言葉が…見つかりません
「ふっ、ぐ、…グ、…うぅー!!」
「姫様! こらえてくださいませ!」
妾は今、すべての貴婦人が避けて通れぬ拷問に耐えている。つまり、コルセットで締め上げられている。
苦しみにうめきながらも支柱をつかんで直立を維持する妾のうしろでは、侍女らがコルセットの紐を容赦なくグイグイと引いていた。
「ぐえ、苦しっ、も、もう少し緩く」
「まあ、姫様。まだまだイケますわ、ちまたの淑女はもっと締めておいでですよ」
「無理ッ、ほんとにもう無理、だ…!」
「レオノーラ様、ですが、姫様は普段コルセットをお召しになっておりませんわ。あまりご無理をさせては、倒れてしまうやも。今日は大事な日でございますのに」
専属侍女の中で最年少のユリエッタがそう意見する。ユリエッタは、妾の遠縁の親戚でもあり、妾にとって昔から姉のような存在でもある。そのせいか、皇女付き侍女となった今でも、なにかにつけて妾を甘やかす人物であった。
ユリエッタの意見を聞き、レオノーラが気まずそうに「ううん、」と応じる声がする。
「……致し方ありませんわね。これくらいで妥協いたしましょう」
しぶしぶ、といった様子でレオノーラの声がするのと同時に、妾への拘束が緩くなる。妾は、ようやくマトモに息ができるようになった。
姿見の前に移動して、侍女らから身繕いの続きを受けつつ、妾はおもわず毒づく。
「妾が皇位を継いだ暁には、最初に、コルセットを締めるなどというふざけたマナーを撤廃する。絶対にだ」
「まあ、姫様。女たちの美への執念を甘く見てはなりませんわ」
「これを好き好んで締めたい変人奇人どもは、好きにすればよいわ。だが、妾はこんな忌まわしい拘束具、金輪際着けんからな。反コルセット派の筆頭となってくれる」
「きっと、姫様に共感する淑女たちも大勢おられますわ」
そんな雑談をしつつ、侍女らの手によって妾が飾りつけられていく様子を鏡越しに眺めた。
妾のデビュタンティンである今日この日、『伝統やぶりの皇女』と噂されているらしい妾であったが、今日だけは伝統的で格式ある装いにすると決めていた。
普段の妾ときたら、コルセットどころか男のようにズボンを穿きたがるし、宮殿の通路は侍女らが小走りで追うほど大股で闊歩するし、騎士団の訓練にまざって剣をふるうし、乗馬すれば早駆けせずにはいられない。伝統やぶり、掟やぶりと誹られるのももっともである。
だが今日この日、皇宮の外にいる貴族たちに初めて妾の姿を見せる今日は、できうる限り伝統に則り、ドレスも、帝室で受け継がれてきたデビュタンティン用のものを着ることにした。いずれこの国に様々な変化をもたらすつもりだが、『伝統を大切にする』という意志を示したかったからだ。
妾は決して、伝統をないがしろにしたいわけではない。そもそも、歴史ながき帝室にある我が身じたい、伝統的なもののひとつだ。
だが、時代は変わるし、それに伴って適切なやり方も変わる。伝統を大切にすることと、変化を追い求めることとは両立できる、と妾は信じている。
デビュタンティン用のドレスは、純白のシルクでできている。純白は未婚と清純の象徴であり、デビュタンティンの令嬢たちはこれをまとうのが一般的だ。
肩は露出させ、両手には二の腕まで覆う長さのオペラグローブを身につけ、頭にはティアラや生花か白の髪飾りを装い、靴底が革でできた白い靴を履く。これがデビュタンティンの伝統的な基本型である。
妾がまとうドレスは、代々の帝室女性が着てきたもので、オーガンジーとシルクサテンを重ねて作られた、滑らかなシルクの光沢と、霞のようなオーガンジーの層とが神秘的な美しさを放つ逸品であった。
胸元をハートカットされたビスチェから、細く絞られたウエストラインにつづき、なだらかにAラインのスカートへと広がる形をしている。腰から足下にかけては、幾重にも重ねられたチュールとオーガンジーが流れ、歩くたび雲のようにふわりふわりと揺れる。
胸元には、帝室の象徴たる鷲の翼が金糸の刺繍で施されており、スカートの裾には、おなじく金糸の刺繍で草花や唐草が広く散りばめられていた。
背中側には、繊細なレースで飾られたチュールのトレーンが引かれている。これは高貴な身分の女性ほど長くあるべきもので、デビュタンティン最高位の女性にふさわしい威厳を放っていた。
そうした帝室の美しき宝物の1つが、妾の身体に合わせて縫い直され、妾の身をつつむ。金の髪は、頭頂から後頭部にかけてを緩やかなボリュームをもたせて後ろにまとめられ、ねじり込みを作って留められていた。後ろ髪は、背中側に流されている。
大粒のダイヤモンドと白金でできた、豪奢なティアラが頭の上に載せられた。首には、大粒の輝くパールのネックレスを、耳には、白蝶貝のイヤリングが着けられる。
仕上げに、白いシルクのオペラグローブを身につけ、合わせの白い靴を履く。
「さあ、完成ですわ」
侍女に声をかけられ、妾は化粧台の前から立ち上がり、三面の姿見の前に立った。後ろに立つ侍女たちやメイドたちから感嘆の溜め息があがる。
彼女たちの反応どおり、妾の姿は、なかなかのものであった。
妾は普段、男装めいたズボンで過ごすことが多かったが、美しいものや愛らしいものを好いていないわけではない。普段の妾の運動量にスカートでは追いつかないだけで、ふわりと揺れるスカートも、きめ細かく編まれた美しいレースも、きらきら輝く宝石も好きだ。おそらく、人並みには。
そんな妾の目から見ても、鏡越しに見る妾の姿は、ティアラの宝石の輝きと、シルクの光沢と、繊細な金糸の刺繍の輝きとを身にまとい、なんとも美しい姿であった。
「きれいだ。皆、よくやってくれた」
ねぎらいの声をかけると、侍女たちが口々に声をあげた。
「まあ、とんでもございませんわ!」
「わたくし共はほとんど何もしておりませんわ!」
「素材がよろしいのですわ!」
「まるで天使、いえ女神のようですわ!」
口々に褒めそやす侍女たちの声がこそばゆい。
おべっか、というと言葉が悪いが、こうした彼女らの世辞も、これから一世一代の大舞台に乗り出す妾にとって重要なものであった。
社交界には魔物が潜んでいる、という。妾の地位がどれほど高くあろうとも、不敬を問われぬよう言い回し、口さがないことを言われることもあるだろう。
だが、社交界に出ることも大切なつとめだ。避けて通ることはできない。ゆえにこうして、味方に心を支えてもらうことが重要だ。
「アーデルシュタイン候もおよろこびになりますわ」
マルグリットがそう言うのを聞き、そういえばユリウスにエスコートしてもらうのだと漸く思い出した。
考えてみれば当たり前のことなのだが、あまりにも目まぐるしくて失念していた。
「ユリウスはもう来ておるのか」
「ええ。百合の間のほうにお通ししたと」
「わかった。では参ろう」
百合の間は、妾の居室に近い応接間のひとつで、妾や母上に近しい客をもてなす際によく使われる部屋である。
いつもよりも狭い歩幅で慎重に歩き、百合の間に向かう。使用人たちが扉を開くのを待ち、その中へと進んでいった。
中では、いつもよりめかしこんだユリウスが待っていた。妾の姿を見て、かけていたソファからすぐに立ち上がる。
出会った頃のユリウスは、花も恥じらう美少年といった様相であったが、16歳になった今は、肩幅もがっしりと大きく、立派な美丈夫に成長していた。今日は特に、そうと強く感じられる。
彼の衣装は、一般的な帝国礼装をベースにした、伝統的で格式ある燕尾服であった。デビュタンの伝統に則り、上着とタイとスラックス、それにドレスシューズも黒色。深みのある青の光沢がわずかに浮かぶ上質な生地を下地に、上襟と袖口には白銀糸の刺繍――ヴァイセンドルフの紋章たる白き谷の文様が描かれている。軍閥貴族らしく、おなじく白銀糸で編まれた飾緒が2本ほど肩にあしらわれ、それが光を反射して美しい。
衣装は、彼の鍛え上げられ引き締まった身体にぴったりと合わせられ、彼の体格の美しさを引き立てていた。
「またせたな。そして、見違えたぞ。その服、よく似合っているよ、ユリウス」
妾が素直に賛辞をのべるも、ユリウスは呆けたようにこちらを直視するばかりで反応しない。
妾たちが困惑していると、ユリウスはぐしゃりとその場に膝から崩れ落ちた。
「どうした!?」
なにごとかと使用人たちが駆け寄り、どこか悪いのかと尋ねる。だがユリウスは手を振って退け、両膝をついて座りこみ、顔を伏せたままで――なぜか、祈るように両手を前で組んだ。本当にどうした。
「……言葉が…みつかりません、アナスタシア様。……あまりにも…あまりにも、お美しくて……」
随分とオーバーなリアクションをする。協力的な婚約者で嬉しいかぎりだが、そこまでされると、なんか、さきほどの妾の反応が素っ気なく感じられるではないか。
なぜだか、周囲の侍女らや使用人たちまでウンウンと頷いて同調している。なんだ? 先に根回しされていたのか、そなたら?
「あー……ユリウス。せっかくの衣装が汚れるぞ」
「グスッ…はい」
ユリウスが立ち上がる。すると、その頬に涙がひとすじ流れていた。泣いてる……??
すかさず、メイドの一人がハンカチをユリウスに差し出した。それを受け取り、ユリウスが顔をぬぐう。
「具合が悪いのか?」
「いえ、問題ございません。失礼いたしました」
「そうか。ならよいのだが、無理はするなよ」
「はい。ありがとうございます」
従僕に膝下をパタパタと払われたあと、ユリウスが妾に歩み寄り、手を差し出す。
「お待たせいたしました。参りましょう、アナスタシア様」
「うむ。今宵はよろしく頼む」
そうして、妾たちは夜会に備え、控え室へと連れだって向かっていった。
この後、世にも恐ろしい大事件が待っているなどとは、露も知らずに。