力になりたいんだ、ハルさん
数日後。
お話があります、と支部長室を訪ねると、支部長は黙って彼を外に連れ出した。
ビルのすぐ目の前、鶴見川の支流沿いに緑の土手が拡がり、すでに優しい風がかすかな春の兆しを運んでいる。
「春日の病院と並びにある神経医療センターに、」
「キャシーの所に行くのに、許可証が欲しいんだろう?」ずばり、言い当てられた。
「キミの力で何とか彼女を正気に戻せれば、そう思ったのか」
「はい」そう答えるしかなかった。
「春日くんに、相談したのかね?」
「いえ……何も。あの、一人で行こうかな、と」
支部長はしばらく、川向こうに見える巨大なスタジアムの建設現場を眺めていた。
「試しに一度、行くといい」かなり考えたようだった。
「しかし、どうにもならないことはある、それだけは忘れないように」
「はい」
翌日、定時にカイシャを出て、彼はまっすぐ神経医療センターに向かった。
「管理が厳しいので、面会予約も早めに入れる必要がある」
今回は一度きり、という条件で急な面会が許可されたらしい。
支部長は、親切にも他の面会者が来る日程まで紙にメモして寄こした。
個人情報なので、イニシャルしか書いてない。しかし週一回の『k』は多分春日のことだろうと想像がついた。
他にも、家族らしい人間がふた組、それぞれ別々に月に一度程度、面会に来るようだった。
キャシーの部屋には、淡いスカイブルーの壁紙が張り巡らされていた。
病院とは思えないような、幅広のベッドの真ん中に、大事なタマゴのようにすっぽりと、彼女の体は埋もれていた。
掛け布団の上から見た感じでは、かなり華奢で、鼻の上までかけている布団の上から、大きく見開いた眼だけがのぞいていた。
調子がいい時には、車いすで中庭などに散歩にも出かけるのだそうだ。
しかし自分で車いすを動かしたりすることはなく、看護師に連れられるままだという。
言葉らしい言葉も発することはないらしい。
枕元に、写真が留めてあった。両面接着シールを使って壁にくっつけている。
以前はピンで留めていたが、発作の起こった時にピンを飲み込もうとしてから、ピンは禁止されたらしい。
写真には、かつての彼女だろう、威勢のよさそうな小柄な女性が写っていた。
眉をきゅっと上げ、口元に意志の強さが現れている。
しかし、そばかすの散った笑顔がすごく魅力的だった。
登山に行くのだろうか、身体よりも大きなザックを背負って笑っている姿、研修の時だろうか、ジャージ姿で仲間たちとふざけて押しあいながらフレームに収まっている姿、それから……
ナカガワとのツーショット。肩を組んで、まるで実の父娘のようになごやかな表情で正面を見つめている。キャシーはあの魅力的な笑顔、ナカガワも、笑ってはいないもののどことなくくすぐったそうな顔をしている。
支部長室での、彼の怒りを思い出し、彼はしばらくその写真から目が離せなくなった。
結局、彼女には全く触れることさえ叶わなかった。
『スキャニング』を遣って思念を拾おうとしても、何も、見えてこない。スカイブルーの壁紙の中で、自分も宙に浮いたまま置き去りになったようだ。
彼女の目を最後にのぞいてみた。やはり、そこには何も映っていなかった。




