第10話 善意が、少しだけ近い
その日は、朝から雲が低かった。
風はなく、音も少ない。
私は庭の端で、本を読んでいた。
頁をめくる指が、少し冷える。
「……リリアさん」
声をかけられて顔を上げると、
町で何度か顔を合わせていた女性が立っていた。
年は、私より少し上だろうか。
「こんにちは」
「こんにちは」
彼女は一歩近づいて、立ち止まる。
距離の取り方に、迷いがある。
「……少し、いいですか」
「どうぞ」
私は本を閉じ、膝の上に置いた。
断る理由はなかった。
彼女は腰を下ろすと、
しばらく庭を眺めてから口を開いた。
「最近、皆……リリアさんのところに行くでしょう」
責める調子ではない。
事実を並べているだけの声。
「そうかもしれません」
「話すと、落ち着くって」
「……そう言われることは、あります」
彼女は頷いた。
「だから、お願いがあって」
そこで、言葉が少し早くなった。
「私の弟が、少し……うまくいっていなくて。
仕事も、家のことも」
私は黙って聞く。
「リリアさんなら、分かってくれると思ったんです」
その言葉に、胸の奥で小さく何かが動いた。
嫌悪ではない。
驚きに近い。
「……どんなことを、期待されていますか」
問い返すと、彼女は一瞬だけ言葉に詰まった。
「え?」
「弟さんに、会ってほしいとか。
話を聞いてほしいとか」
彼女は、少し慌てたように首を振る。
「いえ、無理に、では……
ただ、少し言葉をかけていただけたら」
善意だった。
焦りも、悪意もない。
それでも、その距離は、
私がこれまで受け入れてきたものより、半歩近い。
私は、少し考えてから答えた。
「申し訳ありません」
声は、静かだった。
「私は、人の人生を整えられるほどのことはしていません」
彼女は目を瞬いた。
「でも……皆、楽になって」
「それは、たまたまです」
否定ではない。
線引きだ。
「私ができるのは、
一緒に座ることくらいです」
沈黙が落ちる。
彼女は、すぐには言葉を見つけられなかった。
「……そう、ですよね」
やがて、そう言って立ち上がる。
「すみません。
変なことをお願いしてしまって」
「いいえ」
私は首を振った。
「声をかけてくださったことは、
ありがたかったです」
それは、本心だった。
彼女は小さく頭を下げ、
庭を離れていった。
一人になると、
風が少しだけ強くなった。
私は、深く息を吸う。
――今のは、拒絶だったのだろうか。
そう考えて、首を横に振る。
違う。
受け取らなかっただけだ。
誰かの善意でも、
すべてを引き受けるわけにはいかない。
その日の午後、
川のそばで、いつもの青年とすれ違った。
「こんにちは、リリアさん」
「こんにちは」
彼は私の表情を見て、何も聞かなかった。
それが、ありがたい。
「……無理、していませんか」
一拍置いて、そう言われる。
「いいえ」
「そうですか」
それ以上、踏み込まない。
私は、ほんの少しだけ安心した。
夜、部屋に戻り、灯りを落とす。
昼間の会話を思い返す。
距離を取ることは、
関係を壊すことではない。
むしろ、
続けるために必要なことだ。
「……私は、万能じゃない」
声に出してみると、
不思議と、重さはなかった。
それでも、ここにいていい。
それは、変わらない。
その確信だけが、
静かに残った。
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