第14話 行くと決めない準備
朝の空気は、少しだけ湿っていた。
昨夜、雨が降ったらしい。
庭の土が黒くなっていて、
踏むと、やわらかい音がする。
私は、いつもより早く外に出た。
理由は特にない。
目が覚めたから、それだけだ。
管理人が、倉の前で何かを確認している。
「おはようございます」
「おはようございます」
一拍置いて、彼が言った。
「……もし、出かけられるなら」
「はい」
「留守の間のことは、問題ありません」
出かける、と言っただけで、
行き先も、期間も聞かれない。
「ありがとうございます」
「ええ」
それだけで話は終わる。
私は、そのやり取りを胸の中で反芻した。
――出かける。
戻らない、ではない。
部屋に戻り、机の引き出しを開ける。
中には、ほとんど物が入っていない。
手紙。
数冊の本。
王宮で使っていた手袋。
私は、その手袋を一度手に取って、
また、そっと戻した。
持っていく必要はない。
今は、まだ。
昼前、町へ向かう道で、
あの青年とすれ違う。
「こんにちは、リリアさん」
「こんにちは」
彼は、私の足元に視線を落とした。
「……今日は、歩くんですね」
「ええ」
「遠くまで?」
「いいえ」
それだけで、会話は十分だった。
彼は、少し考えるように間を置いてから言う。
「もし、しばらく見かけなくても」
「はい」
「……戻ってくる場所は、ここにありますから」
言い切りではない。
約束でもない。
ただ、事実の確認のような声。
私は、少しだけ驚いた。
「……ありがとうございます」
それ以上、言葉が見つからない。
彼は、軽く会釈して歩き出した。
振り返らない。
見送らせもしない。
町で買ったのは、紙と封筒だけだった。
返事を書くかどうか、まだ決めていないのに。
屋敷に戻り、
机にそれを並べる。
書かない選択もある。
今すぐ行かない選択もある。
それでも、
準備だけはしておく。
「……行くと決めない準備、か」
声に出して、少し笑った。
夕方、庭で腰を下ろしていると、
管理人が声をかけてきた。
「夕食、少し遅くなります」
「分かりました」
「……戻られますよね」
その問いは、
確認というより、自然な前提だった。
「ええ」
私がそう答えると、
彼は何も言わず、作業に戻った。
部屋に戻り、
窓を開ける。
風が、静かにカーテンを揺らす。
王都の招待状は、机の端に置いたままだ。
返事は、まだ白紙。
けれど、
私は不安ではなかった。
行くかどうかは、決めていない。
でも、
戻ってくる場所があることは、もう知っている。
それだけで、
十分に整っている。
夜、灯りを落とす前、
机の上の封筒に触れる。
期限はない。
急ぐ理由もない。
私は、今のままでいい。
そう思いながら、
静かに目を閉じた。
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