修復完了です
「糸綴じって、何だか縫い物しているみたいな感じですよね。私、昔から裁縫関係が結構好きなんですよ。だから、ちょっと自信ありです」
翌日の朝、本をプレス機から取り出しながら、菜月は俊彦に向かって弾んだ声でそう言った。
糸綴じは、この本に対する修復の最終工程であり、菜月にとっては最も楽しみにしていた作業でもある。道具箱から針を取り出す菜月の顔には、言葉通りの自信に満ちた笑みが浮かんでいた。
「ほう。それは頼もしい限りだ。確かに針と糸を用いてバラバラなものを一つにするという点で、糸綴じと裁縫は通じる点がある。お手並み拝見といこうじゃないか。ただし、何度も言うが気を抜くなよ。最後の作業なのだから、ビシッと決めて見せろ」
「もちろんです。有終の美を飾ってみせますよ」
発破をかける俊彦に対し、菜月は胸の前で両方のこぶしを握って、力強く頷く。
自らの言葉を証明するかのように、菜月は手際良く糸の採寸に取り掛かった。
四つ目綴じで本を綴じる場合、糸の長さは大体背の高さの三倍もあれば事足りる。菜月は解体前に撮った写真とメモを見て使う絹糸の色を決め、本に一周半巻きつけて糸を切った。
糸の準備ができたら、早速糸綴じ開始だ。まずは裁縫と同じく、切り取った糸を針の穴に通し、尻尾を結んでコブを作る。使う針はもちろん縫い針ではなく、製本用の綴じ針だ。
針と糸の準備を終えた菜月は、一旦それらを作業台に置き、目を閉じた。
この本に対する最後の作業を始める前に、精神統一をしているのだ。逸る気持ちを落ち着け、頭の中から雑念を消していく。暗い視界の中、酸素が頭に行き渡り、思考が澄み渡っていくのを菜月は感じた。
そして、精神統一を終えた菜月はさながら決闘に向かう武士のごとく目を見開き、針を手に取った。
糸綴じの工程は、言ってしまえば糸で三次元的に行う一筆書きだ。四つの穴の間を針と糸が行き来し、最後は始めの穴に戻ってくる。
全く無駄のない綴じの手順に、菜月はこの技法を文字通り編み出した先人たちの偉大さを感じていた。
その技法を自分も受け継ぎ、今この本に施そうとしている。本の装丁という歴史の最先端に自分も加わるのだという実感を持って、菜月は糸綴じを開始した。
裏表紙側を上にし、上から三番目の穴のところの紙を何枚か持ち上げて、そこから裏表紙へ抜けるように針を通す。
糸のコブが紙に引っかかって止まったら、あとは糸が緩んだり締め過ぎたりしないよう、注意しながら進めるだけだ。裏表紙から表表紙へ回したり、三番目の穴から二番目の穴へ移ったりという具合に次々と糸を通していく。
そうして、まるであやとりみたいに糸がすべての穴を通って戻ってきたら、糸が緩まないよう、もう一度引き締めて結ぶ。最後に結び目を穴の中に押し込んで余った糸を切れば、糸綴じはおしまいだ。
同時に、この本の修復も全工程が完了した。
糸を切るのに使った和狭と綴じ針を作業台に置き、菜月は長い息を吐いた。初めて行った修復の全工程をやり遂げ、菜月は心地よい安堵を感じていた。
ただ、修復作業は完了しても、まだ一つ、やるべきことが残っている。
菜月は力が抜けた体に再び火を入れ、後ろを振り返った。
「先生、この本の修復作業、全部終わりました。確認をお願いします」
修復し終えた本を俊彦へ差し出し、出来栄えのチェックを頼む。
「わかった。しばらく待っておれ」
本を受け取った俊彦は、まず表紙とそれぞれの辺の断面をじっくり眺めた。次いでゆっくりとページを捲り、本紙一枚一枚の状態と糸の綴じの具合を確かめる。
「本紙の裏打ちはよし。皺も残っていないな。ページの順番も間違っていない。裁断は昨日も言った通り、問題ない。表紙もしっかり見返しに貼り付いているし、ページの開きも十分。糸の緩みもなし、と……。ふむ、いいな」
本を一通り眺め回した俊彦が、チェック事項を一つ一つ潰していく。
そうしてすべての検分を終えた俊彦は、丁寧な所作で本を菜月に返した。
「ご苦労だったな、菜月。ここまでよく頑張った」
「それじゃあ……」
「ああ。これにて、この本の修復は完了だ」
菜月の言葉を引き継いで、俊彦が頷いた。
修復完了、それはつまり初めての修復を無事に乗り切れたということだ。
俊彦の言葉に安心して、今度こそ力が抜けきった菜月は、崩れるようにその場でへたり込んだ。
「よかった、無事に終わって……」
「まったくもって、お前の言う通りだ。まあ失敗まで行かなくとも、細々(こまごま)したミスはいくらでもあったがな。後ろで見ていて、冷や冷やする場面がどれだけあったことか……。とはいえ、そこら辺は慣れの問題でもあるからな。初めての修復ということを考えれば、失敗した箇所がないだけで十分だろう」
「たくさん危なっかしいところお見せしてしまって、すみません」
呵々と笑いながら繰り出された俊彦の辛口採点に、菜月が苦笑交じりで頬を掻く。
何とか無事に終わらせることができたが、至らない点もたくさんあった。一人前への道のりは、まだまだ遠く険しいようだ。
菜月がそんなことを考えていた、その時だ。
「お! 最初の本の修復、終わったんだな」
二人の賑やかな声を聞き付けたのだろう。和人がひょっこり顔を出した。
「ああ、和人さん。――はい。何とか大きな問題もなく、終わらせることができました」
「そうか。これでお前も、本当の意味で修復家デビューだな。おめでとう、菜月」
そう言って、和人が笑顔で手のひらを差し出す。彼の意図を読み取った菜月は、自らの手のひらを重ね、ハイタッチを交わした。
「えへへ、ありがとうございます! けど、今も先生にダメ出しをもらっていたところでして……。まだまだ道は長いです」
「なーに、今回できなかったことは、次の宿題にすればいいさ。一歩ずつ着実に。修業っていうのは、そうやって積み重ねていくものだからな。そうだろ、師匠」
「和人の言う通りだ。幸い、ここには修復を待っている本がごまんとある。連休明けからは他の修復法も教えるし、目一杯修復をやらせてやるから、覚悟しておけよ」
和人の後を受け、俊彦が振り落とされないよう付いて来いと檄を飛ばす。
それに対して菜月が浮かべたのは、俊彦にも負けない力強い笑みだった。
覚悟しておけと言うのなら、望むところだ。どんな修復法だって必ずマスターしてみせるし、今回のミスもこれから一つずつ潰していく。だから、どんな修業でもドーンと来い!
言葉にはせずとも、菜月の目は雄弁にそう語っている。自らの意志を示すかのように、彼女は俊彦に向かって頭を下げ、こう答えるのだった。
「はい! これからもご指導ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願いいたします!」




