し、広げてみせた。


「ほら、見てください。これが折本です。一枚につながった紙をこうやって山折りと谷折りの繰り返しで折ってあるから、折本って言うんですよ」

「ええー、へんなのー! そんなのでも本なのー?」

「なんで、そんな形をしているの?」


 長くつながった紙を折って、表紙を付けただけ。自分たちが知っている本とは程遠い変な形の本に、子供たちから疑問の声が上がる。


 同時に、菜月は心の中で『よし!』とガッツポーズを決めた。

 これこそ菜月が望んでいた反応だ。

 彼女は待っていましたと言わんばかりの表情で、自分の荷物からあるものを取り出した。


「何でこんな形の本が作られたのか。本当に良い質問ですね。では、お答えしましょう。答えは、これです!」


 ジャジャーン、という効果音が出そうな勢いで菜月が取り出したもの、それは一軸の巻子本(かんすぼん)だった。



挿絵(By みてみん)



「みなさん、こういう形の巻物は見たことありますか?」

「知ってるよ!」

「ニンジャがもってるやつだ!」


 菜月が巻子本を取り出すと、早速男の子たちが食いついた。巻物=忍者という発想は実に子どもらしいと言えるだろう。

 ともあれ、菜月としては「見たことがある」と言ってもらえるだけで有り難い。


「そう。そのニンジャが持っているヤツです! これはね、巻子本と言って、折本ができるさらに前からあった本の仲間なんです。でも、この本ね、一つだけ弱点があるんですよ。みなさん、どこだかわかりますか?」


 菜月の問い掛けに、今度は子どもたちがみんなして黙りこんだ。全員、答えがわからないといった様子だ。

 見れば、後ろにいる保護者達も見当がつかないのか、首を捻っていた。

 これも菜月にとっては、想定通りの展開である。


「うふふ。正解はね、この巻子本って、すごく読み辛いんですよ」

「読みづらい? どこが?」


 そう問うてきたのは、最前列の真ん中、ちょうど菜月の作業台の真ん前に座る男の子だ。

 好奇心旺盛そうな男の子の大きな目には、どういうことかわからないと書かれていた。


「うーん、例えばね、この巻物に書かれた最後の言葉。これを見たいと思ったら、どうすればいいかな?」

「かんたんじゃん。ぜんぶ、広げちゃえばいいよ」

「そうだね、正解。でも、それって結構大変じゃない? この巻物を全部広げるのって、かなり時間が掛かっちゃうし、片付けも面倒だよね」

「えっ? うー……、うん?」


 菜月に逆質問を受け、男の子が難しい顔をして考えこんでしまった。その姿を微笑ましいと思いつつ、菜月は説明を続けた。


「そこで生まれたのが、この折本なんです。一枚の紙を軸に巻いてしまうと、最後の方を見るのが大変。だけど、こうやって折りたたんだだけならば……ほら、簡単に最後のページも見られるでしょ」


 部屋中に見えるよう手に持った折本の最後のページを開いて見せ、最後に疑問を投げかけてくれた男の子へウィンクする。


 すると、男の子を始め他の子供たちも、「おお、すげーっ!」とか「むかしの人、あったまいい!」なんて言いながら、折本を食い入るように眺めた。

 子供たちの後ろの方では、保護者たちも『ああ、なるほど』といった表情をしている。


 会場中の感心しきりな様子に、菜月が心の中で再びガッツポーズをした。

 つかみは上々だ。大方、練習で思い描いていた通りに事が進んでいる。

 ただ、落とし穴というものは、得てして好調の時にこそ引っかかるものである。


「昔の人はこうやって知恵を絞りながら、少しずつみなさんが知っている今の本の形へと近づいていったの。みなさんにも、今日の折本作りを通じて本の歴史を体験してもらえるとうれしいです。では、そろそろ本作りを始めましょうか」


 菜月が前説の最後に言った「本作りを始める」の一言が、少々不注意だった。

 遂に本日のメインイベントが始まる。待ちに待ったこの瞬間に、子供たちのテンションが急激に高まったのだ。


 結果、当然の帰結として子供たちの興奮が最高潮に達し、大騒ぎが始まった。多目的室中が一気に喧騒に包まれる。

 急な事態に焦った菜月が、「しーずーかーにーっ!」と声を上げるが、すべて雑音の中に消えてしまった。


 作業台の前で、菜月の顔が一気に真っ青になる。

 これはまずい。非常にまずい! このままでは、収拾がつかなくなってしまう。

 講座中止。講師失格。

 喧騒の中、最悪の想像が次々と頭の中に浮かんでくる。

 だが、そんな菜月のもとに、救いの女神が舞い降りた。


「はいはい! みんな、騒いでいたら綺麗でかっこいい本の作り方を聞き逃しちゃうわよ!」


 葵の良く通る声が部屋中に響き渡り、騒ぐ子供たちの中へと吸いこまれていく。

 葵の脅かしで、子供たちも『綺麗な本が作れなくなっては大変!』と焦ったようだ。荒波のようだった騒ぎはさざ波へ変わり、やがて完全に静まった。

 葵の見事な手際に、菜月は内心で拍手喝采だ。


 ここで葵が菜月と同じく「静かに!」とでも言っていたら、騒ぎが収まることはなかっただろう。そこで葵は、良い本が作れなくなると子供たちを諭したのだ。

 単に叱るのではなく、子供たちの立場に立って彼らの不利益を冷静に提示する。葵の機転を利かせたファインプレーだ。


 目配せをして、葵に感謝の意を示す。それをキャッチした葵も、これくらいお安い御用だよ、とアイコンタクトを返してきた。

 先輩後輩間のホットラインアイコンタクトを終えたら、気を取り直して講義を再開だ。

 菜月はやる気満々の子供たちと、改めて向き合った。


「では、みなさん! まずは材料の確認をしましょう。まずは、本の中身に使う紙からですよ」


 先程の騒ぎを考慮し、まずはクールダウンを兼ねて子供たちに材料を確認させる。

 今回の材料は、本紙部分に使う紙が十三枚、表紙・裏表紙用の厚紙と表紙を飾るための千代紙(ちよがみ)、タイトルを書くための細長い半紙が一枚に、あとは澱粉糊(でんぷんのり)だ。


「ちなみにこの半紙は、『題箋(だいせん)』と言います。覚えておいてくださいね」


 ホワイトボードに『題箋』と振り仮名付きで書く。

 そうしたら、子供たちからは「むずかしい字~」とか「へんなの」との声が上がった。

 あなたたちの気持ち、よくわかる。だって私も去年、先生に同じことを言ったから……。

 子供たちの感想を聞きながら、一年前の自分を思い出す菜月だった。


「確認はこれで終わりです。では、早速最初の作業をしましょうか。みなさん、本の中身に使う紙を、こうやって半分に折ってください。あ、すべすべな面が内側になるよう、注意してくださいね」


 手に横長にした紙を持ち、子供たちの前で角を揃えて半分に折ってみせた。


 折本の作成方法には、紙の端と端をつないで一枚の長い紙にし、一定の幅で折っていく方法など、いくつかの方法がある。その中で今回菜月が選んだのは、『画帖(がじょう)仕立(じたて)』と呼ばれる作成方法だった。

 これは、半分に折った紙を互い違いに重ねて糊付けすることで、蛇腹状の長い一枚の紙にする方法である。


 予め紙の大きさを揃えておけば、基本的に半分に折って貼り合わせるだけ。ページ幅に(むら)ができる心配がなく、糊付けの作業もあるから工作気分で楽しめる。

 作るのが低学年の小学生であることを考え、菜月はこの方法がベストと判断したのだ。


「全部折れたら、折り目が右、左、右、左って順番にくるように紙を重ねてね。それが終わったら、机の上でトントンってやって紙を揃えて、バラバラにならないよう片側をクリップで止めておいてください」


 菜月は作業内容を板書しながら、大きな声でやることを伝えていった。


 指示を出し終わったら、葵や手伝いのパートさんたちと共に受講生のお手伝い回りだ。

 クリップで紙を止め終えた子の机ではちゃんとできているかを確認し、苦戦している子の机では一緒になって作業をする。


 受講生全員が無事に本を完成できるよう、菜月達も全力でサポートに回った。


「先生、これでいいの?」

「ん? どれどれ、ちょっと見せてね」


 菜月を呼び止め、得意げな顔で作成中の本を見せてきたのは、例の最前列の真ん中に座る男の子だ。首からかけているネームプレートを見てみれば、学年は二年生で名前は悠司(ゆうじ)というらしい。

 先程のやり取りもあってか、どうやら菜月はこの男の子に相当気に入られてしまったようだ。悠司は作りかけの本を眺める菜月へ、「本作りって楽しいね」などと言って、楽しそうに笑っていた。


「折り方も丁寧だし、ちゃんと互い違いに並んでいる。紙も綺麗に揃っているね。うん、OK。すごく上手にできているよ。悠司君、とても器用だね」

「えへへ。やりーっ!」


 菜月に褒められたことが余程うれしかったのだろう。悠司はガッツポーズをしながら満面の笑顔になった。

 悠司が喜ぶ様子を見ていると、この二か月の苦労が報われたように感じられる。この笑顔を見るために、自分は頑張ってきたんだって思える。

 菜月にとって、今こそが至福と言える瞬間だった。


「三峰先生、こっちの確認、終わりましたよ」

「あ、はい。ありがとうございます!」


 葵の先生コールで、菜月の意識が現実に引き返してきた。

 先輩から『三峰先生』と呼ばれることに若干の気恥しさを覚えながら、菜月は自分の作業台へと戻っていった。


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