初めての舞踏会
「はあぁあ…! 緊張する…!」
妾がそう呻くと、隣でユリウスがくすくすと笑う。
我が婚約者は余裕だな…。それもそうか。形式上、彼も本日デビュタンという扱いではあるが、正確には、彼はもう社交界デビューを済ませている。14歳で父親からアーデルシュタイン侯爵位を引き継いだ際、関係する貴族らへのお披露目が必要となり、ひと足早くデビュタンを済ませたのだ。
「そなたはよいな。もう社交界は慣れっこか?」
「いえ、私などまだまだ……。ですが、アナスタシア様ともあろうお方が、いまさら、武器を持っているでもない貴族たち如きを相手に、ご緊張をなされているだなんて」
「ああ……まあ……」
ユリウスが言及しているのは、妾の初陣となった、フェルゼン動乱のことである。
妾とユリウスが14となった年、帝国の南東に位置するフェルゼンラント辺境州において内戦が起きた。地元の鉱山労働者らの暴動に始まり、平民となった旧貴族らや、近頃機運が高まっている民主主義者たちなるものが結託して、反帝国の内戦へと発展したのだ。
妾はその内戦を鎮圧すべく、帝室直属の親衛隊を連れ、初陣に赴いた。そして――まあ、勝った。結果として、妾たちは鎮圧に成功した。……満足のいく経過ではなかったが。
「あなた様は既に、みずからの実績を携えた救国の英雄です。親から爵位を継いだだけの私など、足下にも及びません」
「よせ、よせ。妾はただ――」
そう言いかけたとき、大広間に続く扉ごしから、伝令官の声がするどく鳴り響いた。
「畏れ多くも御前に参らせられるは──帝国皇女、アナスタシア・エルスティナ・フォン・グランツェルリヒ殿下、並びに、アーデルシュタイン侯爵、ユリウス・カスパール・フォン・ヴァイセンドルフ閣下──!」
「さ、アナスタシア様。出番ですよ」
「う、うむ」
ユリウスの手をぎゅっと握り、開かれてゆく大広間の扉と対峙する。
覚悟をきめ、ユリウスと共に、一歩、また一歩と踏み出し、光の中へと歩んでいった。
***
暁光の間は、皇宮で最も格式高い大広間であり、歴代皇族の戴冠式・結婚式などの重要行事がここで執り行われてきた。
天井は20メートルほどの高さがあり、黎明の空を描いた巨大なフレスコ画があしらわれていて、夜なのに、明け方のオレンジが照明に照らされ見下ろしている。中央と四方に吊り下げられた水晶のシャンデリアは、帝国随一の大きさと美しさを誇り、皇宮の威厳を照らし出していた。
壁はアイボリーホワイトと金のモールディングで装飾されており、床は磨き上げられた白大理石と金のインレイ細工があしらわれている。床の中心には、我らが帝国の紋章たる双頭の鷲が描かれていた。
皇族とはいえ、用がなければ妾もここに入ることはそうない。事前の練習と違い、大勢の着飾った貴族たちを迎え入れ、幾つもの魔導灯で照らされた大広間は、威厳に満ち、そして美しく、圧倒されそうになる。
だが、負けるわけにはいかない。妾は、またユリウスの手をぎゅっと握り、隣に彼の存在があることを再度確かめたのち、一歩、また一歩と歩みを進めた。
母上と妾のために用意された壇上の椅子のひとつには、先に挨拶をすませた母上が座っている。母上はこちらに目をむけることなく、堂々とまっすぐ前を向いていた。
妾も、おどおどと目線を動かしてはならない。母上のそばを通り過ぎ、下で待つ貴族たちの前へと進む。
所定の位置を過ぎ、ユリウスの手が離される。ここからは、妾ひとりだ。
緊張がまたこみ上げる。だが、負けない。
演説する立ち位置に辿り着く。侍従からシャンパンの入ったグラスを受け取ったあと、すうっと静かに息をすいこみ、そして静かに吐き出した。
さあ、貴族たちよ。グランツェルリヒの臣民たちよ。遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。
我こそは皇女、アナスタシア・エルスティナ・フォン・グランツェルリヒである!
「我が愛すべきグランツェルリヒの臣民たちよ。今宵は、妾の誕生日を祝いに、よく集まってくれた。感謝する。そして今宵、妾と同じく、デビュタン、デビュタンティンを迎える若き紳士淑女らよ、おめでとう。
皆、今宵の宴を楽しむように――乾杯!」
「「「乾杯!」」」
客人たちが一斉につづく声が響き、つづいて、グラス同士が奏でる涼やかな音色が響いた。
妾も母上たちのもとに歩み寄り、母上、それからユリウスとグラスを合わせる。そして、中身をぐっと飲み干した。しゅわしゅわとした冷たい炭酸が、喉に心地よい。
まずは、第一関門を突破だ。次に、妾とユリウスのファーストダンスを見せれば、舞踏会がはじまる。
本来のファーストダンスは皇帝と皇后、つまり、父上と母上とともに披露するはずだったが、父上は病に伏せっておられる。ゆえに、我々だけで帝室の威厳を示さねばならない。
控えていた楽団が、三拍子の楽曲をゆるやかに演奏しはじめる。舞踏会が始まる合図だ。
配膳係の盆に空のグラスを置くと、同様に手を空けたユリウスが、妾に手を差し伸べる。妾はその手を取る。
そして、二人で壇上から降りてゆき、大広間の真ん中へと歩みを進めていく。貴族たちは端に寄り、妾たちのダンスが始まるのを待った。見れば、妾と同じく白のドレスを着たデビュタンティンたちと、黒の燕尾服を着たデビュタンたちの姿がちらほらと見える。
妾は、彼ら彼女らに微笑みかけた。彼らも緊張していて、不安だろう。そう思うと、なんだか緊張がほぐれる気がした。
妾とユリウスが、広間の真ん中に立つ。水晶のシャンデリアと黎明の空に見下ろされ、磨き上げられた白の大理石の床に照らされている。
音楽が一瞬やむ。そして、あらためて最初から演奏が再開された。三拍子に合わせ、妾たちはゆっくりとステップを踏み始める。
1、2、3。1、2、3。ユリウスと一緒に、何度も何度も練習したステップを、一歩一歩確実に。
身体を動かしていると、だんだんと気持ちが落ち着いてきた。共に踊るユリウスに、ようやく意識をむける余裕ができる。
今宵のユリウスは、いつにもまして煌めいて見えた。なんだか、別の理由で緊張してきてしまう。
「ユリウス、」
「はい」
「今宵のそなたは、いつにもまして男前だ。格好良い。素敵だよ、本当に。
この後きっと、令嬢たちがそなたを放っておくまいよ」
夜会の前に十分ユリウスを褒めてやれなかったように思うので、妾は、気恥ずかしさをおさえ、心に浮かんだ通りに賛辞を口にした。顔が熱い。
だが、こういう褒め言葉は口にすることが大切だ。賛辞は元気。心を支える力になる。妾も、ユリウスに元気をやりたかった。
すると、ユリウスは、目元から耳までカアッと顔を赤らめ、しかしうれしそうに、はにかみ笑った。近頃、彼の笑顔は仮面のように完璧すぎるように思われたが、今の恥ずかしそうな微笑みは、とても自然に感じられた。
1、2、3。1、2、3。ステップを踏み、ターンして、妾たちは回る。
「うれしいです。アナスタシア様。あなた様も、……おうつくしい。この世の何よりも、…女神様かと、思うほど…どう言葉を尽くしても、あなた様の美しさを言い表せません。
許されるならば、このまま、あなた様とだけ踊っていたい。あなた様と二人、夜会を抜け出して」
「ふふ、ならんぞ。互いをよく知る者同士でばかり踊っていては、社交とは言えぬからな」
「ええ……残念なことです」
本気で悲しそうに目を伏せてみせる。相変わらず、ユリウスの表現は大仰で、…ゆえに心地よい。こちらも本気にしてしまいそうになる。
曲が終わる。ステップをぴたりと止め、妾たちは離れ、互いに礼を交わした。デビュタン、デビュタンティンの見本にふさわしい、ダンスと礼を見せられただろうか。
「それでは、よい夜を。アナスタシア様」
「ああ。そなたも」
妾たちのファーストダンスを終えたら、次は今年のデビュタン・デビュタンティンらの出番だ。妾たちも、婚約者以外の人間を誘ったり誘われたりして踊る。
妾の予想通り、白いドレスをまとったデビュタンティンたちが、我先にとユリウスの元へ殺到していた。妾との婚約があるので結婚は望めないにしろ、見栄えのいい相手に憧れ、せめて一曲だけでもと考える令嬢は多いだろう。
妾のほうはどうか、というと、それなりに……いや割りと来ていた。黒い燕尾服のデビュタンたちが、大量に。
ふむ。令嬢に比べ、令息らはドライで政治的な傾向があり、ロマンスよりも実益を求めてダンスの相手も求める傾向があるというが……いや、そうか。妾とのつながりは即ち、帝室とのつながり。ましてや、妾は現在の筆頭帝位継承者でもある。
とすると、そう。それなりに誘いがある、というわけだ。
四方八方から黒服に取り囲まれ、「皇女殿下、どうか私と」「…と申します。月の女神の手を取る栄誉を、どうか」「私は…という事業で帝室に縁深く」などと怒濤の誘いと自己アピールが前から横から後ろから殺到する。
ううむ。どの手をとったものか。
悩んでいると、ずいと目の前に手が飛び出てきた。
「アナスタシア皇女殿下、お初にお目にかかります。レーヴェンタール公爵家のジークベルトにございます。どうか私めに、あなた様と踊る栄誉を賜らせてください」
どこか自信満々で、尊大さも垣間みえる様子でそう言ってきたのは、東の辺境公爵家レーヴェンタールの嫡男であった。北のヴァイセンドルフ、東のレーヴェンタールは、いずれも武芸を得意とする軍閥貴族家で、互いをライバル視しており、切磋琢磨し合う仲だという。
たしか、レーヴェンタールも皇配候補にあがっていたが、直近で祖母の代の姫が嫁いでおり、優先順位を下げられたのである。それにしても、レーヴェンタールにも同じ年の嫡男がいたとは知らなかった。
ジークベルトも、ユリウスに負けず劣らず体格がよく、軍人貴族らしい身体つきと身のこなしを見せていた。一方、髪や目の色は対照的で、黒髪に琥珀色の瞳のユリウスに対し、ジークベルトは金髪碧眼である。妾と同系統の色合いでもあった。
ユリウスはいい気がしないかもしれないが、皇帝を継ぐ者として、レーヴェンタールと縁を持っておくのは悪くないだろう。妾はそう判断し、ジークベルトの手を取ることにした。
「よろこんで、レーヴェンタール卿」
「どうぞ、ジークベルトとお呼びください」
「では、ジークベルト殿。妾は婚約者としか踊ったことがない故、足を踏んでも容赦してもらいたい」
「ご心配なく。私めの足の甲は、鉄よりも硬く鍛えられております」
「それは心強い」
軽い雑談を交わしながら軽く相手と手を組み、次の曲が始まるのを待つ。
ユリウスのパートナーは決まっただろうか?
あたりを見回すと、がっくりと肩を落としたデビュタンらが妾から散り、他のデビュタンティンを誘おうと動いている。
ユリウスも、離れたところで誰かしらデビュタンティンと組んでいた。ここからだと、どこのどの令嬢か、よく見えない。
「婚約者殿が気になりますか?」
ジークベルトの声が飛び、妾は相手に向き直った。
「まあな」
「あなた様にこれほど心を砕かれ、彼は国一番の幸せ者ですね、麗しき女神。
……本日、あなた様を拝見して、どれほど、自分があなた様の婚約者となれなかった事実を恨んだことか。かつて、我がレーヴェンタール家も婚家の有力候補であったというのに、あのヴァイセンドルフ家の倅が許婚に決まったこと、まことに悔やまれます」
「まあ、そういうこともある。今回は縁がなかった、それだけのことだ」
「……せめて、今ひととき、この一曲の間だけは、私だけを見てくださいませんか?」
「うん? ああ、うん。よかろう」
……思わず承諾してしまったが、社交ダンスって、そこまでするものだったか?
いや。きちんと相手に集中するのは大事だな。それこそ本当に足を踏むかもしれんし、よそ見ばかりしていたら、さすがに相手に失礼だ。
それにしても、レーヴェンタールの倅は、随分と情熱的な世辞を言う。どうするのだ、そんなに真剣な口説き文句を口にして、うっかり妾が本気にして「じゃあお前を結婚相手にする」と言い出したら。まあ、政治的には別に全然いいのか?
それか、妾がユリウスを気にする様子を見て、妾が婚約者に誠実で、彼を裏切ることはないと踏んだ故か。本気で受け止められる心配がないと思えば、世辞もすらすら出てこようものだ。
おおよそのデビュタン、デビュタンティンらが組になり、広間の準備が整った。それを見計らい、楽団らが演奏を開始する。
初めて会う男と身を寄せあい、音楽に合わせてステップを踏み、踊る。練習の甲斐あって、ジークベルトとのダンスも問題なくできそうだった。しかし、心理的にはまだ慣れない。やはり、慣れ親しんだユリウスと踊るのが、一番安心する。
これも社交。これも大切なつとめ。慣れなくてはな、と己に言い聞かせる。
「ヴァイセンドルフの三男――いえ、婚約者殿とは、仲がよろしいのですか?」
「うむ。よいと思っておるよ。彼は、いつも良くしてくれている」
「……他の者の入る余地はない?」
「まあ、そう思うね。彼と過ごした時間は長い。幼い頃から互いをよく知っている。
他にどんな男がいて、どのような容姿や性格をしているのか。それは無論、今日このときから初めて分かることだ。人によっては、他に目移りすることもあるだろう。
彼よりも魅力的な男もいるかもしれん。だが、共に過ごした時間の長さは、他の誰にも超えられぬ。それが妾には大切なので、妾は他を求めない――と、思う」
そう応じると、ジークベルトは苦虫を噛みつぶしたような表情で顔を曇らせ、押し黙ってしまった。
ううむ。どうせ世辞なのだから、可能性はあるとして応じてやるべきだったか。しかし、妾はどうも、心にもないことを言うのは苦手なのだ。
「それでは、より長い時――濃厚な時を共に過ごしたならば、変わる可能性も?」
「まあ、あるかもしれんな」
「っ!! このジークベルト、我がレーヴェンタールの剣を、あなた様に捧げたく存じます!」
『レーヴェンタールの剣』とは、レーヴェンタール家独特の何かの言い回しだったな。……はて、なんであったか?
「…レーヴェンタールの忠義の剣、帝室として、しかと受け取ろう」
「…………」
ジークベルトは悲しそうにうなだれた。あれ、違ったか。
やがて演奏が終わり、二曲目のダンスが終わった。ふむ、少々失敗したかもしれないが、悪くない社交ができたのではないか?
手を離して、裾を持ち上げてジークベルトに礼をする。ジークベルトは胸に片手をあて、深々と頭を下げて礼を返してきた。
「…私は、あなた様と婚約する人間が替わる可能性に賭けます」
「え、いや。あまり期待せず、そなたも自身の良縁を探すように」
「くっ……!」
ジークベルトは、サッと身を翻し、広間を後にした。トイレか?
さて。無事に初対面の人間とのダンスを終えたので、……また次の相手を決めなければならない。
二曲目の相手との挨拶もそこそこに早速集まりはじめている黒の燕尾服たちに加え、デビュタン以外の貴族男性らも、三曲目からはダンスに加わる。
いよいよ地獄の様相を示しはじめた相手選択を、妾は戸惑いながら迎えることとなった。