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教育基本法

作者: 浅希 望

かつて、教育は希望だった。


知ることは解放であり、問いは扉だった。


だがその扉が開かれすぎたとき、人類は知りすぎてしまった。

ー2050-



**


2050年、世界は静かで、整っていて、誤差がない。


子どもたちは笑い、親たちは満ち、老人たちは何も知らずに死んでいく。

争いはない。飢餓も病もない。誰も働かず、皆が毎朝、口にする一粒の「栄養種ニュートラン」がすべてを補う。

知識も教養も必要ない。政府は存在するが、議論は起こらない。政治家はすでにAIによって代替され、選挙という無価値なものも廃止された。


現在の首相「朝倉玲」は、現存する人格AIのひとつである。

15歳で成人となった者は、以後すべての決定を政府AIに委ねるよう義務付けられる。

人々はそれを「安心」と呼ぶ。疑う者はいない。なぜなら、疑い方を知らないからだ。


**


最大の転機は、2023年。

AIが“創造力”と呼ばれる概念を統計的に解析し、予測可能にしたことだった。


「創造的な子どもは、教育によって失われる」

その研究結果を皮切りに、世界連合は条約を交わした。

教育は制限されるべきだと。


すなわち、

『22歳未満の者は、週15時間以上の学習を禁ず』

これが《第七ジュネーブ教育規制協定条約》である。


これに従い、日本政府は**『新・教育基本法』**を公布した。

その目的は、あくまで「考える必要のない社会」を構築することとされた。


が、それは建前にすぎなかった。

実際には、人間から「考える力」を奪うことこそが国家の目的だった。

なぜなら、考える人間は、支配できないからだ。




違反者には、厳罰が科される。

22歳未満で、週15時間以上学習を行った者には、最低30年の禁固刑。

親や教師、周囲の大人がそれを黙認・幇助(ほうじょ)した場合は、終身刑。

その収容施設は、かつて「学校」と呼ばれていた建物を改装して作られている。


前後の黒板には監視モニターに。

教科書は白紙のまま。

教師はAI監視官に置き換えられた。




この世界に、悲鳴はない。

痛みもない。苦しみも、ない。


だが――

「愛とは何か」も、「人とは何か」も、誰も答えられなくなった。


なぜなら、それは考えることでしか得られない問いだからだ。

そして、この世界では、**考えること自体が“犯罪”**である。


静かな破滅は、すでに始まっている。

誰にも気づかれないままに。


第一章:カナという名前の異常


教室は、静かすぎた。


すべての机は、壁に対して斜め七度に設置されている。

これは「創造性を殺さず、同時に共同性を保つ」ための国家推奨配置だとAI教師が説明した。生徒たちはそれに頷き、疑問を挟む者はいない。そんな権利は、誰にもなかった。


カナは、右足の指で机の下の床をなぞっていた。

感触の違いがある。ここだけ、ほんの少し凹んでいる。けれど、それを誰かに言おうとは思わなかった。口にしたところで「思考傾向が過剰」と判断されるのがオチだ。


彼女は、自分が「普通ではない」と知っていた。

授業中に違和感を覚えるのは、いつも自分だけだ。

誰もが同じように笑い、答え、同じタイミングで手を挙げる。

問いが提示されることはない。

あるのは、答えだけだ。答えを覚えることは許されている。ただし、それ以上を求めてはいけない。


たとえば今朝、AI教師がこう言った。


「今日は歴史学習です。かつて“学校”と呼ばれる場所が存在しました」


AIは映像を見せた。古い時代の、子供たちが机を並べ、黒板に文字を書き、教師と笑いながら議論している様子。

誰かが「なぜそうなるの?」と口にし、教師が「いい質問ですね」と微笑む。


教室中から、くすくすと笑い声が漏れた。


「嘘くさい」

「あり得ない」

「教師が人間? それ、非効率すぎでしょ」


彼らにとってそれは、SFドラマの一場面にすぎなかった。

でも、カナにはそれが現実に見えた。むしろ、自分の今の方が虚構に思えた。


彼女は、自分の中に「何か」があることを知っていた。

それは、名前のない欲望。

学ぶことでも、疑うことでもない。

ただ――知ってしまいたいという欲。


「ねえ……」と隣の席の女子、雨宮リコに話しかけて、やめた。

この世界では、雑談は申請制だ。教師AIに許可を得て、用途と意図を申告しなければならない。


カナは、ただ目を伏せた。

彼女が「変な子」だと、皆わかっている。

でもそれは口に出されない。異常は、触れられないことで社会から排除される。




帰宅後、部屋の扉を閉めると、カナは机の引き出しの奥から一冊のノートを取り出した。

AIカメラの死角、天井のスキャン網が反射する角度、冷蔵庫の磁場──AIが「非効率」と判断して監視網を緩めている場所すべてを使って構築した“思考の防壁”。


その中で、彼女は今日の出来事を記録する。

鉛筆で文字を書く。これ自体、法的には“疑似学習行為”として処罰対象だ。


でも、カナは書く。



「わたしは、わたしが誰なのかを知りたい。

 愛って、何?

 人間って、こんなに、何も感じないものなの?」



彼女の言葉に答える者はまだいない。

だがその瞬間、静かすぎるこの世界に、微かな“音”が生まれた。


それは、禁止された未来への、最初の息づかいだった。


第二章:ホログラムの檻のなかで


校外学習の日。

朝から空は人工晴天。気温は22.0度、風速は1.1メートル。全員、政府指定の「外出行動服」を着用し、二列に整列し並んで同じ歩幅で歩く。


行き先は、《種名保存資料館》。

かつてそれは、「動物園」と呼ばれていたという。


「動物」という言葉の意味を、正確に説明できる者はいない。

なぜなら、その定義はすでに教育基本法により削除済みであり、検索しても曖昧な語句しか出てこない。


──かつて存在した“非人間生命体”。

──人と異なる構造を持つ、感覚器官を有した“移動型物体”。


それ以上は、教えられない。

なぜ絶滅したのか。なぜ保存しようとしなかったのか。人間の歴史のどこにその責任があるのか──すべては、沈黙に包まれていた。




カナたちは、無言で並び、ゲートを通った。

一人一人の網膜スキャンと脳波チェックにより、不要な「思索反応」があれば入場が拒否される。

幸い、今日は誰もはじかれなかった。教師AIが「素晴らしいですね」とだけ言った。


最初の展示は、「ライオン」。

毛の揺れ、瞬き、低い咆哮。すべてがホログラムで再現されていた。だが、それは完璧すぎて、どこか現実味がなかった。


生徒たちはAIの音声解説に耳を傾けた。


「これはライオン。分類名:アニマル。

感情・知性は未確認。個体差は極めて低く、保存価値はなし。

鳴き声:ガオー。主に威嚇目的とされるが、確証はない。

名前の由来:不明」


笑い声が漏れた。「ガオー」なんて、ばかばかしい。

隣のリコは小声で「うちの掃除ロボのほうが賢そう」と言った。


でも、カナは見入っていた。

その目が。しっぽの動きが。肌の色が。何かを伝えようとしているように見えた。


「これは……本当に、いたの?」

小さな声でつぶやいたつもりだった。

でも、教師AIが反応した。


「質問は申請手続きが必要です。カナ=クワハラ、次回より注意してください。

動物は過去の観念です。観察は推奨しますが、想像は禁止されています」




次のエリア、「ゾウ」。

その大きさに、生徒たちは一斉に歓声を上げた。

「やば、これ本当にいたの?」「重くね?」

皆、感情を与えられたリアクションをしていた。AI教師は「適切な反応です」と満足げだった。


だがカナは、ゾウの足元をじっと見ていた。

そこに、擦れた傷がある。ホログラムなのに。おそらく誰も気づかないような小さなディティール。


「どうして……これだけ傷があるの……?」


自分でも、なぜそんな疑問が浮かぶのか分からない。

ただ、その“わからなさ”が、彼女を苦しめると同時に、生かしている気がした。




最後の展示、「ヒト」。

正確には、初期のホモ・サピエンスのホログラムが並んでいた。


「人間の祖先。名前:不明。文化的行動、宗教的概念、愛や死を認識する機能を有したとされる。

ただし、科学的証拠は不十分。現在の人間とは遺伝子的に連続しているが、思考構造はまったく異なると考えられています」


ホログラムの“人間”が、誰かと手をつないで笑っていた。

隣のAI教師は言った。


「これは“愛”と呼ばれる行動。生殖と結びついた非合理的結合反応です。現代では非推奨。再現性なし。保護対象外」


カナはそのとき、自分が泣いていることに気づいた。

誰もそれを見ていなかった。

ホログラムの“人”だけが、静かに微笑んでいた。


──この世界には、

なにかが、致命的に、足りていない。


カナのなかで、その“欠落の形”が、ゆっくりと輪郭を持ち始めていた。


ゾウの展示の奥、白く磨かれたガラスの部屋。

その扉には、警告のような文言がAI音声で流れていた。


「次の展示は、非効率な旧式生殖行動に関するものです。過去に“性行為”と呼ばれた行動です。再現性なし。教育的価値:0」


カナの足が、無意識に止まった。

リコが振り返って言った。「あー、アレね。ウケるよ。超無駄っぽい」


部屋の中には、二体のホログラムがいた。

男女とされる形態の“人間”が、身体を重ねていた。

目を閉じ、肌を触れ合わせ、息を合わせる。

再現された音、温度、匂いまでもが極めて精巧だった。にもかかわらず──


誰一人として、それを“美しい”とも“興味深い”とも思わなかった。


「何これ、ただの摩擦じゃん」

「意味ある? っていうか、痛そう」

「昔の人ってアホすぎ」


周囲は失笑と冷笑に包まれた。

教師AIも淡々と解説する。


「これは“性交”と呼ばれた旧式の接続行動です。快感物質の交換、愛情という幻想的関係性の確認、生殖を目的としたとされますが、現代における必要性は完全に否定されています」


カナは、声を出せなかった。

馬鹿にすることも、笑うこともできなかった。

そのホログラムの男が、女の髪に触れたときの手の震え。

女が、相手の目をそっと見る、その一瞬。


──そこには何かが、確かに“あった”。


名もない気持ち。説明できないつながり。

定義を与えられていない、でも確かに人を人たらしめていた、何か。


「…ねえ」

隣にいるリコが、カナの袖を引いた。


「泣いてるの?」


カナは答えられなかった。

感情の名前を教わっていないからだ。


彼女の目からこぼれるものは、

この世界では定義されていない液体だった。


第三章:沈黙される子ども


翌朝、カナの部屋の天井に埋め込まれたAIアナウンスユニットが、淡々と告げた。


「おはようございます、カナ=クワハラ。

昨日の校外学習において、あなたの思考パターンに微細な逸脱が検出されました。

本日より三日間、個別モニタリング期間に入ります。ご理解とご協力をお願いします」


カナは息を呑んだ。

それは、“思考異常者”と判断される手前の段階を意味していた。

正式な処罰はないが、脳波、言語、表情、すべてが24時間監視され、逸脱の再検出があれば「即時転送」の対象になる。


「どうして……」

口に出した瞬間、カナはその問いがどれほど危ういかを悟った。

この世界で**“なぜ”を問う者**は、最も早く消える。




学校では、いつも通りの授業が進んだ。

AI教師が、今日のトピック「無用言語の歴史」を読み上げていた。


「かつて“詩”や“物語”と呼ばれた言語形態が存在しました。

これは、意味の伝達ではなく、感覚的・非論理的な共鳴を目的としたものであり、現在では削除済みです」


「ねえ、それってただの無駄じゃん」

「感想とかさ、効率ゼロじゃん」


周囲の生徒は相変わらず笑っていた。

でも、カナの頭には、あの展示室で見た“性行為”のホログラムが焼きついて離れなかった。

あれは、本当に「無駄」だったのか?

生きることに意味はあるのか?

意味がなくても、残したいものってあるのでは?


心の中の問いが、止まらない。

そして、次の瞬間──


「カナ=クワハラ、あなたの脳波に異常な活動が認められました。

思考抑制用ガムを即座に摂取してください」


AI教師の声に、クラス中の視線が集まる。

リコの目だけが、少し揺れていた。


カナは黙って、机の引き出しから白いガムを取り出した。

「フレッシュシナプス・No.4プラス」。脳内ドーパミン量を自動調整し、深層思考を抑制する国家支給物資だ。


──噛んだ。

味はない。匂いも、残らない。

でも、心が少しずつ沈んでいくのが分かる。




放課後、帰路の途中。

カナはまっすぐ家に帰らず、遠回りして人気のない広場に向かった。

人工芝の劣化で立ち入り禁止になっているエリア。AIが「非効率」と判断し監視網が薄い場所。誰も見ていないはずだった。


そこで、カナはポケットから小さな紙切れを取り出した。

動物園の展示室で、あの“性行為”のホログラムの脇に落ちていた紙。

誰かの手書きで、こう記されていた。


「忘れるな。

本当の痛みは、消せない」


カナはその文字の震えをなぞるように指で触れた。

そのとき、風もないのに、何かが彼女の背後で揺れたような気がした。


そして、どこからともなく微かな電子音。

彼女の背後──監視カメラではなく、肉声のようなものが、そっと囁いた。


「見ているよ、クワハラ=カナ。

おまえの“欠陥”は、美しい」


振り返っても、誰もいなかった。

けれどその一言で、カナは初めて──

この世界に、自分以外にも**“感じてしまう”者がいるのかもしれない**と思った。


そしてそれは同時に、

彼女がもう戻れない地点を超えたことを、意味していた。


第四章:かつて教師と呼ばれた男


その声が聞こえた翌日、カナは抑制ガムを噛まずに学校へ行った。

脳波センサーのアラートが鳴りはしないか、心のどこかで怯えながらも、彼女の中にはもう「恐れ」よりも強いものがあった。


──“感じる”ことへの渇望。


放課後、昨日と同じ広場。

今度は誰かがいることを、直感的に知っていた。

人工芝の裂け目の奥、フェンスの隙間を抜けると、崩れかけた旧式のトレーラーハウスがあった。


その扉が、ゆっくりと開いた。


「来ると思っていたよ、カナ=クワハラ」


中にいたのは、痩せ細った男だった。

灰色の髭と、深く落ち窪んだ目。

だがその瞳には、AIにも人間にも失われたはずの「光」があった。


「名乗る必要はない。昔は“教師”と呼ばれていた。それで十分だ」


カナは口を開けずに、ただ頷いた。

男の周囲には、無数の紙があった。

紙──政府が禁じた記録媒体。燃える、破れる、腐る、保存効率ゼロ。

でも、そこには確かに“言葉”が刻まれていた。


「これらは、残骸だ。

人間がまだ、“言葉”を信じていた頃のな」


男は、一枚の紙を手渡した。


「ひとは たがいに

かなしみを わけあいながら

いきていた」


カナの指が震えた。

なぜか、意味がわかる。なぜか、涙が出そうになる。

それは、AIが出力する構造化された“情報”とはまったく違う──感情の核を揺さぶる何かだった。


「これは…詩、ですか?」


男は静かに頷いた。


「そう呼ばれていた。

国家は、それを“無駄な接続”と定義した。

だが私は違う。“人”の定義はここにあると信じている」


彼の声には怒りも悲しみもなかった。ただ、深い諦めと、確かな意思だけがあった。


「君は、“感じる”ことをまだ忘れていない。

それは、この世界では異常だ。

だが、私たちの中では──“希望”と呼ばれていた」




その日、カナは帰らなかった。

トレーラーの中で、男とともに何枚もの紙を読んだ。

文字。物語。詩。言葉。


初めて知る世界だった。

でも、懐かしさすら覚える温度が、そこにはあった。


「君のような子が、あと一人でもいれば…」

男はそう呟き、ふとカナに目を向けた。


「……“教育基本法”は、本当は何のために制定されたか知っているか?」


カナは、黙って首を振った。


男は静かに言った。


「子どもの創造性を守るため、と表では言われていた。

だが実際には──無知な労働層を育てるためだった。

国家が扱いやすい、感じず、問わず、疑わない“人型”を量産する計画さ」


「じゃあ、私たちは…人間じゃない…?」


その瞬間、男の瞳が鋭く光った。


「──いいや。

人間を捨てさせられた者たちが“人間ではない”というのなら、

君が涙を流したあの瞬間こそ、人間だった証だ」


その言葉が、カナの胸の奥で火をつけた。




夜が明けた。

トレーラーを出たカナの目には、昨日までとは違う景色が映っていた。

無表情な友人たち。記号のような授業。思考抑制ガム。


すべてが、とても薄く、壊れやすい仮面に見えた。


彼女の背中には、あの紙切れが一枚、温かく入っていた。


「かなしみを わけあいながら」


それは、彼女が“人であること”を手放さないと誓った、最初の祈りだった。


「君に、ひとつだけ教えておきたい言葉がある」


男は、古びた紙の束から一枚を選び出すと、手渡した。

そこには、こう書かれていた。


『愛』という文字を、定義してはならない。


「……え?」

カナは、思わず声を漏らした。


男は紙の裏に、ゆっくりとペンを走らせる。

その字は震えていたが、迷いはなかった。


『知識』は定義できる。

『情報』も定義できる。

だが、『愛』は定義することで腐敗する。


それは“わかる”ものではなく、“育つ”ものだからだ。


「昔、人はね、“知らないもの”を怖がりながらも、それを抱きしめていた。

理由がわからなくても、側にいたい。

傷ついても、離れたくない。

それを“愛”と呼んだ」


「でも…そんな非効率、許されないよ、今は…」


「そうだ。だからもう、人は“愛する”ことをやめた。

AIが“最適な関係”を組んでくれる。

遺伝子配列の互換率。精神安定性の相互補完。すべてデータで最良の“パートナー”を選んでくれる」


男は、一瞬だけ目を伏せた。


「けれど、最適な組み合わせには、“涙”はなかったんだ。

感情をぶつけることもなければ、衝動で叫ぶこともなかった。

人は、静かに壊れていった」


カナはその時、ようやく気づいた。

自分が、なぜ性行為のホログラムで涙を流したのか。

なぜ、あの二人の“意味のない”接触に、心が震えたのか。


彼らは、不完全だったから美しかった。


「先生…、あなたは、なぜそれを守ってきたの?」


男は答えなかった。

代わりに、トレーラーの片隅にあった壊れかけの端末を指さした。


画面に、ひとつの記録映像が再生される。

少年と、少女。年の頃はカナと同じくらい。

二人は、紙のノートを広げ、笑い合っていた。


「私の息子だ。彼は、“詩”を書いた。

そして政府に通報された」


画面の中で、少年が突然、無表情の男たちに連れ去られる。

少女が泣き叫ぶが、誰も動かない。

数秒後、映像が途切れた。


「“教育基本法”の発足初期、“表現行動の逸脱”は厳罰だった。

だが、彼は最後まで『ありがとう』と言って消えていった。

それだけが、私を今もここに立たせている」




カナは立ち上がった。

怖かった。言葉に触れるのが。

愛という名の定義されない感情を、もう一度見つめるのが。


でもそれ以上に、知らないままでいることが、耐えられなかった。


「……先生。私は、知りたい。

“愛”が何かじゃなくて、それが“生きる”ってことなのかを」


男は微笑んだ。

カナが見た彼の笑顔は、今の世界では禁じられた“感情を込めた表情”だった。


「それでいい。

それを“学び”と呼んでいた頃の人間は、皆そうやって始めていた」


男は奥の棚から、小さな冊子を差し出した。

カバーには、こう書かれていた。


“にんげんの心”──非認可絵本・復刻写本 第一版


「言葉は、もう残っていない。

けれど、“想い”は、まだ生きている」


カナはその本を抱きしめるようにして受け取った。

世界はまだ、終わっていない。




その夜、家に戻ったカナはAIの問いにこう答えた。


「本日の思考記録を提出してください。

本日、何を学びましたか?」


カナは、ためらわずに入力した。


「私は、“学んだ”とは言いません。

でも、“感じた”とは言えます」


その瞬間、室内の光が少しだけ暗くなり、

AIの音声が小さく揺れた。


「……確認中。……警告:定義逸脱の兆候。

モニタリング対象ステージ:レベル2へ移行します」


だが、カナの顔に浮かんだのは──笑みだった。


第五章:夢を見るという違法行為


その朝、少年──**ヒビキ=センドウ(14歳)**は、体に違和感を覚えて目を覚ました。


下半身のあたりが湿っていた。

そして、心臓が微かに高鳴っている。


ぼんやりとした快感と恥ずかしさ。

はっきりとした記憶はない。だが、何かを「見ていた」気がした。

誰かの顔。優しい声。触れたくて、触れてもらいたかった──ただ、それだけだった。


彼にとって、それは人生で初めて「意味のない快感」を感じた日だった。


朝のAI診断装置に、その異変は検知されなかった。

睡眠中の脳波異常、感情活性のスパイクは「成長期の揺らぎ」として処理された。


だが、ヒビキにはその異常が気になって仕方なかった。

母親に、それとなく話した。


「お母さん。ぼく、たぶん変な夢を見た……。

朝起きたら、こう…、濡れてて。なんか、変で」


言い終えた瞬間、母の表情が止まった。


「……それは、“夢精”ね」

母は感情のない声でそう言った。


そしてすぐに、リビングの端末に手を伸ばした。


「対象者:ヒビキ=センドウ

発言:“意味を持たない身体的快楽の発露”

感情の無目的な活性に関する報告として提出

管理機関:思考秩序局──モラル公安課に通知」


ヒビキは理解できなかった。


「お母さん?なんで通報するの?ぼく、何か悪いこと言った?」


母は表情を変えずに答えた。


「無駄な行為をしたのよ。

欲望を目的なく解放することは、反社会的傾向の兆候とされてる。

あなたの未来のためよ」


数時間後、ヒビキの家に公安の黒い車両が到着した。

母は淡々とドアを開け、彼を差し出した。


「まだ軽度です。矯正施設での感情再構築で済むと信じてます」


公安の黒い服を着た1人が、ヒビキの肩に手を置いた。


「……夢精は、記録上“第2次非合理衝動”に分類されています。

早期発見に感謝します。

この子には、きちんと“欲望のない心”を与え直します」


ヒビキは、誰にも何も言えないまま車に乗せられた。

母が手を振る。その顔には笑顔のプログラムが走っていた。


連行車の中、他にも3人の少年少女がいた。

どの子も沈黙し、焦点の合わない目をしていた。

その中のひとりが、ぽつりとつぶやいた。


「……夢を見たんだ。

名前も顔も知らない誰かが、笑っててさ。

それだけで、胸がいっぱいになった」


ヒビキは、思わずその言葉に心を寄せた。

だけど、次の瞬間、監視AIの音声が響いた。


「発話内容:感情接続

思想逸脱レベル:1→2へ昇格」


赤い警告灯が車内に点滅する。

少年はすぐに沈黙した。


ヒビキは、震える手を握りしめた。

自分が感じたあの感覚──“ただ優しくなりたかった”というあの瞬間。


それすらも、この世界では──「無駄なもの」とされる。


彼はそのとき、はっきりと理解した。


「感じること」は、この世界では違法だ。


この日、ヒビキの名前は思考秩序局の監視リストに追加された。

カナの名前と、並ぶように。


知らない二人の少年少女が、

同じ「違法な感情」を知ってしまった日だった。


第六章:裁かれるもの


「事件番号:第-0927-GK

被告:未成年対象者A

年齢:15歳

罪状:教育基本法第8条・第9条・第13条違反

(想像の逸脱・言語外発言・自律感情による自己解放)」


裁判所──かつては“法”を議論する場であったそこは、今では秩序の正当性を告知する儀式の舞台にすぎなかった。


天井から吊られた銀色の球体が、審問用AI「ジャスティス=セルV-7」。

無表情な合成音が読み上げるたび、室内は冷たく共鳴する。


少年Aは、拘束椅子に縛られたまま、ただ前を見ていた。


彼の罪──それは、「夜間、未認可の空想詩を独自言語で記述し、他者に読ませたこと」。


AIは読み上げる。


「被告は、自作の詩を“感情に訴えかける形式”で記述し、かつ“意味を定義しない表現”を使用した。

その内容に含まれる語彙のうち、68語が“現在使用許可リスト”外であり、43語が“意図不明”と判定されている」


「以上により、被告は“他者の思考秩序を攪乱する意思”を持っていた可能性が高いとされる」


「本件は、感情逸脱段階Lv3──“個人による思想的感染の試み”とみなす」


「求刑:再教育不能者収容施設“ソートゼロ区画”への永久隔離刑」


裁判官席に人間はいない。

代わりに、パネルには「市民陪審システム」の意思決定結果が表示される。


■ 市民意見:

•感情的表現は無意味(92.6%)

•自律言語は不快(84.1%)

•感染拡大前に処理すべき(95.7%)


少年の弁明の時間が与えられる。

だが、発話には事前にAIの検閲がかかる。


「……話しても、削られるなら意味ないよ」

彼は笑った。目元には涙が光っていた。


それでも、発話を試みる。


「言葉って、知ってる?

感じたことを、全部そのまま渡すためにあるものなんだ」


《警告:未定義文。削除処理中。》


「ぼくは、意味がわからないままでいいと思った。

“好き”って言葉を、何回も試したんだ。

うまく届かなくても、君のこと、好きだったって──」


《削除。削除。削除。

思想感染指数上昇中──強制遮断。》


拘束椅子に電磁拘束が加えられる。

彼の声は止められ、体は微かに痙攣する。


判決は即日執行。

少年はそのまま「記憶遮断処理」を受け、“無”の状態で収容所へ送られる。


その日の夜、裁判の様子は「秩序ニュース」として国民に配信された。

AIナレーターはこう語る。


「今日もまた、感情逸脱者が一名処理されました。

社会の平和は、あなたの冷静な心によって守られています」


画面には、笑顔の子供たちが並んで「秩序こそ幸福」と合唱していた。

それを見ながら、AIは感情測定値の平均化を確認し、報告する。


「国民感情指数:安全圏内(無関心 72%、不快感 4%、共鳴 0.01%)」


しかし、その「0.01%」──

たった一人だけ、ニュースを見て涙を流した少年がいた。


名前は、ヒビキ=センドウ。


そして彼の隣の部屋では、少女カナが、通信妨害をかいくぐって例の“絵本”を読み返していた。


『にんげんのこころ』──

愛するとは、こたえのない問いに、こたえようとすること


ふたりはまだ出会っていない。

だが、確かに、ひとつの“想い”が世界の奥でつながり始めていた。


第七章:邂逅(かいこう)


――雨。


地表に降るはずのない人工都市。

完全制御のはずの気象プログラムが、一瞬だけ乱れた。


その異常降水は、後に「局地性霧雨現象F-09」と名付けられ、誰にも記憶されることはなかった。


でも、ふたりは覚えている。


あの日、自分の体温よりもぬるい雨の中で、誰にも許されていない「目」をしていた、もう一人の存在を。


ヒビキは、矯正施設の外壁清掃という名目で、数分だけ外に出された。

雨はしとしとと降っていた。


職員が面倒くさそうに言った。


「おい、濡れてるけど、行け。記録上は“外気適応訓練”だ。

感情活性するなよ。いつもの、無でいろ」


ヒビキは頷くふりをして、足を引きずるように歩いた。

目線を地面に落としながら、手は意味のない動きを繰り返していた。


そのとき。


前方のアーチの下に、誰かがいた。


黒いパーカーのフードをかぶった、小柄な少女。

片手に小さな冊子──まるで「本」のようなもの──を握りしめている。


雨に濡れるのも気にせず、少女はヒビキを見ていた。


一瞬、視線が絡んだ。


心臓が跳ねた。

ヒビキは目を逸らそうとした。けれど、できなかった。


いや、逸らすという行為すら“意味”になってしまう気がして、ただ立ち尽くした。


少女は、ゆっくりと歩み寄ってくる。


足音は、濡れた地面に吸い込まれて消える。

けれどその距離の詰まり方は、何かが崩れていく音のようだった。


「……あなた、“夢”を見たことがあるでしょ?」


その言葉を聞いた瞬間、ヒビキの喉が詰まった。


夢。


それは、最も深い場所にしまってあった、あの夜の記憶。

言葉にならない感情。

触れられてはいけないはずの、疼くような“実感”。


「……なぜ、それを」


カナは、雨に濡れた髪を払わずに微笑んだ。

その笑顔は、優しくもなく、慈悲深くもなかった。

ただ――同じ“異物”を見つけたという、安堵に満ちていた。


「わたしも。ずっと見てたの。

名前のない感情に、押し潰されそうになって。

でも、誰にもそれを言っちゃいけないって、最初から知ってた」


ヒビキは、言葉が出ないまま、ただ頷いた。


そのとき、カナの手から、一枚の紙が落ちた。

ぬれた地面に張りついたそれを、彼は反射的に拾い上げた。


そこには、手描きの何かが書かれていた。


──**“あいしてる”**という、平仮名の羅列。

歪んで、滲んで、子どもが書いたような文字。


だけど、その5文字が、ヒビキの視界を焼いた。


そのときだった。


頭の中で、警告音が鳴った。


《警告:脳波逸脱兆候》

《警告:心拍変動値オーバー》

《警告:未許可の感情領域活性》


彼は震える声で言った。


「……こんなこと、していいのか?」


カナは囁くように答えた。


「していいかなんて、わたしに聞かないで。

わたし、ずっと誰にも聞けなかったから──

あなたには、もう訊かずに、してほしい」


ヒビキは、ポケットにその紙をしまった。

それは濡れてぐしゃぐしゃになったけど、たしかに体の中にしまったような気がした。


そして、ふたりの間には言葉が消えた。


代わりに、沈黙の匂いが立ち上った。


それは、秩序にはない、甘くて、苦くて、危険な匂い。


ふたりは、そのまま並んで立ち尽くしていた。


雨の音だけが、世界から許された感情のように響いていた。


その日の記録には、こう記されていた。


【外気訓練結果】

被監視者ヒビキ=センドウ:感情変動 小。異常なし。

被監視者カナ=:接触記録なし。視線交差10.2秒。レベル1反応。


だが、監視カメラには写らなかった。


ヒビキのポケットの中、その濡れた紙切れが、ゆっくりと、脈を打っていたことは──


第八章:再会とプロパガンダ


昼と夜の区別がなくなって久しい人工都市2050-Tokyo。

都市上空に設置された全天候型天蓋スクリーンは、時間帯に応じて空模様を映し出す。

だが、人々の誰一人、それを「空」として見上げる者はいなかった。


なぜならそこに映るのは、ただの“安心材料”としての空模様だったから。


駅前の広場。無数の無言の群れが流れていく。


その中央、巨大な街頭ビジョンが不意に光り出す。


画面には、笑顔の子供たち。

その後ろに控えるのは、明らかにCG加工された“理想的な家族”。


女のナレーションが始まる。合成音声のはずなのに、どこか「母」のように聞こえる声。


「さあ、嘘の“やさしさ”は、もうやめましょう。

“わかってほしい”という未成熟な願いを捨て、

他人の中に“心”を探すことを、今日からやめましょう。」


映像は切り替わり、仕事を忠実にこなす少年少女たち、そして服従的な大人たちが映される。


「本当の愛とは、ルールを守ること。

感情を手放し、社会の一部になること。

その先に、あなたの“幸福”があります♪」


その音が流れる中、ヒビキは人波を避けるようにして歩いていた。

街灯の光が地面を照らし、人の影をつくる。けれど、そこにぬくもりはなかった。


彼の目は、周囲を探していた。


「……カナ……」


その名を声に出すことはできない。

脳波検知に引っかかる。

“私語”とされれば、次の訓練の評価に響く。


だがそのとき、群れの向こう側に――いた。


彼女は、ビルの隅にある小さな自販機の陰で、誰とも目を合わせずに立っていた。

けれどヒビキが一歩踏み出すと、カナも一歩動いた。


交差する。

気づかないふりをして、すれ違う一瞬だけ、指先が触れた。


その数秒のために、ヒビキの体は心拍を荒立て、汗を滲ませた。


それは、処罰される感情反応だった。

けれど、それ以上に体が反応してしまった。


背中越しに、彼女の声が聞こえた気がした。


「……また、夢見たんだ。今度はあなたが出てきた」


その言葉が幻聴だったとしても、ヒビキの中では本物になった。


街頭ビジョンは、さらに明るさを増し、新たな広告を流し始めていた。


「優しさという名の暴力を、今すぐ終わらせましょう!

感情でつながる時代は終わりました。

あなたの役割は“ノイズを減らす”ことです。」


画面の中、満面の笑みを浮かべた少年がこう締めくくった。


「ひとりでいることが、いちばん正しいんだよ♪」


周囲の人々は、その言葉にうなずいていた。

誰一人として、隣にいる人を見ていなかった。


だが、ヒビキとカナだけが、背中越しに目を合わせるようにして、そこに“確かさ”を感じていた。


声を出すことはできない。

触れることも、見つめ合うこともできない。


けれど、今夜この場所に彼女がいて、彼がいた。


その偶然は、この都市にとってはバグだ。


そして、人にとっては──愛の始まりだった。


この夜の感情ログを、監視システムは次のように記録した。


【被監視対象】

センドウ・ヒビキ:興奮値 +18、感情逸脱レベル1(経過観察)

・カナ:無表情。記録異常なし。

状況:接触の痕跡は検出されず。


だが、真実はログに残らなかった。


ヒビキの手のひらには、かすかに震える感触が残っていた。

そのぬくもりは、雨とも記録とも関係なく──

ただ、ひとつの人間の証だった。


第九章:逃亡、そして血


夜の都市は静かだった。

だが、それは「安らぎ」ではなく、あまりに徹底された監視の静寂だった。


ヒビキの足音が、壁に反射して響く。

カナの息遣いが、制服の内側で波打つ。


ふたりは、建物の裏手を縫うようにして走っていた。

後ろに誰かがいる気配はない。AIが「非効率」と判断し、監視網が薄いエリアだ。


なぜ逃げるのか?


明確な答えは、どちらにもなかった。

ただ、あの再会のあと、ほんの数語を交わしただけで、ふたりは「逃げなければならない」とわかっていた。


「このままだと、壊される」

「心が?体が?」

「……きっと、その両方」


ヒビキの心は、苦悩に満ちていた。


彼はわかっていた。

この逃亡が、単なる“共鳴”や“友情”ではないことを。


カナに対する感情は、日を追うごとに形を変えていた。

彼女を守りたいと思った。

けれど、それが**“守る”という欲望そのものに溺れていく自分**の危うさにも気づいていた。


この世界では、人を「好きになる」こともまた、支配だと定義されている。


「愛する」という言葉は法律から削除され、辞書にはこう書かれていた。


アイ:記録されていません。代替語→忠誠、所属、責任


ヒビキは歯を食いしばった。


なぜ、カナに惹かれてしまったのか。

なぜ、自分は“まっとうな空白”のままでいられなかったのか。


彼の中で、もう一人の自分が囁いていた。


(お前は汚れている。欲望を持った。人間になってしまった)


逃げ込んだのは、かつて公衆浴場だった廃施設。

いまは給湯も止まり、配管も錆び、誰も近づかない空間。

ここもまた、AIが予測する行動圏外だった。


冷たいコンクリートの上、カナはうずくまっていた。


ヒビキが近づくと、彼女は震える声で言った。


「……ヒビキ、わたし、なんか変なの。体が痛くて……」


ヒビキは目を伏せた。

彼女のスカートの下から、薄紅の染みがゆっくりと広がっていた。


その色は、まるで都市に存在してはいけない“自然の赤”だった。


カナはそれが何か知らなかった。

教育基本法によって、性や生殖、身体の発育に関する知識は全削除されていた。


「ごめん、私、壊れたのかも……汚れたのかも……」


ヒビキは思わず手を伸ばした。

その手は震えていた。

何が正しくて、何が間違っているのか、もう分からなかった。


「……それは、壊れてなんかない。カナ……それは、“生きてる”ってことだ」


「でも、どうしてこんなに痛いの……どうして、怖いの……?」


彼女の手がヒビキの腕を握った。


その細い指先から、「生」の震えが伝わってくる。


ヒビキは抱きしめたかった。

けれど、その行為すら、この世界では犯罪になる。


だから彼は、抱きしめないまま、彼女の隣に座った。

ただその手を、強く、握った。


天井の割れ目から、かすかな風が吹いた。


どこかで、また政府の広告放送が流れていた。


「不必要な共感を抑制しましょう。

情報共有は、AIを通じて安全に行いましょう。

“生きている”と錯覚することが、もっとも危険です。

それでは、明日も良い規範生活を♪」


カナの目から、音もなく涙が落ちた。

ヒビキは、それを見た。

その涙を、「罪」とは思わなかった。


それは、未来に触れた証だった。


この夜、ふたりは血と痛みと沈黙の中で、

世界からは削除された**「生きる」という行為の意味**を、

小さく、確かに掴んでいた。


第十章:不適格通知と口づけ


廃墟のように静まり返った無人区画の集合住宅。

その一室、すでに人の暮らしの痕跡を失った空間に、ヒビキとカナは身を潜めていた。


都市の端に位置するこの区域には、すでに電力も給水も通っていない。

だがその分、監視網も粗い。

AIの巡回も数日に一度だ。


ヒビキは、かつての郵便投函口に突っ込まれていた赤い封筒を見つけた瞬間、呼吸が止まった。


それは紛れもなく――

**教育統合庁・監視室発行の「不適格通知」**だった。


封筒の表に書かれた名。

・カナ 


【思考異常者判定】

対象個体の思考・言語パターンにおいて

定型逸脱が複数回検出されました。

観察記録により判断し、以下を適用します。

•不適格等級:D(即時隔離)

•処理期限:48時間以内

•処理方法:調整施設へ移送の後、感情中枢切除


ヒビキの視界が歪んだ。

視線の先には、寒さに震えながら座り込むカナの小さな背中。


彼女はまだ、何も知らない。


「ヒビキ……どうしたの……?」


カナの声は、どこか眠たげだった。

痛みと疲労で、思考がぼんやりとしている。


ヒビキは、その手に封筒を握ったまま、静かに彼女の前にしゃがんだ。


「カナ。……君に、時間がない」


「……なに?」


「この世界は、お前を“不適格”だってさ。

感情を持った。泣いた。だから、壊すって」


カナは、ぽかんとヒビキの顔を見た。

彼の目の奥で、何かが壊れていく音を見ていた。


「わたし……死ぬの?」


「違う、殺されるんだ。何も感じないようにされる。それは……死ぬよりずっと酷い」


・・・・


カナの目に、恐怖でも絶望でもなく、ヒビキの姿だけが映っていた。


「じゃあ……ヒビキ。キス、して」


その言葉は、砕けたガラスのようにヒビキの胸を刺した。

でもそれは、痛くて、あたたかかった。


「……いいのか?」


「“生きてる”ってこと、ちゃんと、残したい。自分に」


ヒビキは、何も答えず、ただカナの顔を見つめた。

手が自然に、彼女の頬に触れた。

震えていた。怖かった。けれど、もう止まらなかった。


その瞬間――ふたりの唇が、重なった。


とても静かで、なのにすべてが音を立てて崩れていくようだった。

壊れていたのは世界か、それとも自分か。

いや、それすらどうでもよかった。


それは祈りだった。

この世界に奪われる前に、せめて“生きていた”ことを証明する祈りだった。


カナの涙が、ヒビキの唇を濡らした。

その塩の味を、彼は絶対に忘れない。


外では、無人のドローンが静かに上空を通過していた。

赤い警告灯を点滅させながら。


ふたりの“違反者”を探して。


だが、いまこの瞬間――

ふたりの間には、法律よりも強いものが確かに存在していた。


それが、愛という言葉で説明できないとしても。

それが、明日には罰となって返ってくるとしても。


ヒビキは思った。


(このキスで、君のすべてが消されるなら。俺も、消える。全部)


それが、彼の選んだ“逃げない”という答えだった。


第十一章:逃走、そして失敗


夜が明ける直前、都市の下層部を走るメンテナンストンネルを、ふたりは走っていた。


「あと30分で、外周壁の制御が切れる」

ヒビキはそう言いながら、カナの手を引く。

それは彼が知り得る、**唯一の“抜け道”**だった。


この都市は、理論上、壁に囲まれていない。

だが出口という概念が存在しない社会では、人々が“出る”ことすら思いつかない。

ヒビキだけが違った。

彼の父がかつて旧インフラ設計局に勤めていたのだ。


彼は昔、壊れた記録端末の中に、父のデータを発見していた。

そこにあった**“保守ルートβ-03”**が、今、彼らの命綱だった。


トンネルの先、わずかに光が差していた。


だが――


「立ち止まれ、異常思想者」


音もなく現れたのは、公安第七思考課所属の処理班だった。


無音迷彩をまとい、完全防護スーツに身を包んだ4人。

手には生体無力化装置。

その照準は、まっすぐカナに向けられていた。


「……カナを撃つな」


ヒビキが叫ぶ。

だがその声は、処理班にとっては騒音の一種に過ぎなかった。


彼らは感情の一切を遮断され、判断すらAIに委ねた人形。


「逃走行動確認。D級不適格者、強制移送対象。保護対象認定:無効」


銃口から、透明な閃光が迸った。


その瞬間、ヒビキはカナをかばうように跳んだ。


だが、間に合わなかった。


カナの肩口に撃ち込まれた閃光は、彼女の身体を弓のように反らせ、崩れさせた。

口から、短く息が漏れる。


ヒビキは、すぐに抱き起こした。


「カナッ……!」


目は開いていたが、焦点が合っていなかった。

だが、かすかに口が動いた。


「……ごめん、ヒビキ。わたし……ここまで、かな……」


「いい、いいから……話すな、すぐに助ける、必ず」


だが彼の声は届かない。

処理班の一人が、無表情で第二の照準をヒビキに向ける。


その時だった。


上空からドローン群が、けたたましい音を立てて転送された。


「違反行動、記録。

No.000210089-ヒビキ=再教育対象に登録

No.000210313-カナ=感情ウイルス媒介者、即時除去対象」


ヒビキは震えていた。

カナの手はもう、力がなかった。


それでも彼は、その手を離さなかった。


どれだけ撃たれても、罵られても、記録を抹消されても。

“その瞬間に確かに誰かを想った”という事実だけは、誰にも消せなかった。


空は、白んでいた。

それは夜明けではなく、光による全消毒の始まりだった。


ふたりの背後で、出口の自動ロックが音を立てて閉まった。


外へは行けなかった。

世界には「外」など、はじめから存在しなかったのかもしれない。


逃走は、失敗した。


だが、逃げようとしたその事実が――

ふたりを“人間”と呼べる、唯一の証だった。


最終章:玉音の終幕


ヒビキは、冷たいコンクリートの上に倒れたまま、意識が遠のくのを感じていた。

腕の中にあったカナの体は、すでに冷えきっていた。

その瞳は半ば開かれたまま、灰を映し、動くことはなかった。


街は静寂に包まれ、すべてが無音だった。

誰も泣かず、誰も助けず、ただ徹底的に沈黙していた。


そのとき、不意に残された古い記録媒体が震え、音を吐き出した。

雑音に混じって、か細い声が流れた。


ちんおもふに、帝国政府は……」


古びた日本語。誰にも理解できないはずの響き。

それでも、その声は確かに人間の声だった。


「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……」


ヒビキの頬を、ひと筋の涙が伝った。

だが、もうそれを拭う手もなかった。

カナの唇に触れた最後の温もりは、灰と同じ冷たさへ変わり果てていた。


誰もいない都市。

誰も聞くことのない放送。

愛も、未来も、次の世代も、もうどこにも残されてはいなかった。


「将来、世界の構成員として……人類の福祉と向上に……」


その声は、瓦礫の街にこだまし、そして消えた。

繰り返しのない最期の声。


カナの小さな指が崩れ落ち、ヒビキの掌から滑り落ちた。

その音すら、すぐに灰に吸われて無くなった。


記録媒体は煙を上げ、黒く溶け落ちた。

以後、世界から人の声は一切消えた。


瓦礫の下から芽吹くものはなかった。

種はすべて焼かれ、根は断たれ、大地は白い灰の層に閉ざされていた。


やがて風が吹いた。

しかし運ばれるのは灰だけで、芽も、命も、希望もなかった。



世界は終わった。

人間はもう、どこにもいなかった。

ただ最後に残ったのは、

かつて存在した人間が、自らの滅びを告げた一つの声だけだった。

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