【BL】お風呂の花男さんSIDE:B~ゲイ風俗キャスト幽霊と湯めぐり怪異譚~
BL注意です。
「ふんふん、ふふふ~ん♪」
ピッ!
『お湯はりをします。お風呂の栓は閉じましたか?』
「うんうん、閉じてるよ~バッチリだよ~」
ジャバー!
「おおお……お湯が勢い良く……」
浴槽にお湯が溜まっていくのをしばし眺め、いそいそと蓋を閉める。
さて、快適なお風呂タイムのための準備をせねば!
改装して新品、ピカピカの浴室を後にして、脱衣所兼洗面所の棚を開ける。
そこにはズラリと快適お風呂グッズが、ところ狭しと入っていた。
「記念すべき初入浴は、どれにしようかな~」
名湯の入浴剤、薬用ハーブ系、しゅわしゅわ炭酸ガス系など、様々な入浴剤が、出番を待つように行儀よく並んでいる。
「ん、やっぱ草津の湯にしよう!」
俺は入浴剤とボディタオルを洗面器に入れて、浴室扉の前に置いた。
「楽しみだな~、ぐふふ、人生のクライマックスって感じ」
たかが入浴でクライマックスとは、と思うなかれ。
俺の唯一最大の趣味が入浴なのだ。
矢島大輔。30歳、独身。当然、恋人もいない、くたびれた社畜だ。
学生時代の友人はほとんどが所帯を持ち、どこかへ遊びに行くどころか、飲み会すらなくなって久しい。まあ、仕事が忙しすぎて、滅多に参加もできなかったが。
そんな俺でも、毎日の入浴は欠かさない。入浴だ。シャワーじゃないぞ?
大学を出て真面目に働いて、使う暇もなく溜め込んだ金で、中古のマンションを購入した。そして、念願の足を伸ばして入れる浴槽にリノベーションしたのだ!
こだわり抜いた内装に滑らかな浴槽。浴室乾燥機能もつけた。
そんな素晴らしい風呂のある新居に、俺は今日引っ越してきたのだ。
荷物はまだちっとも片付いていないが、風呂さえ入れればそれでいい。寝る場所なんざ、床だって構わない。
ちゃんらら、ちゃんらら、ちゃんらららら~♪
「おおっ」
なんという心踊る調べ!
『お風呂がわきました』
「わかった!」
ともかく。俺の社畜人生で最大の楽しみとなる風呂場へ、いざ行かん!
急いで服を脱ぎ、洗面器を手に天国への扉を開いた。
ガラッ ガタガタッ
蓋を開けると、ほのかに湯気の上がる水面が、俺を誘っている。
「はわわ……」
俺はすぐにでも飛び込みたい気持ちを抑え込み、まずは入浴剤を入れて、よくかき混ぜる。
よし、ちゃんと溶けたな!
それから、かけ湯だ。心臓から遠い部分から、ゆっくりと体を温度に慣れさせつつ、汚れも流すのだ。ジャバジャバと念入りに湯を掛けていくのは、入浴前の儀式だ。自分だけの風呂とはいえ、風呂に失礼を働いてはいかん。
準備が整い、やっと風呂に入れる。
まずは足からゆっくり……ああ、あったかい。かけ湯の効果だ。熱く感じない。(体が冷えていると熱く感じるのだ)
とぷん……
「ふあああああああああああああ………」
天国だ。
俺だけの、まさに至福の時間――
「はあ……」
ぴちょん……
天井から落ちた水滴が、波紋を作る。
それに目を奪われ……そのまま視線を上げると。
そこには、水も滴るイイ男……アイドルのような、若い美男子が湯に浸かっていた。
「…………」
(いやいやいや、入る前には誰もいなかったよな!?)
あまりのことに声も出ない俺を無視して、美青年が浴槽の縁に肘をついていた。
『やっと、お風呂にお湯が入った……キモチイイ』
んー、と腕を伸ばして、気持ちよさそうにくつろいでいる。(浴槽は大きいので、二人で入っても余裕はある)
(誰、というか、俺が見えてないのか? ここは、俺の風呂……だよな? 違ったっけ? 仕事が忙しすぎて幻覚でも見てんのか? どこからが幻覚だ? ひょっとしてこの風呂は俺の願望が……?)
ぴちょん
「ちべてっ!」
『わっ、びっくりした!』
天井からの雫が、首筋に当たった。
思わず出た声に美青年が反応したのを見て、正気に戻る。
「夢じゃねーな? ……お前、誰だ?」
美青年は俺の言葉に、ゆっくりと顔を上げた。
『へ? ひょっとして俺のこと?』
「お前以外に誰がいるんだ」
『えっ、お兄さん、俺が見えるの!?』
「何をおかしなこと言ってんだ……ここは俺の風呂だぞ!」
『うん、知ってる!』
「…………」
銭湯や温泉ならともかく。
自宅の風呂に、見知らぬ他人が入っていた場合、どうすればいいのか俺は知らない。
「知っているなら、……とにかく出て行って……」
ここで、はたと気づいた。
こいつは一体いつからここにいるんだ?
今日は引っ越しだったから、玄関を開け放していた時間があった。その時に侵入したのか?何か盗まれていないか?このまま追い出したら、それを持ったまま逃げるんじゃないか?
「面倒くせえ……せっかくの初入浴が……」
腹立たしいことこの上ないが、一緒に上がってこの男の持ち物を確認しないと。
いや、警察に突き出すのが先か?
『残念だけど、お兄さん。俺、ここから出れないんだよね』
「なんでだ」
飄々とした態度が癇に障る。というか、こいつも俺も全裸で、お互いに防御力ゼロだ。
見たところ、体格的に負けるということはなさそうだが、見た目に騙されてはいけない。武術の心得があるかもしれないし、武器だってどこかに仕込んであるかもしれない。
『そんな物騒な目しないでよ。別に俺、何もしないからさ』
「信じられるか」
『俺、たぶん、幽霊なんだよ。気づいてくれたのは、お兄さんが初めてだけどさ』
「ユウレイ……」
トンデモなことを言い出したぞ、と思ったが、そもそも赤の他人が風呂場にいる事態がトンデモだ。
「ここ、事故物件だったのか……」
『あはは、違う違う。この近くに風俗店あるでしょ? 俺、そこのキャストなんだわ』
「風俗店……」
確かに、ここは繁華街に近い。お陰で治安は悪いし、ゴミゴミしているが、独身男が住むのに全く問題はない。通勤を考えて距離で選んだ物件だったが、他と比べて安かったのもそのせいだ。
『客にちょっと過激なヤツがいてね。いつもは店長が止めてくれるんだけど、その日は代理しかいなくてさー。通しちゃったみたいなんだよね。それでこの有様だよ。全く』
困った様子のない美青年幽霊の言葉を鵜呑みにするはずもない。俺は別の方法で、男の言葉を確認することにした。
『わっ、お兄さん、ダイターン♡』
「ふざけんな。ほら、ちゃんと掴めるだろ。幽霊なら、実体はないだろ」
男の手首を掴んでみると、ちゃんとした人間の手だった。
『へー、掴めるんだ。自分ではわかんないから、知れて良かった。お兄さん、ありがとう』
逆に男が手を伸ばしてきて、俺の肩に触れた。ぺたぺたと触られている感触がある。いや、何やってんだ。これ。
『ふふ、お兄さんのお風呂を借りてるから、お礼しなくちゃね♡』
「礼?」
『俺、上手だよ。エッチなサービス、受けてみない?』
「神聖な風呂場でなんてことを……」
呆れる俺を無視して、ユウレイ(仮)は浴槽から出る。
(出れんじゃねーか)
『スケベ椅子があれば良かったんだけどなー』
「あるかボケ」
このまま逃走するんじゃないかと警戒する。
まあ、全裸で家から出るとは思えんが……
「え?」
シャンプーのボトルを持つユウレイが透けて、浴室の扉が見えている。
「な、お前、透けて……」
『え、そうなの? 自分じゃわかんないんだよねぇ』
呑気なことを言っている間にも、ユウレイの姿はどんどんと透明に近付いていく。
『やっぱ無理かー』
ゴトン、とボトルが床に落ちる。
ほとんど透明になったユウレイが浴槽に戻ってきて、お湯に浸かる。水しぶきは上がらなかった。
『残念。やっぱ無理みたいだわ』
「お、お前、今の」
『ご覧の通り。俺、風呂から出たら実体化できないみたい』
お湯に浸かると、今度はどんどん姿がはっきりしてくる。
「こんな幽霊、聞いたことないぞ」
『俺も』
物取りや、気狂いの方が良かったかもしれん。
これは、どう対処すればいいものか。
「……まあ、ここから動けないのか?」
『そうみたい』
「なら、……とりあえず、風呂を満喫させてくれ……」
考えるのは、後回しにしよう。
「今日、俺、引っ越しだったから疲れてるんだ」
『あ、そうだったね』
「それに、記念すべき、初風呂なんだ……」
『ホント、ごめんねー』
「軽い……いいけど。俺にとっては一生に一度の大イベントだったんだぞ」
『わあ、ごめん!』
そんなこんなで。
(しっかりと満喫してしまった)
風呂上がりに、牛乳を一杯。
浴槽の湯を抜きながら、掃除をして、最後にきっちり水分の拭き取りまでやった。完璧だ。
ユウレイ(仮)は、浴槽の湯が排水口から流れて、水位がゼロになると同時に透けて消えた。
(疲れたけど、……なんか、温泉で誰かとしゃべったみたいな感覚だったな。……幽霊だったけど)
事故物件じゃないと言うなら、別の風呂にでも移動したんだろうか。
風呂ならどこでも良いのかもしれない。
「まあ、たまになら、誰かと一緒に風呂に入るのも悪くないな。せっかくデカい浴槽にしたんだし」
どうせなら、綺麗な女性の方がいいんだが。
まあ、俺には一生縁がないので、仕方ない。
ほかほかとした体で、俺は荷解きもしていない段ボールの間を抜けてベッドに向かった。
そのまま深く考えることなく目を閉じると、すぐに眠りについた。
次の日。
「まあ、そんなことだろうとは思ったぜ」
仕事から帰ってきて、いそいそと浴槽に湯を溜め始めると、ぼんやりと浴槽に腰掛ける全裸の男の姿が浮かび上がってきた。
『やあ、昨日ぶり』
「お前、あれからどこにいたんだ?」
『えっと、ずっとここにいるけど? 見えないだけで』
「マジか。裸で寒くないのか?」
『んー、湯船に浸かってると暖かいけど、外にいても特に寒くは感じないかなぁ』
「まあ、幽霊だしな……」
湯が入ったので、俺も入浴する。
既にユウレイ(仮)が入っているので、一番湯はまだ未経験である。ちょっと納得がいかない。
「そういや、お前、名前なんてぇの?」
『俺? トシキって呼ばれてた』
「トシキか」
ユウレイ(仮)よりはいいか。
「んじゃ、トシキ。お前、いつまでここにいるつもりだ?」
『それなんだよね……』
「そもそも、ここで死んだんじゃなかったら、なんで来たんだ?」
『あ、聞いてくれる? それがさあ……』
トシキは馴れ馴れしいヤツだった。
他人の風呂に居座ってる上に、身の上話を始めた。
『俺、どうにも人との距離を間違っちゃうみたいでさー。頭もあんま良くないから、ずっとフリーターやってたんだよ。そのバイトもすぐに揉めて辞めちゃって。んで、風俗キャストやってたの。親がいないから、働かないと食ってけないし』
軽い口調だったが、内容は重かった。
『風俗はね、店は良かったんだー。キャストだと、いろいろ面倒見てもらえるし。俺の難アリの性格でもイジめられなかったんだけど、客がねー……』
見た目でついた常連客も、トシキの空気の読めない性格に苛立つようになる。それならチェンジすればいいものを、指名してはヤルことだけヤッてから罵倒するそうだ。
それが、ついに暴力に及ぶ段になって、店はその客を出禁にした。
だが、トシキが幽霊になることになった、その日。店長代理がうっかりとその男を通してしまった。
『多分、殴られたんだと思うんだけど。その辺りはぼんやりしてるんだよねぇ』
「確認したくならないのか?」
もし俺なら、自分が本当に死んだのか確認したい。
風呂にしか楽しみを見いだせない俺にも家族はいる。しばらく会っていないが友人もいる。本当に死んだのなら、別れを告げたい。いや、相手には見えないんだろうが。
『確認してもなぁ……幽霊になった俺がこれからどうなるのかは、ちょっと気になるけど、俺が死んだあとの後始末とか、どうでも良くない?』
「友達とか」
『いないよ。身寄りもないし。まあ、店長には悪いと思うけど、労災だとでも思ってもらおうかなって』
「風俗って労災降りるのか」
『受け取る人いないけど、この場合、どうなるんだろうね!』
うひひ、と笑うトシキは、銭湯で雑談するような軽い口調で話す。
こういうところが空気が読めないってことなんだろうか。風呂にしか興味のない俺は、気にならないんだが。
『そんでさあ、しばらくは店の風呂場にいたんだよ。でもさあ、風俗店の風呂じゃん?狭いし、客とキャストが入ったら、俺の入る隙間なんかねーじゃん!エロいことしてるしさー』
「入ったことないけど、まあ、狭そうだな。入りたいとも思わんし……風呂はゆっくり入るもんだ」
『でしょ! だから俺、店から出たんだよね。そしたら、すごい、なんか、惹かれて……気づいたら、ここにいて。……すっごいキラキラしてた。なんていうか夢みたいなお風呂!』
「だろう!」
自慢の浴室を褒められて嬉しいに決まっている。
俺の中でトシキがただの幽霊から「良い幽霊」にランクアップした。
「ひょっとして、お前も風呂が好きなのか?」
『大好き! でも、寮の風呂は狭いから、たまーに銭湯行くのが幸せだったな~。でも、近所の銭湯潰れてさー』
「わかる! 減ったよな!」
意気投合して、風呂談義に話が咲いた。
『俺さあ、じいちゃんがいた時、じいちゃん家のデカい風呂が好きでさー!総檜の湯船が最高だったんだよ!』
「子供の時か? 渋いな。確かに、ヒノキは心惹かれる……俺も、この風呂、ヒノキにしようかって悩んだんだ。でも手入れがな……」
『この風呂もこだわりがあっていいじゃん。すごくゆったりできるよ! はー、風呂さえあれば生きていけるって思ってたんだけどなー。まさか、あんな客に殺されるなんて、ついてなかったよ~』
がっくりとするトシキに、かける言葉はなかった。
「まあ、俺には何もできないが、風呂でいいなら、いくらでも入っていけよ」
『ありがとう! 優しいね!』
現金なトシキは顔を上げて明るい顔になる。
それを見て、ホッとしてしまう。
「あ、おい。……お前、体……」
『え?』
見ると、トシキの体が薄っすらと光っている。
『え、なに、これ……』
ちゃぷん、トシキがお湯をすくって自分の手を見つめる。
『あ……そうだ、俺……』
トシキが、ふっと無表情になった。
『あの時……』
トシキの中に、死んだ時の記憶が蘇る。
部屋の中に飛び散る鮮血。多分、あれは自分の血だ。
不思議と痛みはなかった。ただ頭が熱くて、手を伸ばしたらヌルっとした感触があった。
手のひらを見ると、真っ赤だった。
(ああ、俺、死ぬのかな……)
普通にそう思った。
自分なりに一生懸命に生きてきたけど、いろいろ辛いこともあったけど。
トシキはあっさりと自分の命の終わりを悟った。
こういうものだ、と思うのが楽だった。
――しかし、ふとした欲求が首をもたげた。
(気持ち悪いな……これで最後だっていうのに、こんな血まみれ……嫌だな)
むせ返るような血の匂い。シャツが肌に貼り付いて、不快なことこの上ない。
(ああ、最後に、風呂入って、さっぱりしてから、死にたいなぁ……)
これが、最後の記憶だった。
『そっか、俺、風呂に入りたすぎて、地縛霊になったのか!』
「場所に縛られてないから、風呂縛霊じゃねーか?」
『ははっ! なにそれ』
トシキは少し考えて『風呂、入り放題じゃん!』とまた笑った。
『そんじゃ、風呂に入ったから、満足して? 俺、成仏すんの?』
「いや、俺にはわからんが……」
んー、んー?と、トシキが自分の体を探っている。
『成仏?しそうな気配はないんだけど……』
「光も収まったな……」
お湯は一定温度を保っている。
重い話の間に冷めてしまっては、気分まで落ち込むところだった。最新の給湯器、ありがとう。
「さて、そろそろ俺は上がるけど、お前、このまま入ってるか?」
『んーん、いいよ。電気代勿体ないし。俺、見えなくなるだけで、ここにはいるからさ』
「そうか」
言われるまま、栓を抜き、湯を流しながら掃除をする。トシキも消えるまでは手伝ってくれた。
それから数日後。
最近は働き方改革とかで、うちのような弱小企業もなかなか残業できなくなってきた。まあ、仕事の総量が減る訳じゃないので、仕事中はまさに戦場なのだが。
ともかく、久しぶりに定時上がりだったので、俺は気になることを調べようと、近所の盛り場へと出向いていた。
「アロマサロン・プリズム……」
トシキから聞いた店の名前だ。
風俗店とはいえ、良くしてもらったと言っていたから、彼が本当に死んだかどうかの確認ぐらいは出来るだろう。
しかし、しばらく歩き回ってみても、その名前の店舗が見当たらない。
風俗店だから、目立たないようにしているのか?
「お兄さん、可愛い子いるよ! 今の時間なら空いてるから、ちょっと割引しとくけど、どう?」
客引きの男が腕を掴んできた。普段ならこの辺りは家に向かって黙々と歩くだけだが、今日はキョロキョロ辺りを見ているからか、声を掛けられた。
「ああ、悪い。客じゃないんだ。知り合いが勤めてた店を探しててさ。アロマサロン・プリズムって知らない?」
「プリズム?」
客じゃないと思った瞬間、客引きの態度が悪くなる。
しかし、それでも思い出そうとしてくれている。意外に親切だ。
「あ、ひょっとして、あっちの筋にあったゲイの? なんだ、お兄さんゲイか」
「あー、まあ……」
風呂好きの幽霊が家にいます、とは言えない。
俺は曖昧に笑って、頷いた。
「あの店、トラブル続きで一年ぐらい前に閉めたよ。今は別の店が入ってる」
「そうですか……」
「さすがに死人が出ちゃなあ。しかも、店ん中じゃ、同情しようもない」
「その、知り合いって、トシキって言うんですけど、まさかそいつじゃ……」
「ああ、確かそんな名前だったな。本名は違ったと思うけど」
やっぱり死んでいるのか。
数日だけの付き合いだ。なんなら生きている姿を見たこともない。それでも、死んだと聞くと、胸が詰まる。
派手で安っぽいネオンの街。ここで生きて、殺されたトシキを思うと、どうにもやるせない気分になった。
「ただいま」
一人の家。当然、応えるものなんていない。
なのに、能天気な声が頭に響いた。
『あ、おかえりー!』
「は?」
見ると、リビングにトシキがいた。
「お前、なんで……」
『へへ、すごいでしょ!』
「なんで、服着てるんだ!?」
『そこなの!?』
トシキの格好は白いTシャツにジーンズというシンプルなものだ。
ただ、向こうの壁が透けているが。
『昨日、お風呂の残り湯を排水しないで残しておいたんだ。ぬるかったけど、それで何とか手だけ実体化させて、給湯して……』
「いや、それとここにいる理由がわからないんだが!?」
『これ』
バケツにお湯が入っている。
『これ以上お湯が入る入れ物なくてさ。どうしても透けちゃうよね』
「どうやって持ったんだ」
『それはこう……』
トシキが気合を入れると、腕だけがはっきりとして、それ以外の色が薄くなった。
「服は!?」
『部屋ですっぽんぽんでいるのはおかしいでしょ? 俺、ここまで移動してきた時も服着てたよ? 見えなかっただろうけど』
「そんな便利なのか、幽霊……」
『いやー、いろいろ出来るもんだね!』
風呂が豪勢なだけで、他の部屋はただの中古マンションだ。
ベッドが置かれただけの部屋で、トシキは俺を押し倒した。
「な、何をする……っ?」
『だって、お風呂は神聖だからダメなんでしょ? 正しくベッドでイイコトしよう♡』
「ちょ、まて…! 正気になれ!」
昨日まで一人で寝ていたシングルベッドの上で、トシキが妖艶な表情で唇を舐めた。
『まあまあ、プロに任せなって』
ぽいぽいっと、いつの間にか脱がされたスラックスを床に放り投げられた。器用すぎる……!
『あー、お兄さん、結構いいモノ持ってんじゃん。ふふふ』
「ひゃあ」
下着の上から、全く反応していない息子を撫でられて、情けない声が出る。
『ゴムとか、ローションとか、……ある訳ないか』
「ない、ないから、どいてくれっ!」
どんな馬鹿力なのか、俺より細っこいトシキの腕はビクともしない。
「幽霊のくせに、なんて馬鹿力だよ……っ」
『いやー便利だねぇ』
トシキが俺の上に伸し掛かって、ニッと笑う。
『俺、お兄さんのこと好きになっちゃった。だって優しいもん』
「ま、待て、こういうのには順序ってものが……」
お構いなしに、トシキがYシャツのボタンを外していく。
『そういうの、わかんない』
「わかんない、ってお前……っ」
――ぱくり。
と食われてしまった……。(俺が上だぞ)
俺は全裸のまま、ベッドの上で呆然としていた。
トシキはご丁寧に、体を綺麗にしてくれてから、透けるように消えた。湯が冷めてしまったんだろう。
(なんてこった。プロすげぇ……)
男同士ってのも問題だが、幽霊と寝るなんて、素人童貞にはハードルが高すぎた。衝撃が半端ない。あああ、混乱する。
こういう時は……
(…………風呂に入りたい)
しかし、それでは消えたばかりのトシキと顔を合わせることになる。せめてもう少し時間が欲しい。でも、風呂には入りたい。
俺は考えることを放棄して、のろのろと立ち上がると、給湯ボタンを押した。
『あ、お兄さん! どうだった? 気持ちよかったでしょ?』
数分後、何食わぬ顔で現れたトシキを無視して浴槽に浸かる。トシキも俺に続いたが、風呂では余計なことをするつもりはなさそうだ。
風呂はいつだって、俺を暖かく癒してくれる。
ゆっくりと浸かって、体を洗って、もう一度浸かる。
風呂から上がる頃には、すっかり気分も上がって、一緒に浸かっているトシキと軽口を叩いていた。
それから、トシキはいろんな技を編み出していった。
少量のお湯を保温ポットに入れて移動し、大量の湯のある場所で実体化できるようになった。
お湯の温度が熱すぎても、ぬるすぎてもダメ。38~42℃がベスト。それ以外だと半透明、もしくは見えない。
別にお湯そのものに取り憑いている訳じゃないらしく、冷めたお湯を捨てて、新しいお湯を入れても大丈夫。温度は実体化するために必要なだけで、その場にはいるらしい。
これはつまり、お湯さえあれば、トシキはどこにでも行けるということだ。
しかし、トシキは俺の家から出ていかなかった。
お湯を使った移動手段を手に入れてから、俺達はいろんな風呂や温泉を巡った。旅行もした。
セコイ話だが、1人分の旅費で済むので安上がりだったし、人がいないタイミングを見計らって二人で入るデカい風呂は最高だった。
最初の頃はほとんど浴室で過ごしていたトシキも、気付けばリビングでテレビを見るようになったり、一緒にメシを食うこともあった。(食料は必要ないらしく、食べても少量だったが)
時々、体を重ねて、そのまま一緒に寝ることもあったので、ダブルベッドに買い替えた。
そんな日常が、ゆっくりと繰り返されていく。
そうこうしているうちに、風呂場の鏡に映る俺に白髪が増えてきた。
どれだけ仕事で疲れても風呂に入れば平気だったのに無理が効かなくなってきて、やがて、定年を迎えた。
当然、結婚なんてできるはずもなく、お一人様のまま、老朽化したマンションで老後を迎えた。そろそろ建て替えの話も持ち上がってきている。
それでも、浴室は二度のリフォームを経て、いつもピカピカだった。
ピッピッピッピッピッ……
病室の中、小さな電子音だけが響いている。
「トシキ……」
『目が覚めた?』
薄暗い部屋の中、ベッドに寄り添うようにトシキが立っていた。
あの時のように体が薄っすらと光っている。
「お前が助けてくれたんだな……」
『救急車呼んだだけだよ』
「俺もそろそろ終わりか……」
『そんなこと言うなよ。アンタがいなくなったら、あの風呂、どうすんだよ』
「悪い……」
持ち家のマンションが無人になったら、どうなるんだろう。
うち、相続する人なんて残ってたか?
「なんとかして、……せめて、マンションの建て替えまでは、そのままにしておけるように……」
『馬鹿っ!』
トシキが横たわる俺にしがみついてくる。
『アンタがいなきゃ、どんな最高の風呂場も意味ねーんだよっ!』
トシキの手は出会った頃と同じ、すべすべとした若者のものだ。
幽霊だけど。
そして、俺はお迎えも近いしわしわの爺さんだ。
別れは近い。
『ずっといていい、って言うから、俺……』
トシキの目から涙が零れる。
『“お迎え”も蹴っ飛ばしたのに……』
「ん?」
お迎えって? 成仏ってことか?
「……お前、風呂に未練があって成仏できなかったんじゃないのか」
『違うよ。風呂は好きだけど、もう充分以上に満喫したし』
トシキは潤んだ目で、死期の近い爺さんに、今さらなことを告白してきた。
『お前の風呂に世話になってすぐに、爺ちゃんが来たんだ。天国で最高の風呂を作ったから一緒に入ろうって』
「蹴ったのか? 天国の風呂を? 勿体ない!」
『そう言うと思った! だから、言わなかったんだよ!』
「言えよ! なんで蹴るんだそんなもんっ!」
思わず身を起こしかけて、激しく咳き込む。
「げほっ……げほっ……! ば、馬鹿かお前は……」
『だってさぁ……』
トシキは困ったように笑った。
『アンタが、風呂でいいなら、いくらでも入っていけよ、って言ってくれただろ?』
そんなこと言ったか? 言ったかも。
昔のことで、記憶が曖昧だ。
でも、別に、風呂ぐらい、いくらでも。……いや、普通は言わないか。
覚えてないけど。こいつだったから、言ったのかも。
「ごほっ、おまえ、……そん、なことで……」
トシキが視線を逸らして、唇を尖らせる。
『仕方ないじゃん。アンタと入る風呂がいいって思っちゃったんだし』
沈黙が落ちる。
機械の電子音だけが、規則正しく響く。
「……なん、……げほっ、げほっ」
なんだそれは。
風呂がどうとか言っておいて、結局、お前だって。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
風呂とは違う熱だ。
ああ、何だか、口を動かすのも億劫になってきた。
『俺が死んだら、どーすんだ。じいちゃんが迎えに来てくれんのか?』
『どうだろ? じっちゃんが言うには、迎えは一回きりなんだって』
『はあ?』
自分が死にそうな時に、幽霊の心配なんてしてる場合じゃないのかもしれないが。
ああ、もう瞼が重い。
『お前、馬鹿だろ。どーすんだよ。一人になって、フラフラそこらの風呂に邪魔する気か?』
『俺のことはいいだろ』
『よくねーよ!』
トシキが、ぐいっと俺の手を握る。
『だったら、……最後まで付き合ってよ』
『最後までって……』
目を閉じているのに、トシキの光が僅かに強くなったのがわかった。
ニヤリと口角が上がる。
『矢島大輔、……俺と一緒に行くだろ?』
ああ。
そうか、お前……
『……ああ、行ってやるよ』
――その時。
ピーーーーーーーーーーーー……
機械の音が、長く伸びた。
看護師が慌ただしく動いている気配がする。
だが、不思議と遠い。体の重さが、すうっと消えていく。
気が付くと、俺はベッドの横に立っていた。
ベッドの上には、見慣れたしわくちゃの爺さん。
『……これ、俺か』
『そうだよ、お疲れさん』
隣で、トシキが笑う。
不思議と、悲しさはなかった。ついさっきまで考えていた未練も何もない。
何より、息苦しさや、長年の体の痛みの一切がない。
――ああ、そんなことよりも。
『……風呂、入りてえな』
『だと思った』
トシキが、にやっと笑う。
『血まみれだった俺の気持ちがわかったか』
くんくんと腕の匂いを嗅いでみる。消毒液の匂いしかしない。
というか。
『……俺、若返ってる?』
手の甲にあった深い皺が消えている。しかも、そこで寝ている爺さんが着ている病院着でもない。もう何十年も前に捨てたはずの、お気に入りのジーンズを履いている。
『俺と出会った頃の姿に戻ってるな!』
『なんて、便利な……』
呆れていると、トシキが手を引いた。
『さ、行こうぜ! もう準備してある』
『は?』
その瞬間。視界が、ぐにゃりと歪んだ。
それからゆっくりと視界が焦点を結んだ時、俺が立っていたのは。
――見慣れた、自宅の浴室だった。
しかも、リフォームする前の、引っ越ししてきた当時のまま。
新品の傷一つない床に、広い浴槽。
若かった俺がこだわり抜いた理想の風呂場がそこにあった。
そして、なみなみと湯が張られた、湯船。
既に入浴剤は入れられ、乳白色のにごり湯になっている。微かな硫黄の匂いが風呂心をくすぐる。
『……なんで』
『アンタが執着しすぎたんじゃない?』
トシキが肩をすくめる。
『いやいや、これ、どう見ても、お前のせいだろ』
『どっちでもいいじゃん。早く入ろうぜ!』
ぽいぽいっと着ている服を脱ぎ、トシキが浴槽に入ろうとする。
『あ、こら、かけ湯!』
『あ、そうだった』
トシキは丁寧にかけ湯して、先に浴槽に入った。
『ふい~、一番風呂、サイコー』
『家主を無視して、いつも一番風呂だよな』
俺も続けて、かけ湯をする。
『ほら、早く』
湯気の向こうで、トシキに手招きされる。
(……まあ、いいか)
俺は、ゆっくりと湯に足を入れた。
ちゃぷん。
『ああ……』
ちょうどいい温度だ。
『……やっぱり、風呂はいいな』
『だろ?』
湯気の中。
二人で並んで、肩まで浸かる。
ぽかぽかと温まってきて、リラックスする。
なんだかんだと、疲れてたんだな。
『なあ、ここって天国か?』
まあ、悪くない。
手で湯をすくって、顔を洗う。
『ははっ、まさか』
トシキが意地の悪そうな笑顔を浮かべて、パシャ、とお湯を掛けてきた。
『やめろ。子供かよ』
『次、どこの風呂行く?』
ああ。そうか。
もう、俺もこいつも、どこへでも行けるのか。
『全部行くか』
『そうこなくっちゃ!』
――こうして。
風呂に取り憑かれた男と、風呂に縛られた幽霊は、どこまでも、湯を巡ることにした。
それからしばらくして。
ある温泉地で、奇妙な噂が流れた。
夜遅く。誰もいないはずの浴場から、楽しそうな笑い声が聞こえる。
不審に思った客や従業員が扉を開けると、そこには誰もいない。湯がわずかに揺れているだけ。
同じような話は、銭湯でも。あるいは、とあるマンションの一室でも、ぽつぽつとネットで報告されるようになった。時には人影が目撃されることもあったらしい。
やがて誰かが、それに名前をつけた。
“お風呂の花男さん”
だが、「花子さんのパクリじゃねーか」という一言で、その呼び名はあっさりと廃れた。噂もまた、同じように消えていく。
けれど、忘れた頃に、ふと。
「なあ、聞いたことあるか?」
そんな風に、誰かが思い出したように口にする。
「誰もいない風呂でさ、笑い声がするって話」
「……あー、なんか聞いたことある。二人組で、温泉饅頭が盗まれる、だっけ」
「日本酒のバージョンもあったな」
時々更新される噂は、罪のない都市伝説として消費される。
そうして、噂は人々の口に上がって、また途絶えて……
その頃、とある無人の露天風呂に、ぱしゃん、と水音が響いた。
『なあ~、次どこ行く?』
『源泉掛け流しがいい』
『贅沢だなあ』
『人がいない時を狙ってるんだから、いいだろ』
ちゃぷん、と湯が揺れる。
誰もいないはずの湯船で。
誰に聞かれることもない。
ただ楽しそうな笑い声が、いつまでも響いていた。
END
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