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菜の花ルリユール  作者: 日野 祐希@既刊8冊発売中
第三章 先生が立った場所
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突然の依頼

 それは、お盆休みも終わった八月の下旬のことだ。


「読書週間の小学生向け講演会……ですか?」


 外の暑さも最高潮になる昼下がり、浜名市立中央図書館の小会議室に、菜月のきょとんとした声が響き渡った。



          * * *



 今回の事の発端は、つい昨日のことだった。研修室を訪れた図書館長が、俊彦と菜月に折り入って頼みたいことがあると申し出てきたのだ。


 菜月にとっては、正に寝耳に水の出来事だ。館長直々の頼み事とは一体何だろうか、と戦々恐々だった。

 とはいえ、館長からの『折り入っての頼み』とあっては、受けるかどうかは別として、話を聞かないわけにはいかない。まずは詳しい話を聞かせてもらうことになり、菜月たちは館長や関係者と会談の場を持つこととなった。


 自分と先生に頼みたいこととは何だろうか。無理難題じゃないといいのだが。


 思い当たる節のない菜月は、心の中で神に祈りを捧げながら、館長を見送った。

 そして次の日、つまりは今日、菜月は一人で館長から指定された小会議室の扉をノックしていた。


「はい、どうぞ」

「失礼します」


 中から館長の応答があったのを確認し、菜月は静かに扉を開けた。

 仕事の切りがなかなか付かず、菜月のみ約束の時間から少し遅れての参加だ。


 すでに会議は始まっていたらしく、小会議室にいた俊彦、館長、葵は、資料と思しきA4用紙を片手に話し合っていた。


「おお、菜月。ようやく来たか。待っていたぞ」

「忙しいところ呼び出してしまって済まないね、三峰君」

「い、いえ。私の方こそ約束の時間に遅刻してしまって、本当に申し訳ありません」


 俊彦と館長が、扉の前に立つ菜月を仰ぎ見る。

 上役二人に見つめられた菜月は恐縮そうに頭を下げ、急いで俊彦の隣の席へ座った。


「それで、野田(のだ)館長。昨日仰っていた、『私たちに頼みたいこと』というのは、一体何でしょうか?」

「ちょうどそのことを、豊崎先生に話し始めていたところだよ。とりあえず、このレジュメを読んでみてくれ」


 館長に言われるがまま、菜月はテーブルに置かれたレジュメを手に取り、そこに書かれたタイトルを見る。

 結果、先程の呆けた菜月の声が、小会議室に響くことになったのだった。



          * * *



「三峰君はボランティア経験もあるので知っているかもしれないが、浜名市立中央図書館では毎年、十月末からの読書週間に小学生対象のイベントを開催している」


 駆けつけたばかりの菜月にもわかるよう、館長は説明を最初からやり直し始めた。

 彼の説明を聞きながら、菜月は数年前の記憶を掘り起こしていく。


 言われてみれば、一昨年とその前の年、飾りつけを手伝った記憶がある。去年は俊彦のところで見習い活動をしていたために関わっていなかったが、確かに読書週間の時期に催しをしていた。


 イベントのことを思い出した菜月は、「はい、お手伝いしたことがあります」と相槌を返した。

 菜月の返答に、館長は『ならば話が早い』といった様子で話を続ける。


「そのイベントなのだがね、レジュメにも書いてある通り、今年はぜひ和装本の製作をやりたいと考えているのだよ」


 言われてレジュメを読んでみれば、いくつか候補を上げてある中で、第一案として『和装本の製作』が挙げられていた。


「へえ、いいですね。きっと子供たちも喜ぶのではないでしょうか」


 レジュメを読んだ菜月が、早速同意を示す。

 菜月が修復家の道に進むきっかけとなったのは、俊彦の講座を受けたことだった。


 故に、菜月のこの手の催しに対する思い入れは一入(ひとしお)なのだ。

 ぜひ成功してほしいと思うし、自分にできることがあれば手伝いたいくらいだった。


「ありがとう、三峰君。で、ここからが本題なのだが……今回のイベントの講師を、ぜひ三峰君に担当してほしいと思っているんだ」

「へえ、私に……。……………………。……って、私ですかっ!?」


 館長からの依頼に、菜月が一人時間差のボケをかました。

 とは言え、それも仕方のないことだろう。和装本の製作と聞いて、手伝いでも頼まれるのかなと思っていたら、まさかの講師抜擢だ。驚かない方が無理というものである。

 しかし、館長はいたって真面目な様子だ。館長は真剣な面持ちで、菜月へ向かって頭を下げた。


「そうだ。和装本を扱うプロフェッショナルとして、ぜひ君の力を我々に貸してほしい。無論、講師料は普段の給料とは別に支払う。どうか引き受けてもらえないだろうか」

「プ、プロフェッショナルなんてとんでもないです。私なんて、まだまだ駆け出し半人前のひよっこですよ」


 対して菜月は、頭やら手やらを振り回し、あれやこれやと捲し立てた。


 プロと呼んでもらえることがうれしいが、自分には荷が重すぎる。修復家歴五カ月の私に、講師なんて務まるはずない。講師が必要だということなら、俊彦や和人の方が適任だろう。


 そう判断した菜月が、助けを求めるように俊彦の方を見る。

 そんな彼女の視線に釣られたのか、館長も今度は俊彦に向かって嘆願した。


「お願いいたします、豊崎先生。三峰君が修業の大事な時期にあることは、私も重々承知しております。ですが、どうかご協力いただけないでしょうか」

「話はわかりました。しかし、なぜ菜月なのですかな。講師役ということなら、儂や和人でも良いかと思いますが」


 菜月の視線に込められたメッセージを、しっかりと受け取ってくれたのだろう。俊彦が菜月に代わり、館長に疑問を投げかける。

 すると館長は、聞かれるのがわかっていたという表情で理由を話し始めた。


「第一の理由は、今回のイベントの対象が、低学年を含む小学生だからです。小さいお子さんは、知らない大人の男性を怖がることが多々あります。そこで、講師はできる限り女性が望ましいと考えております」

「なるほど……。それは確かに、一理ありますな」


 同意を示す俊彦の横で、菜月も「あ、なるほど」と頷く。


 同時に菜月は、今回の講師として俊彦や和人を起用するのは難しいかも、と感じた。俊彦は本のこととなると厳しさ倍増しだし、和人も性格は優しいが、若干不愛想なきらいがある。これでは館長の言う通り、子供たちが怖がってしまうかもしれない。


 心の中で腕を組み、菜月は頭を悩ませた。

 プロとしての実力と子供たちに与える安心感を両立させるのは、なかなかに難しい問題だった。


「それと、今回のイベントを取り仕切るのは、こちらに座っている石田君でして……。これが三峰君に講師をお願いしたい、もう一つの理由なのです」


 館長はそう言って、自身の隣に座る葵を示した。

 館長の紹介へ合わせるように、葵も俊彦に向かって軽く会釈する。


「実は彼女、今回が初めての企画運営なのです。もちろん私を含め、職員一丸となってサポートしますが、正直に申しまして至らぬ点もあることと思います。そこでぜひ、三峰君にご助力願いたいのです。聞けば、石田君と三峰君は高校の先輩後輩で、気心知れた間柄とのこと。信頼のおける者同士なら、連携も幾分かスムーズに行えることでしょう」


 館長の話を聞きながら、菜月が葵の方を見る。

 その視線に、葵も気付いたのだろう。彼女も菜月の方へ視線を寄こしてきた。

 菜月に向けられた葵の目が語る言葉は、『迷惑かけてごめんね』というただ一言だけだった。

 葵からのアイコンタクトを受け取った瞬間、菜月の心は決まった。


 先輩が大変な状況に立っていて、自分なら彼女の力になれる。今まで助けられてばかりだったけど、今度は自分が先輩の助けになれる。

 ならば、迷う必要などどこにもない。力不足の感は否めないが、自分にできる限りの協力をしよう。

 そう決心を固め、菜月が俊彦の方を向いた、その時だ。


「菜月、お前さえよければ、図書館に協力してあげなさい」

「え、いいんですか?」


 許可をもらう前に、俊彦の方から許可を出してくれた。

 あまりのタイミングの良さに驚き、菜月が確認するように聞き返すと、俊彦は「もちろんだ」とあっさり頷いた。


「今回の催しの性質から考えて、きちんとした準備をしておけば、お前でも十分に講師はこなせる。それに人に何かを教えるというのは、お前にとっても良い勉強になるはずだ。これは修業の一環として、願ってもいない好機。逃す手はあるまいて」


 どうやら俊彦は、この依頼を修業の一環と見なしたようだ。

 ならば、菜月としても好都合だ。師匠からのお墨付きが出ているのなら、大手を振って依頼を受けたいと言える。


 菜月が内心でガッツポーズをしていると、不意に片方の口角を吊り上げた俊彦が、「それに……」と言葉を続けた。


「儂がどう言おうと、どうせお前は受けるつもりで心を決めているのだろう」

「あ、ばれてました?」

「館長から理由を聞いた後のお前の顔を見れば、一目瞭然だ。まあ、図書館の方々に迷惑をかけないよう、頑張ってこい」

「はい。ありがとうございます、先生!」


 満面の笑顔で、菜月が俊彦にお礼を言う。持つべきものは、理解と度量のある師匠だ。

 菜月はそのまま依頼に対する返事をするため、館長と葵の方へ向き直った。


「野田館長、今回のお話ですが、謹んでお受けいたします」

「おお、やってくれるか! ありがとう、三峰君。先生もありがとうございます」

「ご協力、感謝いたします」


 菜月が承諾の意を伝えると、館長と今は司書として徹している葵が、謝辞と共に深々と頭を下げた。

 普段これほど人から感謝されることがない身としては、何ともこそばゆく感じられる光景だ。菜月は頬を赤く染め、照れ笑いを浮かべる。

 そうしたら今度は、俊彦が館長に向かって、もう一つこんな提案をした。


「ついでと言っては何ですが、和人にも本件のアドバイザーとして協力するよう話しておきましょう。奴の仕事に支障が出ない範囲でとなりますが、遠慮なく使ってやってください。無論、儂もできる限り協力します」

「それは有り難い限りです。昨年の講座を引き受けていただいた件もそうですが、図書館運営に多大な御助力をいただき、何とお礼を申し上げれば良いのやら」

「お気になさらず。どんな仕事も最善を尽くしてきっちりこなす。それがうちのモットーですからな」


 感謝のあまり恐縮しきりの館長へ、俊彦が鷹揚に笑いかける。

 門弟が受けた依頼なら、一門が受けた依頼も同じ。ならば、一切の手を抜かず、一門の総力を上げて依頼に取り組む。それが、俊彦の守り続ける職人としての哲学だった。


「そういうわけだ、菜月。聞きたいことがあったら、儂でも和人でもいいから何でも相談しろ。多少の力にはなってやれるはずだ」

「わかりました。必要な時には、気兼ねなく相談させてもらいます」


 師である俊彦やベテランの和人が相談に乗ってくれるとなれば、鬼に金棒だ。これほど心強いことはない。

 菜月がうれしそうに返事をすると、俊彦は軽く頷き返して席を立った。


「では館長、儂は仕事もあるので一足先に失礼させてもらいます。菜月のことを、よろしく頼みます」

「承知いたしました。今日はわざわざご足労いただき、ありがとうございました。コレクションの修復の方も、引き続きよろしくお願いいたします」

「もちろん。修復家としての役割は、きっちり果たしますよ」


 席を立って見送ろうとする館長を手で制し、俊彦が小会議室を後にしようとする。

 その時だ。ドアノブに手を掛けた俊彦が、ふと何かを思い出した顔で部屋の天井を見上げた。


「そうそう。さっきから気になっていたのですが、この部屋はどうも照明が明る過ぎやしませんかな。紙が照明で白く反射して、少し目が眩む気がしますが……」

「おや、そうですかな? 申し訳ありません。全く気が付きませんでした」

「私も気になりませんでしたけど……。言う程明るいですかね、この部屋」


 俊彦の言葉に、館長と菜月が不思議そうに首を傾げた。

 部屋の窓は東向きで、昼過ぎの今は直射日光が差し込んでいるわけでもない。

 加えて、照明も何の変哲もないLED照明だ。別段、部屋の中が明る過ぎるとは思えなかった。


「ん? そうですか。なら、単に儂の目が疲れていただけかもしれませんな。これは失敬」


 俊彦もそれほど気にしていたわけではないのだろう。あっさり気のせいということにして、小会議室から去っていった。


「さて、今日は残すところ、三峰君への概要説明と次のミーティングの日程調整だけなのだが……。石田君、これらは君に任せてしまっても大丈夫かな?」

「はい。昨年までの資料も用意してありますので、問題ありません」

「そうか。では、君にお任せして、私もこれで失礼するよ。もう少ししたら、私も次の会議があるのでね」


 館長ともなると、一機関のトップとして出なければならない会議も多いのだろう。「二人とも、期待しているよ」と言い残し、館長も俊彦の後を追うようにして足早に立ち去っていく。

 結局、後に残ったのは新人の先輩後輩コンビのみとなった。


「忙しいのに、ホントごめんね。この埋め合わせは、近い内にさせてもらうから」

「いえいえ、何のこれしきです。頑張って、最高のイベントにしましょうね、先輩」


 開口一番、まずはお詫びから入る葵に、菜月が問題ないと首を振った。

 菜月にしてみれば、昔から色々と迷惑をかけっぱなしの先輩へ恩返しする、良いチャンスなのだ。お詫びしてもらう謂れはない。


 加えて、俊彦からも修業の一環として申し分ないとまで言われている。むしろ、絶好の機会を与えてもらえたことに感謝したいくらいだ。


「菜月も仕事があるだろうから、手早く説明していくね。まずイベントを行う日程は、十一月二日と三日。文化の日とその前日の日曜日だね。一日目に一年生から三年生を対象とした講座をやって、二日目に四年生から六年生を対象とした講座をやることになっているから、そのつもりでいて。募集人数は例年大体十五人前後で、場所は基本的に多目的室を使うことに……」


 用意されていた別の資料に沿って、葵が要所の説明をしていく。こういった重要なポイントをまとめる作業が上手いところは、学生時代から変わらない。さすがは図書館の人たちから、『期待のホープ』と呼ばれるだけのことはある。


 説明を聞きながら、菜月がうれしそうに微笑んだ。先輩がかっこよく仕事をする姿を目の当たりにして、頬が緩むのを止められないのだ。


 と言っても、頭まで緩ませて葵の話を聞き逃すなんて間抜けなことはしない。顔はにやけつつも、頭はお仕事モードで説明を頭に叩き込んでいく。

 葵の上手な要約も相まって、菜月はすんなりと催しの概略をインプットすることができたのだった。


「概略としては、こんな感じ。それじゃあ、次のミーティングの日程も決めちゃおうか」


 手早く説明が済んだら、次はミーティングの日程調整だ。と言っても、こちらも手間取ることなく、あっさりと来週に決定した。

 これで今日の内にやるべきことは、つつがなくすべて完了だ。


「じゃあ、そういうことで。菜月、今の段階でわからないことや質問とかある?」

「大丈夫です。とりあえず私がやるべきことは、来週のミーティングまでに具体的な演目の候補を上げることですね」

「うん。普段の仕事と並行で大変だと思うけど、よろしく頼むね」

「OKです。任せてください!」


 最後にミーティングまでに考えてくることを確認し合って、今日はお開きとなった。

 三年ぶりにタッグを組んで行う企画に胸を躍らせつつ、菜月と葵はそれぞれの仕事へ戻るのだった。


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