戦争ごっこ
沖合いに浮かぶ艦隊が陸からの要請で北ベトナム軍に艦砲射撃を浴びせていた。その中でも一際大きな船──打撃輸送艦「やまと」の460mm速射砲は味方を手こずらせた敵の陣地を区画ごと吹き飛ばした。後部の砲塔を取り除きヘリコプターの飛行甲板に変えたとは言え、前部の砲塔は健在だ。その圧倒的火力による地響きは街の外まで届き、爆発の噴煙がしっかりと目撃された。
「さすがは大和だな。平仮名になっても火力に衰えは無いか」
1973年3月29日、ソンホン川北岸。陸上自衛隊第1普通科連隊はベトナム民主共和国の首都ハノイ攻略に当たる南ベトナム軍を支援していた。第1線の南ベトナム軍は計画によると、空挺部隊が敵の退路を遮断し歩兵が市内に突入するとなっていた。
政治的判断により市内突入を譲った第1普通科連隊はアメリカ軍と共に包囲の一翼を担っている。
ソンホン川南岸から小舟がやって来る様子が見えた。防弾チョッキを着ずに迷彩服にサスペンダーを装着した上で、雑のう、水筒、銃剣、拳銃とAK突撃銃と言う身軽な装備の偵察隊が戻ってきた。顔に塗られていたドーランは汗でほとんど落ちている。
連隊長平岡克朗1佐に、斥候班長の陸曹が報告する。馬鹿が上官になると下の者が苦労するのは世界共通で、平岡1佐は現場の叩き上げとして部下の苦労を知っており、「ごくろうさま」と労いの言葉をかけた。
「市内では敵は頑強な抵抗を続けており、T-54戦車を投入、味方の歩兵を押しています。誤爆や誤射を怖れてか砲兵や空軍の支援はありませんでした」
地図には偵察が集めてきた南ベトナム第1歩兵師団と敵の状況報告が記載されている。ソンタイで進撃は膠着していた。
「T-54か。まともな対戦車装備が無いと半島の二の舞だな」
山東半島で国民党軍がソ連に供与された人民解放軍の戦車に蹂躙され、日本軍がアメリカ軍と共に中国大陸に再派兵されたきっかけだ。
「それも、MACVがベトナムのジャングルで戦車は要らないって考えだからじゃないですか」
アメリカはヨーロッパ正面のワルシャワ条約機構軍を警戒して、南ベトナムよりもドイツに投資をしていた。南ベトナム軍を援助するMACVもその決定を受けて動いていた。そのつけを南ベトナムの兵士が血を流す事で購っている。1973年の援助は$2,270millionに達していた。
日本は違う。実戦経験から独自の判断を下し、陸上自衛隊は旧日本軍の行ったマレー攻略の戦訓から戦車を持ち込んでいた。国産の61式戦車だけではない。105mm砲を搭載した次期主力戦車の試作品、STBの姿もあった。
使われない兵器はいかにカタログスペックが優れていても役立たずである、と旧日本軍は教えてくれた。予算から考えて軍備は身の丈に合った物となる。使いこなせない物を揃えて後生大事に使わないならアホである。自衛隊は使える装備を調達しようとしていた。
「これだけ近付かれると艦砲射撃も無理だな。空自に連絡しておこう」
米軍のB-52では味方を巻き添えにする恐れがあった。その点で、航空自衛隊の送り込んだF-4は近接航空支援に十分な性能を持っている。OV-10から誘導されて沖合いの空母からF-4が宅配にやって来る。
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第二次世界大戦後も世界で戦火が止むことは無かった。
共産党が一党独裁をするソヴィエト社会主義連邦共和国を盟主とする社会主義陣営と、アメリカ合衆国を自由世界の盟主とする資本主義陣営は世界各地で衝突した。
結果、インドシナ半島に分断国家が生まれた。北のベトナム民主共和国と南のベトナム共和国である。この問題は世界を巻き込む大戦争に発展し、インドシナ半島全体を戦場に変えた。
1967年、日本国と言うアメリカ合衆国の忠実な番犬は、飼い主の要請によって国軍たる自衛隊をインドシナ半島に派遣した。主戦場は内陸部の陸地であり、首都師団の第1師団、精鋭の第1空挺団、虎の子の第7師団から抽出された旅団規模の部隊が送り込まれた。大陸で最後の実戦を経験して、実に17年ぶりの実戦である。
日本人が血を流すのは国共内戦以来だった。大陸に派兵された日本軍が、国民党軍を支援し毛沢東の共産ゲリラを撃滅した事は記憶にまだ新しい。赤色革命を目指すソ連にとってアメリカと番犬の存在は目障りだった。
今回も日本人がやって来ると言う事で、ソヴィエト連邦は、北ベトナムへの援助の増加と軍事顧問団の増員を決定した。
そう言った事情を語る吉村天翔3尉に先任は「小隊長はよく知っていましたね」と間の手を入れた。吉村3尉の表情は暗い。「俺の親父は上海で匪賊相手に戦ったんだ。奴等のやり口は散々聞かされたよ」中国大陸で共産ゲリラに苦しめられた教訓から、日本は共産主義と言う物を全く信用していなかった。
会話をしてる間にも戦闘は続いていた。
世間では南ベトナム軍上層部の腐敗だと噂されていたが、実際に戦場で肩を並べて戦ってみると南ベトナム軍はよく統制されていた。末端の部隊ほど、銃火を浴びており死線をくぐる事で鍛えられている。
ハノイに突入した尖兵中隊がNVCに撃退されると、頭に血の昇った師団長が突撃を連呼して部下に殴り倒されると言う事案が発生した。指揮権を剥奪された師団長が部下に連行される状況は信じられない物だった。
「ああ言うのは、自分で自分が馬鹿だと自己紹介してる物だ」連絡幹部として師団司令部に来ていた長谷川貴久3佐にアメリカ軍の軍事顧問が話しかけてきた。
「馬鹿だから気付かず、恥しくないんですね」長谷川3佐も苦々しげな表情を浮かべて頷くと同意した。長谷川から見ても南ベトナム人の将軍は戦争をしていない。戦争ごっこなのだ。
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南ベトナム軍から戦闘参加の要請が来た。アメリカ軍の豊富な物資は各国のベトナム派遣を支えている。予算の限られた自衛隊も、ここではバカスカと射ちまくる事が可能で、15榴──155mm榴弾砲が対岸を叩いており、爆風で巻き上げられた土砂で視界は曇っている。
現実的な物量を前に共産主義の教義など無力だ。特科の火力支援で第1普通科連隊は渡河を開始した。64式小銃は背中に回してオールを手に持つ隊員達の姿があった。
南岸に近付くに連れて硝煙や化学薬品、燃料等の焼け焦げる臭いが漂ってくる。
「攻めるなら、わざわざ橋まで落とす事は無かったんじゃないか」手漕ぎの小舟に分散して対岸を目指すが、幸いにして敵の銃火は襲ってこない。事前に対岸を根こそぎ吹き飛ばしたと言うのも理由の一つではある。
「将来、建て直したら連隊長の名前がついたりしてな」
舳先では機関銃手が62式機関銃で警戒に当たっていたが、戦場の空気に似つかわしくない爆笑が起きる。
「ひでえな」自分達の手柄を連隊長一人が評価され独り占めする事へのやっかみだ。そして馬鹿話をする事で、訓練と同じ、これは戦争ごっこだと思い込む事で死への恐怖感を紛らわそうとしていた。ベトナム派遣から3年目に成るが、それでも忍び寄って来る死の恐怖感に慣れる事は無かった。