結婚してしまった
「イチから…、ですか」
眉間に皺を寄せたアーベントロートが、「おかしなことを」と言わんばかりの態度で聞き返してくる。
いや、妾はおかしくない。妾たちの結婚は、互いに20歳のとき、つまり4年後を予定している。なぜ“多少”なりとも急いで今、結婚契約書にサインする必要があるのか。
「今更、ご結婚を躊躇う理由があるので?」
そしてまた、ユリウス本人の前でなんつう質問をしてくるのだ、きさまは。
理由があっても言えないだろうが! ないけど!
「ない! ないが、予定では4年後であっただろう。急ぐ理由は何だ?」
「ここでは申し上げられません。後日、余計な耳のない場でご説明いたします」
「理由も分からぬのに、結婚契約書にサインしろと?」
「はい」
『はい』ではないが。
妾の心情を知ってか知らずか、アーベントロートは肩をすくめて見せる。なんだ、その『やれやれ』みたいな顔。
「……実態に、書類上の記載を合わせるだけです。寝室におふたりきりで数時間過ごし、ここ数週間は日中べったり密着されている。既に、下手な夫婦よりも、よほど夫婦らしくしておいででしょう。
まさか、まだ婚約中の単なる独身者のおつもりで?」
うっ。そ、そう言われると…確かに……。
アーベントロートの論に押されつつも、妾は、せめてもの抵抗とばかりに、クリップボードで挟まれた結婚契約書を指さした。
「…それにだ! こんな重要な書類を、屋外で机もなしに書かせるやつがあるか。荷物の受け取りサインではあるまいし」
「それは、おふたりが庭に出ておいででしたから。それに臣は、荷受けサインのほうが、これより重要と考えます」
なんでだ!
いや、聞いても仕方がない。此奴には所々、こうした独自の価値観がある。
――よし。ベレークテス・ブロートも無くなったところだ。この無粋者の宰相と《静謐の間》にでも行って、話を聞いてやるとしよう。ユリウスと一緒に。
楽しいピクニックは終わりだ、まったく。
そう心に決めて目をあげたとき、二人の補佐官たちが、宰相に向かって口々に声を上げはじめた。
「「だから言ったじゃないですか!」」
「皇女殿下、我々は宰相閣下をお止めしたのです!」
「ええ!『ご連絡を差し上げ、明日にでも《静謐の間》で事情をお伝えしましょう』と」
「いえ、『ピクニックを終えて戻られるのを待ち、区切りのよいタイミングで声をおかけしましょう』と」
どうやら、アーベントロートの部下たちは、彼らの上司よりデリカシーを身につけているらしい。
だがその上司は、面倒くさそうに部下たちへ目線を流す。
「それでは、皇太子夫妻の元両居室の改装手配が、今日の定時に間に合わぬ」
それが理由か。
「ご結婚を躊躇う理由はなく、実態もこの通り。契約書に目を通して一筆名前を書いて頂くだけなら、3分と掛からぬ。ピクニックの合間で十分ではないか」
「もうちょっと十代の乙女心に寄り添ってくださいよ!」
「そうです! 一生に一度の結婚を決断するんですから!」
「? 一度とは限らぬであろう」
「「やめてくださいよ!!」」
アーベントロートが補佐官にくだけた話し方をされる姿を初めて見たが、なかなかに遠慮のないやり取りだ。意外にも、アーベントロートは宰相府で独裁政権を敷いていないらしい。
部下たちにやいやい言われている宰相から目線を外し、ユリウスの様子を見ようと振り返る。
ユリウスは、宰相補佐官の一人がレジャーシートに置いた盆の上から羽根ペンを取り上げ、『よろしければ先にサインしましょうか?』という顔でこちらを見ていた。
妾は首を振り、「屋内の机で書こう」と小声で耳打ちする。ユリウスは笑顔で頷き、そっと羽根ペンを盆に戻した。
それからしばらく、部下たちから責められるアーベントロートを眺めた。
彼が責められる姿は物珍しくて面白く、ピクニックを中断させられた不満を和らげた。
***
ピクニックを中断した妾たちは、アーベントロートの呼んだ使用人らに後片付けを任せ、全員で建物へ戻った。行き先は、やはり《静謐の間》である。
侍女たちは例の如く部屋の外で待機とされ、妾とユリウス、それとアーベントロートと補佐官たちが中に入った。
さきほどの会話から察するに、補佐官たちは既に事情を把握しているのだろう。
着席を促された先は、いつものソファではなく、机のそばに置かれた椅子。書き物をするのにちょうどよい座高、天板高さである。
まず妾が着席し、その隣の椅子にユリウスが着席すると、アーベントロートは、我々の正面に陣取った。
補佐官たちが先程とは一転、粛々と恭しく、妾の前に結婚契約書と羽根ペンとインク瓶を置く。それから、アーベントロートの後ろにピシリと姿勢を正して立った。
「それで、」
妾は口火を切った。
「4年後の予定を、なぜ急ぐ必要が?」
「いくつか、問題が起こりまして」
「問題?」
「ええ。アーデルシュタイン侯爵に関し」
「ユリウスに…? 暴走事故についてか? 婚約を解消するほどの瑕疵とは思えんが」
魔法暴走を起こすことは避けるべきだが、魔力を多く持つ者――つまり、王侯貴族すべてが起こしうるものである。
暴走を起こした人間を過度に批判すれば、次の日、自身なり一族の者なりがそっくりそのまま同じ非難を受ける憂き目に遭うかもしれない。
死人を多く出しでもしていれば、また話が違ってきたかもしれないが、ユリウスの件で人的被害はほぼ無いのだ。
結婚を反対される理由にはならないと思う。
「まあ、全く無関係とは言えませぬが、それだけが理由ではございません。
重要なのは、問題がなんであれ、“大公派”がつついてくる隙になりうること」
「大公派?」
「お忘れですか。まあ、随分前から虫の息で、存在感はございませんが」
「いや、忘れてはいない。まだ諦めていなかったのだな」
「ええ。往生際の悪いことで」
大公派とは、我が父マクシミリアンの弟、ルートヴィヒ・アルブレヒト・フォン・ライデンローゼ大公を、もしくはその息子カール公子を次の皇帝に推す派閥である。
ルードヴィヒ叔父上やカール公子がどのくらい皇位獲得に前向きかは不明だが、正統な血統があり、現皇帝は病で伏せっており、世継ぎは皇女ひとりだけとあって、当初はそれなりに大きい派閥だったらしい。
らしい、というのは、妾が6つか7つになる頃にはすっかり弱体化していて、人伝にそう聞いただけなのだ。
「それと、……医局の報告によると、アーデルシュタイン候には、今しばらく治療が必要です。少なくとも、1年か2年程度は」
「なに? どういうことだ」
「先だっての魔法暴走以前に、彼は…あー…ご病気を抱えておられることが、判明しました」
「なんだと…?」
隣のユリウスに目線を向ける。彼は、こまったように眉を寄せ、微笑むばかり。
アーベントロートもユリウスも、病気について詳しく説明するつもりはないらしい。
「家族でない相手には、少々共有しづらい病気です。…状況によっては、家族相手にすらも」
アーベントロートの低い声が、正面から妾に釘を刺す。
妾は、些か納得いかないまま、前に目線を戻した。
アーベントロートの手が伸び、ずい、と、例の契約書を妾に向かって押す。
「帝都のタウンハウスには、彼のご家族がおられず、北部の極寒のご生家では、病気療養に不向きです。このまま皇宮で長期的な治療を施せるよう、彼の籍を皇室に加えてしまうのがよろしいかと」
「なるほどな……」
どのような病かは気になるが、帝国宰相が結婚を勧めている以上、世継ぎにかかわる病気ではなさそうだ。
それにしても、先日の寝不足以外、ユリウスに具合が悪そうなところは無いのに、一体どういう病気なのだろう。
ちら、と、またユリウスを見やる。書いてほしい、といった表情で、琥珀色の瞳を細めて妾を見つめていた。
それから、アーベントロートにまた視線を戻す。無愛想で顔色の悪い宰相は、ユリウスよりよほど病人じみた顔つきをして、妾を正面から見定めている。
「教会も神父もなく、恐縮ですが。健やかなるときも病めるときも、アーデルシュタイン侯爵と寄り添い、彼を護ることを……誓えますな? 殿下」
最後はやや挑発的な口調で、アーベントロートが妾に尋ねる。
背後の補佐官たちは、「あちゃ~」という表情をあからさまに浮かべ、一人は額に手を当てて項垂れていた。
補佐官たちの気遣いは有り難いが、それでも、アーベントロートは妾を動かす術をよく心得ていた。
妾は、力強く羽根ペンを取り上げ、先をインク壺に浸して余分を落とすと、迷い無く契約書甲欄に自分の名前を書き記した。
アナスタシア・エルスティナ・フォン・グランツェルリヒ。
一字一句過たず、丁寧に、己の名を書いた。
「誓う」
妾は、アーベントロートの威圧的な眼差しを真正面から受けて立ち、見据えて返しながらそう宣言した。
すると、アーベントロートの目付きは和らぎ、彼が満足げに小さく頷く。
「ようございました」
アーベントロートが、背後の補佐官らにまた合図を出す。
彼らは、あわてて妾たちの側に近づき、契約書と羽根ペンとインク壺の一式を回収して、今度はユリウスの前へと丁寧に置いた。
ユリウスは、誰に促されるでもなく、自ら乙欄に名前を書き記した。
「お尋ねするまでもありませんな」
その様子を見て、アーベントロートはそうコメントした。
最後に、契約書と筆記用具がアーベントロートの前に置かれる。彼は、我々のサインの更に下にある、小さな証人欄に自身の名前を書き記した。
「これにて、契約締結となります。皇女殿下、そして――ユリウス皇配殿下。ご結婚、おめでとうございます」
アーベントロートが、パチ、パチ、と、ゆったりとした拍手を送る。補佐官たちも続いて、笑顔を浮かべながらパチパチと拍手をした。
思っていた形と大分ちがう結婚となったが、あらためて賞賛されると、悪い気はせず、妾はユリウスに笑顔で目をむけた。彼もまた、嬉しそうに微笑んでこちらを見つめ返している。
「お時間を賜りまして、ありがとうございました。あとの手続きはこちらで済ませておきます。近々、おふたりの新しい居室や寝室について、デザイナーを寄越します。ご希望があれば、そちらに。結婚式や披露宴につきましては、また後日詰めましょう。では失礼」
そう言うと、アーベントロートはさっさと立ち上がり、補佐官達は文書と道具を速やかに回収した。相変わらずの仕事中毒ぶりである。
妾たちも立ち上がり、アーベントロートたちに続いて部屋を出ようとした。
すると、アーベントロートがふと立ち止まった。
「ああ、そうそう」
彼が振り返り、妾と目が合う。
「皇配殿下のご病気や治療の件について、表向きは秘密とし、健康に問題ないという体でご結婚を発表いたします。よろしいですな?」
「あ、ああ。それでよい」
「承知しました」
アーベントロートは、右手を胸にあて、恭しく一礼を返す。
それから、彼と補佐官たちがようやく退室した。
***
夜、寝室に向かうユリウスを見送った後、居室で妾と侍女たちとだけとなり、妾は大きく溜め息をついた。
結婚してしまった。
ウェディングドレスを着ず、神父の前で誓いを立てるでもなく、契約書一枚にサインして。
まだ、ユリウスと夫婦になった実感が湧かない。
寝室が続き戸の夫婦部屋に移るのもこれからであるし、そんなものだろうか。
寝支度をしながら、信頼する侍女たちに事情をかいつまんで話す。
書類上ユリウスと結婚したこと。表向き秘密だが、彼は病気を患っているらしいこと。その治療には、最低でも1年2年は時間が必要で、皇宮で引き続き治療するため、籍を入れてしまうのが都合がよかったこと。
「あら。そうしますと、ご結婚を早めた表向きの理由は『姫様がご懐妊された』ことになるのでしょうか」
「は???」
マルグリットの言葉に、妾は間の抜けた声をあげてしまった。
誰が、なんだって?
マルグリットは、平然と続ける。
「だって、そうでございましょう? 皇配殿下のご体調の件は秘密で、姫様と皇配殿下の仲睦まじさは皇宮中、いえ帝都中に知られておりますもの」
――――たし、かに、そうだ。
妾は、顔がみるみる紅潮していくのを感じた。
社会的に貞操を失ったと思ったら、今度は社会的に妊婦にされてしまった。
アーベントロートの奴め! 知っていて、わざと最後に何でもない風を装って確認したな!
「……この間は、本当に何もなかったんだ」
不満を声に滲ませて妾が言うと、レオノーラが微笑みながら応じた。
「まあ、姫様。ご安心めされませ。かの皇配殿下であれば、今に嘘を真にしてくださいますわ」
そういうフォローが欲しかったわけではないのだが、妾も、レオノーラの考えを否定しきれなかった。
エンダーーイアアアーー!!
アナスタシアとユリウス、結婚しました。
しかし、話はまだまだ続きます。この先もお付き合い頂ければ幸いです。
Q: なぜアーベントロートは荷受けサインの方が重要だと思っているの?
A: 交際期間を経た結婚相手は間違えようがないけど、荷物を受け渡す相手は間違える可能性があるから。




