第一回:桃園に三傑義を結び、黄巾を斬って英雄功を立つ
詞
臨江仙
滔々と東へ流れゆく、長江の水。
幾千の英雄豪傑も、砕け散る波間にその名を消した。
是も非も、成功も失敗も、振り返れば、すべては空しい夢の跡。
ただ青山だけは変わらずに、幾度となく、紅の夕陽に染まるのを見てきた。
白髪の漁師や木こりが、川の中州を住まいとする。
彼らは、秋の月や春の風といった季節の移ろいを、友としてきた。
一壺の濁り酒を手に再会を喜び、古今の出来事を語り合う。
どれほどの物語があろうとも、それらはすべて、酔いと共に笑い話へと変わってゆくのだ。
序章:後漢の乱れ
そもそも天下の趨勢とは、分かたれて久しくなれば必ず一つとなり、一つとなって久しくなれば必ずまた分かたれるものである。かの周の世の末には七つの国が相争い、やがて秦が天下を併せた。その秦が滅びれば楚と漢が覇を競い、ついには漢の世となった。漢王朝は、高祖劉邦が白蛇を斬って兵を挙げてより天下を統一し、後の光武帝による中興を経て、献帝の代まで続いたが、その治世も終焉を迎え、天下は三国に分かたれる運命にあった。
その乱れの源を辿れば、おそらくは桓帝と霊帝、この二代の皇帝の治世に始まる。桓帝は心正しき者たちを遠ざけ、宦官を重用した。桓帝が世を去り霊帝が即位すると、大将軍の竇武と太傅の陳蕃が帝を補佐した。
この時、宦官の曹節らが権勢をほしいままにしていたため、竇武と陳蕃は彼らを誅殺せんと図った。しかし、その計画はあまりに拙速であり、返り討ちに遭ってしまう。これより、宦官の権勢はますます増長し、その横暴はとどまるところを知らなかった。
建寧二年(一六九年)四月十五日のこと。帝が温徳殿にお出ましになり、玉座に就こうとしたその刹那、御殿の隅から一陣の狂風が吹き荒れ、一条の巨大な青い大蛇が梁から滑り落ち、玉座にその身を巻きつけた。帝は驚きのあまり気を失い、側近たちが慌てて奥の宮へと運び込む。百官は恐ろしさに散り散りに逃げ惑った。
ほどなくして大蛇は忽然と姿を消したが、今度は凄まじい雷鳴と共に豪雨が降り注ぎ、夜半に至るまで雹が降り続けた。そのために、数えきれぬほどの家屋が打ち壊されたという。
建寧四年(一七一年)二月には、都の洛陽で大地震が起こり、また、海水が溢れて沿岸の民はことごとく大波に飲み込まれた。
光和元年(一七八年)には、雌鶏が雄鶏に変わるという奇怪な現象が起こった。六月一日には、十丈(約二十三メートル)を超える黒い気が温徳殿の中に流れ込み、秋七月には宮殿に虹がかかった。かと思えば、五原の山々はことごとく崩れ落ちた。
このような不吉な兆しは、枚挙にいとまがなかった。
帝は詔を下し、群臣にこれらの災いのわけを問うた。議郎の蔡邕は奏上し、宮殿の虹や雌鶏の異変は、婦人や宦官が国政を壟断しているがためであると、率直に諫めた。帝はこれを読み、深く嘆息して席を立った。しかし、宦官の曹節がその奏上文を背後から盗み見ており、仲間たちに内容を告げ口した。そして、別の罪状をでっち上げて蔡邕を陥れ、故郷へと追放してしまった。
その後、張譲、趙忠、封諝、段珪、曹節、侯覧、蹇碩、程曠、夏惲、郭勝の十人の宦官は徒党を組み、朝廷を牛耳った。人々は彼らを「十常侍」と呼んで恐れた。帝は特に張譲を信じ、「阿父(お父さん)」と呼ぶほどであった。国政は日ごとに腐敗し、人心は乱れ、天下に盗賊が蜂のごとく湧き起こった。
桃園の結義
その頃、鉅鹿郡に張角、張宝、張梁という三人の兄弟がいた。
この張角は、もとは科挙に及第せぬままの秀才であったが、ある日、薬草を採りに山へ入った折、碧眼の童子のごとき顔立ちをした、藜の杖をつく一人の老翁に出会った。老翁は張角を洞窟へと誘い、『太平要術』と名付けられた天書三巻を授けて言う。
「そなたにこの『太平要術』を授ける。天に代わって教えを広め、広く世の人々を救うがよい。もし邪な心を抱けば、必ずやその身に天罰が下るであろう」
張角が平伏して名を問うと、老翁は「我は南華老仙なり」とだけ告げ、一陣の風と共に消え去った。
この書を得た張角は、昼夜を分かたず修行に励み、やがて風を呼び雨を降らせる術を身につけ、「太平道人」と号するようになった。
中平元年(一八四年)の正月、世に疫病が蔓延すると、張角は符を溶かした水を人々に与えて病を癒し、自らを「大賢良師」と称した。彼には五百人あまりの弟子がおり、皆、符を書き、呪文を唱えて各地を巡った。
弟子は日増しに数を増し、張角は全国に三十六の「方」と呼ばれる組織を築き上げた。大きな「方」は一万人余り、小さな「方」でも六、七千人の信徒を擁し、それぞれに指導者を置いて将軍と称させた。
そして、「蒼天すでに死す。黄天まさに立つべし。歳は甲子にありて、天下大吉」という言葉を流布させ、人々に「甲子」の二文字を白い土で家の門に書かせた。青、幽、徐、冀、荊、揚、兗、豫の八州に住まう人々は、こぞって大賢良師張角の名を信奉するようになった。
張角は一味の馬元義という男に金品を持たせ、都へ忍び込ませると、宦官の封諝を内応させた。そして、二人の弟と謀って言った。「最も得難きは民の心である。今、民心は我らにある。この機を逃して天下を取らねば、後悔先に立たずだ」
こうして、密かに黄色い旗印を準備し、挙兵の日を定めた。弟子の唐周に書簡を持たせ、内応の段取りを封諝に伝えようとした。しかし、この唐周が裏切り、朝廷へ駆け込んで全てを密告したのである。
帝はただちに大将軍の何進を召し、兵を動かして馬元義を捕らえさせ、これを斬首。続いて封諝ら一味も捕らえ、獄に下した。
計画の露見を知った張角は、夜を待って兵を挙げた。自らを「天公将軍」、弟の張宝を「地公将軍」、張梁を「人公将軍」と称し、民衆にこう宣言した。「漢の天運は尽きた。今こそ、大いなる聖人が現れたのである。皆、天の理に従い、太平の世を享受するのだ」
四方の民は黄色い頭巾を被って張角に呼応し、その数は瞬く間に四十万から五十万に膨れ上がった。賊軍の勢いは凄まじく、官軍はなすすべもなく敗走した。
何進は帝に奏上し、各地に詔を下して賊の討伐を命じた。そして、中郎将の盧植、皇甫嵩、朱儁の三将にそれぞれ精兵を率いさせ、三方に分かれて討伐に向かわせた。
劉備、関羽、張飛の出会い
さて、張角の軍勢の一隊が、幽州の境まで迫っていた。
幽州の太守である劉焉は、漢の魯恭王の末裔で、江夏竟陵の出身であった。賊の接近を知った彼は、校尉の鄒靖を呼んで対策を練った。
鄒靖は言う。「賊は多勢、我らは無勢。太守におかれましては、急ぎ義勇兵を募り、これにあたるべきかと存じます」
劉焉はその言を容れ、ただちに義勇兵を募る高札を立てた。
その高札が涿県に届いた時、一人の英雄を世に送り出すこととなる。
その男は、学問にはさほど熱心ではなかったが、度量が広く、物静かで、喜怒を顔に出すことがなかった。かねてより大志を抱き、天下の豪傑と交わることを好んだ。
身の丈は七尺五寸(約一七七センチ)、耳は大きく肩まで垂れ、手は膝を過ぎるほど長い。振り返れば、己の耳を見ることができたという。顔は白玉のごとく、唇は紅を差したように鮮やかであった。
彼は中山靖王劉勝の末裔であり、漢の景帝の玄孫にあたる。姓は劉、名は備、字を玄徳といった。
古くは、劉勝の子である劉貞が漢の武帝の御代に涿鹿亭侯に封じられたが、金銭の不正により爵位を失い、その一族は涿県に土着していた。
玄徳の祖父は劉雄、父は劉弘。劉弘は孝廉に推され役人となったが、早くに世を去った。玄徳は幼くして父を亡くし、母に孝を尽くした。家は貧しく、草履を売り、筵を織って生計を立てていた。
彼の家は、県内の楼桑村にあった。家の東南に、高さ五丈(約十二メートル)あまりの大桑があり、遠くから見ると、まるで天子の車にかざす天蓋のように見えたという。
ある人相見は、「この家から必ずや貴人が現れるであろう」と予言した。玄徳が幼い頃、村の子らとこの木の下で遊んでいた時、「私が天子になったなら、このような天蓋の車に乗るのだ」と語ったことがある。叔父の劉元起はその言葉に非凡さを感じ、玄徳の家の貧しさを見かねては、常に援助を惜しまなかった。
十五の時、母は彼を遊学に出した。鄭玄や盧植といった碩学に師事し、公孫瓚らと親交を結んだ。劉焉が義勇兵を募った時、玄徳はすでに二十八歳になっていた。
ある日、町の高札を眺めていた彼は、国の行く末を憂い、知らず知らずのうちに深いため息を漏らした。
その時である。背後から鋭い声が響いた。「大丈夫ともあろう者が、国のために尽くさずして、何を嘆いているのか!」
玄徳が振り返ると、そこに立っていたのは、身の丈八尺(約一八五センチ)、豹のような頭に丸い眼、燕のような顎に虎の髭という、実に勇ましい男であった。その声は雷鳴のごとく、勢いは荒馬のようであった。
玄徳はそのただならぬ風貌に驚き、名を尋ねた。男は答える。「俺は姓を張、名を飛、字を翼徳という。代々この涿郡の生まれで、ささやかな畑を持ち、酒を売り、豚を屠って暮らしている。天下の豪傑と交わるのが何よりの楽しみでな。あんたが高札の前で嘆いているのを見て、つい声をかけた次第だ」
玄徳は答えた。「私は漢の皇族の末裔、劉備と申します。今、黄巾の賊が世を乱していると聞き、賊を討ち、民を安んじたいと願ってはおりますが、力が及ばず、つい嘆息してしまいました」
それを聞いた張飛は言った。「俺にいくらかの財産がある。里の若者たちを集め、あんたと一緒に大事を成し遂げようじゃないか!」
玄徳は大いに喜び、二人は連れ立って村の酒屋へ入った。
英雄の邂逅と誓い
酒を酌み交わしていると、一人の大男が荷車を押して店の前で足を止め、中へ入るなり大声で叫んだ。「酒だ!早く酒を持ってこい!これを飲んだら、城へ行って軍に加わるのだ」
玄徳がその男を見やると、身の丈は九尺(約二〇八センチ)はあろうか、豊かな髭は二尺(約四十六センチ)にも及び、顔は熟した棗のように赤く、唇には朱を塗ったかのようだ。切れ長の目に、蚕が伏したような太い眉。その立ち姿は威風堂々としていた。
玄徳は彼を招き、席を共にして名を尋ねた。男は言う。「それがしは姓を関、名を羽、字を長生、後に雲長と改めた。河東郡解良の出身だ。故郷で権力を笠に着て人を虐げる役人がいたので、そやつを斬り捨て、五、六年の間、諸国を流れてきた。この地で賊を討つ兵を募っていると聞き、馳せ参じた次第」
玄徳は己の志を語って聞かせた。関羽もまた大いに喜び、三人は張飛の屋敷へと赴き、天下の大事を語り合った。
張飛が言った。「俺の屋敷の裏には桃園があり、今しも花が満開だ。明日、この園で天地を祀り、我ら三人が兄弟の契りを結ぶというのはどうだろう。心を一つにして力を合わせれば、必ずや大事を成し遂げられよう」
玄徳と関羽は、声を揃えて言った。「それは、素晴らしい考えだ」
翌日、三人は桃園に黒牛と白馬を供え、香を焚いて天と地を拝し、誓いの言葉を述べた。
「我ら、劉備、関羽、張飛、姓は違えども、兄弟の義を結びしからは、心を一つにして力を合わせ、苦しむ者を救い、危うきを助けん。上は国家に報い、下は民草を安んずることを誓う。我ら、同じ日に生まれることは叶わぬとも、願わくは同じ日にこそ死なん。天にいます皇天后土よ、この真心を照覧あれ。もし、この義に背き、恩を忘れるようなことがあれば、天と人の罰を共に受けん」
誓いを終え、玄徳を長兄、関羽を次兄、張飛を末弟と定めた。天地への祭祀を終えると、牛を屠って酒宴を開き、郷里の若者たち三百人余りを集め、桃園で心ゆくまで飲み明かした。
初陣の功績
翌日、武具を整え始めたものの、肝心の馬がないことに気づき、三人は頭を抱えた。
そこへ、「二人の旅のお方が、大勢の供を連れて馬の一群を追い、こちらへ向かって参ります」との知らせが入った。玄徳は「天が我らを助けてくれたのだ!」と叫び、三人で屋敷の外へ出て客人を迎えた。
二人は中山で名の知れた大商人、張世平と蘇双であった。毎年、北へ馬を商いに行っていたが、黄巾の乱の勃発により、引き返してきたところだという。
玄徳は二人を屋敷に招き、酒肴を設けてもてなしながら、賊を討ち、民を安んじたいという志を熱く語った。張世平と蘇双はいたく感動し、快く良馬五十頭を贈ってくれた。そればかりか、武器を調えるための資金として、金銀五百両と上質な鉄千斤までも差し出してくれたのである。
玄徳は二人に深く感謝し、すぐさま職人を呼んで、自らのためには双股の剣を打たせた。関羽は青龍偃月刀、またの名を「冷艶鋸」と呼ばれる、重さ八十二斤(約四十九キログラム)の大刀を、張飛は丈八点鋼矛をしつらえた。三人はそれぞれに鎧兜も新調した。
郷里の若者五百人余りを率いて鄒靖のもとを訪れると、鄒靖は彼らを太守の劉焉に引き合わせた。三人が拝謁し、名を名乗ると、玄徳が漢の皇族の血を引くことを知った劉焉は大いに喜び、玄徳を甥として遇した。
それから数日も経たぬうちに、黄巾賊の将、程遠志が五万の兵を率いて涿郡に攻め寄せたとの報せが届いた。
劉焉は鄒靖に命じ、玄徳ら三兄弟に五百の兵を授けて賊の討伐に向かわせた。玄徳たちは喜び勇んで出陣し、大興山の麓で賊軍と遭遇した。賊兵は皆、髪を振り乱し、額に黄色い頭巾を巻いている。
両軍が対峙すると、玄徳が馬を進め、左に関羽、右に張飛を従えて、鞭を振り上げ大喝した。「国に背く賊どもよ、なぜ早く降伏せぬか!」
程遠志は激怒し、副将の鄧茂を前に出した。張飛は丈八の蛇矛を構え、一突きで鄧茂の心臓を貫き、馬から突き落とした。
程遠志は鄧茂が討たれるのを見るや、自ら馬を駆り、大刀を振りかざして張飛に襲いかかった。それを阻んだのは関羽であった。青龍偃月刀を閃かせ、飛ぶように馬を寄せる。その凄まじい気迫に程遠志は肝を冷やし、応戦する間もなく、関羽の一刀のもとに両断された。
後の世の人が、二人の武勇を詩に詠んでいる。
英雄、今朝、その才を示す
一人は矛を試し、一人は刀を試す
初陣にして、たちまち威を振るい
三国鼎立の礎に、その名を刻む
大将の程遠志が斬られると、賊兵たちは武器を捨てて逃げ出した。玄徳は軍を率いて追撃し、降伏する者は数知れず、見事な大勝利を収めて帰還した。
劉焉は自ら出迎え、兵士たちの労をねぎらった。
翌日、青州の太守、龔景から救援を求める書状が届いた。黄巾賊に城を包囲され、落城は時間の問題だという。劉焉が玄徳に相談すると、玄徳は「それがしが救援に参りましょう」と即座に答えた。劉焉は鄒靖に兵五千を預け、玄徳ら三兄弟と共に青州へと向かわせた。
賊軍は援軍の到来を知ると、兵を分けて迎撃してきた。玄徳の軍は数が少なく、正面からでは敵わぬと見て、三十里ほど退いて陣を構えた。
玄徳は関羽と張飛に言った。「賊は多く、我らは少ない。奇策をもってこそ、勝利を得られよう」
そして、関羽に千の兵を率いさせて山の左に、張飛に同じく千の兵を率いさせて山の右に伏兵として潜ませ、銅鑼の音を合図に一斉に攻めかかるよう命じた。
翌日、玄徳は鄒靖と共に鬨の声を上げて進軍した。賊が迎え撃つと見るや、玄徳はすぐさま兵を退かせた。賊軍は勢いに乗って追撃し、山間部へと差し掛かった。その時、玄徳の陣から銅鑼の音が鳴り響き、左右から関羽と張飛の伏兵が躍り出た。玄徳もまた軍を返し、三方から挟み撃ちにする。賊軍は総崩れとなった。
青州城下まで追撃すると、城内から太守の龔景も民兵を率いて打って出てきた。賊軍は完全に打ち破られ、討ち取られた者は数知れず、青州の包囲はようやく解かれたのである。
後の世の人が、玄徳の知略を詩に詠んでいる。
計を練り、決断を下すは神の如し
二虎(関羽・張飛)も、なお一龍(劉備)には及ばず
初陣にして、早くも大功を立て
鼎立の業は、困窮の中にこそ生まれる
龔景が兵をねぎらった後、鄒靖は帰還の途につこうとした。しかし、玄徳は言った。「近頃、師である盧植様が、賊の首領、張角と広宗で戦っておられると聞きました。師の助けとなるべく、広宗へ向かいたいと存じます」
そこで、鄒靖は手勢を率いて一人帰り、玄徳は関羽、張飛、そして自らの配下五百と共に広宗を目指した。
盧植の陣に着くと、三人は幕舎を訪れて拝礼し、救援に来た旨を伝えた。盧植は大いに喜び、彼らを陣に留め、指示を待つよう命じた。
この時、張角の賊軍は十五万、対する盧植の軍は五万。広宗で対峙していたが、いまだ勝敗は決していなかった。
盧植は玄徳に言った。「今、私はここで張角を包囲している。奴の弟、張梁と張宝は、潁川で皇甫嵩、朱儁の両将と対峙しているはずだ。そなたは手勢に加え、私の兵千を率いて潁川へ赴き、戦況を探ってきてくれぬか。共に賊を討つ日を定めたいのだ」
玄徳は命を受け、夜を徹して潁川へと向かった。
曹操の初登場と董卓との衝突
その頃、皇甫嵩と朱儁は賊軍と対峙していた。賊は戦況が不利と見るや、長社まで退き、草むらに陣を構えていた。
皇甫嵩は朱儁に策を授ける。「賊は草むらに陣を構えている。火攻めが上策であろう」
そして、兵士たちに草の束を一つずつ持たせ、夜陰に紛れて伏兵とした。
その夜、折よく大風が吹き荒れた。二更(午前二時頃)過ぎ、一斉に火が放たれた。皇甫嵩と朱儁もそれぞれ兵を率いて賊の陣営に突撃する。炎は天を焦がし、賊兵は大混乱に陥った。馬に鞍を置く暇もなく、鎧をまとう間もなく、散り散りに逃げ惑うばかりであった。
夜が明けるまで続いた追撃で、張梁と張宝はわずかな手勢を率いて、かろうじて血路を開いて逃走した。その時、行く手に赤い旗印を掲げた一軍が現れ、退路を断った。
軍を率いる一人の将。身の丈七尺(約一六二センチ)、細い目に長い髭。その官位は騎都尉。沛国譙郡の出身で、姓は曹、名は操、字を孟徳という。
曹操の父、曹嵩はもとは夏侯氏の出であったが、宦官の曹騰の養子となったため、曹姓を名乗っていた。その曹嵩の子が曹操である。幼名を阿瞞、またの名を吉利といった。
曹操は若い頃、狩猟と歌舞を好み、権謀術数に長けていた。彼には叔父がおり、その放蕩ぶりを憂えては、父の曹嵩にしばしば告げ口をした。曹操はこれを疎ましく思っていた。
ある時、曹操は一計を案じた。叔父がやって来るのを見計らい、わざと地面に倒れて中風の発作を起こしたふりをした。叔父は驚いて曹嵩に知らせる。曹嵩が駆けつけると、曹操はけろりとしている。
「叔父がお前は中風だと言っていたが、もう治ったのか?」
「私はもとよりそのような病にかかってはおりません。叔父上が私のことを好いておられないので、嘘を申されたのでしょう」
曹嵩はこれを信じ、以来、叔父が曹操の過ちを告げても、全く聞き入れなくなった。こうして、曹操は誰に気兼ねすることもなく、自由奔放に振る舞うことができた。
当時、橋玄という人物が曹操を評して言った。「天下はまさに乱れんとしている。世を救うほどの才覚の持ち主でなければ、この乱世を収めることはできまい。天下を安んじることができるのは、あるいはそなたやもしれぬ」
南陽の何顒は、曹操を見て言った。「漢の王室は滅びようとしている。天下を安んずるのは、必ずやこの男であろう」
また、汝南の許劭は、人物眼で名を知られていた。曹操が彼を訪ね、「私はどのような人間か」と問うたが、許劭は答えなかった。重ねて問うと、許劭はこう言った。「あなたは治世の能臣、乱世の奸雄だ」
曹操はこれを聞いて大いに喜んだという。
二十歳で孝廉に推され、郎に任じられ、やがて洛陽北都尉となった。着任するや、城の四門に五色の棒を何本も吊るし、禁令を破る者は身分を問わず、これで打ち据えた。宦官の蹇碩の叔父が夜間に刀を帯びていたのを捕らえると、容赦なく棒で打ち殺した。これにより、都では禁令を犯す者がいなくなり、彼の名は広く知れ渡った。
後に頓丘の県令となり、黄巾の乱が起こると騎都尉に任ぜられ、五千の兵を率いて潁川の救援に駆けつけたのである。
ちょうど張梁、張宝が敗走してきたところを、曹操の軍が迎え撃ち、一万余りの首級を挙げ、数多の旗や武具、馬を奪った。張梁と張宝は死に物狂いで戦い、ようやく逃げ延びた。曹操は皇甫嵩と朱儁に面会した後、ただちに兵を率いて二人を追撃した。
張飛、董卓を斬らんとす
さて、玄徳が関羽、張飛を率いて潁川に到着すると、鬨の声と天を焦がす炎が見えた。急ぎ駆けつけたが、すでに賊は敗走した後であった。
玄徳は皇甫嵩と朱儁に会い、師である盧植の意向を伝えた。皇甫嵩は言った。「張梁と張宝は、勢いを失い、必ずや広宗の張角のもとへ向かうであろう。玄徳殿は、急ぎ広宗へお戻りになり、盧植殿をお助けくだされ」
玄徳は命を受け、再び軍を返した。
道中、檻のついた車を護送する一団に行き会った。その檻車の中にいたのは、驚くべきことに、師の盧植であった。
玄徳は慌てて馬から下り、そのわけを尋ねた。
盧植は力なく語った。「私が張角を追い詰め、あと一歩で打ち破れるところであった。しかし、奴が妖術を使うため、手間取ってしまった。そこへ朝廷から黄門の左豊という男が監察にやって来て、私に賄賂を要求したのだ。『軍糧さえ事欠くありさまで、どうして使者殿にもてなしの金などありましょうか』と断ったところ、左豊はこれを恨みに思い、都へ戻って『盧植は砦に籠って戦おうとせず、兵の士気を下げている』と偽りの奏上をした。帝は激怒なされ、中郎将の董卓に私の任を代わらせ、私を都へ連行して罪を問うことになったのだ」
これを聞いた張飛は、怒りのあまり護送の兵士たちを斬り殺し、盧植を救い出そうとした。玄徳は慌ててそれを押しとどめる。
「ならぬ!朝廷には朝廷の法がある。軽率な振る舞いは許されんぞ」
兵士たちは盧植を連れて、都へと去って行った。
関羽が言った。「盧植殿が捕らえられては、我らがここに留まる意味もない。いっそ涿郡へ戻りましょう」
玄徳もこれに同意し、兵を率いて北へ向かった。
二日ほど進んだ頃、山の向こうから地鳴りのような鬨の声が聞こえた。玄徳ら三人が馬で高台に駆け上って見ると、漢軍が大敗を喫し、その後ろから、山を埋め尽くさんばかりの黄巾賊が追撃してきている。旗印には「天公将軍」の四文字があった。
玄徳は叫んだ。「張角だ!今こそ奴を討つ!」
三人は馬を飛ばし、軍を率いて賊軍に突っ込んだ。張角は、ちょうど董卓の軍を打ち破り、勢いに乗じて追撃している最中であった。そこへ、予期せぬ三人の猛将の突撃を受け、軍はたちまち大混乱に陥り、五十里(約二十キロメートル)も敗走した。
三人は董卓を救い、陣営へと戻った。董卓は三人に問うた。「そなたらは、いかなる官職にあるのか?」
玄徳は答えた。「官位などない、ただの義勇の者です」
それを聞いた途端、董卓の態度は傲慢になり、三人をぞんざいに扱った。
玄徳が幕舎から出ると、張飛が怒りを爆発させた。「俺たちが命がけで奴を助けてやったというのに、あの無礼な態度は何だ!あんな奴、斬り捨てなければ気が収まらん!」
張飛は剣を抜き、董卓を殺さんと幕舎へ駆け込もうとした。
人情は権勢を尊ぶ、古も今も変わらぬ世の常か。
英雄が、今はまだ無位無官の身であることを誰が知ろう。
願わくは翼徳のごとき快男児を得て、
世の恩知らずを、ことごとく誅し尽くさん。
果たして、董卓の命運やいかに。それは、また次のお話で。
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物語の舞台は、今から約1800年前の中国、後漢王朝の終わり頃です。
政治は腐敗しきっており、特に「十常侍」と呼ばれる宦官たちが権力を握り、やりたい放題。そのせいで国は乱れ、天変地異も頻発し、民衆は大変な苦しみの中にいました。
そんな中、「蒼天(漢王朝)はもう終わりだ、黄天(新しい時代)が始まる」を合言葉に、張角という男が「黄巾の乱」という大規模な農民反乱を起こします。その勢いは凄まじく、朝廷の軍隊だけではとても抑えきれませんでした。
国が危機に陥る中、朝廷は各地で「国のために戦ってくれるなら身分は問わない」と義勇兵を募集します。この呼びかけが、三人の英雄を引き合わせることになりました。
•一人目は、漢王朝の皇族の血を引いていながら、今はわらじを編んで暮らす心優しい青年、劉備。
•二人目は、威勢が良く、酒屋と肉屋を営むお金持ちの豪傑、張飛。
•三人目は、故郷で悪人を殺して逃亡中の、義に厚い見事な髭を持つ武人、関羽。
国を憂う同じ志を持っていた三人は、出会ってすぐに意気投合。張飛の屋敷の裏にある美しい桃園で、「我ら、生まれた日は違えども、死す時は同じ日を願わん」と、固い兄弟の契りを交わします。これが有名な**「桃園の誓い」**です。
三人は自らの武器(劉備は二振りの剣、関羽は青龍偃月刀、張飛は蛇矛)を作り、仲間を集めて義勇軍を結成。初陣では、関羽と張飛が敵の大将を一瞬で討ち取る大活躍を見せ、見事な勝利を飾ります。
その後も活躍を続ける三人は、黄巾賊に敗れて逃げていた朝廷の将軍、**董卓**を救い出します。しかし、董卓は三人が何の官位も持たないただの義勇兵だと知ると、命の恩人である彼らに非常に無礼な態度をとりました。
この侮辱に、短気な張飛が激怒。「あんな奴、斬り捨ててくれる!」と、董卓に斬りかかろうとしたところで、第一回は幕を閉じます。
『三国志演義』が日本の文化に与えた影響は計り知れず、数多ある中国古典の中でも、これほどまでに深く、広く浸透した作品は他に類を見ません。その壮大な物語の幕開けである第一回は、単なる物語の始まりに留まらない、作者・羅貫中が仕掛けた巧みな序曲であり、彼自身の心の内と、作品全体を貫く思想が凝縮されています。
この第一回に込められた作者の意図と、その背景にある歴史、文化、民俗を織り交ぜながら、詳細に解説いたします。
1. 巻頭詩に込められた作者の心境 — 壮大な叙事詩への「達観」という誘い
第一回は、物語本編に入る前に、まず「臨江仙」という詞から始まります。
滾々と流れる長江は、東へ東へと流れ去る水。
砕ける波の泡は、数多くの英雄たちを洗い流して尽くした。
是も非も、成功も失敗も、振り返ればすべて空しい。
(中略)
古今、どれほどの出来事があったとしても、
それらはすべて、笑い話の中に、気楽に語られるのだ。
これは、物語の語り手である羅貫中の立ち位置、そして読者へ向けた「この物語との向き合い方」を示す、極めて重要な序文です。
•作者の「こころうち」 (心の内): 羅貫中は、これから描かれる英雄たちの激しい生き様、策略、裏切り、そして天下統一という巨大な野望を、壮大な自然と時間の流れの中に置きます。長江の流れや沈まぬ夕日といった、人間の営みを遥かに超えた存在から見れば、英雄豪傑の成し遂げた偉業も、その苦悩も、全ては一瞬の泡のようなものだ、と彼はまず宣言するのです。これは「虚無」とは異なります。むしろ、歴史を動かした英雄たちへの深い敬意と愛惜があるからこそ、その営みの儚さを慈しむ「達観」の境地です。
•読者へのメッセージ: 羅貫中は読者にこう語りかけています。「これから皆さんは、血湧き肉躍る英雄たちの物語に夢中になるでしょう。劉備の仁徳に涙し、関羽の義に心を震わせ、曹操の奸智に舌を巻き、孔明の神算に驚嘆するでしょう。しかし、忘れないでください。この物語は、白髪の漁師や木こりが酒の肴にするような、一つの『笑い話』でもあるのです」と。この視点を与えることで、読者は個々の登場人物に感情移入しつつも、同時に物語全体を俯瞰する、より深く、多層的な楽しみ方ができるようになります。壮大な歴史絵巻を、まるで神の視点から眺めるような感覚を、この詞は与えてくれるのです。
2. 羅貫中の執筆意図 — なぜ『三国演義』は書かれたのか
羅貫中が生きたとされる14世紀の中国(元末明初)は、モンゴル民族が支配した元朝が衰退し、漢民族の明朝が勃興する、まさに激動の時代でした。この時代背景こそが、『三国演義』誕生の最大の原動力となります。
•漢民族のアイデンティティ復興: 異民族支配の時代を経て、漢民族の間では自らの歴史と文化への回帰、そして「正統な漢民族の王朝」を待望する気運が最高潮に達していました。後漢の末裔である劉備が、漢王朝の復興(興復漢室)を掲げて立ち上がる物語は、まさにこの時代の人々の願いそのものでした。劉備を「仁徳の君主」、彼が建てた「蜀漢」を正統な王朝として描く「蜀漢正統論」は、単なる物語の構成ではなく、作者と当時の読者が共有した強い政治的・民族的メッセージだったのです。
•「義」という理想の渇望: 長い戦乱の世では、裏切りや下剋上が横行します。そのような時代だからこそ、人々は桃園の誓いに象徴されるような、決して揺るぐことのない**「義」**(兄弟の絆、忠義、正義)に憧れました。『三国演義』は、この「義」を物語の絶対的な中心に据えました。劉備、関羽、張飛の三兄弟の絆は、あらゆる利害を超えた人間関係の理想形として描かれ、読者に深い感動とカタルシスを与えました。これは、乱れた世に生きる人々への、人間としてどう生きるべきかという道徳的な指針でもあったのです。
•大衆娯楽の集大成として: 羅貫中がこの物語をゼロから創作したわけではありません。彼の時代には、すでに講談師たちが街角や茶館で「三国志物語」を語り、民衆の間で大人気を博していました。そこでは、劉備は善玉、曹操は悪玉、関羽は義の神様、張飛は豪傑、諸葛孔明は仙人のような軍師、といった分かりやすいキャラクター像が確立されていました。羅貫中の偉業は、これらの断片的な講談や、陳寿の正史『三国志』などの歴史書、民間に伝わる伝説を巧みに編み上げ、一つの壮大で連続性のある「文学作品」へと昇華させた点にあります。彼は、大衆が求める面白さと、歴史物語としての体裁、そして儒教的な道徳観を完璧に融合させたのです。
3. 当時の文化、民風、風俗の反映
第一回には、当時の中国社会の思想や風習が色濃く反映されています。
•天人相関思想: 皇帝の政治が乱れると、天が災いを下して警告するという思想です。第一回で描かれる青い大蛇の出現、地震、洪水、雌鶏が雄に変わるといった数々の怪奇現象は、単なる物語の飾りではありません。これらは「漢王朝の天命は尽きつつある」という、天からのメッセージとして、当時の人々には極めて説得力を持って受け止められました。為政者の不徳が、直接的に世界の秩序を乱すという世界観が、物語の根底に流れています。
•黄巾の乱と民衆の絶望: 張角が「太平要術」という書を得て、符水で人々を救う場面は、政治への絶望が人々を新興宗教やカリスマ的指導者へと向かわせる様子をリアルに描いています。「蒼天すでに死す。黄天まさに立つべし」というスローガンは、既存の権威(漢王朝=蒼天)が崩壊し、新たな救世主(張角=黄天)が現れることを願う、追い詰められた民衆の叫びそのものでした。これは、羅貫中が生きた元末の紅巾の乱など、農民反乱が頻発した時代状況を色濃く反映しています。
•「義」を重んじる江湖の気風: 劉備、関羽、張飛が出会い、すぐに意気投合して兄弟の契りを結ぶ場面は、当時の民間で理想とされた人間関係を象徴しています。家柄や財産ではなく、個人の「志」と「義侠心」によって人々が結びつく。これは、儒教的な家父長制とは少し異なる、いわば「江湖」(アウトローや在野の英雄たちの世界)の価値観です。張飛が「私には多少の財産がある」と、すぐさま全財産を投げ打って仲間を集めようとする気風の良さは、まさにこの「義」を何よりも重んじる民間の風俗を体現しています。
このように、『三国演義』の第一回は、読者を物語の世界へ引き込むための壮大な序章であると同時に、作者・羅貫中が抱いた歴史への達観、漢民族としての誇り、乱世における「義」への渇望、そして彼が生きた時代の空気そのものが凝縮された、重層的な宣言文なのです。この堂々たる幕開けがあったからこそ、『三国演義』は時代と国境を超え、今なお私たちの心を捉えて離さない不朽の物語となり得たのでしょう。
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「桃園の結義」という、三国演義第一回の、そして物語全体の魂とも言える名場面について、その宴、酒、肴から、儀式の本質、そして現代にまで続くその精神性まで、歴史的・文化的な背景を織り交ぜながら、こと細かく論じてまいりましょう。
「桃園の結義」— 血を超えた魂の契約
劉備、関羽、張飛が義兄弟の契りを結んだこの儀式は、単なる宴会ではありません。それは、後漢末期の混沌とした社会の中で、己の信じる道を進むために必要不可欠な、魂の契約を結ぶ神聖な儀礼でした。その詳細を紐解くことで、三人が何を誓い、何を理想としたのかが浮き彫りになります。
一.宴の設え — 自然と一体となる、原始の誓い
•場所: 儀式の舞台は、格式張った廟堂や屋敷の一室ではなく、「張飛の荘園の裏にある桃園」でした。満開の桃の花の下という、自然の生命力が最も満ち溢れる場所を選ぶことで、彼らの誓いが天と地の理にかなった、純粋で生命力に満ちたものであることを象徴しています。
•供物: 演義には「黒牛と白馬」を供物として用意したとあります。これは単なる食材ではありません。古代中国において、牛や馬は貴重な財産であり、特に牛は農耕の神聖なパートナーでした。白と黒という対極の色を持つ動物を捧げることには、陰陽思想が反映されていると考えられます。天(陽)と地(陰)のすべてを司る「皇天后土」に対し、宇宙の法則の全てをかけて誓うという、彼らの覚悟の深さを示しています。牛を屠るという行為自体が、日常の法や常識を超越した、重大な決意表明なのです。
二.酒と肴 — 誓いを固める血肉の共有
この宴で振る舞われたであろう酒と肴は、宮廷料理のような洗練されたものではなく、もっと質実剛健で、生命力に満ちたものであったはずです。
•酒:白く濁った、大地の恵み
o種類と材料: 当時の酒は、現代の私たちが知る透明な蒸留酒(白酒)ではなく、米や黍、粟などを原料とする醸造酒でした。濾過技術が未熟だったため、白く濁った「濁酒」が主流でした。巻頭詩に「一壺の濁酒」とあるのも、この時代背景を反映しています。それはまさに、大地の恵みをそのまま凝縮したような、素朴で力強い飲み物だったでしょう。
oアルコール度数: 蒸留技術がなかったため、アルコール度数は現代の日本酒(約15度)やワインよりもずっと低く、5度から高くても10度未満だったと推測されます。そのため、人々は大きな碗や盃で、喉の渇きを潤すかのように豪快に飲んでいました。三人が酌み交わした酒は、酔うためというより、互いの魂を潤し、一体化させるための神聖な液体だったのです。
•肴:誓いの証としての「牛肉」
o種類と意味: 演義には「牛を屠って酒宴を開き」と明確に記されています。メインの肴は間違いなく牛肉料理でした。前述の通り、牛を食すことは非常に特別な意味を持ちます。農耕社会において牛を屠ることは、共同体の生産基盤を揺るがしかねない禁忌に近い行為でした。それを敢えて行うのは、「我々はこれより、社会の常識や既存の秩序に縛られず、我々の信じる『義』のために生きる」という、強烈な宣言に他なりません。
oその他の食材: 張飛が「酒を売り豚を屠り」を商売にしていたことから、豚肉も豊富にあったでしょう。調理法は、大きな鍋で煮込んだ「羹」や、豪快に炙った「炙」が中心だったと考えられます。桃園という場所を考えれば、近くで採れたであろう野草や川魚なども食卓に並んだかもしれません。これらは、三人がこれから共有するであろう辛苦を乗り越えるための、生命の糧そのものでした。
この宴は、同じ釜の飯ならぬ「同じ牛の肉を食らい、同じ壺の酒を飲む」という行為を通じて、他人であった三人が文字通り血肉を分けた兄弟となるための、極めて重要な儀式だったのです。
三.儀式の神髄 — なぜ現代人の心をも打つのか
「桃園の結義」が、時代と文化を超えて多くの人々の心を捉えるのは、この儀式が持つ普遍的な「神髄」に理由があります。
•謳うもの:血縁を超えた「志」の絆
この儀式が謳うのは、「志の共同体」です。後漢末期のような乱世では、血縁や地縁といった旧来の共同体はもはや自分を守ってくれません。そんな中、人々が唯一頼れるのは、同じ理想や目的を共有する者同士の固い結束でした。「漢室の復興と民の安寧」という共通の志があったからこそ、出自も性格もバラバラな三人は、血の繋がりをも超える強固な絆を結ぶことができたのです。
•神髄:自己犠牲と絶対的信頼
桃園の結義の神髄は、「無私の精神」と「絶対的な信頼」に集約されます。
誓いの言葉「同年同月同日に生まれることを求めず、ただ同年同月同日に死ぬことを願う」は、その究極の表現です。これは、自分の命よりも兄弟の命、そして三人が共有する「義」を優先するという、自己犠牲の誓いです。
現代社会、特にビジネスや組織論においてこの儀式がしばしば引き合いに出されるのは、この点にあります。個人の利益や成功よりも、チーム全体の目標達成を優先する。どんな困難な状況でも仲間を裏切らず、最後まで助け合う。この、組織が理想とする究極のチームワークの原型が、桃園の誓いの中にあるのです。
それは、利害関係で結びついた単なるパートナーシップではありません。互いの存在そのものを肯定し、成功も失敗も、そして死さえも分かち合うと誓った運命共同体の誕生宣言です。この純粋で、あまりに人間的な絆の美しさこそが、複雑化した現代社会に生きる我々の心を、今なお強く揺さぶるのではないでしょうか。




