File,01 「鍵」
腰まで伸びた綺麗な黒髪のロングヘアを風に揺らしながら、カリンは高校の制服のまま商店街を目的もなく歩いていた。あちらこちらの店から店主の威勢の良い声が聞こえてくる。ぼんやりと商店街の風景を眺めながら歩いていたカリンは、小さな寂れた店の前で足を止めた。
木の板に金色の文字で「Luck Load」と書かれた看板が、古めかしいドアのドアノブに掛けられている。文字は所々薄れ、金メッキが剥げている部分もある。随分と年期の入った店のようだ。ショーウィンドウはなく、店内を覗き見ることはできない。カリンは吸い込まれるようにその店のドアを開けて中に入った。
店内は淡い橙色の明かりで照らされており、二脚の椅子とテーブルが一つ置かれている。そして何よりも目を引くのは、壁に打ち付けられた釘に掛けられている鍵だ。銀色や金色の鍵もあれば木製の鍵まで、壁一面に掛けられていた。
数えきれないほどの鍵の中で、カリンはふと視線をひとつの小さな鍵に向けた。真新しいのか、どの鍵よりも綺麗な状態で、橙色の明かりを受けて眩いほど金に光っている。その小さな鍵に、カリンはそっと手を伸ばした。
「やはりご自分で来ましたか」
もう少しで鍵に手が触れられるとき、店の奥から英国紳士を思わせる優雅な歩きで老人が現れた。慌てて手を引くと、老人は目を細めて微笑む。
「いいですよ、お取りなさい。それは貴女の鍵なのですから」
「私の、鍵?」
カリンの問いかけに老人は微笑んだまま一度だけ頷いた。老人から鍵へ視線を移し、その小さな鍵をそっと釘から外して再び老人に向き直る。
「こちらへ」
目が合うと老人は椅子に座るよう促した。鍵を大切に握りしめ、カリンは老人と向かい合うように席に着く。
「貴女がここへ導かれた理由は、お分かりかな?」
いつの間に用意されたのか、テーブルの上にはカップとポットが置かれていた。老人は言いながら手際よく紅茶を淹れ、カップをカリンの前に差し出す。
「いえ、まったく…」
差し出されたカップを持ち、口へ運びながらもカリンは困惑して答えた。
「貴女にはこれから、貴女自身も気付かない間に失くしてしまった探し物を、見つけに行ってもらいます」
「……?」
疑問を言葉にしようとしたカリンは突然の睡魔に襲われ、声を出せずに微睡んだ瞳で老人を見た。
「向こうへ着きましたら、更に詳しい説明を致しましょう」
そんな老人の言葉はカリンには子守唄となり、とうとうカリンは重い瞼を閉じて眠りについた。
「ん…」
テーブルに突っ伏して眠っていたカリンは、太陽の光を背中に受けて目を覚ました。
「何してたんだっけ…」
目を擦って無理やり焦点を合わせたカリンの視界にまず飛び込んできたのは、太陽の光を受けて様々に輝く壁一面の鍵たちだった。ぼんやりと、眠る前の記憶が甦ってくる。商店街の寂れた店に入ったのはどうにか思い出せるが、それ以降はもやが掛かったようにおぼろげで思い出そうとすると頭痛が襲った。
「帰らなくちゃ」
少しふらつきながらも立ち上がり、カリンは店のドアを開けた。チリリンとドアに取り付けられているベルが可愛らしい音を鳴らす。
「え…?」
外へ一歩踏みだそうとしたカリンは、驚いて踏みとどまった。ドアを開けた先の目の前に広がる光景が、いつもの賑やかな商店街ではなく見知らぬ森の中だったのだ。木々の合間を縫って太陽の光が届いている。いくら耳をすませても、威勢の良い魚屋や八百屋の店主の声は聞こえてこない。
カリンは急いで店内に一歩下がりドアを閉めた。深く深呼吸をし、目を閉じてもう一度ドアを開ける。どうか同じ光景でないようにというカリンの内なる叫びも空しく、目を開けると先程と同じ森の風景が広がっていた。
暫くドアノブを握ったまま微動だにしなかったカリンは、意を決して恐る恐る外の世界へと一歩足を踏み入れた。新鮮な芝生を踏むような柔らかい感覚が靴を通して伝わる。夢かと思って頬を強く抓ってみたが、ただ頬が赤くなっただけだ。
店の中に居た方が良いかもしれない。
見ず知らずの土地に原因不明のまま突如として来てしまったのなら、移動はしない方が賢明だろう。しかし、自分がいったいどんな場所に居るのか、冒険をしてみたいという願望もカリンの中にはあった。
幼い頃から女の子の漫画や遊びは苦手で、いつも男の子に交じって遊んだり男の子向けの漫画を読んでいた。高校生になった今でも、週刊や月刊の漫画雑誌は欠かさず購入している。漫画やアニメの世界の、日常が非日常へと変わる瞬間がカリンは大好きだった。いつか自分にもそんな出来事が起こればと考えたことも少なくはない。そんなカリンにとって、今の状況はまさに願ったり叶ったりだ。
「少しだけなら…いいよね」
一度だけ振り向き店を見て、カリンは意気揚々と森の中へと歩き出した。青々と茂る草木の合間に、時々色鮮やかな花が姿を見せている。今までカリンが見たことのないような花ばかりだ。上を見上げると生い茂る木の枝の間から太陽がひょっこりと顔を出している。暑くもなく寒くもなく、最高の天気だ。カリンは自然と緩む頬を軽く叩き、さらに先へと進んで行った。
突然の空腹に悩みながら、カリンは森の中を歩いている。どれくらいあの店から離れたのか分らず、引き返そうにも道という道がない森では来た方向へ戻るというのは至難の業だった。
今更ながら自分の浅はかさに後悔しつつ、とうとう体力のほとんどを使い切って大きな木の根元へ腰を降ろした。風が吹き、カリンの髪を巻き上げる。乱れた髪を直す元気さえ、カリンには無いほどにお腹が減っていた。
「やっぱり店から出てくるんじゃなかった…」
声を発したとたん、お腹がぐぅと鳴る。少しでも空腹をまぎわらそうと腕を組んでお腹を押したが、余計に大きな音で鳴るだけだった。
「腹が減ってんのかい?お嬢さん」
俯いていたカリンが慌てて顔を上げると、目の前に青年が立っていた。どこか異国の旅人のようにマントを羽織っている。土で汚れた黒いブーツは、それでも光ってみえた。
「え、あ…はい」
突然現れた青年にお腹の音を聞かれたのかと思うと、恥ずかしくなったカリンは上げた顔をまたさっと下げた。スカートの裾を指で弄りながら小さく頷く。
「これ、食べるかい?」
俯いたままのカリンの目の前に、一抱えほどのバスケットが置かれた。不思議そうにカリンが見ていると、青年はしゃがみこんでバスケットのふたを開け、カリンに中を見せる。
「わぁ!」
中に入っていたのは小さな赤い実が可愛らしい木苺だった。水で濡れているのか、水滴が木苺の赤みをより一層際立たせている。
「食いなよ、余るほどあるからさ。それとも、こっちがいいかな?」
そう言って、青年はもうひとつのバスケットからサンドウィッチを取り出した。緑や赤や黄色と、色彩豊かな見た目が綺麗なサンドウィッチだ。
「ありがとうございます!」
カリンは小さく頭を下げてから、サンドウィッチを頬張った。新鮮な野菜がシャキシャキと心地よい音をたてる。ほんのりと甘い木苺の香も食欲を増進させているようだ。
「それにしても、珍しい恰好してるよね。耳も見当たらないし…髪で隠してるのかい?」
「そう…ですか?」
青年に言われ、カリンは自分の恰好を改めて見る。自分にとってはよく見慣れたおなじみの制服だ。リボンが実は気に入っていたりもする。
「あ、尾も無いの?もしかして鳥類?んーでも羽も無いしなぁ」
自分の制服をしげしげと眺めていたカリンは青年の言葉に驚いてぱっと顔を上げる。青年と視線がばっちり重なった。
「え、耳…え!?」
初めて青年の全体像を見たカリンは絶句した。パーマをかけたようなくるくるした茶髪が幼さを醸し出して体躯とのギャップがあるが、そのことよりも青年の頭部から上へ突き出た茶色の毛で覆われた長い物体が、カリンの視線を釘づけにしている。誰がどう見てもそれはウサギの耳だった。青年が体を動かすたびに耳も左右へ揺れる。右耳が途中で折れて垂れているのは愛嬌のつもりだろうか。
「俺の耳がどうかしたかい?」
青年は不思議そうにカリンを見て、折れているほうのウサギ耳を手で軽く触る。
「あぁ…こっちが折れているのは怪我だよ」
カリンの視線を別の意味で捉えた答えを言いながら青年はにこりと笑った。
「いや…そうじゃなくて」
「ん?」
なかなか言葉にできないカリンに、青年は微笑んだまま首を傾げる。口をぱくぱくしていると、カリンは視界の隅に見覚えのある人を捕らえた。
「お嬢さん?」
青年の声など耳に入っていないようで、カリンは木々の影から突然現れた人物へと視線を向けていた。見たことがあるのだが記憶にない。ついさっき会っていたようで、本当はもっとずっと昔に会ったような人だ。
「お探ししましたよ。貴女はどうも好奇心がお強いようだ」
その言葉を聞いて、カリンは店に入ってからの出来事を思い出した。小さな鍵を手にしたこと。紅茶を飲んだこと。探し物を見つけなくてはいけないこと――
「立ち話も難ですから、お二方とも我が店にご案内致しましょう」
老人が大きく手を振り上げると、カリンが腰を降ろしている大きな木の幹にどこかで見たようなドアが現れた。木の板に金色の文字で「Luck Load」と書かれた看板が、ドアノブに掛けられている。
「さぁ、その木苺と共に淹れたての紅茶でも如何ですかな」
香ばしい香りが店内を包む。少し大人っぽい味の紅茶を口に含み、そのすぐ後に木苺を口にすると苦味が甘味と酸味に侵略されていく感覚が舌を通して体中に伝わっていく。カリンはそんな感覚を、目を閉じてゆっくりと味わっている。
「お気に召したかな?」
老人は微笑んで問いかけた。カリンは数度大きく頷く。
「んで?鍵屋さんとお嬢さんはどういう関係なんだい?」
こちらも優雅に紅茶を楽しんでいた青年はカップを置きながら二人を交互に見た。
「二人とも、ここの住民じゃなさそうだけれど」
青年の言葉に、カリンは老人へと視線を向けた。
「まずは自己紹介を致しましょう。私はクリスチャン、鍵屋の店主をしております。どうかクリスとお呼びください」
クリスはまさしく紳士のように丁寧に礼をした。微笑むと細い目がさらに細くなり、線になってしまう。
「鍵屋でもありますが、世界と世界を繋ぐ仕事も担っております」
「世界と…世界?」
「その話は後程。まずはお互いを知りましょう」
クリスの言葉にカリンはしぶしぶ引っ込んだ。
「俺はラウス。見ての通り野ウサギさ。森を抜けたところにある町でパン屋をしている」
ラウスがしゃべるたびに長い耳が小刻みに揺れた。クリスはまるで幼子の話を聞くように微笑みながらうんうんと頷く。
「さぁ、貴女もお名前を」
戸惑っていたカリンはクリスに促され、こくりと小さく頷く。
「私は、カリン」
「いい名前だね。カリンか…なんだか美味しそう」
くすくすと笑うラウスの飄々とした態度に、知らず知らずのうちに緊張していたカリンは肩の力が抜けるのを感じた。
「さて…それでは紅茶のおかわりも淹れ終わったことですし、本題に入りましょうか」
空になっていたカリンとラウスのカップに、先程とは少し色の違う紅茶が注がれていた。ラウスは遠慮なく新しい紅茶をあっという間に飲み干す。
「カリン、貴女は鍵によって導かれ、私の元へ…いえ、この鍵の元へ訪れたのです」
「その鍵は…」
クリスが内ポケットから取り出したのは、あの時カリンが手にした小さな金色の鍵だった。小さな鍵はクリスの手からカリンの手へ渡され、カリンの手のひらにすっぽりと収まった。ラウスも身を乗り出すようにして鍵を見つめる。
「運命、というものをお二方は信じますかな?」
「俺は信じるよ。信じたほうが面白いからね」
唐突の問いかけにラウスは間髪入れずに答えた。
「私も信じます」
慌ててカリンも答える。ふたりの解答に満足したのか、クリスは嬉しげに数度頷いた。
「そうでなくては困りますからね。いいですか、貴女はこれから運命の鍵に導かれ、この世界で探し物を見つけるのです」
時が止まったかのように室内が無音になった。カリンがクリスの言葉を理解するのに時間が必要だったのだ。ラウスも頭をがしがしと掻き、なんとか言葉を見つけ出す。
「つまり…あれかい?二人はこの世界の住民じゃなくて、お嬢さんは探し物があって、その探し物が何故かこの世界にあるって?」
「そうです。貴方は随分と賢い野ウサギのようですね」
クリスは心底感心したようにラウスへ微笑みを向ける。カリンはなおも戸惑い、ふたりの顔を交互に見つめた。
「でもさ、鍵屋さん」
「はい、何でしょう」
ラウスはばつの悪そうな表情をカリンに向けたあと、言葉を続けた。
「ここは死後の世界、フィーラー。生きた人間の来るところじゃないのさ」
「存じておりますとも。生きていても死んでいても、人間である以上、人はここへは来ることはできない」
クリスはさも当然のようにラウスの言葉を肯定し、それから後を引き受けて続ける。
「フィーラー。ここは生前、心に傷を負った動物たちが行きつく場所。動物たちの敵である人間が来ることは決してない、動物たちの楽園」
先程とは違う、重く伸し掛かるような沈黙が三人を包む。得体のしれない圧力に押しつぶされそうなカリンは、乾いた喉を潤すために紅茶を一口飲んだ。上手く飲み込めずに咽る。
「大丈夫ですか」
クリスが優しく背中を摩ると、カリンはようやく落ち着き口を開いた。
「さっき、運命に導かれてって言いましたよね」
「そうです。貴女がこの店に来ることは運命の導き。そしてその運命に従って私は貴女をこの世界へお連れしたのです」
一字一句聞き漏らすまいと、カリンはクリスの目を真正面から見つめる。
「私がここで探し物を探すことが、運命?」
「はい。正確に申しますと、途切れた運命を再び修復する、ということになります」
「途切れた、運命?」
カリンよりも先に口にしたのはラウスだ。クリスはカリンからラウスへとゆっくり視線を移動させる。
「本来は繋がっているはずの運命が、突如途切れてしまうことがあるのです。このことを運命の別れと言い、その途切れた運命を修復することを、運命の復活と言います」
クリスの口から次々と語られる言葉たちに再びカリンは口を噤んだ。
「カリン、貴女は大きな悲しみを産んだ運命の別れを今よりもっと昔に経験しているのですよ」
「私が…?」
「そうです。普通なら途切れた運命は放っておいてもそのうち修復される。しかし貴女のように時として、私たち運命の助言者の力を借りなければ修復できないような大きな運命の別れを持った人が現れるのです」
クリスは幼子に語りかけるように優しく、落ち着いた声でカリンに話す。カリンの隣でラウスも真剣に聞き入っていた。
「そして、貴女と運命の復活をすべき相手が、この世界にいる。もう、何をすべきかはお分かりかな?」
「探し物っていうのは…物じゃないのね?」
カリンの問いかけに、クリスは微笑みを返すだけだ。
「運命の助言者である私も、貴女に伝えることができるのはここまで。これから先、貴女が探すべき探し物は、貴女が運命に従って進めば自然と貴女の目の前に現れるでしょう」
言いながらクリスはカリンの手を取り、立ち上がらせる。カリンの握っていた小さな鍵にクリスが触れると、鍵は熱を帯び始めた。
「ラウス、貴方とカリンが出会ったのは運命の鍵の導きによるもの。同行できない私に代わってカリンを支えて頂きたい。どうかな?」
「…分った、俺だって鬼じゃないしね。俺とお嬢さんが出会ったのが運命ってんなら、最後まで付き合うさ」
クリスに向けて大きく頷いたあと、清々しい笑顔をカリンに向ける。カリンもつられて微笑んだ。
「最後にひとつ、ヒントをお教えしましょう。導きの最後に行きつくのは、ラピュイ」
クリスが言い終わると同時にカリンの手の中で鍵が輝き始め、カリンとラウスは眩しさに目を閉じた。
「探し物を見つけた貴女にお会いできることを楽しみにしております」