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悪い赤は制裁だよ

 赤い帝国──ソ連の衛星国である東の日本国と、自由主義陣営の盟主アメリカ合衆国の援助を受ける西の大日本帝国。両者の戦いは20世紀の終わりにピークを迎えた。

 第二次世界大戦末期、ソ連の対日参戦は無敵関東軍の展開する満州ではなく新潟県上陸で始まった。一路、帝都東京を目指すソ連軍の侵攻に日本軍は必死の抵抗を行ったが意思統一されていた訳ではない。ソ連に降伏する事で国体を維持しようとした親ソ派と、反共の親英米派で対立。内戦の一歩手前まで行った。

 戦後を睨んだ英米が講和条件を緩和させた事で第二次世界大戦は終結し、大日本帝国は存続する事に成った。武器貸与等の援助でドイツとの戦いに勝てたソ連は英米に頭が上がらなかった。その為、停戦に同意せざるを得なかったが、東京攻略を目前に結ばれた講和に納得しなかった。獲物を横から拐われた気分だった。

「ナチスとの戦争で我が国は疲弊し、何も得ることは無かった。日本との戦争でも血を流しただけだ!」

 米英の指導者から見て確かにソ連の国土は疲弊し同情は出来る。だが共産主義と自由主義は相容れない。対決の姿勢を強めて行った。その結果、ソ連軍は占領地の東北地方から撤退せず日本国を独立させた。

 日本国を統治する最高指導者にして、日本友愛共産労働党の中央委員会総書記である山田権蔵は、戦前から生粋の赤、左翼思想者として警察の世話に成る事も多かった。文学少年が社会に適合できず中二病を拗らせた訳だ。ソ連の傀儡として権力を掌握した権蔵はスターリン式の粛清で政敵を抹殺した。ソ連から援助を引き出し東北地方を発展させた手腕は西側の者であっても否定はできない事実だった。

 その権蔵も歳には勝てなかった。指導者として後を継ぐ長男の茂吉は西洋文化の映画にはまり、下北半島を映画の都にしようと動いていた。大衆へ娯楽を提供し、外貨を手にいれると言う一石二鳥の手段は悪くはない。庶民的な茂吉は国民の人気も高い。だが政治的センスが欠けていた。

(指導者に必要なのは親しみではなく冷徹さだ)

 そう言う面では次男の熊蔵や、三男の吾平の方が政治家に向いていた。現に病室に見舞いに来るよりも地盤の強化で動き回っていた。権蔵にとってどの息子も可愛い我が子だ。

 ひゅうひゅうと荒い呼吸を繰り返していた権蔵だったが、茂吉の手を握る力が抜けていく。

父さん(アボジ)!」

 巨星落ちる、と言う程の大物でもないが、権蔵の死を青森労働放送の海外向け報道で知った各国は、党内部の権力闘争による内戦を期待した。

 確かに権蔵の死によって赤い日本は混乱を見せた。だが軍部の支持を受けていた茂吉は政権を掌握し瞬く間に国を纏めあげた。

「茂吉の政権継承は今の所、問題無しのようだ。これでは21世紀になっても東日本何て国賊が存在し続ける事になってしまう」

 大日本帝国は結論を下した。新体制に移行したばかりでは屋台骨も確りとしていない。祖国統一をやるならば今だと。


     †


 E-2C早期警戒機(AEW)の傘の下で、北日本に向け日本海沿岸部を北上する海獣の群れがあった。ユナイテッド・ステイツ級の航空護衛艦「りゅうじょう」「ほうしょう」を中核とした帝国海上自衛隊第一航空護衛隊群(1AF)だ。飛行甲板ではHSS-3リンクス対潜哨戒ヘリコプターが脇に退き、80式空対艦誘導弾や80式魚雷を搭載したF-5艦上戦闘機やF-16戦闘攻撃機と言った攻撃隊が発艦準備を進めている。

 艦橋からその様子を眺めていた司令に幕僚が声をかける。

「いよいよですね」

「ああ、分断国家になって38年だ。長かった……」

 司令は海兵71期で同期には皇族も居た。海軍軍人として生を受け祖国の現状に忸怩たる思いだった。

 すでに護衛艦隊司令部から「テンポウザンノボレ1024」の命令は受信していた。メインマストにはZ旗が掲げられ、後は攻撃開始の時間を待つだけだった。

 1983年10月24日、東北奪還作戦「畑のお肉」が発動された。東日本が友愛の海と呼ぶ陸奥湾に展開する東日本海軍を、2隻の航空護衛艦(くうぼ)から飛び立った攻撃隊が襲撃した。

 湾内には旧海軍から接収した「長門」を改装した戦艦空母「山田大先生(ソンセンニム)」、同じく「天城」から改装したミサイル巡洋艦「祖国統一(チョグクトンイル)」等が停泊していた。赤錆びた船体は東日本海軍の低い士気が窺えた。

 アメリカ海軍の保有する空母戦闘群に比べれば貧弱な戦力だが奇襲の効果は大きかった。対艦ミサイルや魚雷を浴びて東日本海軍艦艇は無力化されていった。

 同じ頃、軍事境界線(MDL)を越えて帝国陸上自衛隊が北進を開始した。海自と空自の装備調達に限られた予算をむしり取られて国産装備の開発が遅々として進まないがM47E2、M48A3と言った戦車は東日本のT-34戦車相手には十分だった。それに皇土を侵す共産ゲリラから「同胞を解放する」と言う大義があった。祖国統一に燃えて将兵の士気は高い。

 地上の楽園と信じ平和を謳歌する東日本の国民は「日帝は山田大先生の威光を恐れ、手出しが出来ない」とまで信じていた。東日本の人民陸軍を構成する国境警備隊と親衛軍は長年、戦争を経験せず災害派遣が本業と言えた。平壌(ピョンヤン)姜健(カンゴン)総合軍官学校で教育を終えて南魚沼郡六日町の第2大隊第4中隊に配属された新米士官は、終日休日ぐーたら暇人だった。

 新米士官は当直室でミリタリー雑誌「MCすいーとうぉーたー」をめくっていた。これは党の機関紙で、記事はバトルライフルで洗練された武器は何か、と言う内容だった。AK-74、H&K G3、FN FAL、M16等流行りの武器を思い浮かべる。

 当直室の電話が鳴り響いた。

「はい4中隊」

 旅団司令部からの非常呼集、出動命令だった。当直士官として新米士官は官舎の中隊長に連絡を取ると同時に当直下士官に出発準備を命じた。

 新潟県上越市。そこに西の傀儡軍が濃霧を突いて攻め寄せて来たのだった。最西端の守りについていた第2親衛旅団第3大隊は、海上自衛隊の艦砲射撃を浴びて駐屯地ごと姿を消していた。

「急げ、敵は待ってくれんぞ!」

 新米士官は尖兵としてかき集めた小隊を指揮して第3大隊の抜けた穴を塞ぐべく動いた。十日町市で阻止するのが任務だった。

(実際は遅滞行動が精一杯だろうな……)

 新米士官は待ち受ける戦いに陰鬱な気分と成ってくるのを感じた。

 東日本首都となった新潟市はこれまでソ連のカバーがある聖域だった。帝国航空自衛隊は航空優勢を確保すべく奇襲攻撃を敢行した。この攻撃にアメリカ空軍のE3 AWACSやF-15戦闘機が参加しており、新潟空港を始めとした東日本人民空軍の基地は初戦で破壊し尽くされ、CAPとして上がっていた一部の機体を除き航空戦力は完全に地上撃破された。

「日帝め!」

 愛機を壊された人民空軍のパイロットが忌々しげに見上げる空には、悠々と飛び去って行く自衛隊機の姿があった。

 1945年以降、外国製航空機が日本の空を舞うようになった。陸海軍から独立して誕生した空軍である空自は、国産機の開発を完全に諦めていた。その結果、サーブ37ビゲン戦闘攻撃機、ミラージュ2000戦闘機が、新兵器のプレゼンテーションとして帝国に格安で引き渡され空自に多数配備されていた。初期目的を達成した空自は道路上を移動する東日本軍の地上部隊を襲撃した。


     †


「畑のお肉」作戦は二段階に別れている。正面から牽制を行う「こしひかり」と首都制圧を狙う「こまち」だ。

「こまち」作戦(Operation Comachi)に参加する部隊は、アメリカ太平洋軍司令部の指揮下で第120統合任務部隊(JTF120)第123統合任務部隊(JTF123)に編成され、アメリカ海軍主導の作戦となった。

 作戦第1段階はTF124が上越市に艦隊の支援で上陸、東進する。この陽動に敵が引き寄せられている間にJTF120が首都新潟に降下、山田一族を拘束する。

 JTF120は特殊部隊(海軍SEALs、陸軍デルタフォース、第75レンジャー連隊の1個中隊)、第75レンジャー連隊第1・第2大隊(各大隊は3個中隊)、第16特殊作戦中隊、第160任務部隊(UH-60ブラックホーク、MH-6リトルバード装備)から成る。

 ここにJTF123の第121任務部隊(第82空挺師団)、第124任務部隊(海兵隊第22MAU)が到着すれば任務は完了だ。

 ゾディアック製ゴムボートで日本海の荒波に揉まれながら埠頭を目指す部隊があった。SEALs ティーム6は海兵隊の支援として直江津港に先行し上陸した。市内は人民武装警察の警らが回っている。見つかれば厄介だ。だが指揮官は内陸部に視線を向けると、杞憂に過ぎなかったと口元に微かな笑みを浮かべた。煙が見える。それは市内の軍事目標で、味方の攻撃で炎上していた。

 25日に日付が変わり0500、中頸城郡潟町村の鵜の浜海水浴場に面した鵜の浜空港の沖合いで動きがあった。

 強襲揚陸艦「グアム」から海兵隊が空港にAH-1コブラの支援でヘリボーン急襲をかけた。その30分後にはウェズリー・B・ティラー中佐の指揮するレンジャー第2大隊を乗せたC-130が到着し降下体勢に入った。

「地獄に逝く準備は良いか!」ティラー中佐に発破をかけられてレンジャー隊員は次々と大空に身を投げ出した。一面に広がる落下傘の群れがあった。

 地上の対空砲火は火を吹く前にAC-130スペクターの圧倒的な火力で叩き潰され、降下は無事成功。レンジャーは空港を制圧し空挺堡を確保した。上空には海軍のA-7コルセア戦闘爆撃機の姿も見受けられた。

 空港には直ちに82空挺師団の2個大隊を乗せたC-141スターリフター輸送機が進出した。

「空港の敵は連隊規模に膨れ上がり、他に海兵隊のヘリコプターが展開しております」

「日帝の陸軍が到着するまでの確保が目的か」

 東日本人民軍はこの攻勢を本格的な物と判断、第2親衛旅団は侵攻部隊を駆逐すべく動いた。空自によって集結を妨害されながらも増援として到着した戦車第7旅団はT-34/90、T-34/105をそれぞれ1個大隊保有していた。この他に自動車化歩兵、砲兵、工兵が配備されている。海兵隊と空挺部隊程度なら容易く撃破出来ると判断した自信も当然と言えた。

 しかし東日本軍はアメリカを舐めすぎていた。持てる国であるアメリカは、金持ちなだけに装備も潤沢整っていた。作戦に参加した陸上部隊は60mm/81mm迫撃砲、GPMG、ドラゴン/TOW ATGM、90mm無反動砲、105mm/155mm榴弾砲、M60A1戦車、LVTP-7等の装備を与えられていた。さらにアメリカ空軍が支援としてA-10攻撃機を送り込んでいた。

 待ち受ける物も知らずに進められる東日本軍の反攻。明治30年に北越鉄道として開業した潟町駅で、鉄道ファンなら涙を流す蒸気機関車の姿があった。貨車から降ろされる戦車の作業を見守る大隊長は呟いた。「所詮は軽歩兵だ。戦車が陸戦の王者だと言う事を教えてやる」

 意気揚々と向かった戦車隊は空港を視界に収める前に、濃密な火網に迎えられた。

 大日本帝国が東日本の支配を認めず県道129号線と呼ぶ道路上で、飛んでくる対戦車ミサイルを見て指揮官は失敗を悟った。第4次中東戦争でイスラエル国防軍が失敗したミスを東日本人民軍も体験したのだった。


     †


 陸自第1空挺旅団は旧陸軍第1挺身集団の流れを組む空挺特殊作戦部隊で、MC-130輸送機や潜水艦から浸透すると電話線の切断、レーダーや防空施設の破壊等を行い、後方攪乱で東日本軍を引き寄せて友軍の行動を支援した。これによって空爆は成果をあげたと言える。

 絶え間無く続く空爆は行動を隠蔽する偽装にもなった。ブラックホークとリトルバードが編隊を連ねて日本海沿岸を移動し、TF120の支援で特殊部隊による新潟市急襲が始まった。

 爆音と機影は目立つ。不意討ちを食らったとは言え、さすがに東日本軍も目前でヘリボーンをされて黙ってはいない。対空砲火に捉えられブラックホークが次々と撃墜された。1機辺り590万ドルの機体と乗員が失われて行く。

 明治6年に開設された白山公園。その敷地には戦後、山田一族の官邸として首席宮殿が建てられていた。強風を巻き起こしながら交差点上空にホバリングするブラックホークからレンジャー大隊の兵士達が飛び降りて行く。宮殿の四周に降り立った兵士達は一気に突入した。 警備についていた兵士が米兵に気付いて発砲して来る。

「デブを探せ、デブだ」

 目標の茂吉は肥満体型で色白、眼鏡をかけている。それ以外で抵抗する者は射殺し、非武装の者は拘束して行く。

 執務室に置かれた応接セットのソファーに腰かける茂吉は廊下から聴こえる銃声に山田一族の栄華が終わりを告げていると悟った。

「お父さん、貴方の築いた日本を僕は守る事が出来ないようです……」

 レジンキャストで作った自作の立体フィギュアを眺めながら最期の時を待った。

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