とある少女の述懐 ~夏の日の出会い~
最初にその講座へ参加しようと思った理由は、本当に些細なものだった。
高校の部活動で図書館へボランティアに行った時、顔馴染みの司書さんに誘われたから。ただそれだけだ。
「来週の土曜日に、ここの多目的室で『和装本を作ってみよう』って講座をやるの。参加申し込みはもう締め切ったのだけど、辞退者が出て一人分の空きができたのよ。三峰さん、良かったら参加してみない?」
笑顔でチラシを差し出しながら、司書の渡辺さんはそう言ってくれた。
本が好きで『図書部』という部活に所属しているくらいなのだから、私だって当然、本作りには興味がある。そこに巡ってきた、願ってもないチャンスだ。私は二つ返事で講座に参加することを決めた。
で、次の週の土曜日、つまりは講座当日。私が少し早目に図書館の多目的室へ行くと、すでにたくさんの受講者が集まっていた。
「うわぁ……。大人ばっかり」
受講者を見渡して、私は嘆息交じりの声を漏らした。
何となく予想はしていたけど、受講者は私以外、みんな大人のようだ。それも、年配の人がほとんどだった。これはちょっと場違い感が先に立って、なかなか入って行き辛い。
「あら、三峰さん。いらっしゃい。よく来てくれたわね」
「渡辺さん!」
気後れしながら部屋の入り口近くに立っていると、講座の準備をしていた渡辺さんが声を掛けてくれた。微妙に居心地悪く感じる多目的室の中で、渡辺さんの隣だけはホッと落ち着ける気がする。
そんな私の心境を察してくれたのだろう。渡辺さんは講座が始まる直前まで、私の隣にいてくれた。
「三峰さんは確か今、高校三年生よね。もう夏休み前だし、進路とかは決まったの?」
「ええと……ぼちぼちです」
他愛ない会話の中で進路の話を振られ、私は思わず苦笑した。渡辺さんに悪気はないのだろうけど、正直なところ進路の話は耳に痛い。
「とりあえず、地元の国立大学の文学部に行きたいなって思っています」
「そっか。ねえ、もしかして三峰さんも、石田さんみたいに司書になりたいとか考えていたりするの?」
「少し興味はありますけど、さすがにそこまでは考えていないです。どんな職業を目指すかは、大学の四年間でじっくり考えようかなって思っています。……ちょっと情けない話ですけどね」
眉をハの字にして、力なく笑う。
要は、やりたいことが未だに見つけられていないということだ。大学時代はモラトリアムだと言う人もいるけれど、私は正にそれを地で行こうとしているわけである。
高三になる前から司書を目指すって決めていた葵先輩(さっき渡辺さんが『石田さん』と呼んでいた人のことだ)とは大違い。
本当に、自分で自分が情けない。
「情けない、なんてことはないと思うわよ。その歳でやりたいことを真剣に探そうと思っているだけでも、十分立派なんだから。焦らずゆっくり探しなさいな」
自分のやりたいことなんてのはさ、ある時ふと、予想もしていない形で巡り合えるものだからね。そう付け加えて、渡辺さんは励ますように、私の肩に手を添えた。
焦らずゆっくり、か。確かにそうやって見つけていく他ないだろう。ただ、果たしていつまで掛かることやら。
この時の私は、まだ心の中でそんな風に思っていたのだ。
「おっと、もうこんな時間か。じゃあ三峰さん、楽しんでいってね」
腕時計に目をやった渡辺さんは、軽く手を振りながら去っていった。
私も時間を確認してみたら、もう講座開始三分前だ。すでにほとんどの受講者は、自分の名前シールが貼られた席に着いている。私も急いで自分の席を探すと、私の席は講師の作業台の真ん前だった。
「皆様、本日は当館主催の講座にお越しいただき、どうもありがとうございます」
私が着席してほどなく、図書館長さんの挨拶で講座は始まった。
館長さんとはボランティアで来た時に何度か話したことがあるけれど、とても気さくで話し上手な人だ。今日も人好きする笑顔で、小粋なジョークを交えたユーモラスな挨拶を披露してくれた。
そんな館長さんの挨拶が終わったら、ついに本日の主役の登場だ。
受講者の拍手に迎えられて出てきたのは、紺の作務衣を着て、頭に白いタオルを巻いたおじいさんだった。背はピンと伸び、丸眼鏡の奥の眼光には曇りがない。おかげでとても若々しく見えるけど、おそらく実年齢は、優に七十歳を超えているだろう。
豊崎俊彦先生。私たちが暮らす浜名市で活動する書籍修復家兼製本家で、主に和古書の修復を請け負っており、その道の第一人者として知られている。
司会進行を任された渡辺さんは、講師のおじいさんのことをそう紹介した。
私は渡辺さんの紹介を聞いた時、この町にもすごい人がいたんだな~、と感心するばかりだった。この出会いが自分の人生の大きな転機になるなんて、この時はまだ思いもしなかったのだ。
でも、講座が始まり、豊崎先生が作業を披露し始めてすぐ、私の見ている世界は一変した。
それはまるで手品……ううん、ちょっと違うかな。
そう。それはまるで魔法でも見ているかのような、心を引きつけられる光景だった。
先生の手が閃く度に、紙が踊る。先生の指が翻る度に、糸が舞う。すべての材料が命を吹き込まれたみたいに動き、寄り集まって、一つの形を成していく。
まるで図書館の多目的室が、魔法使いのアトリエに変わってしまったみたいだ。私は素敵な演劇でも見ている気分で、豊崎先生が披露する技に胸躍らせた。
あとはもう完全に夢見心地だ。気が付いた時には講座が終わっていて、手元には真新しい一冊の和装本が出来上がっていた。
正直、自分がどうやってこの本を作り上げたのか、まったく覚えていない。私が覚えているのはただ一つ、目の前で繰り広げられた豊崎先生の魔法のような製本作業だけだ。
私はすぐに覚った。私は出会ったのだ、と……。
この気持ちは、一時の気の迷いとか、興奮状態から来る思い込みとか、そんなんじゃない!
さっき、渡辺さんは言っていた。やりたいって思えるものとは、ある時ふいに巡り合えるものだって。私にとっての『ある時』が、たった今やって来たのだ!
「渡辺さん!」
一度火がついたら、居ても立っても居られない。
私はすぐに渡辺さんを捕まえて、豊崎先生についてあれこれと尋ねた。
「み、三峰さん、急にどうしちゃったの?」
「私、自分のやりたいことを見つけるかもしれないんです。だから私、あの先生のこと、あの先生の仕事のことをもっとよく知りたいんです!」
矢継ぎ早の質問を受けて目を白黒させる渡辺さんへ、はっきりと自分の意志を伝える。
渡辺さんも、そこに何かを感じ取ってくれたのだろう。「わかったわ。いいものを見せてあげるから、ちょっと待っていなさいな!」と言い残し、足早に去っていった。
「お待たせ。さあ、こちらにいらっしゃい」
しばらくすると、渡辺さんは大事そうに二つの桐箱とバインダーを抱えて戻ってきた。
渡辺さんに付き従って事務室の入ると、彼女はミーティングテーブルに箱を並べ、中身を見せてくれた。
「これ、貴重書庫の本ですか?」
「そうよ。我が図書館が誇る自慢の貴重書コレクション、その中でも珠玉の品々よ」
箱の中身は、両方とも和装本だった。
それも、私がさっき作ったような、なんちゃってな和装本ではない。正真正銘、一目で『本物』とわかる資料だ。
「これね、元々すっごくボロボロになっていたんだけど、豊崎先生に修復してもらったのよ。ほら、これを見て」
渡辺さんが差し出したのは、一緒に持ってきたバインダーだ。中を見せてもらうと、それはこの二冊の修復報告書だった。この貴重書たちがどうやって修復されたのか、そのすべての過程が写真付きで事細かに記されていた。
「本を直し、本に込められたメッセージを過去から未来に伝えていく。そこに書かれた内容だけでなく、目の前にあるこの本やこの紙が歩んできた時間をも守っていく。あの人がやっているのはね、そういう仕事なの」
修復記録を食い入るように読む私の耳に、渡辺さんの言葉が染み込んでくる。
豊崎先生の修復は、それ自体が一種の芸術だった。本が持つ特徴を何一つ殺すことなく、ボロボロの状態から、その本のあるべき姿に戻していく。
さっきの講座で見せてもらった製本とはまた違う、先生のもう一つの魔法がそこにあった。
「渡辺さん、教えてください。どうしたらもう一度、豊崎先生に会うことができますか?」
「先生の工房の住所と連絡先を教えてあげるわ。けど、あの人はなかなか弟子を取らないことで有名なの。もし三峰さんが先生の弟子になりたいと考えているなら、相当の覚悟が必要よ」
「それは……わかっています。でも、とりあえず『当たって砕けろ』の精神でやってみます!」
持っていたバインダーを丁寧に閉じた私は、渡辺さんに向かって強気に笑った。
私の思いは、まだ『覚悟』なんて呼べるほど大層なものではないかもしれない。
でも、『やってみたい!』っていう『意志』は、確かにこの胸の中にある。
だったら、今はそれだけで十分だ。動いてみない理由はない!
思い立ったが吉日だ。私は早速次の日、渡辺さんに教えてもらった豊崎工房の門を叩いたのだった。




