第二回:張翼徳、憤怒の鞭を督郵に振るう 何国舅、密かに宦官を誅せんとする
さて、名を董卓、字を仲穎という男は、隴西の臨洮から出て河東太守の職にありましたが、生来の傲慢さで知られていました。この日、劉備(玄徳)への接し方が粗略であったため、張飛(翼徳)はたちまち激昂し、今にも彼を斬り殺そうとしました。
劉備と関羽(雲長)は慌ててそれを止めました。「あの者は朝廷の命を受けた官吏だ。勝手に手にかけるわけにはいかない」と。張飛は吐き捨てるように言いました。「この不届き者を殺さずに、逆に奴の配下として命令を受けねばならぬなど、どうして我慢できましょうか。兄者たちがここに留まるというなら、俺は一人で他所へ身を寄せます」
劉備は諭しました。「我ら三人は、生死を共にする義を固く結んだではないか。どうして離れられよう。いっそ皆で別の場所へ行くとしよう」張飛はこれを聞き、「それならば、少しはわだかまりが解けます」と答えました。
こうして三人はその夜のうちに軍を率い、朱儁のもとを頼りました。朱儁は彼らを丁重にもてなし、合流した軍勢で張宝討伐へと向かいます。
折しも、曹操は皇甫嵩に従い、曲陽で張梁と激戦を繰り広げていました。一方、朱儁は張宝への攻撃を進めます。張宝は八万、九万もの賊を率い、山の背後に陣を敷いていました。朱儁は劉備を先鋒とし、賊と対決させました。
張宝は副将の高昇を繰り出して挑ませました。劉備は張飛を遣わし、一騎打ちをさせます。張飛は矛をまっすぐに突き立てて高昇と交戦し、わずか数合で高昇を刺し落としました。劉備が全軍に突撃を命じると、張宝は馬上で髪を振り乱し、剣をかざして妖術を施し始めました。たちまち風雷が巻き起こり、黒い気が天から降り注ぎます。その黒気の中からは、無数の人馬が鬨の声をあげて攻め寄せてくるように見えました。劉備はたまらず軍を返しましたが、軍中は大混乱となり、敗れて朱儁のもとへ戻り、打開策を協議しました。
朱儁は言いました。「敵は妖術を使っている。明日、豚や羊を屠り、犬の血を準備させて、兵士たちを山に伏せさせよう。賊が追って来たところを、高所からその穢物を浴びせかけさせれば、妖術は必ず破れるはずだ」
劉備はこの命を受け、関羽、張飛にそれぞれ千の兵を率いさせ、山の後ろの高い丘に伏せて、豚や羊、犬の血、その他の穢物を多量に用意させました。
翌日、張宝は旗を振り太鼓を打ち鳴らして、軍を率いて挑戦してきました。劉備が出迎えて戦いを交えると、張宝は再び妖術を仕掛け、風雷は荒れ狂い、砂塵が舞い、黒気が天を覆い、人馬が空から落ちてくるように見えました。劉備は馬首を巡らせて逃走し、張宝は追撃してきました。賊軍が山を越えようとした時、関羽と張飛の伏兵が合図の火砲を上げ、穢物を一斉に投げつけました。
すると、空中に見えていた紙人形や草の馬が、たちまち地面に落ち、風雷は鎮まり、砂塵も飛び散らなくなりました。張宝は術が破られたのを見て、急いで退却しようとしましたが、左右から関羽、張飛の軍が現れ、背後からは劉備、朱儁が追い打ちをかけ、賊軍は大敗しました。
劉備は「地公将軍」の旗印を見つけ、馬を飛ばして追いましたが、張宝は混乱の中を逃げ去りました。劉備が放った矢が張宝の左腕に命中しましたが、張宝は矢を負ったまま陽城へと逃げ込み、堅く守って出てきません。朱儁は陽城を包囲し、攻撃を続ける一方、皇甫嵩の動静を調べさせました。
斥候の報告によれば、皇甫嵩は大勝利を収め、董卓の連敗により朝廷は彼を罷免し、皇甫嵩に代わらせたとのことでした。皇甫嵩が着いた時、張角はすでに病死しており、張梁が残党を率いて抵抗していましたが、皇甫嵩は七連勝して張梁を曲陽で討ち取りました。さらに張角の棺を掘り起こし、その遺体を斬り、首を京師へ送りました。残りの賊徒は皆降伏しました。朝廷は皇甫嵩を車騎将軍、冀州牧に任じ、また盧植の功績を認め、彼を元の官職に復させました。曹操も功績により済南相に任じられ、まもなく赴任のために帰還するという報でした。
朱儁はこれを聞き、全軍を挙げて陽城を攻め立てました。賊軍が危機に陥ると、賊将の厳政は張宝を刺殺し、その首を献上して降伏しました。朱儁はこれにより数郡を平定し、朝廷に勝利を奏上しました。
その頃、黄巾の残党である趙弘、韓忠、孫仲の三人が数万の群衆を集め、張角の仇討ちを名目に各地を荒らしていました。朝廷は朱儁に、引き続きこの軍勢をもって討伐するよう命じました。朱儁は詔を受けて進軍します。
賊は宛城に立てこもり、朱儁はこれを攻めました。趙弘が韓忠を出して戦わせると、朱儁は劉備、関羽、張飛に城の西南角を攻めさせました。韓忠が精鋭を率いて西南角の防衛にあたったところ、朱儁は二千の鉄騎(騎馬隊)を率いて東北角を突きました。城を奪われることを恐れた賊は、急いで西南を捨てて城内に戻りました。劉備が背後から追撃すると、賊兵は大敗して宛城に逃げ込みました。
朱儁は四方から城を厳重に囲みましたが、城中は食糧が尽き、韓忠は降伏を願い出ました。朱儁はこれを許しません。劉備は言いました。「昔、高祖(劉邦)は降伏を招き、天下を得ました。公はなぜ韓忠を拒まれるのですか」
朱儁は答えました。「昔と今とでは事情が異なります。昔は天下大乱で主君も定まらず、降伏を許し恩賞を与えて来させたのです。今は天下統一の時で、黄巾賊だけが反乱しています。もし降伏を許せば、善行を奨励できません。賊が有利な時は略奪し、不利になれば降伏するのを許せば、かえって賊の勢いを助長するばかりで、良い策とは言えません」
劉備は言いました。「賊の降伏を許さないのはもっともです。しかし、今、鉄の桶のように囲まれて降伏できない賊は、必ず死に物狂いで戦うでしょう。数万の死を覚悟した兵を相手にするのは困難です。いっそ東南の包囲を解き、西北だけを攻めましょう。賊は必ず城を捨てて逃げ出すでしょうから、戦意を失ったところを捕らえるのです」
朱儁はこれに同意し、東南二方面の軍馬を撤収させ、西北に総攻撃をかけました。案の定、韓忠は軍を率いて城を捨てて逃げ出しました。朱儁は劉備、関羽、張飛と共に全軍で追撃し、韓忠を射殺し、残りの賊は四散しました。
追撃の最中、趙弘と孫仲が残党を率いて現れ、朱儁と交戦しました。趙弘の勢いが盛んであるのを見て、朱儁は一時退却しました。趙弘はその勢いに乗じて再び宛城を奪い取りました。朱儁が十里離れた場所に陣を敷き、まさに攻撃を再開しようとした時、突如、正東から一隊の人馬がやってきました。
その先頭の将は、広い額に面長な顔、虎の体躯と熊のような腰つきをした、呉郡富春出身の孫堅、字は文台といい、あの兵法家孫武の子孫でした。十七歳の時、父と銭塘へ行った際、海賊が商人の財物を奪い、岸で分け合っているのを見て、「あの賊どもは捕らえられます」と言い、奮然と刀を提げて岸に上がり、大声で叫び、東西を指さしてあたかも人を呼んでいるように見せました。賊は官軍が来たと思い、財物を捨てて逃げ出しました。孫堅は追いかけて一人の賊を斬り殺しました。これにより彼は名を知られ、校尉に推薦されました。
後に会稽の妖賊である許昌が反乱を起こし、自ら陽明皇帝と称して数万の群衆を集めた時も、孫堅は郡司馬と共に勇士千人余りを募り、州郡の軍と協力してこれを破り、許昌とその子の許韶を斬りました。刺史の臧旻が彼の功績を上奏したため、孫堅は塩瀆丞に任じられ、さらに盱眙丞、下邳丞を歴任しました。
今、黄巾の乱が起こるのを見て、彼は郷里の若者たちや商人、そして淮水、泗水流域の精兵千五百人余りを集め、援軍として駆けつけたのでした。
朱儁は大いに喜び、孫堅に南門を、劉備に北門を、朱儁自身は西門を攻めさせ、東門だけを賊の逃げ道として開けておきました。孫堅は真っ先に城壁に登り、二十人余りの賊を斬ると、賊衆は恐慌をきたして崩れました。趙弘が馬を飛ばして槍を突いて孫堅に襲いかかると、孫堅は城上から身を躍らせて趙弘の槍を奪い取り、その槍で趙弘を刺し落とし、趙弘の馬に乗って縦横に賊を討ち殺しました。
孫仲は賊を率いて北門から脱出しようとしましたが、ちょうど劉備に出くわしました。もはや戦意はなく逃げることばかり考えていた孫仲に、劉備が弓を引き絞って放った一矢が命中し、孫仲は馬から転げ落ちました。朱儁の大軍がそれに続き、追撃して数万の首を斬り、降伏した者は数え切れないほどでした。南陽一帯の十数郡はすべて平定されました。
朱儁は京師に凱旋し、詔によって車騎将軍、河南尹に封じられました。彼は孫堅や劉備らの功績を上奏しました。孫堅は人脈があったため、別の郡の司馬に任じられて赴任していきましたが、劉備だけは長い間待たされたにもかかわらず、何の官職も得られませんでした。
劉備、関羽、張飛の三人は意気消沈し、街をぶらついていました。ちょうどその時、郎中の張鈞の車が通りかかりました。劉備は彼に会い、自らの功績を訴えました。張鈞は驚き、そのまま朝廷へ入り、帝に謁見して上奏しました。「かつて黄巾の乱が起こった原因は、すべて十常侍が官職を売買し、忠臣を遠ざけ、天下を乱したことにあります。今こそ十常侍を斬り、その首を南の門に晒し、功績ある者に厚く報いるべきです。そうすれば天下は平穏になるでしょう」
十常侍は帝に、「張鈞は主君を欺いております」と訴えました。帝は武士に命じて張鈞を追い出させました。十常侍は相談し、「これは黄巾討伐に功績があったのに報いられなかった者の恨み言に違いない。ひとまず官庁の名簿に小さな官職を書き加えておき、後で改めて処理しても遅くはない」と決めました。
このため、劉備は定州中山府の安喜県尉に任じられ、日を定めて赴任することになりました。劉備は兵士たちを解散させて故郷へ帰らせ、親しい家臣二十人余りを連れ、関羽、張飛と共に安喜県へ着任しました。
県政を司ること一月、彼は民衆から僅かな物も奪わず、人々は皆、その仁徳に感化されました。着任後は、関羽、張飛と寝食を共にし、劉備が公の場に出る際には、関羽と張飛は一日中、疲れることなく脇に控えて仕えました。
着任して四ヶ月も経たないうちに、朝廷から詔が下り、軍功によって県の長官となった者をすべて選別し罷免する、というものでした。劉備は自分がその対象になるのではないかと懸念していました。
折よく督郵が巡回のために県に到着しました。劉備は城外まで出て出迎え、礼を尽くしましたが、督郵は馬に座ったまま、わずかに鞭を指し示すだけで返事をしました。関羽と張飛は二人とも怒りを覚えました。
館舎に着くと、督郵は南向きの上座に座り、劉備は階段の下に立って控えていました。しばらくして、督郵は尋ねました。「劉県尉はどのような出自か」
劉備は答えました。「私は中山靖王の子孫でございます。涿郡で黄巾賊を討伐し、三十余りの戦いを経て、わずかな功績を立てたため、この職を拝命いたしました」
督郵は大声で怒鳴りました。「貴様は皇族を詐称し、功績を偽っている!今、朝廷から詔が下り、まさにこのようなでたらめな役人、汚職官吏を罷免しようとしているのだ!」
劉備は恐縮して平伏し、その場を退きました。県庁に戻り、県吏たちと相談すると、県吏は「督郵が威張っているのは、賄賂が欲しいからです」と言いました。劉備は、「私は民から何も取っていない。どうして彼に渡す財物があろうか」と言いました。
翌日、督郵はまず県吏を捕らえて脅し、県尉が民を苦しめていると偽りの証言をさせようとしました。劉備は何度も自ら出向いて取り成しを請いましたが、門番に阻まれて、面会すら叶いませんでした。
一方、張飛は数杯の憂さ晴らしの酒を飲み、馬に乗って館舎の前を通りかかると、五十、六十人の老人たちが皆門前で泣いているのを見かけました。張飛が理由を尋ねると、老人たちは答えました。「督郵が県吏を脅して、劉公を陥れようとしています。我々は苦情を訴えに来たのですが、中に入れてもらえず、かえって門番に追い払われ、叩かれました!」
張飛は怒り心頭に発し、丸い目を血走らせ、歯を食いしばり、馬から飛び降りて、まっすぐ館舎に押し入りました。門番が止められるはずもなく、彼は後堂に直行しました。督郵が庁舎の上座に座り、県吏を縛り倒しているのを見ると、張飛は大声で怒鳴りました。「民を害する賊め!俺を覚えているか!」
督郵が口を開く間もなく、張飛は髪の毛を掴んで館舎から引きずり出し、県庁前の馬を繋ぐ杭に縛り付けました。柳の枝を引きちぎり、督郵の両足に渾身の力を込めて鞭打ち、柳の枝を十数本も打ち折りました。
劉備がちょうど憂鬱に思っていると、県庁の前が騒がしいと聞き、左右の者に尋ねると、「張将軍が一人の者を県庁前で激しく打っている」と答えました。劉備は慌てて見に行くと、縛られているのが督郵であるのを見て驚き、理由を問いました。
張飛は、「この民を苦しめる悪党は、打ち殺さずにどうするというのですか!」と言いました。
督郵は、「玄徳公、どうか命をお助けください!」と哀願しました。劉備はやはり仁慈な心を持つ人だったので、急いで張飛に手を止めるよう怒鳴りました。
傍らから関羽が進み出て言いました。「兄者はあれほどの大きな功績を立てながら、たった一県の尉に甘んじ、今またこの督郵に侮辱されました。私は思いますに、いばらの中に鸞鳳(らんほう:高貴な鳥)が棲む場所はありません。いっそ督郵を殺し、官を捨てて故郷に帰り、さらに遠大な計略を立てる方がよろしいでしょう」
劉備はついに決心し、印綬(官印の紐飾り)を取り、督郵の首にかけ、彼を責めて言いました。「お前が民を苦しめた罪は、本来なら殺されても仕方がない。だが、今は命を助けてやる。私は印綬を返上し、ここを去る!」
督郵は帰って定州太守に告げ、太守は上級機関に文書で報告し、追っ手を差し向けました。劉備、関羽、張飛の三人は代州へ向かい、劉恢のもとを頼りました。劉恢は劉備が漢室の宗族であることを知って、彼らを自宅にかくまいました。
さて、十常侍は重権を握ると、彼らに従わない者をすべて誅殺しようと共謀しました。趙忠と張譲は使いを出し、黄巾討伐に功績のあった将士に金品を要求し、拒否した者を上奏して罷免させました。皇甫嵩と朱儁はどちらも金品を渡さなかったため、趙忠らは二人とも官職を奪い取りました。帝はまた趙忠らを車騎将軍に、張譲ら十三人すべてを列侯に封じました。朝廷の政治はますます乱れ、人民の嘆きは深まる一方でした。
長沙では賊の区星が反乱を起こし、漁陽では張挙、張純が反乱を起こし、張挙は天子を、張純は大将軍を称しました。緊急事態を知らせる上奏文は雪のように舞い込みましたが、十常侍はすべて隠して帝に奏上しませんでした。
ある日、帝が後園で十常侍と酒宴を開いていると、諫議大夫の劉陶がまっすぐ帝の前に進み出て、大いに嘆き悲しみました。帝が理由を尋ねると、劉陶は言いました。「天下は危急存亡の瀬戸際にあるというのに、陛下はまだ宦官たちと酒を飲んでおられるのですか」
帝は、「国は平穏であるのに、何の危機があるのか」と言いました。
劉陶は、「四方で盗賊が蜂起し、州郡を侵略しています。その元凶は、すべて十常侍が官職を売買し、民を害し、君を欺いているためです。朝廷の正しい人々は皆去り、災難は目前に迫っております」と訴えました。
十常侍は皆、冠を脱いでひざまずき、「大臣たちに容れられず、我らは生きていられません。どうか命を乞うて田舎に帰り、家財をすべて軍資金として差し上げたいと存じます」と言い、痛哭しました。
帝は怒って劉陶に、「お前にも親しい側近がいるだろうに、どうして朕の側近だけは許さないのか」と言い、武士を呼んで彼を連れ出して斬るよう命じました。劉陶は、「私は死を恐れません!しかし、哀れなのは漢室の天下、四百年余りの歴史が、この一瞬で滅びることでございます!」と大声で叫びました。
武士が劉陶を連れ出し、まさに刑を執行しようとした時、一人の大臣が「待て、私に諫めさせてくれ」と叫び止めました。皆が見ると、それは司徒の陳耽でした。彼はまっすぐ帝の元へ行き、劉陶がどのような罪で誅殺されるのかを問いました。
帝は、「近臣を誹謗し、朕の身まで冒涜した」と言いました。
陳耽は、「天下の人民は十常侍の肉を食らいたいと願っています。陛下は彼らを父母のように敬い、何の功績もないのに列侯に封じました。まして、封諝らが黄巾賊と結託し、内乱を企てたというではありませんか。陛下が今、ご自身を反省しなければ、国家はたちまち崩壊してしまいます」と訴え、頭を床に打ち付けて諫言しました。帝は怒り、彼を引っ立てて劉陶と共に投獄させました。
その夜、十常侍はすぐに獄中で二人を謀殺しました。そして帝の詔を偽り、孫堅を長沙太守に任じ、区星を討伐させました。
五十日も経たないうちに、江夏平定の報が届きました。詔によって孫堅は烏程侯に封じられました。劉虞は幽州牧に封じられ、兵を率いて漁陽へ行き、張挙、張純を征伐することになりました。
代州の劉恢が劉備を劉虞に推薦する書状を送ると、劉虞は大いに喜び、劉備を都尉に任じ、兵を率いさせて賊の根拠地に直行させました。劉備は賊と数日間にわたる大戦を繰り広げ、その鋭気をくじきました。張純は残忍で、士卒の心が離れていたため、部下の一人が張純を刺殺し、その首を献上して降伏しました。張挙も形勢不利と見て、自ら首を吊って死にました。漁陽はすべて平定されました。
劉虞は劉備の大きな功績を上奏し、朝廷は督郵を鞭打った罪を赦免し、劉備を下密丞に任じ、さらに高唐尉に昇進させました。公孫瓚もまた劉備の以前の功績を上奏し、彼を別部司馬に推薦し、平原県令を兼任させました。劉備は平原で、かなりの財物と軍馬を持つようになり、かつての勢いを取り戻しました。劉虞は反乱平定の功績により、太尉に封じられました。
中平六年、夏四月。霊帝の病が重くなり、大将軍の何進を宮中に召して、後事を相談しました。何進は元々屠殺業を営んでいましたが、妹が宮中に入って貴人となり、皇子弁を産んで皇后に立てられたため、彼は権力と重職を得たのでした。
帝はまた王美人を寵愛し、皇子協を産ませましたが、何皇后は嫉妬から王美人を毒殺しました。皇子協は董太后の宮中で養育されました。董太后は霊帝の生母であり、霊帝は彼女を太后として宮中に迎え入れていました。董太后はかねてより帝に皇子協を太子に立てるよう勧めており、帝も協を偏愛し、立太子を望んでいました。
病が重くなった時、中常侍の蹇碩が上奏しました。「もし協を立てたいのであれば、必ず先に何進を誅殺し、後々の憂いを断つべきです」帝はその意見を正しいとし、何進を宮中に召し入れました。
何進が宮門に着くと、司馬の潘隠が何進に告げました。「宮中に入ってはなりません。蹇碩があなたを謀殺しようとしています」何進は驚き、急いで私邸に戻り、諸大臣を召集して、宦官をすべて誅殺しようと図りました。
座中から一人の男が進み出て言いました。「宦官の勢力は根深く、朝廷内に広くはびこっています。すべてを誅殺するのは容易ではありません。もし計画が漏れれば、必ずや一族皆殺しの災いを招きます。どうか詳細にお考えください」何進が彼を見ると、典軍校尉の曹操でした。何進は叱って言いました。「貴様のような小僧に、どうして朝廷の大事が分かろうか」
ちょうど戸惑っていると、潘隠が到着し、「帝は既にお崩れになりました。今、蹇碩と十常侍は喪を秘し、偽の詔を出して何国舅(何進)を宮中に呼び入れ、皇子協を帝に擁立しようと企んでいます」と告げました。
話が終わらないうちに、何進を急ぎ入宮させて後事を定めるという使者が来ました。曹操は言いました。「今日の計略は、まず君主の位を正し、それから賊を討つのが肝要です」何進は、「誰が私と一緒に君主の位を正し、賊を討ってくれるのか」と言いました。
一人の男が進み出て言いました。「願わくば精兵五千をお借りし、関を斬って宮中に入り、新君を擁立し、宦官どもをすべて誅殺し、朝廷を掃き清めて天下を安んじましょう」何進が彼を見ると、それは司徒の袁逢の子で、袁隗の甥にあたる、袁紹、字は本初といい、現職は司隷校尉でした。
何進は大いに喜び、御林軍(近衛兵)五千人を点検させました。袁紹は全身に甲冑をまとい、何進は何顒、荀攸、鄭泰ら大臣三十余員を率いて、霊帝の柩の前で太子弁を擁立し、帝位に就かせました。
百官が拝礼を終えると、袁紹は宮中に入って蹇碩を捕らえに行きました。蹇碩は御花園に逃げ込みましたが、中常侍の郭勝によって殺されました。蹇碩が率いていた禁軍は、すべて袁紹に投降しました。
袁紹は何進に言いました。「宦官どもは徒党を組んでいます。この機に乗じて、すべて誅殺すべきです」張譲らは事態を知り、慌てて何太后に泣きつきました。「最初、大将軍を陥れようと謀ったのは蹇碩一人で、我々とは無関係です。今、大将軍は袁紹の言葉を聞き入れ、我々をすべて誅殺しようとしています。どうかお慈悲を」
何太后は、「お前たち、案ずるな。私が守ってやる」と言い、何進を呼び入れました。太后は密かに言いました。「私とお前は寒微な出身だ。張譲らがいなければ、どうして今の富貴を得られようか。蹇碩はすでに誅殺された。お前はどうして人の言葉を信じ、宦官をすべて殺そうとするのか」
何進はこれを聞き、外に出て衆官に言いました。「蹇碩が私を害そうと謀ったのだから、その一族を滅ぼせばよい。その他の者をむやみに殺す必要はない」袁紹は、「根を断たなければ、必ず身を滅ぼす元になります」と言いましたが、何進は、「私の考えは決まった。これ以上言うな」と言いました。衆官は皆、退散しました。
翌日、太后は何進に尚書事を兼務させ、他の者たちにも官職を与えました。
董太后は張譲らを宮中に呼び寄せて相談しました。「何進の妹は、もともと私が引き立てたのだ。今、彼女の息子が帝位に就き、内廷外廷の役人は皆、何進の息がかかっている。権力が重すぎる。どうしたらよいか」
張譲は上奏しました。「太后様が臨朝し、垂簾聴政をなさり、皇子協を王に封じ、国舅の董重に重職を与えて軍権を握らせ、我々を重用すれば、大事を成せましょう」
董太后は大いに喜び、翌日の朝廷で、皇子協を陳留王に封じ、董重を驃騎将軍に、張譲らを朝政に参画させました。
何太后は董太后が専権を握っているのを見て、宮中で宴を設け、董太后を招きました。酒が進んだところで、何太后は立ち上がって杯を捧げ、「私たち女性が朝政に参画するのはふさわしくありません。昔、呂后は権力を握ったために一族が皆殺しにされました。今、私たちは奥深くにおり、朝廷の大事は大臣たちに任せるのが、国家のためです。どうかお聞き入れください」と言いました。
董太后は激怒し、「お前は王美人を毒殺し、嫉妬の心を持っている。今、息子が帝になり、兄の何進の威勢を頼みに、よくも勝手なことを言うな。私は驃騎将軍に命じて、お前の兄の首を刎ねさせることなど、たやすいのだ」と言い返しました。
何皇后も怒り、「私は善意で勧めているのに、なぜ怒るのか」と言い、董太后は「お前の家は屠殺業を営むような卑しい者どもだ。何の分別があろうか」と言いました。
両太后が互いに争うと、張譲らがそれぞれを自分の宮殿へ帰らせました。
何皇后はその夜のうちに何進を呼び入れ、前後の事情を告げました。何進は外に出て、三公を召集し、明朝の朝廷で、廷臣に奏上させ、董太后は藩王の妃であったのだから、長く宮中にいるのは不適切であり、元の河間の地に移し安置すべきである、とさせました。一方、人をやって董太后を送り出す手配をさせ、一方、禁軍を点検して驃騎将軍の董重の府邸を包囲させ、印綬の返上を求めました。董重は事態の急迫を知り、後堂で自ら首を刎ねて果てました。
六月、何進は密かに人を使い、河間の駅館で董太后を毒殺させ、棺を京師に運び戻して文陵に葬りました。
何進は病と称して出仕しないようにしていましたが、司隷校尉の袁紹が謁見しに来て言いました。「張譲、段珪らが外で、『公が董太后を毒殺し、大事を企んでいる』と流言を流しています。この機に宦官を誅殺しなければ、後で必ず大きな災いを招きます。昔、竇武は宦官を誅殺しようとして機密が漏れ、かえって災いを被りました。今、公の周りの者は皆、英俊の士です。全力を尽くさせれば、事は手の内にあるも同然です。この天が与えた好機を逃してはなりません」
何進は、「しばらく相談させてくれ」と言いました。側近が密かに張譲にこのことを報告すると、張譲らはすぐに何進の弟の何苗とその母の舞陽君に金品を贈って懐柔し、太后のもとで宦官をかばうように仕向けました。このため十常侍は再び太后の寵愛を得ました。
しばらくして、何進が太后に拝謁し、宦官を誅殺したいと申し出ると、何太后は、「宦官が宮中を統括するのは漢の古くからの慣例です。先帝が崩御したばかりなのに、古い臣を殺そうとするのは、国家を重んじることではありません」と言いました。
何進は元来優柔不断な人物でしたから、太后の言葉を聞いて、ただ諾々と退室しました。袁紹が迎えて尋ねると、「大事はどうなりましたか」何進は、「太后がお許しにならない。どうすればよいか」と答えました。
袁紹は、「四方の英雄たちに檄文を送り、兵を率いて京師に来させ、宦官をすべて誅殺させるべきです。この事態に至っては、太后も従わざるを得ないでしょう」と言いました。
何進は、「これは素晴らしい計略だ」と言い、すぐに檄文を各地の軍閥に発し、京師へ集結するよう命じました。
主簿の陳琳は進み出て言いました。「なりません。俗に言う『目を覆ってスズメを捕まえる』とは、自分を欺くことです。小さなことでさえ欺くことはできないのに、まして国家の大事です。今、将軍は皇室の威光と兵権を手にし、すべて思いのままです。宦官を誅殺するなど、火をおこして毛を焼くように簡単なことです。速やかに決行し、機を捉えて断行すれば、天も人もこれに従います。それなのに、外部の大臣に檄文を送り、都を犯させ、英雄たちを集め、各自が異なる思惑を抱かせるのは、いわゆる『矛を逆さに持って、他人に柄を握らせる』ことです。功は成らず、かえって乱を生むでしょう」
何進は笑って、「これは臆病者の考えだ」と言いました。
その傍らで一人の男が手を叩いて大笑いし、「この程度のことは手のひらを返すように簡単だ。何を議論することがあろうか」と言いました。
見ると、それは曹操でした。
君側の悪しき者を一掃して天下の乱を鎮めんと欲するならば 朝廷にいる智謀の士の献策に耳を傾けるべきであろう。
さて、曹操がどのような言葉を述べたのか、それはまた次章にて。
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第二回 要約:落ちぶれた英雄たちの誓いと、王朝黄昏の宮廷絵巻
この第二回は、天を衝く劉備、関羽、張飛の義が、いかに地に堕ちた現実に打ち砕かれ、同時に漢王朝の心臓部が自ら崩壊していく様を描き出す、二つの悲劇的な潮流が交錯する幕開けです。
英雄、世の道理に挫折す
黄巾の乱を血と汗で平定した三義兄弟でしたが、世の報奨は彼らの熱意と実力に報いませんでした。賄賂と人脈こそが天下を動かす世の常。朱儁や孫堅といった有力者はその恩恵に預かっても、劉備に与えられたのはわずかな安喜県尉という末端の官職でした。
腐敗は末端まで行き渡り、地方を巡る督郵は、劉備に賄賂を要求し、さらには彼を陥れようとします。この汚濁に、張飛の剛直な魂が激しく反発しました。彼は憤怒に駆られ、督郵を捕らえて役所の馬杭に縛りつけ、柳の鞭で打ち据えるという、いかにも豪快で、そして危うい行動に出ます。
仁徳厚き劉備は、督郵の首に印綬をかけて辞職を宣言し、兄弟は再び天涯の浪人となりました。しかし、この一連の出来事は、彼らの真なる仁と武が、腐りきった体制には決して収まらないという、運命的な宣言でもありました。彼らは後に劉虞の助けを得て、再び戦いの場に戻ることになります。
都に渦巻く血の嵐
時を同じくして、都の洛陽では、霊帝の崩御という決定的な出来事を迎え、権力の中枢が崩れ始めます。宮廷では、皇帝の外戚である大将軍の何進と、長年政を牛耳ってきた宦官の十常侍が、互いの命を狙う凄絶な闘争へと突入しました。
何進は、宦官を一掃しようと図りますが、妹である何太后に情に訴えられ、優柔不断な彼は決断をためらいます。
ここで歴史を大きく動かしたのは、若き名門の領袖袁紹でした。彼は、もはや都の力だけでは事態を収拾できないと判断し、地方の諸侯たちに檄文を送り、兵を率いて上洛させるという、前代未聞の策を提案します。
この決断が、漢王朝の運命を決定づける最後の分水嶺となりました。曹操は「それは天下を乱す種になる」と強く諫言しますが、何進は聞き入れません。
物語は、何進が自ら乱の狼煙を上げてしまうという、皮肉に満ちた形で結ばれ、これから始まる戦乱の時代の序曲を高らかに奏でます。
時代の裏側:作者が託した漢王朝終焉の真理
この第二回には、単なる英雄譚の背景としてではなく、漢王朝の滅びの構造、そして新しい時代の価値観を読者に伝えるための、深遠な意図が隠されています。
構造の病巣と天命の喪失
作者はまず、腐敗の根源を指し示します。それは、宦官の私腹を肥やすための賄賂政治です。この病巣が、民衆の絶望を黄巾の乱という形で噴出させ、さらには劉備のような実直な英雄を体制から弾き出す原動力となりました。
諫議大夫の劉陶が帝の前で流した涙と、「漢室の天下は、ここに至り一瞬で終わる」という絶望の叫びは、漢王朝が天から与えられた寿命(天命)を完全に使い果たしたという、物語の根本的なテーマを読者の心に深く突き刺します。
仁徳は通じず、武力こそが道となる
劉備が督郵を殺さずに印綬を返上した行為は、彼の仁徳の深さを示す美しい場面です。しかし、この行動は同時に、清廉な仁の政治が、もはや腐敗しきった官僚機構という現実のいばらの道には通用しないことを暗示しています。
一方、黄巾の残党がすぐに新たな反乱を起こすという事実は、民衆の不満と絶望というエネルギーが、王朝の瓦解を食い止めることができない不可逆的な力となっていることを示しています。この時代の流れを変えるには、もはや「仁」だけではなく、それを実現するための「圧倒的な武力」が必要であることを、物語は雄弁に語り始めるのです。
袁紹と曹操の対照的な運命の予兆
この回で、何進を巡って繰り広げられた袁紹と曹操の諫言の対比は、後の三国時代の趨勢を予見する、巧妙な伏線です。
名門の袁紹は、地方の諸侯という広大な血縁とネットワークを動員する大義名分と権威に頼ろうとしました。しかし、これは都の権力を地方の武力に委ねるという、乱世への扉を自ら開く愚行でした。
対照的に、実務家である曹操は、何進が持つ今すぐ使える権力を迅速かつ断固として行使すべきだと主張しました。彼の進言が退けられた瞬間、曹操は旧体制の無能さを悟り、やがて来るべき乱世において、自らの実力のみを頼りに道を切り開くことを決意したのかもしれません。
ここに描かれるのは、名門の「虚なる権威」が衰退し、実務とスピードを重んじる「実力主義」の英雄が天下の主導権を握るという、新たな時代の到来です。 何進の最後の選択は、漢王朝の最後の輝きを自ら掻き消し、群雄割拠という名の混沌の時代を、天下に招き入れるきっかけとなったのです。
【怒髪天を衝く、翼徳の柳鞭】
—その一閃に、羅貫中が託した「義」の在処—
かの物語の一幕、張飛が督郵を柳の鞭で打つという鮮烈な場面は、ただ血気に逸る武人の蛮行と見るべきではないのかもしれません。それは、後漢末期という時代の淀みと、そこに生きる人々の魂の渇き、そして物語の紡ぎ手である羅貫中が描かんとした「義」と「法」の相克を映し出す、計算され尽くした舞台の一景であったと紐解くことができます。
其の一、黄昏の時代、鞭に込められし意味
物語の舞台は、天子の陽光も届かず、法という名の灯火も消えかけた黄昏の時代。官職は金で売買され、清廉な心を持つ者はかえって疎まれる。督郵のような地方官吏は、監察という公の衣をまといながら、その実、私腹を肥やすことしか考えぬ狼でした。この世において「法」とは、もはや民を守る盾ではなく、権力者が弱き者を食らうための牙と成り果てていたのです。劉備がどれほど仁徳をもって県を治めようとも、その清らかさこそが、濁った世では罪となる。賄賂を贈らぬ彼が汚職の標的とされたのは、まさにその象徴でありました。
このような時代にあって、鞭打ちという行為は、特別な響きを持ちます。
張飛が督郵を「民を害する賊」と断じたとき、彼の振り上げた鞭は、もはや私憤の道具ではありませんでした。それは、法の名の下に虐げられ、声を上げることさえできぬ民の、積年の憤りに形を与えた瞬間だったのです。彼の激情は、沈黙する大衆の魂の叫びそのものでした。
公衆の面前で官吏を打つ。それは、その者の権威を根こそぎ引き剥がし、人としての尊厳を砕く、何よりの屈辱を与える儀式です。腐りきった仕組みそのものへ突きつけられた、痛烈な刃でありました。そして、記録が伝える「柳の枝」。刑罰の杖ではない、道端のありふれた柳の枝を用いたことこそ、この裁きが官府の定めた法によるものではなく、地に根差した「義」による私的な執行であることを、何よりも雄弁に物語っているのです。
其の二、激情か、計算か。張飛の心の奥底
張飛のあの行動は、彼の荒ぶる気性と、劉備一党の名を天下に知らしめるという深謀遠慮が、奇跡のように溶け合った、いわば「激情の舞台」であったと見ることもできるでしょう。
一つには、彼の魂が持つ純粋な熱情。命よりも重いと誓った兄、劉備。その仁徳が、金銭を要求する小役人の奸計によって無残に踏みにじられていく。兄が守ろうとする民のささやかな暮らしが、目の前で嘲笑されている。その光景が、彼の魂の最も純粋な部分に火をつけたのです。彼のあの猛々しさがなければ、そもそも督郵を捕らえ、衆目の前に引きずり出すという荒業は成し得なかったに違いありません。
しかし、もう一つには、それが見事なまでに計算された離脱の宣言であったという見方もあります。この一撃は、単なる報復に非ず。「我ら劉備一党は、もはやこの腐りきった仕組みの中では生きぬ」という、世に向けた訣別の狼煙でありました。
群衆の前で悪しき官吏を罰することで、「劉備は汚職に屈せず、民の味方である」という鮮烈な印象を人々の心に刻みつけます。それは、劉備の仁徳だけでは決して成し得なかった、力強い義の宣言でした。そして、督郵の命までは奪わず、印綬を彼の首に掛けて職を辞した劉備の振る舞い。これは、我らの行いは私憤にあらず、公の義憤によるものであるという体裁を整え、法を破りながらも、その骸に一片の礼を尽くすという、実に巧みな均衡感覚を示しています。
羅貫中は、劉備の「仁」という静かな光と、張飛の「勇」という燃え盛る炎を組み合わせることで、淀んだ世との決別を、最も劇的に、そして人々の記憶に永く残る形で描き出したかったのではないでしょうか。この鞭打ちこそ、彼らが既存の法の枠組みには収まらぬ、真の英雄であることを天下に示すための、血塗られた儀式だったのです。
其の三、天の理、人の道。鞭が響かせる中華の魂
中華の古き思想において、「義」と「法」のいずれを尊ぶかという問いは、永劫の主題でありました。羅貫中は、この鞭打ちの場面を通して、時に「義」は、形骸化した「法」を凌駕するという、魂の真実を描き出したかったのかもしれません。
張飛の振るう鞭は、もはや彼個人の腕力ではなく、天の怒りを代行する「天の誅罰」としての意味を帯びてきます。為政者の徳が乱れれば、天は災いをもって警告を発するという天人相関の思想が、人々の心の根底にあった時代。漢王朝の天命が既に傾きかけていたあの頃、張飛の行いは、まさしく天意の現れと映ったことでしょう。
人の道として正しい「義」が、不正に使われる「悪法」の上位に立つ。その価値観に基づけば、張飛の行いは、世の法が腐敗しきった今、義の力によって悪を断罪する、正しき行いとなります。古えより、法が及ばぬ悪を討つ侠客の物語は、民の心を沸かせてきました。張飛は、その「義侠」の系譜に連なる者として、人々の目に映ったのです。
羅貫中は、督郵という卑小な悪を罰する張飛の姿に、「義」を失った法を、人の力が断罪するという、普遍的な正義の形を重ね合わせました。劉備の優しさだけでは動かせぬ現実を、張飛の激情がこじ開け、結果として、彼らの「真の義」が世に知れ渡るきっかけとなった。
あの鞭打ちは、乱れた世において、真の英雄とは、腐敗した体制を自らの手で打ち壊し、荒野の中から「義」という新たな旗を掲げて立ち上がる者でなければならぬ、という物語の紡ぎ手からの、静かな、しかし力強い伝言であったと言えるでしょう。張飛の柳鞭が描く一閃の軌跡は、まさしく新しい時代を切り拓くための、痛々しくも美しい産声であったのです。




