家族会議
「と、こんな感じで私は先生の弟子になりました。と言っても、当時の私はまだ高校生だったので、とりあえず弟子見習いという形になったんですけどね」
事の次第を語り終え、菜月が一息つくように紅茶を飲む。
今になって思い返してみても、当時の自分はよく頑張った。最初の方の暴走は若干恥ずかしい記憶ではあるものの、総じて見れば自分の人生における最高の成功経験と呼べるだろう。
紅茶のカップをソーサーに戻した菜月は、誇らしげな表情で葵を見た。
「ね、先輩。やましいことなんて一つもなかったでしょ?」
「…………」
同意を求める菜月の前で、葵は黙ったまま後輩を見つめる。
今度は一体どうしたのだろう?
そう思いつつ菜月が首を傾げていると、葵は重々しく口を開いた。
「菜月、あんた……」
「はい?」
「……警察呼ばれなくって、本当に良かったね」
「…………。……あれ? あれぇ!?」
まさかそんな反応をされるとは、夢にも思っていなかったのだろう。よもやの応答に、菜月はびっくり仰天といった様子で目をむいた。
「ちょっと、先輩! 何で今の話を聞いてそうなるんですか。警察呼ばれる要素、全くないでしょうが!」
さすがに今の発言には納得できず、今度は菜月が葵に食って掛かる。
すると葵は、「いや、何と言うかさ……」と少し言いにくそうな素振りで、こう返した。
「毎日工房に押し掛けて弟子入り迫るって、見方によってはストーカー扱いされそうだなって思って……」
「ス、ストーカー……」
葵のストーカー発言で、菜月は一気に撃沈だ。ショックでテーブルに突っ伏し、さめざめと泣き始めた。
「そんな……。私の成功経験を、ストーカー行為スレスレだなんて……。ひどい。ひど過ぎる……。うぅ……」
姉のごとく慕っている先輩から、ストーカー呼ばわりされてしまった。……いや、自分でも、実はそうなんじゃないかな~、って少しは思っていたけれども。だからって、そこまではっきり「ストーカーっぽい」なんて言わなくてもいいのに!
そんな行き場のない悲しみを抱え、菜月はテーブルを涙で濡らすのだった。
「ごめん、ごめん。さすがにストーカーは言い過ぎたわ。うんうん、菜月はよく頑張った。偉い、偉い!」
「先輩、なんか適当~。さては、少し面倒くさいな~とか思っているでしょ?」
「あ、ばれた?」
軽く泣き痕の付いたジト目で睨む菜月に向かって、葵が誤魔化すように笑う。
この先輩は、いつもこうなのだ。
普段の葵は正に豪放磊落で、一緒にいるこっちが常に振り回される。そのくせ、これも彼女のキャラクター故か、どうにも憎めない。本当に、得な性格をしていると思う。
「でもまあ、豊崎先生みたいな職人気質の人には、そういうやり方が一番なのかもね。実際、豊崎先生は菜月の熱意に負けたわけだし。固く閉ざされた心を開くのは、決して諦めることのない熱意か……。うん、いいんじゃない? 誰にでもできることじゃないし、すごく菜月らしいと思う。これは本心だよ」
不意に柔らかく微笑みながら、葵がそう付け加える。
笑みをこぼす葵を前に、菜月は心の中で密かに唇を尖らせた。
なぜなら、葵はこういうところも初めて会った頃からまったく変わらないからだ。
菜月が間違ったことをしたと思えば、先程みたいに真剣に怒ってくれる。菜月が頑張れば、今みたいにちゃんと褒めてくれる。それに菜月が苦境に立っていると感じれば、心の底から心配し、励ましてくれる。
どんな時だって、菜月と真正面からぶつかってくれる。だからこそ菜月は、この先輩が大好きなのだ。
「とはいえ、実際はここからが大変だったんですけどね」
「ん? どういうこと?」
「実は私、弟子入り志願していたことを両親に話していなかったんですよ。おかげで家に帰ってから、お母さんとご近所迷惑ってくらいの大喧嘩になりました」
「ああ……。そういえば菜月のお母さんって、結構教育熱心な人なんだっけ」
「はい。お母さんとしては何が何でも私を大学へ行かせたかったみたいで、私の言葉に全然耳を貸してくれませんでしたよ……」
そう言って、菜月が大きく溜息をついた。
親とあんな大喧嘩をしたのは、後にも先にもこの一回だけだ。故に、菜月は当時のことを事細かに思い出すことができた。
『本の修復家なんて仕事、あんたに務まるわけがないでしょ。仕事を舐めるんじゃないわよ。馬鹿な世迷言を言っていないで、さっさと受験勉強をしなさい。あんた、自分が受験生だって自覚、本当に持っているの?』
菜月の話を聞いた彼女の母親は、烈火のごとく怒ってそう宣ったのだ。
母親としては、修復家なんて先の見えない仕事ではなく、もっと安定した道を選んでほしかったのだろう。
確かに『職人』という道は聞こえが良く、人生経験の浅い子供の目には魅力的に映ったかもしれない。 けれど、進んだ先に待っているのは、間違いなく茨の道なのだ。道は険しく、誰もが歩めるものではない。
自ら困難な道に進もうとしている我が子を止めたいと思うのは、親として当然のことだ。菜月とて、母親が自分のことを考えて反対していることはわかっていた。
わかってはいたが……菜月にとっても、修復家はようやく見つけた夢なのだ。
その夢のスタートラインに立つことを、やっと認めてもらうことができた。こんなところで立ち止まるつもりなど、菜月だってこれっぽっちもない。
故に、母と娘は完全に対立し、本気でぶつかり合った。
「ふーん。そんな状態で、よくOKをもらえたね。そっちは一体どんな魔法を使ったわけ? まさか、今度も粘り勝ち?」
「いいえ、違います。この時はお父さんが味方に付いてくれたんです。お父さん、『子供が真っ当な夢を見つけたのなら、応援してやるのが親の務めだろう』って、お母さんを説得してくれて……」
当時のことを思い出し、菜月がうれしそうに微笑んだ。
正直に言えば、菜月も父親が味方に付いてくれるとは思っていなかった。
菜月の父親は、自己主張が強いタイプではない。どちらかと言えば、いつも気の強い母親の尻に敷かれているような人だ。
なので、修業について家族会議した時も、父親は話し合いの蚊帳の外に置かれていた。
中立と言えば聞こえは良いが、その実、どちらの側から見ても戦力にならない。彼は、菜月と母親からそう思われていたのだ。
しかし、筆舌尽しがたい言い争いをする母娘を止めたのは、静かに事の成り行きを見守っていた父親の声だった。
『二人とも、そのくらいにしておきなさい』
父親の口調はいつもと同じ穏やかなものだが、そこには抗い難い強さが宿っていた。
菜月と母親は圧倒されたように言い争いを止め、気が付けば父親を注視していた。
『菜月、お前の意志が固いことはよくわかった。だがな、今お前が選ぼうとしている道は、世間でいう一般的なレールから外れた険しい道だ。それをわかった上で、お前はまだ修業をやりたいと言うのか?』
二人が止まったと見ると、父親は改めて菜月の方を向き、静かに問い掛けてきた。
『…………。……うん』
父親は今、自分を試そうとしている。自分にちゃんと覚悟があるのか、見極めようとしている。
瞬時にそう悟った菜月は、正面から父親の目を見返して、しっかりと頷いた。
『修業というのは、多分お前が思っているより何倍もきついものだぞ。加えて、よしんば修業を終えられたとしても、修復家として食っていける保証はどこにもない。何が起こるかわからないし、何が起こっても誰の所為にもできない。それでも、お前は修業をしたいか? 修復家になりたいか?』
『確かに大変だと思う。けど、やりたいこともないまま大学に行くのが、私にとって良いことだとも思えない。だったら、例えきつくてもこの道に挑戦してみたいの』
自分の気持ちを、ありのままに父親へ伝える。
すると菜月の思いを聞いた父親は、しばらく黙り込んだ後に『そうか』と一言だけ呟き、母親へ掛け合い始めた。
『……母さん、菜月のやりたいようにやらせてやろうじゃないか』
『あなた! でも……』
『母さんが反対しているのは、菜月の幸せを思ってのことだと、僕もよくわかっている。だが、これは菜月の人生なんだ。子供が悩み苦しんで、その上で自分の進むべき道を見つけたのなら、親として応援してやるべきなんじゃないだろうか』
『親として……応援してやるべきこと……』
穏やかに優しく、家族を支え続けてきた強さを持って、父が母を諭していく。
心に寄り添い、語り掛けるような父親の説得によって、頑なに反対という立場を取り続けてきた母親も、とうとう折れたのだった。
『お前が真剣に考え、選んだ道なら、僕は止めない。それに、できる限り援助もしてやる。だがな、菜月、最後に何とかするのはお前自身だ。自分で選んだ道なら、自分の力で切り開いて行け』
家族会議が終わった後、父親は最後にそう言った。
それは普段聞くことはない、父親の毅然とした言葉だった。それは菜月の心に深く刻み込まれ、今でも彼女の原動力の一つとなっている。
「いつも影が薄くて頼りない感じの父親なんですけど、この時ばかりは本当にかっこいいって思いました。お父さんが背中を押してくれたから、私は何の迷いもなく修業に打ち込めている気がします」
こんなこと言っていると、ファザコンみたいに思われちゃいますかね。と、菜月が小さく舌を出して照れくさそうに笑う。
そんな菜月に向かって、葵は静かに首を振った。
「ううん、恥ずかしがることなんてないよ。尊敬できる親がいるっていうのは、何よりも心の支えになるからね。正直、私は菜月が羨ましいよ。うちの父親も、いざという時はそれくらいキメてほしいもんだわ」
菜月の父親を自分の父親と比較して、葵が盛大に吐息を漏らす。その姿を見ながら、菜月は頬を朱に染めながらはにかんだ。
自分の親を羨ましいと言ってもらえて、素直に喜べる。少し前、学生時代にはあり得なかったことだ。
なのに今、これほど素直に親を尊敬できるようになったのは、社会に出て自分が少し大人になれたからだろうか。
そんなことを考えつつ、菜月は自分の昔語りを締め括るのだった。
「こんな感じで、私の昔話はおしまいです。ご満足いただけたでしょうか、先輩?」
「うむ。大儀であった。余は大いに満足じゃ。褒めて遣わすぞ」
「はは~。有り難き幸せでござります~」
お殿様のごとくふんぞり返る葵へ、菜月が芝居掛かった仕草でテーブルの上に平伏する。部活の時には幾度となくやってきた掛け合いだが、今では随分と懐かしい。
しかし、すぐに二人とも、やり取りの可笑しさに耐えられなくなったのだろう。菜月と葵は揃って声を上げ、大笑いし始めた。
「ああ、お腹痛い。で、先輩。この後はどうしますか?」
「うーん、そうだね……。とりあえずいつもみたいに、駅ビルの向かいにある書店にでも行こうか。そんで、夜はちょっといいディナーとしよう」
「いいですね。それじゃあ行きますか」
これからの予定も決まり、早速出発だ。
そのままお会計をしに二人が席を立とうとした、その時だった。
「やばっ! 忘れるところだった!」
突然、葵が何かを思い出した様子でカバンをあさり始めた。
「どうしたんですか、先輩」
「ん? ん~、ちょっとね。それはそうと菜月、ちょっとそこに座って、目をつぶっててくれないかな」
「へ? あ、はい。わかりました」
一度立った席に座り直し、わけもわからないまま葵に言われた通り目をつぶる。
しばらくそうしていると、何か紙で包まれた物がテーブルに置かれる音がした。
「もう目を開けていいよ」
葵に言われて、菜月が目を開ける。
次の瞬間、菜月は驚きのあまり言葉を失った。
「先輩、これって……」
目を丸くし、菜月が葵をまじまじと見る。
菜月の目の前に置かれていたもの、それは、『お誕生日おめでとう!』というメッセージが添えられた紙包みだった。
「菜月の誕生日って、五月の十二日でしょ。だから、一週間早いけど誕生日プレゼント」
「あ、ありがとうございます! あの、開けてみてもいいですか?」
「うん、もちろん」
逸る気持ちを抑えつつ、丁寧に包装を剥がしていく。
中から出てきたのは、手作りと思われる空色のエプロンだった。
「すごい! これって、先輩の手作りですか?」
「そうだよ。どうせあげるなら、仕事に使えるものの方がいいかなって思ってね。菜月に内緒で、植田さんに色々と教えてもらいながら作ってみたんだ」
エプロンをよく見てみれば、手の届きやすい位置に大小様々なポケットがいくつも付いている。修復を行う際、手の届きやすい位置に道具を保持できるようにしてあるのだ。
和人に監修を頼んだというだけあって、菜月の目から見ても仕事で役立ちそうなエプロンに見えた。
「本当は、ここに来てすぐ渡すつもりだったんだけどね。話に夢中で、すっかり忘れてたよ。いや~、思い出せて良かった」
「先輩、ありがとうございます! 大切に使わせてもらいます!」
エプロンを抱きしめ、菜月が深々と頭を下げる。
思わぬサプライズプレゼント、しかも先輩が自分のために作ってくれた、世界でただ一つの品だ。うれしくないわけがない。
「うんうん。これを着て、これからの修業も頑張りたまえ」
「はい! 三峰菜月、立派な修復家になることをこのエプロンに誓います」
鷹揚に頷く葵へ、菜月が敬礼する。
そして、またしても二人で大笑いするのだった。
「それじゃあ、今度こそ本当に行こうか」
「了解です、先輩」
エプロンを丁寧に畳んでカバンに入れ、菜月が葵の後を追う。
プレゼントが入ったカバンを大切そうに抱き、菜月はご機嫌な様子で前を歩く先輩の隣に並ぶのだった。




