『水底記』第二節(追補):三極殿の怪異 ──蘇我入鹿の「分離飛翔体」
中大兄皇子の放った一撃は、蘇我入鹿の首筋の「エラ」を正確に横一文字に引き裂いた。だが、それは人間の死を意味しなかった。むしろ、衣服の下に隠されていた異界の構造(生体システム)を、完全に解放するトリガーに過ぎなかったのである。
『日本書紀』の草稿には「入鹿の首、跳ね上がりて、中大兄の御衣に噛み付く」と短く綴ったが、父・鎌足が間近で目撃したその実態は、地獄の絵図を遥かに凌駕する狂気の光景であった。
断頭の瞬間、切断面から溢れ出たのは、ヘドロのように濁った黒緑色の粘液と、数千匹の極小のゴカイを思わせる、蠢く触手の束であった。それらの触手は、自らの血肉を編み上げるように、撥ね飛ばされた頭部の下部から急速に数十本も伸び、空間を狂ったように激しく叩いた。
入鹿の頭部は、重力を無視して、三極殿の天井へと向かって「飛翔」したのである。
それは鳥の羽ばたきではない。耳を劈くような、硬い鱗と鱗が擦れ合う「カチカチカチ」という不快な高周波の音──まるで巨大な甲殻類や深海魚の鰭が、狂気的な速度で空気を切り裂くような、悍ましい推進の音であった。
天井の梁に逆さに張り付いた入鹿の頭部は、もはや完全に人間の制御を失っていた。
髪の毛を枝垂れさせたその顔面は中央から左右にみ裂け、人間のものであったはずの皮膚がずるりと剥がれ落ちて、その下から「瞬きをせぬ、粘膜に覆われた巨大な深海魚の眼球」が二つ、ぬるりと突き出してきた。鼻のあった場所からは、海水と凝固せぬ黒血が混ざり合った、生臭い呪詛の泡が絶え間なく噴き出し、殿上の美しい御簾をみるみるうちに腐食させていく。
「シュルル、ギ、ギギギ……!」
人間の喉の構造では決して発不可能な、金属を削るような鳴き声を上げながら、その頭部は長い黒髪を翻し、触手を激しく蠢かせ、天井から中大兄皇子をめがけて急降下した。それは「噛み付く」というより、捕食者の口吻を開き、皇子の頭部を丸呑みにしようとする「深海の肉塊」の動きそのものであった。
皇子が恐怖で腰を抜かす中、父・鎌足は、あらかじめ用意していた「伊吹山の神鉄」で鍛えられた大刀を抜き放ち、宙を舞うその異形を横ざまに一刀両断した。
鉄器がその肉に食い込んだ瞬間、入鹿の頭部からは「ギャァァァッ!」という、赤ん坊の泣き声を何十倍も増幅したような鼓膜を破る悲鳴が上がり、壁や柱にその緑色の脳漿をぶちまけながら、床へと墜落した。
床に落ちてなお、その頭部は十数本の「割れたエラ」を蛇のようにのたうち回らせ、殿上の床板を爪で引っ掻くようにして逃亡を図ろうとした。中大兄が正気を取り戻し、十数人の衛士たちが網と槍でその肉塊を突き刺してようやく動きを止めたとき、三極殿の床は、人間の理解を拒絶する「粘液と、剥がれ落ちた厚い魚鱗」によって足の踏み場もないほどに汚染されていた。
これこそが、記紀が隠蔽した「入鹿誅殺」の真の姿である。
私たちは、奴らの首を撥ねれば死ぬという、人間の常識に縋りすぎていた。奴らは首を切り離されてもなお、その一部が単独の生物(飛翔体)として機能し、執拗に地上を貪ろうとする「個体という概念を持たぬ水底の群生体」であったのだ。父・鎌足は、その死体の処理に一晩を費やし、骨の一片、鱗の一枚に至るまで、生石灰で徹底的に焼き尽くした。
しかし今、私は自らの喉の奥に、あの三極殿で入鹿が放った「カチカチ」という、鱗が擦れ合う不吉な音を聞いている。
私の首の皮膜が、夜な夜な内側から裂けようと蠢いている。不比等よ、お前もまた、首を撥ねられたとき、その頭部で天を舞うことになるのだろうか……。




