謎の目隠し
身繕いを済ませたあと、妾は、ネグリジェの上から厚手のカーディガンを羽織り、内廷医局に向かった。そして、MTを含めた一通りの検査を受けた。
結果は、異常なし。特筆すべき症状も未だ見られず、とのことで、最低でも明日1日までは安静に過ごすこととなった。
夜会で軽い食事も摂る予定だったが、なにも口にできなかったので、自室に夕食を運ばせる。今宵のビュッフェ料理を盛り付けた皿が用意され、それを食べた。母上や料理人、典礼官らを交えて監修を頑張った甲斐あってか、なかなか美味かった。
食事の合間に、ユリウスはどうしたか、夜会はあのあとどうなったか等の報告を女官たちから受ける。
ユリウスは、妾が内廷医局に入室するのを見送ったのち、暁光の間には戻らず、そのまま帰宅したらしい。検査が終わるまで私を待ちたい様子だったそうだが、いつまでかかるか不明のため、女官らが、夜会に戻って食事を摂るよう勧めたそうだ。
今夜は彼にとても世話になってしまった。あとで礼の手紙を送らねばなるまい。
夜会の騒動については、あばれた者どもを護衛騎士らが確保し、それぞれ貴人牢に収容したとのこと。その後の場は母上が収めたが、デビュタンの半数弱が牢につながれてしまったこともあり、以降のダンスは中止としたらしい。
今宵の夜会は、半分程度は妾が取り仕切る予定であった。まさかこんな、想定外のトラブルが起きようとは。結局、ほとんど母上にお任せすることとなってしまい、無念でならない。
「そうだ。宰相室に…アーベントロートに言伝を頼む」
食事を済ませ、ナイフとフォークを置きつつ、妾は、控えていたレオノーラに声をかけた。
それから、筆記机の前に向かい、紙とペンを一式とりだして、簡単な指示をしたためる。
『こたびの夜会で暴れた者たちに、薬物が使われた形跡、あるいは洗脳魔法などの術がかけられた痕跡がないか調査せよ。アナスタシア』
書き終わり、折りたたんだメモ書きをレオノーラに渡す。レオノーラは、うやうやしく頭を垂れつつメモを受け取ったあと、早足で部屋の外に出て行った。
今日中にしなければならぬことは、こんなものか。あとは、侍医に言われたとおり安静に――まあ、眠ってしまうとしよう。
寝る、と侍女らに伝えたのち、寝室に向かい、ベッドに入った。
ここ数日の忙しさのせいもあってか、疲労がたまっている。床についてすぐ、妾は眠りに落ちた。
***
翌朝、いつもの起床時刻に目が覚めた。だが、起きて何かをしようという気に中々ならなかった。よほど、昨夜のことが堪えたのだろうか。
安静にしろと言われた日だからだろう、侍女が起こしに来る様子もない。妾は、うとうととそのままベッドに2時間ほど居た。それからようやく、喉の渇きと便意のために起きた。
寝室に置かれた魔導保冷水差しから、よく冷えた薔薇水をグラスにあけて飲み干し、トイレに向かう。用を済ませた後は、ふたたびベッドに潜り込んで、眠った。
昼下がりになってようやく、妾は眠りから覚めた。呼び鈴を振り、魔力の呼び出し音で侍女らに合図を送る。ほどなくして、レオノーラたちが寝室にやってきた。
「よくお休みになれましたか?」
「うむ」
「具合はいかがです?」
「少し怠い…が、問題ないと思う」
「さようですか。まずは、軽いお食事でも? 侍医を呼んで、本日の診察もさせましょう」
「うん、頼む」
湯に浸した布で顔を拭かれたあと、ベッド脇に立ち、ユリエッタとコルネリアがネグリジェを取り去って、代わりにモーニングドレスを着せてくれるのを見守る。
妾は、男性用ズボン衣装をベースに、明るい色の生地やレース、飾りのオーバースカート等を合わせる形で、みずからデザインを指示して仕立てさせた、女性的な男装衣装を普段愛用している。
一般的な姫らしいドレスはというと、周囲の者たちの意志で大量に作られたはいいが、一度も日の目を見ることなく衣装部屋で眠ったままのものが大半だ。
侍女らは、それを勿体ないと感じているらしく、隙あらば妾にそうしたドレスを着せようとしてくる。今日は絶対安静なのだから、ズボンが必要なほど活動しませんね? と、すかさずドレスを着せているというわけだ。
聴診器を使う診察がこの後控えていなければ、より時間帯に合った立ち襟のデイドレスを着せたいところであったろう。
まあ、たまには良い。
居室で食事を済ませたあと、侍医がやってきて、妾の診察をする。結果は、本日も特に異常なし。引き続き24時間は絶対安静にするよう言われた。
侍医が部屋から出て行ったあと、まずは、ユリウスへの礼の手紙をしたためることにした。
花びらが漉き込まれた便せんを取り出し、昨晩見せた醜態についての謝罪、それと、たいそう世話になったことへの感謝を綴る。
たかが頭を打った程度でめそめそ泣くなど、本来であれば、皇族としてあるまじきこと。ユリウスが失望していないといいのだが…。
今どき、魔導通信でメッセージを送るほうが早いだろうが、こういうものは気持ちも大切だ。筆跡には、書き手の判別だけではなく、感情や体調など多くの情報が宿る。タイピングした文字には宿らないものだ。
そなたのような立派な婚約者がいて、妾は幸せだ、見習いたい、と締める。
書き終えて、妾の好きな香料を少しばかりつけてから封筒に入れた。宛名書きをし、皇女の紋章印で封蝋を押す。
これをユリウスに、と、ちょうど目があったマルグリットに封筒を渡した。ユリウスは現在、帝都にあるヴァイセンドルフ公爵家所有のタウンハウスに住んでいるので、今日中に手紙が届くだろう。
それから、部屋で過ごすからと早々にネグリジェ姿に戻させ、侍女らをガッカリさせたあと、お茶を飲んだり、ベッドでごろごろしながら本を読んだりして過ごした。
夕食も部屋で軽く済ませ、湯浴みと身繕いをして、今日も早めに床につく。すぐに睡魔がやってきて、妾は眠りについた。
妾の誕生日パーティーである夜会で起きた不可解な出来事について、調査結果を知るべく妾が動いたのは、さらに翌日、今度はいつもの起床時刻に起き、侍医から問題なしと診断を受けてからのことである。
妾は、ドレスを着せようとするレオノーラ達に「いつものズボンを頼む」と微笑んで伝え、しゅんとした様子で指示どおりの服を着付けてくれるのを見守った。宰相に会うので、役割としてはデイドレスに近い、フォーマルな立て襟を着る。
髪型は、頭頂に近い場所でまとめたハイポニーテールを所望した。これが妾の一番お気に入り、平時の髪型である。邪魔になりにくく、運動して乱れたら自分ででも直せるシンプルさがいいのだ。
留め具はゴム輪で、その上からリボンで飾り付ける。
だが、それではコルネリアのヘアアレンジ術の使いどころがないと不満がられたので、ポニーテールにまとめる手前の箇所を小さな複数の三つ編みにする、といったアレンジは許容している。
何事も、お互いの歩み寄り、妥協は大切だからな。
支度を済ませたあと、妾はレオノーラに頼み、宰相と会って話す時間がとれそうか確認させた。時間を空ける、との回答と、『静謐の間』でお待ちします、という文言と共に時間の指定が返ってきた。
皇女と会うのに時間や場所を勝手に指定するなど、臣下としては本来分不相応ではあるのだが、この男――帝国宰相ヴォルフラム・ヨアヒム・フォン・アーベントロートという男については、あまり気にしていない。
この男の多忙さは承知しているし、愛想のなさ、傲岸不遜さを補って余りあるほどの才覚と実力を、惜しみなく帝国に捧げていることも知っているためだ。
それに、彼は最初期から妾の皇位継承に肯定的であった人物である。いまだ女を無条件に下にみる傾向の根深い帝国において、宰相たる彼の徹底した実力主義・公平主義的思想は、妾が次期皇位継承者として立つにあたり、かなりの追い風になったと言っていい。
彼には頭が上がらない――などということは全くないものの、お互いに頭を上げたまま対峙することを許容できる程度には、有用な人物である。
帝国宰相ヴォルフラム・ヨアヒム・フォン・アーベントロートは、帝国北方にあるユリウスの生家ヴァイセンドルフ公爵家の麾下、北方を領地とするアーベントロート伯爵家を生家に持つ人間だ。
次男坊であり領を継ぐ立場になかった彼は、我が父上と年が近かったこともあり、幼少の折りに側近候補として皇宮に招集された。当初は一文官として勤め、やがて、皇帝に次ぐ最高権力者とも言うべき、帝国宰相の地位に成り上がった。
父上とは幼なじみであり、歳は2つ上の50。妻子は「必要ない」と言い切って、いまだ独身の身である。
アーベントロートには私欲がなく、賄賂の類いが一切きかないことで知られている。無論、すべての臣下がそうあるべきなのだが、魔が差す気配すら見せない、究極の無私奉公を体現した者こそ、アーベントロートだという。
ただ、関係の深い妾からすれば、彼は無私でも私欲のない人間でもない。しいていえば、私欲が人と違う。彼は、己の理想とする国家を作り上げることに、心血のすべてを注いでいる。ある種、彼こそが最も公私を私欲に極振りしている人間かもしれない。
これについては、妾より奴との付き合いが長い父上とも見解が一致した。
アーベントロートは、目上の者に媚びるということをせず、言っていることは概ね正しいのだが言い方が良くないことでも有名で、帝国の最高決定機関たる『帝国枢密会議』でも、他の大抵の大臣や長官らから忌み嫌われている。
「権力を持つ者は、それに見合った貢献を国家に捧げるべきだ」という強い思想があるゆえに、目下の者には比較的やさしい一方、同等以上の格相手には厳格な態度をとるのだ。
父上によると、「余が後ろ盾でなければ、あいつは数十回殺されていてもおかしくない」とのことである。
聞いたところによると、その冷徹さと無表情さ、氷魔法研究に強い北方の家柄から、『氷の死神』『笑わぬ悪魔』などと不名誉な渾名をつけられてもいるそうだ。
とはいえ、妾は、彼を第二の父として無意識に慕っているように思う。
彼は、妾が次期皇帝となることに賛成する一方で、そうあるべく学ぶべきこと、やるべきこと、姿勢については、誰よりも厳しく妾に言いつけてきた。
病床にある父上は、寝台に横になっているだけの身で、妾に為政者として厳しく指導はしづらい状況にある。できることといえば、父としての愛を妾に伝えることだけで、結果、甘やかしてばかりになりがちだ。
その不足を補うかのように、思えば、多忙な宰相の身でありながら、アーベントロートはよくよく妾に構ってきていた。無論、彼の理想を実現するために不可欠なことだからだろう。それでも、笑顔ひとつ浮かべず厳しいことばかり言う彼が、それ以上の情のようなものを妾に感じているように思うのは、きっと気のせいではあるまい。
笑わぬ、とは事実その通りで、それなりに長い付き合いだが、妾でも奴が笑ったところはただ一度しか見たことがない。
あれは確か、5歳の折であったか。皇宮の庭で、文字通り花を摘んで遊んでいた。見通しが良いので、護衛騎士たちは離れた場所にいた。奴が傍にいて、たまたま侍女らは席を外していた時だったと思う。
話の流れで、奴が理想とする国家について聞いた。いわく、万人が生まれに左右されることなく、各々の実力と適性と意志に応じ、相応しい立場と役職を手にできる国だという。現在のように、身分や生まれ順などで職責が決まってしまうのは、不公平なばかりでなく非効率的である、とのことだった。
それに対し、妾は確か「それはとても良い国だ」と同意した。「そうするのは難しそうで、どうしたら実現できるか分からないけれど、妾もそんな帝国を作りたい」と応じたのである。
それを聞いたアーベントロートは、普段は石膏じみた硬い表情筋を緩め、微笑を浮かべた。彼のそんな表情を見たのは、後にも先にもこの一度きりで、妙に印象に残っている。
***
指定された時間どおりに『静謐の間』に向かうと、アーベントロートは一人で室内に居た。
床から天井まである大窓から差し込む日光の中に立っていながら、彼の居る場所だけ黒く塗りつぶしたかのように暗い長身痩躯の人影と、対照的にギラギラと光って見える鋭い灰色の眼光とを見ても、見慣れた妾が怯えることはない。
付き添ってきてくれたレオノーラとユリエッタはというと、いまだに小さく息を呑む。そなたらも流石に、そろそろ慣れてくれてもいいと思うのだが。
「侍女殿らは退室させてください」
挨拶もなしに、アーベントロートは早速そう言ってきた。レオノーラが眉を跳ね上げる。
「なにを…!」
「まあ、待て」
妾が手を上げ、彼女の不満を制す。
「内密の話があるのであろうよ。妾のために、席を外してくれるか?」
「……ッ…承知、いたしました。ですが、扉のすぐ傍で待機しています」
「うむ。頼んだ」
レオノーラもユリエッタも、後ろ髪をひかれながら、といった様子で部屋を出て行く。
扉が閉まったあと、妾は部屋のソファに向かい、先に腰掛け、アーベントロートにも向かいに座るよう促した。それを見て、アーベントロートもきびきびとした足取りでソファに近づき、静かに腰掛ける。
「それで?」
妾が軽く顎をあげつつ尋ねると、アーベントロートは軽く首を左右に振った。
「先日の殿下の生誕祭にて暴れた者どもからは、既知の薬物が使われた形跡、および、洗脳魔法の類いが使用された痕跡は見られませんでした」
「むう……そうか。厄介だな」
妾は、口元に指を当てつつ、小首をかしげた。
「未知の薬品、あるいは魔法の可能性があるわけか」
「その可能性もございますね」
「そなたは違うと?」
「違う、とまでは申しません。ですが、殿下のお考え――すなわち、なんらかの反体制勢力が、あの夜会に出席して暴れた者たちに、あらかじめ仕掛けたものである――という可能性は、低いと見ています」
「ほう? ならば、なんだというのだ」
そう尋ねると、アーベントロートは、互いの間にあるローテーブルの上に置いてあった、なにかの小箱に手を伸ばし、妾の側に軽く押して寄越した。
「……これは?」
「まずは、お開けください」
そう言われ、妾は、その箱の蓋を持ち上げ、中身を見てみた。
中には、黒い布でできた、額から頬骨までを覆う、飾り気のない仮面のようなものが入っていた。いや、黒一色で目の穴すらないので、目隠しというべきか。
「…なんだ、これは」
「それをお着けください」
「なぜ?」
「着けていただけましたら、説明いたします」
怪訝に思いつつも、まあこやつがそう言うならばと、妾はその謎の目隠しを顔につけてみた。
表から見たときは視界が遮られるように思ったが、実際つけてみると、意外にも布の隙間が多く、向こう側がよく見える。さらに、魔導具でもあるらしく、後頭部で留め具を合わせて完全に装着すると、糸が透過し、視界をまったく遮らなくなった。通気をよくする術も入っているようで、布地の肌触りの良さに加え、まるで着けていないかのような装着感である。
「視界はいかがです」
「良好だ。表からは目隠しのように見えたのに、裏からは周りがよく見える」
「装着感はいかがでしょうか」
「悪くない」
「ようございました。殿下には今後、お父上かアーデルシュタイン候以外の男性が同席する場において、それを欠かさず装着していただきたい」
「は?」
予想だにしないことを言われ、妾は困惑した。
こんなものを身につけていては、妾の顔が周囲の者に全く分からないではないか。
「なんの冗談だ?」
「残念ながら、冗談ではございません。殿下」
「……どういうことだ」
そう聞くと、アーベントロートは漸く、詳しい説明を始めた。
「まず、一昨日のような出来事は、初めてのことではございません。殿下の周囲に居た男たち――護衛騎士や文官、皇宮使用人などになりますが――歳の頃が殿下に近しい者ほど多く、夜会で暴れた者たちと同様の狂乱に陥った事例が多々ありました」
「なんだと…?」
「彼らにつきましては、殿下のお目につくまえに対処可能でした。理由は不明だったものの、殿下の周囲に男性を置かぬよう、采配することも容易でした」
言われて、気づく。いつのころからか、そういえば、護衛騎士にしろ文官にしろ使用人にしろ、一切の男性を見かけなくなっていた。騎士は女性に、官吏は女官のみに、男である執事や従僕などとは会わなくなっていた。
ともに庭を駆け回っていた庭師の男児たちなども、とんと見かけなくなった。妾自身、家庭教師の授業や、図書館で自習すること、皇族と親しい家柄の女子との茶会などが増え、遊べる時間が減ったせいだと思っていた。
それこそ、父上とユリウスを除けば、枢密会議の大臣や長官――中でも、アーベントロートくらいとしか、直接会話することがなくなっていた気がする。
「……気づかなかった」
「まあ、知らずともよろしいことです。問題は、そうした懸念だけで、社交界でも男性たちを遠ざける、あるいは、殿下ご自身を社交界から遠ざける、この目隠しを事前につけていただく、といった真似はできなかったこと。
有力貴族が多数出席しますし、確たる証拠もないまま、次期皇帝たる殿下のデビュタンティンを阻害するような真似はできませんでした。
ですので、実際に狂気が蔓延する事態となり、なんらかの対処ができる状況が整うのを待つことにしたのです」
妾は、眉を寄せて首をかしげた。
「そなたにしては、随分と悠長で、危険な策をとったな」
わざとらしく後頭部を撫でながら言うと、アーベントロートは、彼には大層めずらしいことに、うやうやしく頭を深く下げてきた。
「殿下がお怪我をする事態に発展するとは、予想外でございました。臣の不徳の致すところです。このような結果となってしまい、誠に申し訳なく存じております。どのような処分も止むなし、謹んでお受けいたす所存です」
声は淡々としているが、本当に自責の念に駆られているとわかったので、少しばかり沸いた妾の苛立ちは、すぐに消え去ってしまった。
話題を変えて、謎の目隠しについて更に尋ねる。
「それで…この目隠しを妾が着けることと、どう繋がるのだ」
アーベントロートが頭をあげた。
「はい。狂乱に陥った者たちを調査したところ、彼らの共通点として『殿下の美貌を褒め称えて熱狂していること』『殿下のお顔を直接見たことがあること』があると分かりました。
一方で、幻像や絵画を介した場合、どれほど鮮明に殿下のお顔が判別できる状態であっても、同様の狂気が現れませんでした。
以上のことから、『殿下の顔を直接視認した男性は狂気に呑まれうる』と仮定しました。その対策として作らせていたものが、その目隠し型魔導具でございます」
妾は、アーベントロートから渡された目隠しを撫でた。視界は遮られておらず、目隠し越しに触れる手のひらがよく見える。鏡がないので分からないが、表から見ると、妾の顔の上半分はすっかり覆い隠されているのだろう。
「……固有魔法だろうか?」
妾は、そう尋ねた。
少なくとも我が帝国において、魔法は、魔導具に魔力を流すことで発動させるのが一般的だ。あらかじめ魔導具に術式を込めておくことで、複雑な処理結果も簡易、かつ効率的に呼び起こせるためである。
しかし、原初の魔法は、そうではなかった。各人がそれぞれの意識で術式を構築し、発動の都度組み上げ、大量に魔力を消費し、いくつかの単純な魔法を発動していたのである。
そうした原初の魔法のことを『固有魔法』とよぶ。術式の共通言語化が未だできておらず、近しい感覚と魔力を持つ、家族親戚同士でしか同じ魔法を共有しにくかった頃、それぞれが一族固有の魔法として扱われていたことに由来する名称だ。
『固有魔法』が、マイナーとなった現在でも意図せず発動してしまう事故は、魔力の多い王侯貴族を中心によくあることである。中には、魔力量の多い幼子が固有魔法を発動してしまい、大惨事に発展した事故もある。
大事になりやすい固有魔法として、直接爆発や洪水などを起こしてしまうものの他に、代表的なものが1つある。精神に作用する、いわば魅了魔法と呼ばれるものだ。
妾は、それかと思ったのだが、これにもまた、アーベントロートが首を左右に振った。
「断言はできませんが、それも考えにくいです」
「なぜ?」
「女性の場合、同様の狂気に陥った者が一人もありません。魅了系固有魔法の暴発であれば、同性異性を問わず発動するのが一般的です。また、顔を見る必要もなく、近くにいるだけで効果が出ます。
さらに申し上げるならば、殿下は、皇族であることを加味しても規格外の魔力をお持ちではございますが、魅了系の固有魔法を持ちうる状況にはございません」
「…と、いうと?」
「固有魔法は、それを持つ者の強い欲望に呼応して発現するもの。魅了系の固有魔法を発現する者は、かならず『自分を見てほしい』という強い渇望を抱いていることが、過去の事例から判明しております」
アーベントロートの説明を聞いて、妾は納得した。
確かに、妾は『自分を見てほしい』という欲求をほぼ持たない。皇女として、両親からも周りの者たちからも、逆に鬱陶しく感じるほどの注目を常に浴びて生きているようなものだ。
他人の目を盗んで逃走したい欲求ならまだしも、もっと自分を見てほしいなどと思う余地はない。そう考えると、隠密系固有魔法の発現のほうが、まだ可能性はある。
今度試してみるか、と思ったことは、心の片隅にそっと置いておくとして。
「なるほどな。ちなみに、過去、狂乱に陥った者たちについても、薬物や洗脳魔法の痕跡は…」
「ございませんでした」
「それらしい理由についても…」
「申し上げましたとおり、まったく不明の状態です。ご不便をおかけしますが、殿下に顔をお隠しいただくのが、最小の労力で最大の効果を発揮する策と考えました」
「…そうか…」
妾は、目隠し越しに両目を隠すように、両手で撫でてみた。感触は布に遮られるのに、目では、妾自身の両手のひらだけが見える。着けていることは分かるが、着けていないのに近い、ふしぎな感触だ。
「…どこの世界に、臣民に顔も見せられぬ為政者がおるのか」
無駄と知りつつ、妾は溜め息と共にそうこぼした。
「おらぬとしても、殿下に第一人者となってもらう他ありませんな」
淡々とアーベントロートが告げる。
妾は、大きな溜め息をもうひとつ吐いた。
相手役男性よりも第二の父親の描写が濃くなってしまった感は否めませんが、のちのちユリウスについて語りますので、ご容赦ください。