第3話 身を引くという選択
婚約してからの数年間、私は王宮の一角に与えられた居室で暮らしていた。
それは特別な厚遇というより、慣習に近い。
王子の婚約者は、王宮の作法や政務補助、社交の実務を学ぶため、一定期間ここで生活する。
将来のための準備――そう呼ばれていた。
実際には、
王子の隣に立つための振る舞いを身につけ、
王宮という空間に「馴染ませる」ための時間だったのだと思う。
だから、私の部屋は私物が少ない。
持ち込んだのは本と、最低限の衣類と、
いつでも戻れるようにまとめていた荷物だけ。
今思えば、
最初から、長くいるつもりはなかったのかもしれない。
その日の午後、私は王宮付きの執務官に面会を申し込んだ。
理由を聞かれ、「私事です」とだけ答える。
通された部屋で、彼は一瞬、私の顔を見て表情を曇らせた。
「……お加減が悪いのでは?」
「いいえ。元気です」
そのやり取りが、もう何度目か分からない。
「今日は、お願いがあって参りました」
私がそう切り出すと、彼は背筋を正した。
公式の話だと察したのだろう。
「この部屋を、近いうちに明けたいと思います」
一拍。
彼の手が、わずかに止まる。
「それは……」
「婚約も解消されました。
これ以上、王宮に留まる理由はありません」
淡々と告げたつもりだった。
けれど、執務官はすぐには頷かなかった。
「少し、早すぎるのでは」
「そうでしょうか」
私は首を傾げる。
「元々、ここに住んでいたのは“婚約者としての準備期間”だからです。
その役目が終わったのなら、戻るのが自然だと思います」
彼は言葉を探すように、視線を落とした。
「……殿下は、ご存じですか」
「いいえ。これから、お伝えするつもりです」
嘘ではない。
ただ、事後報告になるだけだ。
執務官は深く息をつき、
そして、意外な言葉を口にした。
「……止めるよう、言われるでしょう」
「ええ」
それは、容易に想像できた。
「それでも、決めました」
私の声は、驚くほど静かだった。
その日の夕方、王子との短い面会が設けられた。
豪奢でも、公式でもない、小さな応接室。
彼は立ったまま、私を迎えた。
「部屋を出ると聞いた」
「はい」
「なぜ、そんなに急ぐ」
責める調子ではなかった。
ただ、困惑している。
私は少し考えてから答えた。
「急いでいるわけではありません。
ただ……ここにいる理由が、もうないだけです」
「王宮にいること自体は、問題ない」
「問題はありません。
けれど、必要もありません」
沈黙。
「君は、変わらないな」
それは、褒め言葉にも、諦めにも聞こえた。
「そうでしょうか」
「昔から、線を引くのが早い」
私は微笑んだ。
「引かないと、迷ってしまいますから」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
止めなかったわけではない。
止める言葉を、選ばなかったのだ。
面会は、それで終わった。
部屋に戻り、私は少しずつ荷物をまとめ始める。
大げさな作業ではない。
もともと、少なかったから。
窓を開けると、夕暮れの風が入ってきた。
庭の白薔薇が、淡い色に沈んでいく。
ここで過ごした日々は、無意味ではなかった。
学んだことも、得たものもある。
けれど――
これ以上、続ける理由はない。
「身を引く、か」
声に出してみると、思ったより軽い。
逃げるわけではない。
負けたとも思っていない。
ただ、役目を終えた場所から、
静かに離れるだけ。
それだけのことなのに、
なぜか胸の奥は、穏やかだった。
翌日から、王宮内の視線はさらに柔らかくなった。
止められ、労われ、気遣われる。
それでも私は、決めた通りに準備を進める。
距離を取る。
それは拒絶ではなく、整理だ。
そして私はまだ知らない。
この選択が、
思っていた以上に、多くの人の記憶に残ることを。
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