前書き
「臨江仙」
滾滾長江東逝水
浪花淘盡英雄
是非成敗轉頭空
青山依舊在
幾度夕陽紅
白髮漁樵江渚上
慣看秋月春風
一壺濁酒喜相逢
古今多少事
都付笑談中
【心訳】
尽きることなく東へとうねり行く、長江の流れ。
その水面を叩く白波は、さながら時の篩であるかのように、幾多の英雄たちを飲み込んでは、跡形もなく消し去ってゆきました。
何が正しく、何が過ちであったのか。誰が勝ち、誰が敗れたのか。
今となって振り返れば、そのすべては夢か幻のように空しいもの。
ただ、青々とした山々だけは、昔と何一つ変わらぬ姿でそこに在り、
燃えるような夕陽が天と地を染め上げる様を、幾度となく静かに見つめてきたのです。
白髪の漁師や木こりが、川のほとりで静かに暮らしています。
彼らは、権力や名誉の移ろいを追うことなく、ただ巡り来る秋の月や春の風といった、自然の息遣いを当たり前のものとして眺め、生きてきました。
たまさか友と顔を合わせれば、一つの壺に満たされた濁り酒を酌み交わし、束の間の再会を喜び合う。
いにしえから今日に至るまで、この世で起きたどれほど多くの出来事も、どれほど重大な事件も、
彼らの手にかかれば、すべては酒の肴となる、笑い話の一つに過ぎないのです。
【しおの】
『三国演義を演じ切る』 ― 我が魂の、桃園、赤壁、五丈原
筆者: 「私」(現代日本に生きる、一人の探求者)
知っている、では足りない。解っている、では届かない。
この身のすべてを器として、千八百年の時を超え、あの英雄たちの息遣いを、今、ここに降ろす。
1. 創作コンセプト ― なぜ、今ふたたび『三国演義』なのか
『三国演義』は、日本において最も成功し、深く浸透した中国古典文学である。ゲーム、漫画、小説を通じて、劉備の仁、曹操の覇、孔明の智は、もはや我々の文化の一部と化している。しかし、そのあまりの親しみやすさは、時に「知っている」という感覚で思考を停止させ、原作が持つ本来の凄まじいまでの熱量、土の匂い、そして通底する無常観を覆い隠してしまうという逆説を生んだ。
本企画は、この「知っているつもり」の壁を打ち破るための、前代未聞の文学的実験である。
これは、翻訳ではない。「憑依」である。
これは、解説ではない。「共振」である。
これは、物語ではない。「演義」を生き直すという、一人の人間の魂の記録(私小説)である。
筆者は「私」。現代に生きる一人の日本人が、羅貫中が紡いだ言葉の海へ、ただ一人で漕ぎ出してゆく。一文一句を、辞書的な正しさだけでなく、その言葉が発せられたであろう場の湿度、人物の体温、背後に渦巻く経済や民の暮らしまでをも感じ取りながら、自らの血肉を通して現代の日本語へと「再受肉」させてゆく。
この旅は、『三国演義』という鏡を通して、「私」自身の、そして現代日本人が失いかけたものは何かを問い直す、壮絶な内省の旅となるだろう。
2. 表現手法 ― 三層構造で織りなす重層的文学体験
各章は、以下の三つのパートが螺旋のように絡み合いながら進行する。
第一層:【超訳演義】 ― 魂で訳す、言霊の再臨
原文の一節一節を、著者が全身全霊で感じ取り、現代の読者の心に直接響く言葉で再構築するパート。「翻訳」というよりは、俳優が役を生きるかのような「超訳」を目指す。例えば、曹操の「寧我負人、毋人負我(我、人に背くとも、人、我に背かせじ)」という言葉を、単に訳すのではなく、その言葉が彼の口から迸り出るに至った孤独と猜疑、そして覇業への渇望を、地の文にまで滲ませながら描写する。
第二層:【深層解説】 ― 血の通った、知の探訪
超訳された本文に続き、「私」の視点で、その背景にある文化、経済、風俗を徹底的に掘り下げていくパート。しかし、それは無味乾燥な学術的解説ではない。
例:「桃園の誓い」の章
「彼らが酌み交わした酒は、どんな味がしたのだろうか。後漢末期の庶民が手に入れられる酒とは。私は、当時の醸造法を調べ、文献に残る雑穀で濁酒を自作してみた。その酸味と土臭い香りの奥に、明日をも知れぬ乱世で、唯一信じられる義兄弟という絆を渇望した男たちの、焦燥と純粋さが溶けている気がした。」
このように、「私」自身の体験や探求を交えながら、読者をまるでタイムトラベルしているかのような感覚へと誘う。塩の価格、鎧の重さ、伝令が走る道のぬかるみ、それらすべてが物語の一部となる。
第三層:【心象水墨】 ― 余白に宿る、魂の風景
各章のクライマックスや、重要な場面の終わりには、筆者の心象風景を水墨画として描き出す詩的な一文を挿入する。これは、具体的なイラストではなく、読者の想像力に働きかけ、物語世界への深い没入を促すための「言葉の絵画」である。
例:「赤壁前夜、東風を祈る孔明」
「墨は、祭壇に立つ孔明の、ただ一本の影を落とす。周囲のすべては、濃霧を思わせる淡墨のなかに溶け、天と地の境も曖昧だ。ただ、彼の鶴氅の袖をわずかに揺らす風の気配だけが、画面に描かれぬまま、紙全体を震わせている。一点の朱も用いられず、しかし我々には、彼の指先に集まる炎のような祈りの熱が見えるのだ。」
3. この企画が持つ現代的意義 ― なぜ「ぶつける」必要があるのか
文化の「深呼吸」の提唱:
情報が瞬時に消費される現代において、一つの古典と年単位で向き合い、その深淵にまで潜ろうとする行為そのものが、現代社会へのアンチテーゼとなる。ファストフード化した文化摂取に対し、時間と手間を惜しまず、じっくりと味わい、消化する「文化の深呼吸」とも呼べる体験を提供する。
日中文化の「根」の再確認:
『三国演義』は、日中両国が共有する巨大な文化遺産である。表層的なキャラクターの魅力だけでなく、その根底に流れる儒教的価値観、道教的無常観、そして人の「義」や「情」といった普遍的なテーマを、「私」という日本人のフィルターを通して深く味わい直すことで、我々の文化の根源にあるものを再発見し、隣国への理解を新たな次元へと深める契機となる。
「個」の時代の英雄論:
組織や国家への帰属意識が揺らぐ現代において、劉備、曹操、孫権といった英雄たちが、いかにして人を惹きつけ、組織を作り、時代を動かしたのか。彼らの生き様を、現代人の「私」が苦悩しながら追体験することで、リーダーシップ、友情、裏切り、そして自らの人生を「演じ切る」とはどういうことか、読者一人ひとりが自らの問題として考えるための、深遠な問いを投げかける。
結論
『三国演義を演じ切る』は、単なる古典新訳の枠を遥かに超えた、壮大な私小説であり、文化論であり、人生哲学の書である。これは、完成された物語を読者に差し出すのではない。著者の「私」と共に、悩み、迷い、発見し、感動する旅そのものを、読者に体験してもらうための試みだ。
この重厚な中華文化の塊を、あえて今、現代日本に「ぶつける」。その衝撃は、我々が慣れ親しんだはずの三国志の世界を根底から揺さぶり、読者の魂に、消えることのない墨跡を深く刻み込むことになるだろう。
『三国演義』と稀代の批評家、金聖嘆の物語
『三国演義』の壮大な物語の扉を開くとき、多くの人はその作者である羅貫中の名を心に浮かべることでしょう。しかし、その物語世界へ読者をいざない、後世にまで続く深い読み方を指し示した、もう一人の重要な人物がいます。
彼の名は、金聖嘆。清の時代を生きた、類い稀なる批評家です。
彼は羅貫中が生み出した物語に自らの解釈という光を当て、序文を記し、本文に筆を加え、新たな息吹を吹き込みました。それは後に、彼の名を冠した「批評本」として世に知られることになります。
ここでは、金聖嘆という人物と彼が紡いだ序文、そして二人の文人を隔てる二百年の時の流れについて、静かに紐解いていきましょう。
稀代の批評家、金聖嘆
明が終わりを告げ、清が興隆する激動の時代。その風の中に、金聖嘆(本名は人瑞)という一人の文人が立っていました。彼はただ書物を読むだけでなく、文学の世界に新たな価値の尺度を打ち立てようとした、革新的な批評家でした。
彼の審美眼が選び抜いた六つの傑作は、「六才子書」と呼ばれています。その中には、『荘子』の深遠な哲学があり、『離騒』の魂の叫びがあり、『史記』の重厚な歴史があり、『杜詩』の豊かな詩情がありました。そして、大衆に愛された物語文学からは『水滸伝』を、戯曲からは『西廂記』を至高の作として選んだのです。
ここで心に留めておきたいのは、この「六才子書」に『三国演義』が含まれていないという事実です。金聖嘆は『三国演義』の価値を深く認めていました。しかし、あまりに史実の記録に寄り添っている点や、物語の構造の複雑さから、小説という芸術形式の頂点には『水滸伝』を置いたのです。
それでもなお、彼はこの英雄たちの物語が持つ抗いがたい魅力に惹かれていました。そして、この傑作を人々がより深く味わうための手引きとして、自ら筆を執り、序文を記すに至ったのです。
序文に込められた想い
金聖嘆が『三国演義』の序文に込めた想い。その核心は、歴史という名の揺るぎない大地と、物語という名の翼との関係を、丁寧に解き明かすことにありました。
彼はこの物語を、七割が真実、三割が創作から成ると評しました。そして、司馬遷の『史記』が公的な歴史叙述の模範であるように、『三国演義』は、人々の心に語りかける歴史物語の模範であると位置づけたのです。
金聖嘆が光を当てたのは、単なる出来事の記録ではありませんでした。彼が愛したのは、諸葛孔明の知略や、関羽の義心といった、登場人物たちの「生きた魂」の描写でした。彼の序文は、読者に対して、まるでその時代に立ち、英雄たちと語り合うかのような臨場感をもって物語に触れることの素晴らしさを、静かに、しかし熱く語りかけています。
彼の序文は、ともすれば大衆的な読み物としてのみ扱われがちだった『三国演義』を、深い洞察に値する文学作品として見つめ直すきっかけを与え、その芸術的な価値を大きく高める役割を果たしたのです。
二人の巨匠、二百年の時を経て
金聖嘆と、物語の源流である羅貫中。二人の間には、およそ二百年という長い時の川が流れています。彼らが直接言葉を交わすことは、もちろんありませんでした。しかし、金聖嘆が筆を執った背景には、時代の大きなうねりがあったのです。
羅貫中が生きた元末明初の頃、小説や戯曲は、詩や歴史書といった正統な文学よりも一段低いものと見なされる風潮がありました。しかし、明の時代も半ばを過ぎると、都市の文化が花開き、印刷技術が広まるにつれて、物語は多くの人々の手に渡るようになります。
金聖嘆の時代には、物語はもはや単なる娯楽ではなく、優れた書き手の技巧が凝らされた芸術作品として評価されるようになっていました。金聖嘆は、その流れを代表する人物であり、小説を歴史書や経典と同じ地平で論じた、最初の批評家の一人と言えるでしょう。
彼が自らの批評を加え、文章を磨き上げた「定本」を世に問うたのは、商業的な出版という現実と、文学に対する情熱が結びついた結果でした。彼の序文は、この版が「金聖嘆という優れた批評家が認めた、最も美しいかたちである」という証となり、数多ある版の中からひときわ輝きを放つことになります。
それはまた、優れた物語を正しく理解し、その価値を未来へと受け渡していくことこそが自らの使命であるという、金聖嘆の文学への深い愛情の表れでもありました。
金聖嘆が灯した、新たな光
金聖嘆という類い稀なる批評家の手によって、『三国演義』は新たな命を吹き込まれました。彼が記した序文は、単なる物語の案内図ではありません。それは、壮大な歴史物語を、時代を超える不朽の文学作品へと昇華させるための、確かな道しるべとなったのです。
彼の言葉を通して、人々は『三国演義』を、まるで歴史書をひもとくように真剣に、そして深く味わう姿勢を学びました。金聖嘆の功績は、通俗文学の中に新しい価値を見出し始めた、時代の精神そのものを映し出していると言えるのかもしれません。




