結婚式の準備を「好きにしていいよ」と丸投げされたので、結婚そのものをやめました
結婚式の人数表を、婚約者のお母さんがじっと見ていた。
挙式まではあと四か月。両家で食事をしながら、式の内容を確認する席だった。
「親族のお席は、これだけなのね?」
向かいに座った圭吾のお母さんが、表の一行を指した。
「伯父夫婦も呼ぶと思っていたのだけれど。圭吾から聞いていない?」
「人数が決まる前に、ご希望を確認してもらうようお願いしたんですが……」
隣を見る。
三浦圭吾は、グラスを置いて肩をすくめた。
「俺、そこまで知らないよ。千紘が自分で決めてたから」
テーブルの下で、指先が冷たくなった。
私が一人で作った資料だった。
でも、一人で決めていいことだと思って作ったわけではない。
*
圭吾と付き合い始めた頃、週末の予定は二人で決めていた。
「千紘、ここ行きたいって言ってたよな」
そう言って、展覧会のチケットを取ってくれたことがある。
帰りに寄る店を私が探すと、圭吾が電車の時間を調べた。展示の途中で私が足を止めても急かさず、何がよかったのかを聞いてくれた。
圭吾は私の撮った写真を見て、「この店、今度行こうよ」と笑った。
一緒にいると、次の楽しみが増えた。
だから、三年目に結婚を申し込まれたときも嬉しかった。
その頃には、店の予約も旅行の手配も、私がすることが多くなっていた。
圭吾は営業の仕事で忙しく、私のほうが調べ物も得意だった。待つより自分でやったほうが早いし、喜んでもらえればそれでよかった。
結婚式でも、最初はそう思っていた。
会場の候補を二つに絞り、休日に二人で見学した。
圭吾は窓の大きな会場で、「ここ、千紘の写真に合いそう」と言った。入口に写真を飾れたらいいね、と話した。
日程と見積もりは一緒に確認した。
互いの親にも日程を確かめてから予約し、申込金は半分ずつ出した。
そこまでは、二人の結婚式だった。
料理の試食日を決める頃から、圭吾の返事は短くなった。
『千紘の好きにしていいよ』
『人数で金額が変わるから、圭吾のほうで呼びたい人を教えて』
『来週までに、お母さんに親族の範囲を聞いてもらえる?』
既読はついた。
返事は「あとで聞く」だった。
週末に会って尋ねると、圭吾はスマホから顔を上げた。
「そんなに急がなくてもよくない?」
「急いで決めたいんじゃなくて、分からないと次の見積もりが出せないの」
「じゃあ、とりあえず今の人数で出してもらえば?」
画面のあちこちについた黄色い『要確認』を、一つずつ消していくのは私だった。
仕事から帰って夕食を食べ、パソコンを開く。
結婚式の写真を検索していたはずが、いつの間にか、人が集まる日の交通手段と食物アレルギーばかり調べていた。
久しぶりに届いた写真サークルの連絡には、『春の展示、参加者募集』とあった。
私はカレンダーを見て、参加を見送るつもりで画面を閉じた。
その夜、圭吾に電話をした。
「私だけだと、準備が進められない。全部やってほしいわけじゃないけど、圭吾の家のことは圭吾に確認してほしい」
「分かったって。今、仕事が立て込んでるんだよ」
「いつなら聞けそう?」
「週末」
日曜日の夜、返事が来た。
『母さんも任せるって。そんなに細かく聞かなくて大丈夫』
ただ、招待範囲だけは認識が違うと困るので、圭吾から聞いていた近い親族を載せた人数表を送った。
『この範囲で合ってる? 両家の食事で、決定前に確認しよう』
『それでいいよ』
その返事を信じて、私は人数表を印刷した。
*
「自分で決めたって、どういうこと?」
隣の圭吾に聞いた。
声が震えないよう、膝の上で手を重ねた。
「だから、細かいとこまでは俺、見てないって」
「この人数表、送ったよね。お母さんに確認してほしいって、何度もお願いしたよね」
「それは、そうだけど」
圭吾のお母さんが、息子を見た。
「私、任せるなんて言ったかしら。二人で相談してるから、食事のときに見せるって聞いたけれど」
圭吾は口を閉じた。
私はスマホを取り出した。言った、言わないの話にしたくなかった。
送った人数表と、その下の返事を開く。
「人数が違うのは、今なら直せます。だから今日、確認したかったんです」
圭吾のお母さんにそう伝えてから、もう一度隣を見た。
「どうして、私が勝手に決めたことになるの?」
「そんな言い方してないだろ」
「今、したよ」
自分の声が、思ったよりはっきり聞こえた。
「確認をお願いしても返事がなくて、進められないって言っても、好きにしていいって。それなのに、何か言われたら私が勝手にやったことになるの?」
圭吾は、私の両親をちらりと見た。
「ここで揉めなくてもいいだろ。だから、千紘の好きにしていいって言ってるじゃん」
誰かが箸を置く音がした。
これが、料理のことだけならよかった。
花の色のことだけなら、私が好きなものにすれば済んだ。
でも、新居を決めるときも、仕事を続けるか話すときも、きっと同じことが起きる。
私が困って相談している隣で、圭吾は知らないと言う。
結婚したら変わると思っていた。
結婚の準備でも変わらないのに、何を待っていたのだろう。
「好きにしていいなら」
私は人数表の上に、スマホを伏せた。
「私は、この結婚をやめたい」
圭吾が笑いかけて、途中でやめた。
「……大げさだろ。式のことで」
「式のことだけじゃないよ」
私の母が、静かに名前を呼んだ。
私は母を見て、うなずいた。
「今日は、これ以上、式の相談はできません。ごめんなさい」
印刷した資料を鞄に戻す。
圭吾は引き留めようとしたけれど、私はその手を取らなかった。
*
三日後、圭吾とカフェで会った。
怒りが収まれば、私も考え直すと思っていたらしい。彼は席につくなり、料理はもう少し高くしてもいいと言った。
「料理を変えたいんじゃない」
私は、結婚する意思がなくなったことを改めて伝えた。
圭吾は黙ったあと、「忙しかったんだよ」と言った。
「忙しいなら、いつできるか相談したかった。できないなら、止めたかった。でも、確認してないのに確認したように言われたら、私には分からない」
「……母さんに言われて、つい」
「私は、そのたびに勝手にやった人になるの?」
圭吾は答えなかった。
私たちは別々に暮らしていて、結婚後の新居もまだ契約していなかった。
会場への連絡は二人で入れた。
四か月先の式で、招待状はまだ送っていなかった。それでも予約の取り消しには費用がかかった。
会場から届いた明細を一緒に確認し、二人で承知して申し込んだ分は半分ずつ負担することにした。
圭吾側の家族への説明は、圭吾に任せた。
『伯父さんには何て言えばいい?』
そんな連絡が来たけれど、私は文章を作らなかった。
『婚約を解消したことと、式を取りやめることを伝えてください』
私も、自分の両親に説明した。
楽しみにしてくれていた二人に、申し訳なくて泣いた。
婚約をやめたら、すぐ楽になるわけではなかった。
よかった頃の圭吾を思い出す夜もあったし、会場に飾るつもりだった写真を見るのはつらかった。
それでも、パソコンを閉じて眠れる夜が少しずつ戻ってきた。
一か月後、精算を終えた圭吾から会いたいと連絡が来た。
電話で聞くと、もう一度やり直したいと言われた。
「親に説明するの、結構大変だった。千紘に任せすぎたと思ってる」
私は、その言葉を最後まで聞いた。
「今度は文句言わないから。式も、千紘が全部好きに決めていい」
胸の奥が、静かに冷めた。
「私が全部決めたいんじゃない。一緒に決めたかったんだよ」
圭吾は、少し間を置いて「じゃあ、そうする」と言った。
以前なら、その返事だけで安心しようとしたかもしれない。
「何度も、それをお願いしたよ。もう一度結婚する気にはなれない」
私は復縁を断った。
電話を切って、机の端に置いてあったカメラを手に取った。
久しぶりに電源を入れると、画面に残りの撮影枚数が出た。
まだ、こんなに撮れるのだと思った。
写真サークルの連絡を開き直す。
春の展示への申し込みは、明日までだった。
『まだ参加できますか。成瀬です』
送信してから、机の上にレンズを二本並べた。
*
翌週、公民館の会議室に入ると、瀬尾直樹さんが机の上の紙を押さえていた。
「成瀬さん、久しぶり」
「お久しぶりです」
「展示は一人三点。搬入は三か月後です。間に合いそう?」
印刷会社に勤める瀬尾さんは、今回の展示の取りまとめ役だった。
会場図と作業予定を受け取る。
同じサークルに入って二年になるけれど、私はこの人が少し苦手だった。
以前、夕焼けの写真を見せたら、きれいだと言う前に「どこを見せたかった?」と聞かれた。
「空です」と答えると、「だったら下の駐車場、減らしてもいいと思う」と言われた。
家で切り取ってみたら、好きだった雲がよく見えるようになったので、むっとした自分が余計に悔しかった。
参加者が集まると、作業の分担を決めた。
私は出展者から写真の題名と説明文を集める係。瀬尾さんは展示用のパネルと印刷の手配を担当する。
「説明文の提出は二週間後。遅れそうなら連絡をもらうことにしましょう」
瀬尾さんが言い、私は予定表に書き込んだ。
会議のあと、桜、雨上がりの路地、パン屋の店主の写真を机に並べた。
店主の写真は、店先の椅子に腰かけて、奥さんが持ってきたお茶を受け取るところだった。
撮影とサークル内で見せる許可はもらっていた。けれど、展示するなら改めて相談が必要だった。
「この写真、いいですね」
瀬尾さんが、店主の写真を指した。
「そっちですか? 展示には桜のほうがいいかなって」
「どうして?」
また、その質問だ。
「大きくしたら、きれいに見えそうなので」
「それなら桜もいいと思う。でも、俺はこっちのほうが長く見たくなる」
彼の指は、紙の外側に置かれていた。
「お茶を受け取る手が、いい。いつもこうしてるんだろうなって」
私は写真を見直した。
店主はカメラを見ていない。湯飲みに添えた指が、少しだけ曲がっている。
この手が好きで、シャッターを切ったのだった。
「でも、店の名前が分かるし、こういう場所に出すのは迷ってて」
「許可、まだなんですね」
「はい。ご本人に聞いてから決めたいです」
「じゃあ、候補のままにしておきましょう」
瀬尾さんは、桜の写真を私のほうへ戻した。
「どっちにしても、成瀬さんの三枚だから」
推した写真を選ばないと、不機嫌になるのかと思っていた。
彼はもう、次の雨上がりの写真を見ていた。
「これ、水たまりに看板が映ってるの、気づいて撮りました?」
「そこを撮りたかったんです」
「なら、もう少し見える明るさにできそう」
今度は、私から隣の椅子を引いた。
どこまで明るくするか、同じ写真を見ながら話した。
*
説明文の締め切り前に、瀬尾さんからサークルの連絡網にメッセージが届いた。
『仕事の納期が重なったため、土曜日の作業には参加できません。パネルの見本は金曜夜に置いておきます。寸法確認と発注は予定どおり担当します』
私は返事をして、集まった説明文を見直した。
土曜日は私が進行を引き受けていた。見本は届いても、色の違いや印刷について質問されたら、私では答えられないかもしれない。
私は家のプリンターで、題名札の見本を作った。縁に細い灰色の線を入れると、まとまって見えた。
パネルも一案にまとめておけば、説明しやすい。
以前共有された色見本の写真を見て、白を選んだ。
瀬尾さんの発注用の表に『白で統一予定』と書き込み、参加者へ資料を送った。
『土曜日はこちらの案で確認します。瀬尾さんの分も進めておきました』
やっておいたと知らせれば、助かるだろうと思った。
十分ほどして、瀬尾さんから電話が来た。
「今、少し話せます?」
「はい。資料、見てもらえました?」
「見ました。作ってくれてありがとう。ただ、俺の担当まで決める前に相談してほしかったです」
お礼のあとに続いた言葉で、肩が固まった。
「まだ発注してませんよ」
「それは分かってます。でも、みんなに白で統一予定って送ると、それが決まった案に見えるでしょう」
「あくまで土曜日の相談用で……」
「俺も、写真に合わせた色の案を作ってたんです。見本と一緒に、金曜に持っていくつもりで」
言われて、予定表を見た。
金曜日の欄に、『見本提出』とあった。
「でも、忙しいって書いてあったから。土曜日に質問が出ても、私が答えられる形にしておこうと思って」
「土曜日には出られない、です。担当をやめたいわけじゃない」
「早く決めたほうが、楽かなって」
「俺は、自分の案も見てもらいたかったです」
胸に、ちくりと刺さった。
やってあげたのに。
ほんの一瞬、そう思った。
けれど、瀬尾さんは頼んでいない。
自分の分は予定どおりやると、ちゃんと書いてあった。
電話の向こうで、紙の動く音がした。
「成瀬さん、今日これ作るの、時間かかりました?」
「……二時間くらい」
「説明文を集める分もあるのに、そこまでしなくて大丈夫です。間に合わないと思うところがあるなら、先に教えてください」
圭吾には、相談していた。
必要なことを具体的に頼み、待つ期限も伝えた。それでも彼は返事をせず、確認したふりをした。
でも、今夜の瀬尾さんには、何も聞いていない。
忙しいなら自分がやったほうが早いと、勝手に決めた。
「すみません。瀬尾さんの予定を確認しないで進めました」
「俺も、金曜に色の案を出すところまで書けばよかったですね」
気まずくて電話を切りそうになった。けれど、手元の表には、まだ分からないことが残っていた。
「あの、一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「当日、私が答えられない質問が出たら、どうしたらいいですか」
「書き留めて、俺に回してください。週明けに確認しても、発注には間に合います」
その場で全部答えなければいけないと思っていた。
でも、そんなことは誰にも頼まれていない。
見本は全種類並べ、各自の希望と質問を残すことにした。題名札も、私の案を含めて相談する。
私から訂正を送り、金曜には瀬尾さんが見本と一緒に簡単な説明を添えてくれることになった。
「私、最初からそう聞けばよかったですね」
「今、聞いてもらえたから大丈夫です」
資料を『色は見本を確認して相談』に直して送り、冷めた夕食を温め直した。
少し気まずい。
でも、何をすればいいかは、電話をする前よりよく分かった。
*
金曜日に置かれた見本には、白、淡い灰色、黒の三種類があった。
私たちが提出した写真の縮小版を、それぞれに載せてあった。
土曜日、皆で並べてみると、黒いパネルに載せた夜景がよく映えた。
私の桜の写真は、淡い灰色だと白い花が見やすかった。
「全部、同じにしなくてもいいんだね」
誰かが言い、私はうなずいた。
一人で見本の写真を眺めていたときには、気づかなかった。
次の作業日に、瀬尾さんに感想を伝えた。
「灰色、よかったです。あれにしたいです」
「了解。題名札は?」
「私は、線のないほうが写真を見やすいと思います」
自分でつけた灰色の線だった。
隣に写真を置いてみると、ないほうがいい。
「俺も、ないほうが好きです」
瀬尾さんは、私の見本を発注用の封筒に入れた。
あの二時間が全部無駄になったわけではなかった。
作業が終わると、瀬尾さんが自分の写真を三枚並べた。
工場の窓、歩道橋、川にかかった小さな橋。
どれも形が整っていて、線がきれいだった。
「成瀬さん、どれを大きくするのがいいと思います?」
「見ていいんですか」
「そのために出しました」
橋の写真を手に取った。
橋の中央に、自転車を押す人がいる。
「私はこれが好きです。橋もきれいだけど、この人が入ると、向こうに道が続いてる感じがします」
「そこ、入れるか迷ったんですよ」
「いないほうもあるんですか?」
瀬尾さんがスマホで別の一枚を見せた。
人のいない橋は、静かで、少し遠かった。
「瀬尾さんは、どっちを撮りたかったんですか」
聞いてから、彼のいつもの質問だと気づいた。
瀬尾さんが、少し笑った。
「最初は橋。でも、帰ってから何度も見るのは、人がいるほう」
「じゃあ、私もそっちがいいです」
彼は二枚を見比べて、うなずいた。
「こっちにします」
写真を返すと、瀬尾さんはまだこちらを見ていた。
「最近、成瀬さんに写真を見てもらうの、楽しみなんです」
「私でいいんですか?」
「どこを見たのか、ちゃんと言ってくれるから。俺が気づいてなかったところまで」
私は橋の写真をもう一度見た。
自分の意見を、次も聞きたいと思ってもらえた。
嬉しくて、何か返事をしようとしたのに、うまく言葉にならなかった。
*
パン屋の店主の写真も、展示することになった。
店へ相談に行くと、店主は照れた顔で奥さんを呼んだ。
「顔、変じゃないか?」
「いつもどおりよ」
奥さんはそう言って、写真をのぞき込んだ。
「ここに来て、もう四十年になるの。こんなふうに撮ってもらえるの、嬉しいわ」
二人に展示する場所と期間を説明し、了承をもらった。
店を出るとき、店主が紙袋を渡してくれた。
「この前、気に入ってくれたやつ。試作、少し変えたんだ」
袋には、小さなパンが四つ入っていた。
その午後は、公民館で瀬尾さんと題名札を切る予定だった。
会議室で袋を見せると、彼は手を洗ってから一つ取った。
「どうでした、写真」
「展示していいって。奥さんも、喜んでくれて」
「よかった」
彼がパンをかじった。
「あ、これ好きだ」
「ですよね」
私は思わず笑った。
「成瀬さん、あの店、よく行くんですか」
「写真を撮り始めてからです。店主さん、撮ってると話しかけてくれるので」
「俺、人の写真は苦手なんですよ。何て声をかければいいか分からなくて」
「瀬尾さんでも、そういうことあるんですね」
「ありますよ。橋には許可の話、しなくていいですから」
真顔で言うので、また笑ってしまった。
私につられて、瀬尾さんも笑った。
その顔を、初めてちゃんと見た気がした。
以来、作業のあとの話が少しずつ長くなった。
写真のことだけでなく、会社の近くの食堂や、休日に洗濯を忘れた話まで。
*
搬入の二週間前、瀬尾さんが作業予定表を閉じたあと、私を呼び止めた。
「来週、夕飯行きませんか」
「打ち合わせですか?」
「打ち合わせは、今終わりました」
私は、鞄の持ち手を握った。
「じゃあ、他の皆さんも」
「成瀬さんと、二人で行きたいです」
いつもの率直な声で、ちゃんと私を見ていた。
婚約を解消したことは、活動を再開した日に彼へ伝えていた。
準備で休んでいた事情を知っていたので、「結婚は取りやめになりました」と話したのだ。
瀬尾さんは理由を聞かず、「戻ってきてもらえてよかったです」と言った。
彼は私の返事を待っていた。
「……行きたいです」
言うと、瀬尾さんの肩が少し下がった。
「よかった。食べたいもの、あります?」
「何でも」
言いかけて、止まった。
合わせたほうが簡単だ。断られずに済む。
でも、今は、自分から言ってみたかった。
「あの、行ってみたい店があります。駅の反対側の、餃子のお店」
「あ、俺も気になってました」
「ただ、かなりにんにくが強いらしくて。苦手じゃないですか」
「好きです。でも翌朝、客先に行くので、金曜にしてもらえると嬉しい」
私はカレンダーを開いた。
金曜は、少し仕事が長引くかもしれない。
「七時半でもいいですか」
「大丈夫です」
店と日時が決まった。
それだけのことなのに、会議室を出たあとも口元が緩んでいた。
金曜日、私は駅の鏡で髪を整えた。
青いブラウスを、もう一度見る。
瀬尾さんは、店の前にいた。
いつものパーカーではなく、襟のついたシャツを着ていた。
「予約、ありがとうございます」
「店を教えてもらったので、電話は俺が」
店に入ると、二人用の小さなテーブルに通された。
餃子を二種類頼み、辛いものが好きか聞いてから、もう一皿選んだ。
写真展の話は、最初の十分で終わった。
瀬尾さんがカメラを川に落としかけた話を聞いた。私は子どもの頃、使い捨てカメラの全部を家の猫に使った話をした。
「昔から、撮りたいもの決まってたんですね」
「全部ぶれてましたけど」
「それでも、撮った写真は残ってる?」
「あります。母がアルバムに入れてくれてて」
「見てみたいです」
次に会う話を、こんなに自然にしてくれる。
私は水を飲んでから、彼のほうへ顔を上げた。
「瀬尾さんの、最初の写真も見せてください」
「いいですよ。たぶん、今よりずっと適当です」
それでも見たかった。
この人が、これまで何を見てきたのか知りたかった。
*
搬入の日、瀬尾さんは約束の時間に台車を持って来た。
皆でパネルを運び、壁に並べた。
店主の写真は、通路の角に飾られた。
淡い灰色の上に、湯飲みを受け取る手が浮かんでいる。
私は少し離れて眺めた。
「どうです?」
隣に瀬尾さんが立った。
「出してよかったです」
「うん」
彼の橋の写真は、その斜め向かいにあった。
自転車を押す人が、向こう岸へ歩いている。
「瀬尾さんも、こっちでよかったですね」
「成瀬さんが言ってくれたこと、見るたびに思い出します。向こうに道が続いてるって」
私は写真を見るふりをした。
ちゃんと覚えてくれていたことが、嬉しかった。
会期中、パン屋の夫婦が見に来てくれた。
店主は自分の写真の前で腕を組み、奥さんはその隣で笑っていた。
「二人で写っておけばよかったかしら」
奥さんが言う。
私はカメラを持ち上げた。
「今、撮ってもいいですか」
夫婦は顔を見合わせて、写真の前に並んだ。
瀬尾さんが通路を確認し、他の来場者が通り過ぎるのを待ってくれた。
シャッターを切る。
画面の中で、店主の肩が奥さんのほうへ少し傾いていた。
こんな写真を、これからも撮りたいと思った。
展示は一週間で終わった。
最後の片づけをして、借りた会議室に戻る。机の上には、使わなかった題名札と短くなったテープが残っていた。
皆が帰り、瀬尾さんと二人で忘れ物を確認した。
「これで、終わりですね」
「終わりましたね」
私は空の封筒を重ねた。
次のサークルの集まりは、一か月後だった。
その間、瀬尾さんに聞かなければならないことは、もうない。
でも、猫のアルバムはまだ見せていない。
彼の最初の写真も、まだ見ていなかった。
「瀬尾さん」
彼が顔を上げた。
「今度は、展示の用事がなくても会いたいです」
封筒の角を、指で押さえた。
「ご飯に誘ってもらって、嬉しかったです。私も、瀬尾さんと二人で会いたい」
彼は何か言おうとして、口を閉じた。
いつも返事の早い人が黙ったので、急に不安になった。
「……もしかして、食事は、そういう意味じゃ」
「そういう意味です」
返事は、今度は早かった。
「ただ、成瀬さんから言ってもらえるとは思ってなくて」
瀬尾さんが、机の端に置いた手を握り直した。
「好きです。俺と付き合ってもらえませんか」
「はい。私も、好きです」
言うと、彼が笑った。
私も笑ってから、少しだけ目元を押さえた。
*
展示を終えた帰り道、次に二人で撮りたいものの話になった。
「俺は、川沿いの古い橋を撮りたいです」
「私は商店街。パン屋さんにも、写真を渡したくて」
スマホの地図を並べた。
橋と商店街は、電車で四十分ほど離れている。
橋に光が入る時間まで調べると、一日で両方へ行くのは慌ただしかった。
「じゃあ、私は次でも」
口にしてから、瀬尾さんを見た。
「瀬尾さんも、急いで回りたくないですよね」
「うん。商店街も、ゆっくり見たい」
「だったら、二回に分けませんか」
彼がカレンダーを開いた。
私も、翌週の予定を確かめる。
一日で済ませなくていい。
どちらかが諦めなくてもいい。
「来週、橋。再来週、商店街でどうですか」
「いいですね」
私のカレンダーに、約束が二つ増えた。
パン屋さんに渡す写真を選ぶため、カメラの画面を開く。
展示の前に並んだ夫婦が写っていた。
その次には、片づけの途中で皆が撮ってくれた一枚があった。
パネルの端を持つ私と、反対側を持つ瀬尾さん。
何か話していて、二人とも少し笑っている。
「こんなのも撮ってもらってたんですね」
「はい。送ります?」
「欲しいです」
送ってから、私は聞いた。
「この写真、部屋に飾ってもいいですか」
瀬尾さんは自分のスマホで写真を開き、少し照れたようにうなずいた。
「俺の分も、一枚お願いします」
私は、印刷する枚数を二枚に変えた。
~完~
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