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病臥の王子と円盤の愛

作者: 翠山 朔
掲載日:2026/04/19

寝たきりの少年が、愛する人を力に変えて劇的に回復する話を書きたくて執筆しました。楽しんでいただけると嬉しいです。

王宮の喧騒から切り離された西の離宮、その最上階。遮光カーテンが引かれた薄暗い部屋には、かすかに薬湯の匂いが漂っていた。


「……フラン、今日は何を持ってきてくれたんだい?」


天蓋付きのベッドに横たわる少年、ジークフリートが、掠れた声で尋ねた。かつて「女神の創作品」と称えられた端正なかおは青白く、その細い指先は、シーツを握る力さえ頼りない。


「今日は、海の向こうの国に伝わる『歌う魚の涙』という物語です。ジーク様」


傍らに座る少女、フランチェスカは、愛らしい緑の瞳を細めて微笑んだ。彼女の栗毛の髪が、微かな光を反射して艶やかに揺れる。


「本を読むのは、目が疲れるから……。君の声を聞いている時だけ、僕は自分が、生きた人間であることを思い出せる気がする」


「そんな悲しいことをおっしゃらないで。さあ、始めますわ」


フランチェスカが穏やかな声で物語を読み上げると、ジークフリートの紫紺の瞳が、熱を帯びて輝きを取り戻す。かつて八歳の王子と七歳の公爵令嬢として二人が婚約したばかりの頃、王宮の庭園を駆け回った時。彼が彼女の手を引いて「僕が君を一生守るよ」と誓ったあの日の輝きの名残だ。


十一歳の時、運命の茶会。あの日、彼が口にした果実水に何が混ざっていたのか、今となっては藪の中だ。毒か、呪いか。証拠を残さなかったその「何か」は、次期王太子と目された彼の未来を、文字通り寝たきりの闇へと突き落とした。


「……ごめん。フラン。君には、もっと相応しい相手がいるはずなのに」


耐えがたい身体の痛みが襲うとき、ジークフリートは弱音を吐く。


「僕はもう、剣も振れない。馬にも乗れない。君をエスコートしてダンスを踊ることもできない、ただの枯れ木だ」


「ジーク様」


フランチェスカは読みかけの本を閉じ、迷いなく彼の冷たい手を包み込んだ。


「枯れ木なら、私が毎日お水を差し上げます。あなたのお花が咲くまで。私は、他のどなたとも踊るつもりはございません」


この淑やかな少女の辛抱強い献身に、ジークフリートは静かに涙をこぼした。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


二年の歳月が流れた。ジークフリートの症状は一進一退を繰り返していたが、二人をさらなる試練が襲った。


「フランチェスカ。もう塔へ通うのはやめなさい」


公爵家で、父である公爵が沈痛な面持ちで告げた。


「ジークフリート殿下は、もう二年も臥せったままだ。回復の兆しもない。年頃の娘が、婚約者とはいえ、毎日殿方の私室に出入りするのは、外聞が悪い。アルベルト王子を支持する勢力も、君の動向を注視しているのだよ」


「……お父様、それは、婚約を解消しろとおっしゃっているのですか?」


普段は大人しく、口答えなどしたこともないフランチェスカの声が、鋭く震えた。


「……いや、塔への立ち入りを禁ずるだけだ。だが、覚悟はしておきなさい。王家からも、いずれ婚約解消と、再婚約の打診があるだろう。お前は王太子妃になるように教育されてきたのだからな」


フランチェスカは自室に戻り、一人拳を握りしめた。ジークフリートは、彼女が来なくなれば、きっと自分は見捨てられたのだと思うだろう。彼を一人、あの暗い部屋で絶望させるわけにはいかない。


「……そうだ。わが家が支援している、あの工房の機械を使えば」


数日後、西塔のジークフリートのもとに、荷物が届けられた。中には、見慣れぬ不思議な機械と、数枚の「黒色の円盤」、そして手紙が入っていた。


『ジーク様。直接お会いできなくなりましたが、私の声は、この円盤に閉じ込めてお届けします。針を落として、どうか聞いてください』


ジークフリートがおぼつかない手つきで機械を操作すると、静かなノイズの向こうから、愛しい婚約者の声が流れてきた。


『……ジーク様。今日は物語ではなく、私が今、王太子妃教育の先生から教わっている「帝国法学」の講義を録音しました。退屈かもしれませんが、私と一緒に勉強してくださる?』


ジークフリートは目を見開いた。彼女の声は、同情や慰めを供するのではなく、彼に「未来」を求めるものだった。王として立つために必要な知識を、彼女は自分の声を通して、彼に注ごうとしている。


それから毎日、新しい円盤が届いた。 大陸の地理、隣国の歴史、財務書類の読み方、租税の仕組み、最新の政治・経済の状況。外国語の録音まで。ジークフリートは暗い部屋で、目を閉じながら、彼女の声に繰り返し耳を澄ませた。彼女の賢さと、自分を決して諦めないという執念が、音の粒となって全身に染み込んでいく。


「フラン……。君は僕が、まだ王になれると思っているんだね」


その意志に応えるように、彼の指先に力が戻り始めた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


ジークフリートが十六歳になる直前、宮廷の医師が「奇跡」を叫んだ。彼は快癒したのだ。厳しいリハビリを経て、立つことも、歩くことも、普通に会話して食事をすることさえ叶うようになった。その後も二年に及び、失われた歳月を埋めるかのような過酷な訓練を続けた。剣を握り、馬に跨り、狩りへ赴く。かつての「文武両道」を取り戻すには、血の滲むような努力が必要だった。


そして、ジークフリートが十八歳を迎える頃、彼はとうとう立太子されることになる。その祝典の夜会。 会場には、第二妃の子・アルベルト王子を支持する貴族たちが陣取り、「病上がりの王太子など、飾りに過ぎぬ」と冷ややかな視線を送っていた。


しかし、現れたジークフリートの姿に、会場は静まり返った。 色褪せていたはずの金髪は陽光のような輝きを取り戻し、背筋は真っ直ぐに伸びている。何より、その紫紺の瞳に宿る理知と威厳は、列席者を圧倒した。


彼は五ヶ国語を操り、祝宴に呼ばれた各国の特使たちと対等以上に会話をしていた。国内の経済政策についても、最新のデータを引き合いに出して、反対派の重臣たちを論破してみせた。


「……なぜ、いつの間に、これほどの知識を?」


呆然とする人々を余所に、ジークフリートは一直線に、壁際で控えめに微笑む女性のもとへ歩み寄り、手を差し出した。


「フラン。一曲、お願いできるかな」


「……喜んで、王太子殿下」


かつて「修道院に入る」とまで言って、婚約の解消を拒否し、他の殿方達との婚約打診を全て撥ね退けてきたフランチェスカ。いずれ王太子妃となる愛しい婚約者の手を取り、ジークフリートは優雅にステップを踏んだ。それは、彼が病床で、彼女の声を聴きながら、脳内で何千回と繰り返してきたダンスだった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


ダンスを終え、ジークフリートへの挨拶の列が切れた頃を見計らって、二人は人目を避け、バルコニーへ出た。夜風が、フランチェスカの栗毛を優しく撫でる。


「……ジーク様、本当に立派になられて。私、信じておりましたわ」


「いいや、フラン。僕を王太子にしたのは、君だ」


ジークフリートは、彼女の柔らかな両手を、今度は力強く握りしめた。


「暗闇の中で、君の声だけが僕の道標だった。君が届けてくれたあの円盤がなければ、僕の心はこの身体と共に腐り落ちていただろう。……フラン、改めて言わせてほしい。僕の妻として、生涯側にいてくれないか」


ジークフリートは膝をつき、彼女の緑の瞳を見上げた。


「かつて八歳の時にした約束は、子供の戯言だったかもしれない。でも、今の僕は、自分の意志で君を求めている。君を守るためなら、僕はどんな毒も、どんな陰謀も、ねじ伏せてみせる」


フランチェスカの目に、真珠のような涙が浮かんだ。


「……ジーク様。私は、あの塔の暗い部屋で、私の話す物語の感想をあなたから聞いている時間も幸せでした。でも、こうして月の下であなたと笑い合える今は、もっと幸せです」


「約束だ。これからは、円盤を通さず、毎日僕の隣で君の声を聞かせてくれ」


「はい、喜んで。……あ、でもジーク様、あまり無茶なことをおっしゃると、また録音機で講義を送りつけますわよ?」


「それは勘弁してくれ。法学の講義は、既にもらった分で十分だ」


二人の笑い声が、夜の静寂に溶けていく。 毒に倒れ、塔に捨てられた絶望の王子の物語は過去の闇の中に溶け、この瞬間の二人は、自分たちの手で掴み取った輝く未来を見ていた。


ジークフリートの紫紺の瞳には、愛する女性の姿と、これから二人で築くべき輝かしい王国の未来が、はっきりと映し出されていた。

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リントヴルムの揺籠とは関係ない独立した短編ですが、リントヴルムシリーズを未読の方は、ぜひ下記も併せて読んでいただければ!

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