第6話 何も言わなかった夜
その夜は、雨が降っていた。
激しい音ではない。
屋根を撫でるような、控えめな雨。
窓の外は暗く、庭の輪郭が曖昧になっている。
私は灯りを落としきれず、机の上のランプだけを残していた。
本を読むでもなく、考え事をするでもなく、
ただ、そこにいた。
扉を叩く音がしたのは、そのときだ。
一瞬、迷う。
この時間に訪ねてくる人は、ほとんどいない。
「……はい」
扉の向こうに立っていたのは、川のそばで会った女性だった。
昼間とは違い、髪が少し濡れている。
「遅くに、すみません」
「どうぞ」
それ以上の言葉は、出てこなかった。
理由を聞くでもなく、招き入れるでもなく。
ただ、扉を開けただけ。
彼女は一礼して中に入り、
しばらく立ったまま、部屋を見回した。
「……灯りが、見えたので」
「ええ」
それで十分だった。
椅子を勧めると、彼女は腰を下ろす。
私は向かいに座るが、距離は詰めない。
雨音だけが、間を埋めていた。
しばらくして、彼女が口を開く。
「私、ここを離れることになりまして」
「そうですか」
驚きはしなかった。
この土地は、通過点のような場所だ。
「次の仕事も、決まっていません。
でも……このまま、というのも」
言葉が途切れる。
続きを促すつもりはなかった。
「昔、婚約していた人がいたんです」
私は頷く。
「破談になりました。
よくある話、ですよね」
「……そうですね」
それ以上、言わない。
“よくある”と言ってしまえば、軽くなる。
でも否定する理由もない。
彼女は、ぽつぽつと話し続けた。
仕事のこと。
ここでの暮らし。
誰にも言わなかった不安。
私は相槌を打つだけで、
評価も、整理も、しなかった。
沈黙が何度も落ちる。
けれど、気まずさはなかった。
やがて彼女は、少し俯いて言った。
「……私、あの人に嫌われたんだと思ってました」
その言葉だけは、部屋に残った。
私は、すぐには答えなかった。
否定するのは簡単だ。
でも、それは彼女の言葉を消すことになる。
「嫌われたかどうかは、分かりませんね」
静かに、そう言う。
彼女は顔を上げ、私を見る。
「……分からない、ですか」
「はい」
少し間を置いて、続けた。
「分からないままでも、生きていけますよ」
助言でも、慰めでもない。
ただの事実として。
彼女は何も言わず、
しばらくその言葉を噛みしめるようにしていた。
やがて、彼女は立ち上がった。
「……遅くに、ありがとうございました」
「気をつけて」
それだけのやり取り。
引き止めもしない。
扉が閉まる音がして、
また雨音だけが残る。
私は椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
――何も、言わなかった。
それでよかったのかどうかは、分からない。
けれど、
“何かをしなければならない”とは、思わなかった。
翌日、庭で彼女を見かけた。
表情が明るくなったわけではない。
笑っているわけでもない。
ただ、足取りが急いでいなかった。
すれ違いざま、彼女は軽く頭を下げる。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
それだけ。
数日後、管理人がぽつりと教えてくれた。
「あの方、ここを離れるそうです。
ですが……落ち着いていましたよ」
私は頷いた。
「そうですか」
それ以上、言うことはない。
その日から、少しずつ変化が起きた。
人が、話をしに来る。
相談ではない。
答えを求めてもいない。
ただ、同じ空間にいるために。
私は、何もしていない。
それでも、なぜか人は軽くなって帰っていく。
理由は、分からない。
けれど――
それで困ることは、なかった。
雨の夜に、何も言わなかったこと。
それが、私にとっての静養だったのかもしれない。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




