第4話 王宮の外で、名を呼ばれない日
王宮を出る朝は、思っていたよりも静かだった。
見送りの列ができることもなく、
引き留める声が響くこともない。
ただ、いつもより多くの人が、少しだけ丁寧に頭を下げてくれた。
「どうか、ご無理をなさらず」
それが、最後にかけられた言葉だった。
私は礼を返し、馬車に乗り込む。
扉が閉まる音が、区切りのように小さく響いた。
向かう先は、王都から半日ほど離れた場所にある小さな領地だ。
名目は「静養」。
実際には、婚約中から使っていた滞在用の屋敷に、一時的に身を移すだけ。
婚約者が公の場に立つ機会が多い時期、
周囲の視線を避けるために用意された場所だった。
だからここも、私の居場所というよりは、
“置かれていた場所”に近い。
馬車の揺れに身を任せながら、私は窓の外を眺めた。
王都の白い建物が少しずつ遠ざかり、
やがて緑の多い景色に変わっていく。
不思議と、胸は軽かった。
屋敷に着いたとき、迎えに出てきたのは年配の管理人だった。
深く礼をするが、その動きに気負いはない。
「お久しぶりでございます」
「ご無沙汰しています」
それだけのやり取り。
肩書きも、状況の説明もない。
案内された部屋は、以前と同じ。
簡素で、落ち着いた造り。
窓を開けると、遠くに畑と森が見える。
王宮の庭よりも、ずっと静かだ。
「何かご不便があれば、遠慮なく」
そう言って、管理人は下がっていった。
それ以上、何も言わない。
それが、少しありがたかった。
荷解きはすぐに終わった。
持ってきたものが少ないせいもある。
椅子に腰を下ろし、しばらく何もせずに過ごす。
時計の音が、やけに大きく聞こえた。
――今日は、何をすればいいのだろう。
そう考えて、少し戸惑う。
王宮にいた頃は、
やるべきことが常に用意されていた。
学ぶこと、支えること、立つべき場所。
けれど今は、
誰も私に役割を渡さない。
「……散歩でも、しようか」
独り言が、部屋に落ちる。
外に出ると、空気が違った。
風が強く、土の匂いがする。
庭先で作業をしていた若い使用人が、こちらに気づいて頭を下げた。
「おはようございます」
それだけだった。
「ご令嬢様」でも、「元婚約者様」でもない。
私は少しだけ驚き、
それから自然に答える。
「おはようございます」
名を呼ばれない。
立場も、前提もない。
それが、こんなにも――楽だとは思わなかった。
森の手前まで歩き、ベンチに腰を下ろす。
鳥の声がして、葉が揺れる。
王子の顔が浮かばなかったわけではない。
けれど、後悔はなかった。
私は、自分から距離を取った。
それだけだ。
しばらくして、屋敷の方から誰かが近づいてくる気配がした。
管理人ではない。
もう少し、軽い足音。
「……失礼します」
振り返ると、見知らぬ青年が立っていた。
質素な服装だが、姿勢は整っている。
「こちらに滞在されていると伺いました」
その言葉に、私は少しだけ考える。
「はい。一時的に」
「そうですか」
彼はそれ以上、踏み込まなかった。
名も、理由も聞かない。
「この辺りは、初めてですか」
「……いいえ。以前、少しだけ」
「でしたら、道は分かりますね」
それで会話は途切れた。
けれど、妙に居心地が悪くない。
私は気づく。
――ここでは、私は説明しなくていい。
それだけで、十分だった。
王宮を離れた初日。
私はまだ、何も始めていない。
それでも確かに、
何かが終わり、何かが静かに動き出している。
そんな予感だけが、
胸の奥に、そっと残っていた。
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