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INFORCE  作者: あるでひど
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第一話

 朝、アルトは台所の音で目をさました。

 包丁がとんとん鳴る音。湯のふつふついう音。皿がかすかに触れ合う音もする。まだ布団の中はあったかくて、このまま目を閉じていたら、もう少し眠れそうだった。けれど、その音を聞いていると、なんとなく起きなきゃという気持ちになる。

 アルトはうっすら目を開けた。

 部屋の中はまだ少し白っぽい。カーテンのすきまから朝の光が入って、机の上や鞄の金具がぼんやり光っていた。枕元の端末を見ると、時刻は六時を少し過ぎたところだった。

「……まだちょっと早いか…」

 小さくそう言ってみる。でも、もう一回寝たら、今度は起きられない気もした。

 アルトは布団の中でもぞもぞしてから、よし、と心の中で決めて起き上がった。足を床につけるとひやっとして、少しだけ顔をしかめる。それでも立ってしまえば、眠気は少しずつ薄くなっていった。

 部屋を出ると、廊下まで朝ごはんの匂いが来ていた。焼いたパンの匂いと、スープのあったかい匂い。お腹が空いた、と思ったとたんに、頭が少しだけしゃんとする。

 洗面台で顔を洗う。

 冷たい水を受けて、ようやくちゃんと起きた気がした。鏡を見ると、前髪が変なふうにはねている。

「うわ……いつもよりひどいな…」

 手で押さえてみるけれど、すぐには戻らない。少し濡らし直して、指でなんとか整える。完璧ではないけれど、まあいいかと思えるくらいにはなった。

 アルトはそれで満足して、台所へ向かった。

 そこには、いつも通りヴィラがいた。

 黒色の髪を下ろしていて、きちんと整えられたその髪型は、少し神経質なくらい隙がない。顔立ちはもともと整っているのに、表情があまり動かないせいで、近寄りがたい感じが強くなる。目つきもやわらかい方ではないし、背も高い。静かに立っているだけなのに、なんだか普通の家の台所には似合わない人だと、アルトはたまに思う。

 でも、その人が当たり前みたいに朝ごはんを作っているのは、アルトにとってもう見慣れた景色だった。

 ヴィラは皿を置きながら、こっちを見ないまま言った。

「起きたか」

「起きたよ」

 アルトは椅子を引いて座りながら、ちょっとだけ口をとがらせる。

「それだけ?」

「何がだ」

「おはよう、とかあるだろ」

 ヴィラは少しだけ間を空けてから言った。

「そうか、おはよう」

 声がぜんぜん変わらない。

 アルトはすぐに言い返した。

「絶対いま、言えばいいんだろって思った」

「思ってないぞ」

「ちょっと遅かった」

「気のせいだ」

「気のせいじゃない」

 そう言うと、ヴィラはもう返さなかった。こうなると、だいたいヴィラのほうが強い。アルトはむっとしたけれど、毎朝こんな感じなので、本気で怒るほどでもない。

 席につくと、スープから湯気がのぼっていた。パンもまだ少しあったかそうだ。

 アルトは手を合わせてから、先にスープをひと口飲んだ。

「あつ……」

 向かいに座ったヴィラが短く言う。

「そうか」

 ほんとうに短い。もうちょっと心配とか何かないのかな、とアルトは思う。でも、ヴィラがこういう返しなのはいつものことだった。感情はなんとなくわかる。わかりにくいけど。

 パンをちぎって食べる。外は少しかためで、中はふわっとしていた。スープの野菜も小さく切ってあって食べやすい。ヴィラはこういうところだけ、妙にちゃんとしている。

 食べながら、アルトはちらっと部屋の隅へ目をやった。卓上投影機から、薄い青白い光が立ち上っている。空中に浮かぶホログラムモニターでは、朝のニュースが流れていた。

 海上封鎖の強化。国境線沿いの検問増設。配給便の遅れ。画面の中のアナウンサーは落ち着いた声で読んでいたけれど、いい話ではないことくらいアルトにもわかった。

「また検問増えるって」

「最近ずっとだ」

 ヴィラはホログラムのほうを見もしない。

「学校の帰り、遠回りになるとやだな」

「今日はまっすぐ帰れ」

「まーた子どもあつかい…」

「まだ十一歳だろ」

「それはそうだけど」

 言い返しながら、アルトは少しだけ笑った。こういうふうに言われると、たしかにそうか、という気もする。

 ヴィラはそこで席を立つと、流し台の脇に置いていた小さな包みを持ってきて、何も言わずにアルトの鞄へ入れた。焼いたパンの切れ端と、少しだけ甘い干し果実。昼の給食だけでは足りないときのためのものだと、見なくてもわかる。

「ありがとう」

「構わん」

 ヴィラは平然としている。

 こういう小さい用意だけは、昔から妙に抜け目がなかった。熱を出したときの氷も、雨の日の替えの靴下も、アルトが口に出す前に置いてあることが多い。ありがたいのに、わざわざ礼を言うのも少し気恥ずかしい。その半端な気持ちまで見抜かれていそうで、アルトは結局、鞄の口を閉じるだけにした。

 朝ごはんを食べ終わって、アルトが皿を持つと、ヴィラが手を出した。

「こっちに寄こせ」

「え、今日は俺が洗うよ」

「時間がないだろう」

「まだあるって」

「髪もまだ少し濡れてるぞ」

 指を差しながら言われて、アルトは自分の頭を触った。

「……なんでわかるんだよ」

「見ればわかる」

 ヴィラはそう言って皿を受け取った。

 アルトは少しだけむっとする。でも、たしかに自分の準備がまだ終わっていないのも本当だったので、それ以上は言えなかった。

 部屋に戻って鞄を開く。教科書、ノート、筆記具、端末。提出物もちゃんと入っている。昨日の夜の自分、えらい、とアルトは思った。ちょっとだけだけど。

 制服を整えて、もう一度髪を手で直してから玄関へ行くと、ヴィラはもう外套を着ていた。

「今日はヴィラも出るの?珍しいね」

「ああ」

「どこ行くの?」

「少し用だ」

「またそれか、たまには教えてくれたっていいのに」

 アルトは靴を履きながら言った。ヴィラが何をしているのかは教えてくれない。というより、仕事はしているのだろうか、お金に困っている姿を見たことがない。あの人のことだから、機密事項なのかな、とかたまに考える。でも、普通の日常を送れればそんなことは大して気にもならなかった。

「最近よく外に出るけど、大丈夫?」

 責めるつもりはなかった。ただ、ほんとうにそう思っただけだ。ヴィラは前からあまり自分のことを細かく言うほうじゃなかったけれど、最近はとくにそんな感じがした。

 ヴィラは少しだけ黙ってから言った。

「大丈夫じゃないかもな」

「否定しないんだ」

「事実だからな」

 なんだか妙にまっすぐな返しで、アルトは少しおかしくなった。

「そういうとこ、真面目すぎるね」

「お前が適当なんだ」

「ひどいな」

 そう言いながらも、アルトは少し笑っていた。

 玄関へ出る直前、ヴィラがふいに手を伸ばした。アルトは一瞬だけ身を引きかけて、でも止まる。襟元が少し曲がっていたらしい。ヴィラは無駄のない手つきでそれを整え、ついでに肩へかかっていた鞄の紐も引き上げた。

「じっとしてろ」

「自分でやるってば」

「お前だけに任せられん」

 短いやりとりなのに、その距離の近さがアルトには少しくすぐったかった。ヴィラの指先は冷たいのに、襟元だけが妙に熱く感じる。アルトは何も言えなくなって、先に靴先を玄関の外へ向けた。

 玄関の扉を開けると、朝の空気がひんやりしていた。まだ少し冷たいけれど、空はもう明るい。道には人がぽつぽついて、運搬車が低い音を立てて通り過ぎていく。

 二人で家を出て、並んで歩く。

 学校までずっと一緒というわけじゃない。途中まで行くと、ヴィラは別の道へ行くことが多い。でも、この少しの時間をアルトはわりと気に入っていた。ずっとしゃべっていなくても気まずくないし、なんとなく落ち着く。

 しかもヴィラは、本人は絶対に認めないだろうけれど、歩く速さをちゃんとアルトに合わせていた。急かしもしないし、遅すぎもしない。そのことに気づいているのは、たぶんアルトだけだった。

 道ばたの草に朝露がついているのを見たり、角の店が前と少し変わっているのを見たりしながら歩く。そういう小さいことをぼんやり見ていると、朝って感じがした。

「今日、小テストだった気がする」

「気がするで済ませるな」

「昨日まではちゃんと覚えてたんだよ」

「今あやふやなら変わらん」

「先生みたい」

「嫌か」

「ちょっとだけ」

「そうか…」

 でも本当は、ちょっとも嫌じゃなかった。

 学校へ向かう通りの手前で、ヴィラが足を止めた。

「今日もここまでだ、気をつけてな」

 アルトも止まる。

 毎日のことなのに、ここで別れる前は少しだけ変な感じがした。もう子どもじゃないし、学校くらい一人で行ける。でも、家を出てからここまで一緒にいたぶん、急にひとりになると少しだけさみしい。

「うん、ありがと、行ってくる」

「ああ」

 いつも通りの短いやりとり。

 アルトは数歩進んでから、なんとなく振り返った。

 ヴィラはまだそこに立っていた。黒く染まった髪のはずなのに、朝の光を受けると、その輪郭だけが一瞬銀色に光って見えた。光の加減だとわかっているのに、アルトはなぜか少しだけ目を引かれる。

「何だ」

「……ううん。なんでもない」

「そうか」

 アルトは小さく手を振って、そのまま学校へ向かった。

 校門をくぐると、いつものにぎやかな音が聞こえてきた。友達どうしの話し声、走っていく下級生、遅れそうであわててる誰かの足音。さっきまでの静かな空気が、一気に学校の空気に変わる。

「アルト!」

 後ろから呼ばれて振り返ると、同じクラスのリオが手を振っていた。

「課題やったか?」

「やった」

「ほんとに?」

「ほんとに。たぶん入ってる」

「たぶん、って何だよ」

「確認したから大丈夫。たぶん」

「全然大丈夫じゃないだろ、それ」

 リオはそう言って笑いながら、アルトの肩を軽く叩いた。いつも少し声が大きい。先生に注意されるのも、だいたいリオが先だった。

 そんな話をしながら教室へ入る。

 席につくと、窓から朝の光がよく入っていた。前の席のミナが振り向いて、「昨日の問題わかった?」と聞いてくる。

「まぁ一応」

「えー、私はわかんなかったよ」

「そ、そうか」

「今度新作のゲーム貸すから教えて〜」

 リオが横から笑った。

「俺もやりたいな」

「え〜今日の給食のデザートくれたらいいよ」

 リオは少し考えてから、渋々受け入れた。ミナはノートを広げた。字は細かくて、余白に小さな絵が描いてある。式の横に、なぜか眠そうな猫の顔があった。

「ここわかんなかったところ」

「猫いるけど」

「目印」

「嘘つけ」

 アルトがそう言うと、ミナも少し得意そうに笑った。

「今日終わったら、裏の広場行こうぜ。」

「また危険な遊びじゃないだろうな」

「禁止はされてないから…」

「それ大丈夫なの…?」

 そんな、どうでもいい話をしていた。

 ほんとうにどうでもいい。課題の答え合わせとか、放課後の遊びとか、昼の給食に何が出るかとか。

 その時のアルトには、そういう小さい話が、明日も明後日も続いていくものに思えていた。

 授業が始まる。

 先生の声は落ち着いていて、黒板の字はきれいだった。アルトは最初はちゃんとノートを取っていたけれど、二時間目くらいになると少しだけ集中が切れてきた。

 窓の外を見る。

 空は青い。遠くの高架路を車が流れていく。建物も道も、いつも通りだ。検問が増えたとか、封鎖がどうとか、物流が遅れるとか、そういう話はたくさん聞く。それでも、この教室の中だけは、ちゃんと昨日の続きみたいに見えた。

 だからアルトは、少しだけ安心していた。

 昼前の授業に差しかかったころ、先生が黒板に式を書いていて、不意に手を止めた。

 アルトもなんとなく顔を上げる。

 何か音がした。

 遠くのほうで、鈍い、低い音。

 最初は気のせいかと思った。でも、教室の何人かも同じように顔を上げていたから、たぶん違う。

 先生も少しだけ窓のほうを見たけれど、そのまま授業を続けようとする。

 そのとき、二回目の音が来た。

 今度ははっきりわかった。

 窓ガラスがびりっと小さく震える。

 教室がざわついた。アルトも思わず身を乗り出して、窓の外を見る。

 街の中心のほうに、細い黒い煙が上がっていた。

「……え」

 小さく声が漏れる。

 事故かな、と最初は思った。

 けれど、その根元で白い光が弾けた瞬間、胸の奥がひやっと冷えた。

 少し遅れて、空気が揺れる。

 誰かが小さく悲鳴を上げた。

 アルトは息を止めたまま、その黒煙を見つめる。

 あの方角は、自分の家があるほうだった。


第二話更新予定日時:6/10(21:00)

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