好機バス
歳を取るたびに一年が経つのが早く感じられる、と小さい頃に親父がさみしそうに、それでも少しだけ誇らしげに言っていたのを高橋は思い出した。そのときはなにを言っているのかまったく理解できなかったけれど、歳を重ね、社会に出ると、上司や先輩がもれなく同じようなことを口にするので、高橋自身もそう思うようになり、この時期になると独り言のように呟くようになっていた。
「また、この、季節か。一年経つのは本当に早いよな」
高橋は運転するバスのハンドルを切りながら言う。まだ誰も乗客は乗っていないから少し大きな声で、自分に届くように、自分で確認するかのように。大きなフロントガラスの向こうには低く暗い雲が圧迫するように広がっている。たまにフロントガラスに雪の結晶がいくつか貼りつくけれど、ワイパーを動かすまでもなく勝手に消えていく。
「面倒くさっ」
赤信号で停まると高橋は、さっきより、大きな声を車内に響かせる。今日は大晦日だ。バスの運転手なんて仕事をしていると大晦日も正月も、ゴールデンウィークも盆も、なにもない。もちろん時期をずらして休みはもらえるけれど、世間の人のために仕事をしているのに世間の人とは違うリズムの人生を送ることに、たまに、無性に、腹が立ってくる。青信号に変わると高橋は深くアクセルを踏み込み、がら空きの車道と町にバス独特のエンジン音をばらまいた。
入社三年目の高橋にとって、この日の仕事は三度目だ。入社した年の大晦日から、この仕事を任されている。任されている、という言葉よりも、ほかの先輩連中がみんな面倒くさがるから、回ってきた、という言葉のほうがしっくりくる。とは言え、一回目はしょうがないにしても二回目や今回は、高橋にも後輩ができているのだからと本人さえ思っているが、どういうわけか、体調が悪かったり帰省していたり有給を取ったり……と、高橋より後輩は誰ひとり出勤していない。先輩に、最近の若いやつらは、と今朝会社を出るとき愚痴を言ったら、おまえも十分若いよ、と新聞を読みながら目を合わせることもなく言われた。先輩ほどの年齢なら関係ないかもしれないですけどこの年代のひとつふたつの年齢差はかなり重要ですよ、と舌打ち混じりに鍵を持って会社を出た。高橋はそれを思い出すと、もう一度舌打ちをし、アクセルを強く踏んだ。
薄暗く静かな町並みを走り抜けながら、高橋は腕時計に目をやる。もうすぐ時間だ。やたらと静かな町にほとんど車は走っていない。大晦日の午前六時なんてそりゃそうだ、と高橋はスピードを落とした。ゆっくり、ゆっくりとバスを走らせると、ふたたび赤信号で停まった。三つ先の信号あたりになにかの塊が見える。高橋は三回目ともなるとその正体を知っている。行列だ。このバスを待つ行列。高橋はボタンを押して行き先表示を、回送、から、好機、へと変えた。
行列の前にバスを停める。吐く息と熱気でここら一帯から白い気体が立ち上っている。全部で百人近くいるだろうか。一列に並ぶように引かれた黄色いラインにきれいに並んでいる。割り込みを防ぐためか、人と人の間隔は異様に近く、ほとんどからだを密着させている。ゴキブリのような色と光沢のダウンジャケットを着た若い男性やほとんど色が落ちた金髪の女性、くたびれたスーツの男性、エプロン姿の女性、杖をついた白髪の男性、地面しか見えないくらい腰の曲がった女性……、見た目はなんの共通項もない人々が、引かれた黄色いラインにしっかり並んでいる。高橋は入口がちょうど黄色いラインに来るように、慎重にバスを停める。しっかりとブレーキを踏み込み、ボタンを押してドアを開ける。プシュー、という空気が漏れたような音と同時にドアが開くと、一気に、溜めていた力を解放し、怒号のような声と足音を鳴らしながら、人々がバスの中になだれ込んできた。高橋はマイクで、押さないでください、とか、走らないでください、とか、落ち着いてください、とか、いろいろ言ってみるがなにも変わらない。次から次へと人がやってきて、バスの奥のほうから、痛い、とか、押すな、とか。さっきまで行儀よく並んでいた人たちとは思えないくらい、荒れ果て、バスは揺れ、高橋はブレーキを思い切り踏む。
運転席は透明の強化プラスティックの板で守られているが、そこに若い女性の顔が貼りついて罰ゲームのような顔になり、マスカラやファンデーションの痕が残る。高橋は首を伸ばしドアの外を見る。あと十人くらいだろうか。罰ゲームの女性は泣いている。誰も気に留めない。高橋は横目で見て、間もなくドアが閉まります、とマイクで事務的に言った。最後のひとりが乗り込んだ時を見計らってドアを閉めた。まだ外には走ってバスに向かってくる人が何人かいたが、高橋は気づかないふりをしてアクセルを踏んだ。
バスがゆっくりと動き出すと、荒れ果てた車内から歓声が上がる。罰ゲームの女性はメイクがガタガタに崩れながらも体勢はなんとか持ち直し、歓声を上げる。高橋はしばらくスピードを上げることなく進んで行く。誰も椅子に座っていないからだ。理由はただひとつ、いつでも好きな時に降りられるようにするためだ。
このバスは、好機、があるかもしれない場所へと走っていく。どこに停まるかはマニュアルにもあるが、運転手の気分で決めても良い。それでも大晦日の早朝から仕事を押しつけられた高橋はやる気の欠片すらないので、マニュアルに沿った道を走っていく。
「次は、ガソリンスタンド、ガソリンスタンド」
高橋は声に抑揚をつけず、淡々とマイクで言う。このバスが動き出してはじめて停車する場所だからか、車内から歓声が少し漏れた。高橋がバックミラーを見ると人がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。笑っている人、苦しそうな人、目が血走っている人、目を閉じている人などバラエティー豊かに。ただ、誰もが無駄な会話をしていない。たまに聞こえる歓声以外は、これだけの人がいるのに、ほとんどない。この異様な光景は三年目でも慣れることはない。高橋は大きく息を吐き出して前を向き、ガソリンスタンドを確認すると、少しずつスピードを落とした。左のウインカーを出し、まだ閉まっているガソリンスタンドの横にバスをつける。すると完全に停まっていないときに、ひとりの若い男性がバスから、文字通り、飛び降りた。ゴキブリのような色と光沢のダウンジャケットを着た男だった。高橋はサイドミラーでそれを見ると、本当のゴキブリのようだと思い、少しだけ笑った。バスはそのまま完全に停まることなく、少しずつ前進しながらガソリンスタンドの横を過ぎていく。バスの中では窓から離れている真ん中あたりから、どけっ、とか、すいません、とか声が聞こえてくる。ガソリンスタンドを過ぎ去ろうとして高橋がアクセルを強く踏むと同時に、また窓から五人ほど飛び降りていった。
高橋はスピードを上げると同時にドアを閉めた。プシューという空気音が車内に響く。乗客がドアから降りるのではなく窓から飛び降りる理由はただひとつ、このバスにはひとつしかドアがないからだ。この乗客すべてが乗ってきたドアひとつだけだ。高橋はドアがひとつしかない理由を一年目のとき先輩に訊いたことがあった。先輩から返ってきた答えは、好機ってそういうものだろ?だった。心の底から納得したわけではなかったが、高橋はそれきり質問したことはない。乗客からもドアがひとつしかないことにクレームを受けたことはない。誰もが、ドアのすぐそばにいる人以外は、当たり前のように窓から飛び降りる。高橋にできることは少しでもスピードを落とすことだけだった。一年目はマニュアルに沿うことなく安全のために完全に停まっていたが、そうすることで乗客が決断するのが遅くなったり奥から人が降りるのを待ったりして、時間通りに進まなくなり、この件では乗客からクレームが来た。あとから先輩に相談すると、好機ってそういうものだろ?と答えが返ってきた。ちなみにひとつめの質問をした先輩とは別の人物だ。大晦日の早朝でやる気がない、という理由もあるが、こういった出来事も高橋をマニュアルに沿った運転をさせる一因となっていることは間違いない。
高橋はガソリンスタンドを過ぎたあとも、公園や小学校といったどこにでもある場所からカーブミラーや横断歩道、○○さん家の隣の空地といったピンポイントの場所まで、いくつもの場所をマイクで言う。どの場所でもひとりしか降りないというところはなく、二人以上は降車するか、まったく誰も降りない。このバスは、好機、に停まるのではなく、好機があるかもしれない場所、に停まる。そのことを乗客は本当にわかっているのか、高橋は疑問に思う。誰も降りないところに降りればひとりになれる。もしそこに本当に、好機、があるのなら誰とも争わなくて良いのになと。でもそれが、人間の性、なのかもしれない。ひとりでは不安で、そもそも本当に、好機、があるのか。このバスは本当に、好機、に停まるのか。なにもなかったときの保険が欲しい。ほかの人が行くのなら自分ひとりよりも信憑性がある。高橋は自分だったらどちらを選ぶか、少しだけ本気で考えてみた。
しかし高橋はすぐに考えるのをやめた。次、停まるところが一番の山場だからだ。おそらく一番降車し、下手すると今乗っている数十人全員が降りるだろう。高橋の表情に緊張が浮かび上がる。しっかりとマイクを握り、次の行き先を告げる。
「次は宝くじ売り場、宝くじ売り場です」
車内から歓声が上がる。高橋は、やはり、という思いと、わかりやすいな、という思いが入り混じって湧き上がってくる。興奮を抑えることができないのか、バスが揺れる。伝染するのか、最初は盛り上がっていなかった人々も、同じような血色になっていく。開きっ放しの窓から冷気が入ってきても寒さを感じない。高橋はアクセルを踏み込みスピードを上げる。風が強く入ってくる。乗客のテンションは上がる一方だ。吐く息が白くなっても、気づけば強くなっている雪が入ってきても、お構いなしで。
高橋が宝くじ売り場を確認してスピードを落としはじめると、すでに何人かが窓から飛び降りた。こういうわかりやすい場所に来ると、人は性を露わにする。先に飛び降りた人々を見た残りの人々が、次々と飛び降りていく。我先にと、足を引っ張り、手足にまとわりつき、押しのけ、時には暴力をふるい、口で罵り、誰ひとり誰かを譲ることはない。混沌とした車内から人がどんどんいなくなる。怒号は徐々に小さくなっていくがなくなることはない。高橋はマイクで落ち着かせるが、もちろん意味はない。たったひとつのドアも奪い合いだ。力任せに降りて行き、弱者は後回しで、車内に取り残される。さすがにここでは高橋は完全に停車させ、ブレーキを強く踏む。そして高橋の予想通り、乗客は誰もいなくなった。
高橋はパーキングにギアを入れ、サイドブレーキを引くと運転席から立ち上がった。開きっ放しの窓を閉める。かばんや片方の靴や靴下、時折、血痕らしきものも見える。しん、と静まり返った車内は、ついさっきまでの混沌の欠片がまだまだ残っている。高橋は一番うしろの席に座る。まわりを見るともう誰もいない。宝くじ売り場は閉まったままだ。
「終わった……」
両手を広げ、高橋は大きな声を出す。いくら大きな声を出しても、さっきまでの怒号には到底敵わない。
「なにがしたいんだよ……」
高橋はもう一度声を出す。低い天井を見上げ、目を閉じ、残り香を感じようとする。まぶたの裏の暗闇で荒れ果てた光景が蘇る。好機を掴みたいならほかの人とは違うことをしなくちゃいけないのに、と混沌を打ち消すように思う。ほかの人と同じようなことをしていたらいつまでたっても掴めないと。そこに気づかないからこんなバスに乗るんだろうな、でもまずは乗らなくちゃ掴む権利もないのかな、と自分で終着点を見つける。
「まだ停まるところあるのにな……。もっと良さそうなところも。宝くじってやっぱりわかりやすいからな……」
高橋は呟くように言うと、運転席に戻っていく。足音が響く静かな車内を歩く。これで仕事納めだ、と少し笑う。この仕事をやれば日中の仕事はしなくてもいい。それだけは特権としてあった。高橋はゆっくりとバスを走らせる。雪はだんだんと強く、大きくなっている。このままいくとかなり積もるかもしれない。高橋は慎重にアクセルを踏み込みハンドルを強く握る。今日は、ただただ、疲れた。一気にからだが重たくなる。早く帰って、宝くじの当選番号を確認しようと、胸ポケットに入れた宝くじの束を軽く触った。