冗談だよな?
「ライデンローゼ大公家次男のヨハン=リュディガーと申します。聞きしに勝る傾国の美姫とは、まさに貴女様のこと…! どうか一曲、お願いいたします」
「ははは。妾としては、国を傾けるより支える人間でありたいのだが」
踊った。
「オルデンブルク侯爵家が嫡男、名をエメリッヒと申します。貴女様はまさに、夜の月より舞い降りた天女であらせられる…! どうか一曲。よければその後、貴女様を讃える詩も贈らせてください」
「うむ。今宵は時間がとれなさそうなので、詩は次に会ったときにでも聞こう」
踊った。
「皇女殿下」「アナスタシア姫殿下」「皇女殿下、どうか次は私と…」
踊った。踊った。踊っ――いや、きっっっつ……。
ちょっと待て。キツくないか? あと何曲――まだ半分にも満たないだと?
暗記した貴族年鑑と実物を照らし合わせるのも、初対面の令息たちと軽く会話するのも、面白くはあるのだが、きつい。きついぞ。
おかしい。妾は、女にしては体力も筋力もあるほうだと自負しているが、息が上がってきた。練習のときは、10曲でも20曲でも踊れたというのに。
そうか、このドレス! この、伝統的で格式たかく美しいドレスは、スカートを膨らませるため、最高級の生地をたっぷりとふんだんに使用していて――すごく重い!
なんだこれは。鍛錬用の重しか何かか? 過去に、大おば上様がお召しになったこともあるドレスなのに?
……いや、そうか。そもそも、全曲踊ることはないのだ。なにを毎曲毎曲律儀に踊っておるのだ、妾は。
どうも、誘われると断りづらいが、3・4番目あたりで断るべきだったな。何事も、実践しなければ頭から抜けることは多い。
よし。今宵は、これで打ち止めだ。あとは、椅子に座って、よく冷えたシャンパンを飲みながら、皆の舞踊を眺めることにする。
たしか、最後の1曲も妾とユリウスが踊るのだったか。それまで休息するとしよう。
婚約者以外ではこれが最後、と決めた相手と礼を交わし合い、かるく別れの会話も交わす。
ふたたびダンスの誘いが妾に殺到するが、妾は、手のひらを彼らに向けてキッパリ言った。
「今宵はこれまで。妾は疲れた。後は、他のデビュタンティンと楽しむように」
予想通り、長いこと機会をうかがっていた、まだ妾と踊れていない者たちから不満の声があがる。
「そんな!」「どうか、あと1曲だけ!」「わたくしめと」「ええい散れ、格下ども!」「皇女殿下、どうか私と」「いや私めと」「私と!」「おい、押すな!」
ギラギラと目を光らせた男性たちが、手を伸ばしながら妾にせまる。……少々、きなくさい雰囲気になってきた。
後ろに下がるも、背後にも男性たちが迫ってきている。
いささか不敬が過ぎるか……?
妾の周りの様子がおかしいと見た会場の護衛たちが、持ち場から妾のもとに歩み寄る。
妾が声をあげるのと、事件が勃発するのとは、ほぼ同時であった。
「――衛兵!」
「どけぇ!!」
妾が護衛に声をかけたのと同時に、妾にせまっていた男の一人が怒号をあげ、近くにいた別の男性を突き飛ばす。その勢いに巻き込まれ、別の男性も数名弾かれる。
そして、周囲は一気に混戦状態へと陥った。
「きさま、よくも!」「おまえこそどけぇ! 殿下と踊るのはおれだっ!」「なんだと!」
怒号に怒号が返り、めかしこんだ貴族の令息たちが顔を赤くして怒り、胸ぐらをつかんで互いに殴り合う。
それは、あまりにも異常な光景だった。
なんだ、これは。これが――貴族だと? ありえない。まるで――そう、音に聞く、貧困層の哀れなゴロツキのようではないか。
なにかがおかしい。
「皆様がた! 殿下からお離れください!」
騎士たちの声が響くが、彼らの乱闘は止まらない。
ふいに、一人が妾に向かって勢いよく突き飛ばされた。
「うわっ!」
ぶつかられ、身体が後ろに傾く。倒れる!
受け身――くっコルセットが邪魔だ! 魔法――魔導具を身につけていない! せめて、ブレスレットだけでも着けてきておけば…!
後悔先に立たず、であった。
妾はなすすべなく後ろに倒れ込み、そして――ゴツン! と、石の床に勢いよく頭蓋骨がぶつかる音が響いた。
意識が一瞬とぶ。
「いったあぁ!!」
あまりに痛みに涙がにじむのを感じつつ、妾は悲鳴をあげた。
「っ!! 彼らを捕らえろ! 殿下を救出せよ!」
高位貴族たちを前に対処を迷っていた護衛たちが、その命令を聞いて一斉に貴族男性らを捕縛にかかる。
暁光の間は、あっというまに騒ぎとなった。妾を見ていた女官たちが悲鳴をあげ、事態に驚いた令嬢や夫人たちもそれに続いた。まさに阿鼻叫喚である。
「はなせ! おれをどこの家の者と心得る!」「ええい、離さんか!」「姫ーーっ!!」「やめろーっ! 私は殿下と踊りたてまつるのだー!」
一人また一人と引き剥がされながらも、周りにいた男たちは、まだそのようなことを叫んでいる。
やはり、なにか様子がおかしい。
「ううう……」
そして、頭が痛い。うめき声が漏れた。やっとのことで身体を横に向けつつ、両手を後頭部に回して、打ったところに触れる。
頭は、ずきずき、じんじんと痛んだ。相当強く打ったのかもしれない。
まったく、本当にどうして、こんなことに……。
「アナスタシア様っ!!」
聞き馴染んだ声が響き、足音がして、ユリウスが駆け寄ってきたのを感じた。
直後、この重い重いドレスごと、ふわりと身体が優しく持ち上げられる。
暖かく力強い胸に、妾は縋るように抱きつき、ユリウスの首に手を回した。
「うう……ユリウス、頭を打った……」
「すぐに医務室へお連れします」
「頼む……」
また涙がこぼれる。涙で視界がにじむせいか、暁光の間がいやに眩しくて、目をあけられない。
「痛い…いたいよ、ユリウス…」
なぜだか、ひどく気が弱ってしまって、人目もはばからず声を震わせ、そのように泣き言を吐いてしまう。
打った場所が場所なので、妾は大丈夫なのかと不安にもなった。
「すぐです、アナスタシア様。すぐに医者に診させます。いましばらく、ご辛抱ください…!」
ユリウスの、妾を抱く力が強くなる。
「うん、うん……」
めそめそと涙をこぼす妾を、ユリウスは、素早く歩きつつも揺らさないよう丁寧に運び、医務室へと急いだ。
***
「吐き気は?」
「ない」
「意識を失ったりは?」
「したかもしれん。数秒ほど」
「頭がぼんやりしたりは?」
「していない…と、思う」
「手足のしびれなどは?」
「…ないな」
「けいれんは?」
「ない」
「痛みはひどいですか?」
「…打ったところの表面はまだじんじん痛むが、脳が痛む感じはしない」
妾に矢継ぎ早に質問を投げかけつつ、侍医は妾の下眼瞼を押し下げたり、小型照明具の光を瞳孔に当てたりして手早く診察する。
やがて診断が済んだのか、ふむ、と言って妾の顔から手を離す。
「今のところ、緊急を要する状態ではないと思われます。少なくとも24時間は長湯・激しい運動・飲酒を避け、安静になさってください。わずかでも違和感が出るようなら、すぐに我々にご連絡を。
それと、打った場所が場所ではございますので、念のためMTも確認いたしましょう」
「ん。先に着替えと湯浴みを済ませたい」
「承知しました。どちらにせよ、その素晴らしいドレスのままでは、装置を通れません。どうぞ、楽な服装をなさってきてください」
「うむ」
専門家に診てもらったおかげか、妾の気分はかなり落ち着いてきていた。
妾が床にぶつけたのは、頭頂に近い後頭部であった。今宵のドレスは、上半身では肩を露出し、体にぴったりとしたシルエットである一方、下半身には多量の布が重ねられている。つまり、この状態で後ろに倒れると、腰が浮き、上半身が頭側に向かって傾いた状態となるわけだ。
コルセットさえなければ、とっさに胴をねじって手で頭を守ることもできただろうが、そうした受け身をとることもできなかった。やはりコルセットは害悪である。絶対に撤廃しなければ。
以前、ちょっとした興味から医学書を読み漁り、理解度確認がてら医師試験を受けてみたら合格したので、妾にも、研修医相当の医療知識ならある。MT (Magie-Tomograph) というのは、魔力ソナーを用いることで、人体を切ることなく断面図が得られる医療魔導装置――または、それによって得られた断面図のことだ。
とはいえ、パニックぎみの状態で自身を診察しても、おそらく正しい判断はできない。それに、意識の有無や言葉のあやしさなど、自分では知覚できない症状が出ている場合も多々あるだろう。
やはり、知識ばかりでなく、臨床経験も豊富で優秀な皇宮医官らに診てもらうほうが安心だ。
「アナスタシア様は、大丈夫なのですか…?」
ソファで隣に座っていたユリウスが、不安そうにそう言いながら、ずっと握っていた妾の手を少しだけ握りしめる。
皇族専用の休憩室には、ユリウスだけではなく、妾の侍女たちやメイド、女官たち、護衛騎士・皇宮医官らも揃っていた。皆、一様に緊張した不安げな面持ちであった。
「24時間は安静を保って要経過観察といったところだが、緊急を要する症状は今のところ出ていないそうだ。おそらくは、命に別状はないであろう」
そう答え、微笑みながらユリウスの手を握り返す。それでも、彼の不安は消えない様子だった。
今回の件で改めて思ったが、ユリウスは本当にできた男だ。妾の危機にさっそうと駆けつけ、誰に命じられるでもなく妾を運び、こうして今も気遣って傍に控えてくれている。妾に怪我をさせた、こたびの夜会で出会った身勝手な男たちとは大違いだ。
妾も、彼の未来の配偶者として、彼に十分報いられる良き許婚であらねば。
そう。彼に将来、愛する女性ができたとして、愛人を持つことも快く許せるくらいには。
だが、今日だけは、少しばかり甘えさせてほしい。
「ユリウス。妾を、部屋まで運んでくれるか?」
そう尋ねると、ユリウスはパアッと笑顔を花開かせた。
「勿論にございます、アナスタシア様!」
ユリウスはまた、このドレスも相まって重いだろうに、妾を羽根のように軽々と持ち上げて運んでくれた。
彼のあとから侍女たちとメイドたちも、なにか嬉しそうな笑みを浮かべてついてくる。
「アナスタシア様」
「うん?」
「一言、お命じくだされば……こたびの一件でアナスタシア様を傷つけた連中を、一人残らず始末して、奴らの首を盆に並べて献上いたします」
にこり、と笑顔を浮かべながらユリウスが言う。ずいぶんと物騒な冗談を言う、と思いつつ、妾はくすくす笑った。
なぜだか、背後の侍女たちやメイドや女官らの空気がひんやりと凍った気がする。
「ははっ! 妾はサロメではないぞ。それに、もしも極刑となれば、そなたが手を汚すまでもあるまいよ。いささか気がかりな点もあるのだ、調べがつくまでは生かしておいてくれ」
「さようでございますか……。アナスタシア様のおおせのままに」
そうして、妾はユリウスに丁重に部屋まで運ばれたのち、ようやく重いドレスもコルセットも、その他のアクセサリーも取り外され、湯船につかって体と髪を洗われ、ゆったりとした楽なネグリジェをまとい、侍女らに湯上がりの身繕いを受けた。
……冗談だよな?
誰に問いかけるでもなく、妾はふと思いを巡らせた。
サロメとは:有名な戯曲の1つ。美貌の姫サロメが、意中の男性が自分になびかなかったので、父王に頼んで彼の首を所望する話。首は、銀の皿に載せて贈られる。