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菜の花ルリユール  作者: 日野 祐希@既刊8冊発売中
第三章 先生が立った場所
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講習会準備

 一週間後の八月三十一日。

 小会議室には前回同様に菜月と葵、加えてオブザーバーの和人が集合していた。


「では、第一回のミーティングを始めたいと思います。よろしくお願いします」

『よろしくお願いします』


 葵の開会宣言で、早速ミーティングが始まった。

 議題の一番目は当然、イベントで子供たちにどのような本を作ってもらうかだ。


「和人さんにも知恵を貸してもらって色々と考えたのですが、今回のイベント、一日目と二日目で作る本を変えようと思います」


 この議題は菜月の担当だ。彼女は用意してもらったホワイトボードの前に立ち、それぞれの講座で作りたい本を書き出した。


「ふむふむ。一日目の低学年の部が折本(おりほん)で、二日目の高学年の部が袋綴じか……。菜月、このチョイスの理由を聞かせてもらえる?」


 司会兼書記である葵が、自分のノートにメモを取りながら理由を尋ねる。おそらく、後ほど館長たちへ説明するために必要なのだろう。

 菜月は葵に向かって一度頷き、板書をしながら理由を話し始めた。


「まず一日目に関してなのですが、対象が低学年の児童ということなので、できる限り製作が簡単な和本を選択しました。折本なら、本紙と表紙用の紙を予め所定の大きさに切って揃えておけば、本番は糊だけあれば作業ができますので」


 菜月が折本と書かれた下に、『作るのが簡単』『糊だけでOK』と書き加えた。

 ちなみに、この折本というアイデアを出してくれたのは和人だ。彼は菜月から『小学校低学年の児童でも作れて、なるべく刃物や針を使わないで済む本はないか』と相談を受け、このアイデアを提供したのだ。


 和人から知恵をもらった菜月は、すぐに折本の作成方法を調べ始めた。

 そして一週間という短い時間の中で、どうにかこうにか低学年の小学生でも実施可能な企画にまで昇華させたのだった。


「続いて二日目。こちらは高学年が対象ですから、ある程度作り応えがある方が良いと考えます。そこで、オーソドックスながらも糸綴じなど工程が楽しめる袋綴じにしました。袋綴じなら初心者用の入門キットなんかもありますし、用意も比較的楽じゃないかと思います」


 話を終えると同時に、板書も終了する。ホワイトボードには『作り応え』『初心者用キットあり!』と記された。

 折本が和人の知恵を起点としたアイデアなら、こちらは菜月の経験に基づいたアイデアである。菜月は一年前に俊彦の講座を受けた時のことを思い出し、これならば小学生でも楽しめると判断したのだ。


「と、こんな感じなんですけど……先輩、どうでしょうか?」


 菜月が窺う様子で葵の顔を見つめ、おずおずと意見を求める。

 対する葵はノートに二重丸を付け、「うん。両方とも、すごくいいと思う!」と太鼓判を押した。


「やっぱりこういうのは、専門家の意見を聞くに限るね。ところで、当日使う道具の準備はどうしようか。参加者に持参してもらいたい道具とかはある?」

「そうですね……。高学年の部は、鋏とカッター、筆くらいは各自で持参してもらった方がいいと思います。きっとみんな、自分のものの方が使いやすいでしょうし。あと、先生が『図書館側でカッターマットとヘラくらいは用意できるはずだ』って言っていたんですけど……先輩、準備してもらえますか?」

「それくらいなら、色んな講座で使っている備品があるから大丈夫だと思う。でも、他の製本用の道具なんかはどうするつもり? 高学年向けでやる袋綴じだと、木槌とか小口に凹凸が出ないように紙を重ねる道具……ええと、()(ばん)だっけ? とかも必要だよね。図書館にも一通りの道具はあるけど、それだけじゃ足りないと思うよ」

「足りない分は、先生から工房の道具を使う許可をもらってあります。でも、こちらも数に限りがあるので、何人かで一つの道具を使ってもらうことになると思います」


 葵の質問に応じながら、菜月は二つ折りにしたメモ用紙を差し出した。

 メモを受け取った葵が中を見てみれば、そこには用意できる道具の種類と個数が詳細に記されていた。


「これ、すごいね。正直、大助かりだよ。でも、大事な道具を子供たちに使わせてもいいの?」

「寄せ盤や木槌は物自体が頑丈だから、多少乱雑に扱っても壊れることはない。それとここに書いてある道具類は、こういう講座の依頼が来た時のために用意してある備品なんだ」


 道具の破損を心配する葵へ答えたのは、成り行きを見守っていた和人だ。

 彼の言うところによれば、俊彦は年に何回か、今回のような依頼を受けることがあるらしい。その際、依頼してくる団体が十分な道具を持っていることは少ないため、貸し出すための道具を用意してあるとのことだった。


「うちの師匠はなかなか弟子を取らないが、講座とかの啓蒙活動には割と積極的なんだ。だから、貸し出し用の道具は遠慮せずに使ってくれて構わない」

「わかりました。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいますね」


 ありがとうございます、と葵が華のような笑顔で菜月と和人にお礼を言った。

 おそらく、心配事が一つ減ってテンションが上がったのだろう。菜月の目には、葵の笑顔がいつもの三割増しで輝いているように見えた。


「じゃあ、これで道具の方はよし! となると、あとはメインとなる紙や製本キットの準備か……。これはどこかの業者さんに注文だね」


 どこかいい業者さんがあればいいんだけど……、と葵がノートにメモを取りながら一人呟く。

 そうしたら、葵のこの呟きに対しても和人が助け船を出した。


「和紙や製本キットなんかの購入は、俺の方で相談に乗れると思う。うちの工房で懇意にしている店に頼めば、多少の値引きもしてくれるはずだ。当然、質も保証する」

「本当ですか、植田さん! とても有り難いです。では、後ほど改めてご相談させていただきますね」


 和人の頼りになる一言に、葵が一瞬にして色めき立つ。葵はもう一つの憂いもなくなり、すっきりした様子で、『業者は植田さんに当てあり!』とノートへ書き込んだ。


「よしよし。これなら館長にも自信を持って報告できるよ。ありがとね、菜月。植田さんもご協力感謝します」


 何だか色んなことが上手く行き過ぎて、逆に心配になってきちゃうよ。と、ご機嫌な顔で言いながら、葵が決定事項で埋まったノートを見直す。

 しばらくすると、この議題について思わしい成果が出揃ったと判断したのだろう。葵は満足げにノートを閉じた。


「本番の講演内容については、これくらいだね。この打合せの後で館長に報告するから、修正しなきゃいけないことは次回の打合せで話し合おう」

「はーい。了解です、先輩」


 自分が担当する議題が終わり、菜月がマジックを置いて席に着いた。

 普段は会議室での会議に縁遠い菜月だ。自分が主だって話を進めることには、それなりの緊張を覚えていたらしい。何事もなく一仕事終えることができた菜月は、安堵の吐息をついた。


「それじゃあ、この調子で残りの議題もサクサクっと片付けちゃおっか!」


 イベントの中身さえ決まってしまえば、今日の会議の目的は半分以上果たされたも同然だ。

 残っている議題は、ほとんどが葵からの報告や連絡事項のみである。葵は自身の言葉通り、それらを手際良く進めていった。


「というわけで、参加希望者の募集は九月下旬から十月中旬くらいの期間で行います。なお、募集人数は両日とも十五人ということで正式に決まりました。あと菜月、前回言い忘れていたけど、親御さんが一緒に参加する子もいるから、予め承知しておいてね」

「親御さんと一緒に……。えっと、それってつまり、参加する子たちは保護者と一緒に本を作るってことですか?」

「ううん。前回や前々回の記録を見ると、保護者は見ているだけって感じみたい。だから、今年もそういう方向にする予定。まあ、授業参観みたいなものだと思えばいいよ」

「保護者同伴の授業参観……ですか」


 菜月が何とも言えない曖昧な表情で呻いた。

 正直なところ、初めての講師をやる身としては、あまり聞きたくないワードのオンパレードだ。はっきり言って、難易度倍増である。菜月の引きつった顔には、『一気にハードルが上がってしまった……』と書いてあった。


 絶対に妙な失敗や失言はしないようにしよう。あと、どうかモンスターペアレントとかいませんように……。

 と、菜月が心の中で誰とも知れない神に祈っていた時だ。


「あの初々しかった後輩が、ついに先生デビューかぁ。しかも、いきなりの保護者参観。ホント、いつの間にかこんな立派になっちゃって。私、何だかもう感慨深くて、涙が出てきそうだよ……。本番、バッチリ期待しているからね。よろしく、菜月先生!」


 思わぬ不意打ちが、菜月の心を撃ち抜く。

 まさか最大の味方から、こんなにも重い一撃を見舞われるとは思わなかった。

 純粋な期待の眼差しを向ける先輩を前に、菜月はハードルが棒高跳びのバーに変わるのを幻視するのだった。


「ま……任せてください。私だって、修復家の端くれです。見事やり切ってみせますよ!」


 口の中で小さく「たぶん……」と付け加えつつ、菜月が葵に大見得を切る。

 ちなみに、机の下に隠れた膝は恐ろしい勢いで震え、背中では冷や汗が滝のように流れていた。隣に座る和人の心配と気遣いと同情に満ちた視線が、心に痛い。


 大丈夫……。今から練習すれば、きっと間に合う……はず。とりあえず、帰ったらもう一度製本方法の復習をしよう。あと、本番用の原稿も用意しておかなきゃ。


 頭の中で、本番までにやるべきことをリストアップしていく。

 順調に進む打合せとは裏腹に、菜月の脳内会議はてんやわんやの大忙しだ。正に、事件は会議室で起きている状態である。有り体に言ってしまえば、非常にまずい。


「さてさて、連絡事項はこれで全部だし、今日のミーティングがここら辺でお開きかな。菜月の方は、まだ何かある?」

「ああ、いえ、大丈夫です。何もありません」


 葵の確認に、菜月は気もそぞろな様子で生返事をした。

 ちょうど今、脳内会議において製本練習派と原稿準備派の間で優先順争いが勃発し、漫画のような殴り合いが始まったところなのだ。どちらが勝つか見届けないことには、今後のスケジュールが立たない。


「ほい、了解。あと次のミーティングだけど、参加募集をかけ始める前――再来週の月曜日の、時間は今日と同じでいい?」

「ええ、大丈夫です」

「ほいほい。……よし、と。じゃあ私は次のミーティングまでに募集用のチラシを作っておくから、菜月も講演準備の方を進めておいてね」

「イエッサー」

「では、第一回ミーティングを終了します。ありがとうございました」

『ありがとうございました』


 結局、菜月は生返事の使い分けのみでミーティングを乗り切ったのだった。



          * * *



 それからの二か月は、菜月にとって『光陰矢の如し』を地で行く日々だった。


 昼間は修業と、合間を縫ってイベントのミーティングし、夜はイベントで行う和本作りの勉強や原稿を作成した。休日には葵と一緒に本番の練習をして、ついでに心と体のリフレッシュのため、遊びに行くことも忘れない。


 正に、これでもかというほど、実の詰まったスケジュールだ。


 ついでに言えば、どれだけ菜月が忙しそうにしていても、俊彦は修業の手を決して緩めたりしなかった。

 いや、むしろ今までよりも教えるペースを上げたと言えるだろう。

 おかげで、菜月の忙しさもさらに拍車がかかっていった。


「どちらかと言えば、忙しい時の方が余計な雑念も消えて、修業にもってこいというものだ。他にもやるべきことがあるなら、嫌でも効率よく修復する方法を考えるようになる。余計な時間を使わなくて済むよう、集中して作業に取り組める。結果、普段以上に修業が進む。というわけで、ここらで新しい技術を教えておくとするか」


 以上が、俊彦の談だ。


 彼はこの後、本当に新しい修復法の伝授を始めたから大変だ。しかも、一度に二つもである。菜月は必死の形相で、それらの技術を習得したのだった。


 一見すると俊彦の持論ややり方は、いじめのような暴挙にも思える。けれども、当の菜月は意外にも、これについては実感を伴った同意をしていた。

 なぜなら講師の仕事を引き受けてからというもの、菜月の効率的に時間を使うスキルは飛躍的に向上していたからだ。

 作業をどう組み合わせれば一番無駄なく時間を使え、早く終わらせられるか。そういう段取りを、いつの間にか、頭の中で自然と組み立てられるようになっていた。


 さらに言えば、集中力が高まっているところにイベント関連の勉強の成果が上積みされ、作業のミスも少なくなってきていた。おかげで俊彦から叱られることも少なくなり、逆に褒められることが増えたくらいだ。


 覚えることが多くて、目が回りそうなくらい忙しいことには変わりない。だけどその分、自分にできることがどんどん増えていき、今まで以上に充実している。


 この二か月を振り返って菜月が思い浮かべた感想は、この言葉に尽きていた。

 ただ、集中して作業に当たっていることも所為もあって、気が付けば一日が終わっているの繰り返しだ。


 まるでジェットコースターみたいに、一度動き出したら止まらない。ノンストップで振り回され続ける九月と十月だった。


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