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◇◇◇
白く、果てしなく続くかのような空間。
床も壁も天井も、継ぎ目ひとつない無機質な部屋。
窓はなく、外の光は差し込まない。
それでも照明は明るすぎるほどに明るく、影さえ落ちない。
(これは、夢だ…)
十人ほどの子どもたちが、皆同じ灰色の衣服を着て並んでいる。
誰も名前で呼ばれない。呼ばれるのは番号だけ。
幼い「俺」も、その一人だった。
皆に隠れ『力』使う。
掌に、冷たい感触が生まれる。
自らの血を操作し形作った、小さな輪。
絵本の挿絵で見た指はとは、程遠く、あまりにも歪。
それでも、間違いなく「俺」が作ったものだった。あの子のために。
「……これ、あげる」
幼い「俺」は、その不格好な指輪を少女の手に押しつけた。
少女は一瞬きょとんとしたが、すぐに小さく笑った。
「ありがとう。すごく大事にするね」
(夢のはずなのに……胸を締めつけるこの感覚は――なんだ?)
◇◇◇
「ハルト!ハルト!おい、起きろ!」
目の前に端正な顔立ちの少年――唯一の幼馴染のケイが必死に身をかがめて立っている。
「…何だ、ケイか…」
まだ夢の余韡でぼんやりしている頭で呟く。
「いつまで寝ぼけてる!“トガビト”の襲撃だ!東門が突破された!」
ケイの声に、胸の奥が一瞬で冷たく引き締まる。
――トガビト。常に黒い影を纏った人型の異形。影に触れるだけで傷を負い、神に関わる施設や人間を執拗に狙う。多くの町が奴らに壊滅させられた。
俺はすぐに立ち上がった。手には無意識のうちに刀が握られている。
「状況は?」
ケイと並走しながら、俺は短く尋ねる。
「敵は3体。そのうち2体は武器を持ってないが、東門を素手で破壊するほどの怪力の持ち主らしい。残り1体の詳細は不明。衛兵では歯が立たない」
ケイの声に、俺は頷く。
「奴らはどこに向かってる?」
「…北西方向だ」
東門から北西に進むと、この街「ラース」唯一の教会がある。今の時間、子どもたちが礼拝している筈だ。一刻を争う。
「能力を使う」
俺の言葉にケイが一瞬詰まる。
「…ハルトの能力は燃費が悪い。あまり無茶をするなよ」
「あぁ、分かってる…『血躯活性』」
瞬間、全身の血液が意志に応じて流れを増す。血躯活性は、血液を操作する能力。血液操作により酸素と栄養素は全身の筋肉へ瞬時に供給され、神経系も研ぎ澄まされる。
俺はケイを遥か後方に置き去りにし、教会へ全力疾走する。教会が見えてくると同時に、教会へ向かう3体のトガビトが視界に入った。
(良かった。間に合った)
さらにスピードを上げ、数十メートルの距離を一瞬で詰める。一番近くにいた1体を狙い、高速移動の勢いのまま刀を振るう。そこには、技量も何もない。ただ単に圧倒的な速さが、トガビト固有の硬い防御を容易く貫通し、一撃でその命を奪う。
(1体目)
仲間の死によって、近くにいた身長2mほどの大柄なトガビトが、ようやくこちらの存在に気付く。奴は雄叫びを上げながら、その剛腕を振るう。
(そのまま受ければ、間違いなく背骨粉砕の即死コース。出し惜しみはなしだ!)
血躯活性による血液の循環速度を更に上げる。
酷い頭痛がするが、痛みを無理矢理意識から締め出す。
スローモーションのように見えるトガビトの剛腕を、最小限の身体の捻りで躱すと同時に、防御が薄い肘関節を狙い、切り落とす。
切断された腕を押さえて蹲るトガビト。ガラ空きになったその首を刎ねる。
(これで2体目)
俺は小柄な最後の1体と向き合う。
もう能力の限界であり、激しい頭痛と耳鳴りで立っているのもやっとである。
しかし、ここでやられるわけにはいかない。
時間を稼げれば、後はケイが何とかしてくれるはずである。
刀を鞘に納め、居合の構えを取る。完全にハッタリであるが、相手から見れば、必殺の一撃を狙っているように見えるだろう。
睨み合いは続く。
しかし、トガビトは一向に襲ってこない。
影を纏うその身体が小刻みに震え、何かを訴えかけるように大声で吠え続けている。
(なぜだ?なぜ奴は襲ってこない?)
「ハルト!無事か!?」
ケイの声が響く。
(良かった。やっと追いついてくれたか…)
安堵すると同時に、虚勢で保っていた意識が急速に遠のく。
その瞬間…
『ハチジュウロクバン』
これは…
トガビトの…声…?
………
……
…
◇◇◇
白く、果てしなく続くかのような空間。
床も壁も天井も、継ぎ目ひとつない無機質な部屋。
窓はなく、外の光は差し込まない。
それでも照明は明るすぎるほどに明るく、影さえ落ちない。
(これは、夢だ…)
女の子が幼い俺に近づいてくる。
「初めましてだね。私は“サヤ”」
「…??」
「あ、そうか、名前って分からないか。被験体038番だから、サヤって名乗ってるの。だってその方がカワイイでしょ?」
「…」
「あなたは?そう、被験体086番なのね。ハチロク…ハロク…ハロ…ハル…ハルト…。うん、あなたは今日から“ハルト”にしましょう。その方がカワイイし。よろしくね!ハルト!」
「…!」
記憶にないはずの情景が、なぜか胸の奥を締め付けるように懐かしい。
◇◇◇
目が覚める。いつもと変わらない天井。
変わらない部屋。
身体のどこにも不調がないことに一旦安堵するが、すぐに先の先頭のことを思い出す。
気がかりなのは、意識を失う寸前に聞こえたドガビトの「86番」という言葉。そして、さっきの夢。
俺はハルトであって、86番ではない…はず…
幼い日の記憶ははっきりある。
ケイとともに、この街で育ってきた。
ケイと一緒に教会の女神像に落書きし、司祭に酷く怒られ、一週間トイレ掃除をさせられた記憶もある。
夢の中で出てくるような、あんな無機質な空間は、少なくともこの街にはない。
「一人で考えていても仕方がないか」
そう呟いたとき、扉が軋む音とともに、ケイが入ってきた。
「……やっと目を覚ましたか。まったく、3日も眠り続けるとは。まるで眠り姫だな」
軽口を叩いてはいるが、その目の奥にある疲労は隠しきれていない。
「ここまで運んでくれたのは、お前か」
「ああ。お前があのまま倒れてたら、衛兵たちが混乱してただろう。後は、教会のガキどもが助けてくれたお礼と言って、看病してくれてたぜ」
ケイは椅子を引き寄せ、俺の傍らに腰を下ろす。
「……ありがとう」
そう言いかけて、ふと口を閉じた。
どうしてもあの夢の光景が頭から離れない。
胸の奥にざらりとした違和感が広がる。
「どうした?顔色が悪いな」
ケイが覗き込む。
「……いや、何でもない。ただ、少し妙な夢を見ただけだ」
「お前がいつも話す女の子の夢か?」
「いや、ちょっと違っていて…」
俺は、夢で聞いた「86番」と、あの女の子のことをケイに話した。
「夢なんて大抵、現実と繋がってない。気にするな」
ケイの表情が少し硬くなる。
「それより状況だ。奴らの攻勢が強まっている。北門、東門と押されている。司祭様は戦える者を全部集めるつもりだ」
「……防衛戦か」
「そうだ。ハルト、俺たちは中央施設の防衛だ。そこが落ちれば街は終わる」
ケイは真剣に言い、ポケットから小さな瓶を取り出す。
「まだ本調子じゃないだろ。いつもの薬だ。今はこれ飲んで寝とけ」
「あぁ。いつもありがとう。ケイ」