寝ろ
ユリウスから仕返しとばかりに、こういうちょっとした悪戯もされるようになった。しかし、悪戯自体への不満より、悪戯ができるくらい彼の精神が回復したことを、喜ぶ気持ちの方が大きかった。
妾の友人たちは、きちんと話を聞ける人間ばかりだ。噂や偏見、身分ばかりに惑わされず、己の目と耳で真実を見極める。故に、あの程度のことで絶交されはしない。もし本当に妾が間違ったことをしていたら、妾を諭してくれていただろう。
ユリウスもきっと、本気で妾と友人たちとの仲を裂こうとしたわけではない筈。
――きっと。たぶん。
そんな現在とは大きく異なり、魔法暴走事故の直後ときたら、ユリウスはひどい状態であった。とてもじゃないが、側仕えや身内以外、人前に出せる状態ではなかったのである。
***
「アナスタシア様、」
「うん」
「好きです。大好きです。好きで好きで大好きであなた様がいてくれないと私をあいしてくださらないと私は生きられなくて存在価値がなくてそれで、大好きで好きであなた様のことばかり考えているんですあなた様が離れてしまったらと考えると気が狂いそうでいえきっと狂ってしまうのです」
「うん……」
「だからどうかどうか行かないでください私の視界から消えないでください声を声をください名前を呼んでくださいそれだけで息ができるのです、私の世界はあなた様でできているのですから朝も昼も夜も瞬きの裏側にもあなた様がいて考えないようにしようとすればするほど思考があなた様の輪郭に縛りつけられて逃げ道がなくて、でもそれが幸せで愛しくて私はあなた様のために在りたいあなた様の影になりたい足元に落ちる影でいい」
「うん……」
「あなた様が笑えばそれで報われるもし誰かがあなた様を見るなら私が先に見ますもし誰かがあなた様を呼ぶなら私が先に応えます順番は譲れません譲れないのです、ただただ私の心があなた様から離れないだけです私が勝手に壊れていくだけですあなた様は何も悪くない悪いのは私で、あなた様が歩くなら私も歩きます止まるなら止まります背を向けられたらその背中を祈るように見つめます、視界の端にいられれば存在を感じられれば私の鼓動は正しいリズムを取り戻しますですからお願いです私を拒まないでください嫌わないでください恐れないでくださいただあなた様を愛しているだけなのです愛して愛して愛し続けて――」
「そなたを嫌ったりしない。妾も大好きだよ、愛しているよユリウス」
妾をガッチリと抱きしめてソファに座り、ユリウスの膝上に横座りした妾の背中に向かって、呪詛のような…愛…? 懇願…? の言葉を延々と話しているユリウスの頭を、黒髪を掻き分けるようにして、よしよしと撫でる。
このようなループが、かれこれ47回繰り返されている。
助けてくれェーーーーッ!!!! 誰かァーーーーッ!!!!
心の中で叫んでも、応える者は当然いない。
こんなに進退窮まるのも、これほど真剣に誰かの助けを欲したのも、16年の我が生涯で初めてのことであった。
***
――ユリウスから、思いのほか様々な要求を突きつけられた後のこと。
「必ずユリウスと結婚すること」「側室や愛人を一切持たないこと」「(恋人ないし夫婦として)ユリウスとずっと一緒に居ること」「(異性として)ユリウスだけを愛すること」。このあたりは当然のことで、なんてことはない。問題は、その後だ。
ユリウス以外の人間には触れさせないこと、ユリウス以外の人間に姿を見せないこと、ユリウス以外の誰にも微笑まないこと、ユリウス以外の名前を呼ばないこと、その他諸々……。
無茶を言うなッ!! 公務遂行どころか、生活すらおぼつかなくなるわッ!!
隔離患者か何かか? どうやって仕事をしろと!?
妾がただ生活するだけでも、いったい何人の侍女・使用人・女官が関わっていると思っている? 貴族女性のドレスは基本的に一人で着脱できないのだぞ?
服すら7割がた着られなくなるわ! もう下着で過ごすしかなくなっちゃうぞ!
無論、そのように口に出した訳はないが、内心ではそう叫んだ。
『一体どうしたものか』と考えながら条件交渉したところ、意外にもユリウスは要求を完全に叶えることには拘っておらず、あっさり呑んでくれた。
妾が提示した条件は、「皇女・皇族としての職務を果たすにあたって障害となる制限は除外する」「トイレ・風呂・化粧や着替えなど身繕い・寝所は共にしない」「職務・生活上必須の接触、特に同性からの接触を許可すること」「他人に姿を見せること、他人の名前を呼ぶこと、微笑みなどについて制限しないこと」「その他、職務遂行や生活に著しく不便をもたらす制限は認められない」といったものだ。
あと、「夢についてはお互いどうにもならんだろう、無茶を言うな」とか。
――とまあ、書面に起こしたわけではないが約束を交わし、夜遅かったので「おやすみ」を伝え、ユリウスを泊めている客室を後にした。
***
それから数日後、魔法暴走の影響や再発可能性を確認するための、ユリウスの経過観察が完了し、魔法検査官らから彼の外出許可が下りた。
妾は、しばらくユリウスのケアを最優先にしようと考え、皇女補佐官たちに連絡を入れ、仕事を休むことにした。ユリウス自身には、少なくとも回復するまで皇宮に滞在してもらう。
《銀狼亭》へは、欠勤のお詫びと、『急なことだが、以降はもう出勤できなくなった』という旨をエルザ夫人とレオン宛ての手紙にまとめ、侍従に持たせて送っておいた。
理由は、『家族が急病で倒れ、その看病をしなければならなくなった』こと。正確には許婚だが、当たらずとも遠からずである。
侍女たちの手で身支度を済ませ、さて朝食に行くかと思ったとき、自室の扉がノックされた。誰何すると、ユリウスが迎えに来ているという。
侍女コルネリアが扉を開くと、その向こうでは、すっかり身支度を済ませた姿のユリウスが立っていた。
その微笑みからは疲れを感じるが、顔色は悪くない。
「おはよう、ユリウス。早いな、よく眠れたか?」
「おはようございます、アナスタシア様。…ええ、問題ありません」
「わざわざ迎えに? 食堂で待っていてもよかったのに」
「少しでも長く、アナスタシア様と一緒に居たかったもので」
「ふふ、うれしいことを言う」
ユリウスが右手を差し出し、妾は、その手の上に自分の手を重ねた。
彼にエスコートされ、妾たちは皇族用の食堂へと向かう。
今朝も母上は朝食をご一緒できないとのことだったので、妾は最奥の上座に着席し、ユリウスは妾の右手に座った。
皇族用食堂のテーブルは、短辺が1席・長辺が8席ほどの細長い長方形型であり、最大18人程度が着席できる。皇室が子宝に恵まれた時代には、このテーブルいっぱいに食事が並ぶこともあったらしい。
今代は子が妾一人で、父上は病気に、母上は子を産めぬ体になってしまったので、客人が無ければ2席しか使われない。そのうえ、皇帝代理を務める母上は多忙なので、たいていは妾一人で使っていた。
二人分の温かい食事が運ばれ、毒味係の確認が済むと、妾たちの朝食が始まる。
昔は、毒味が必要な関係で、皇族は冷めた食事ばかり食べていたという。今は、食事を温める機能つきの魔導具皿が発達し、妾たちも温かい食事にありつけるようになった。
魔導具を日夜発展させてくれている、魔導師たちへの感謝を忘れないようにしたい。
魔導師たちだけではない。この食事を用意してくれた料理人たち、運んでくれるメイドたち、安全を確保してくれる毒味係、食材を育て皇宮に納めてくれる農民や商人たち、我々人類に恵みを与えてくださった神々にも、感謝を忘れないようにしなくては。
あらゆる全てに感謝の祈りを捧げ、妾たちは朝食を食べ始めた。
本日のメニューは、白身魚の香草蒸し、温野菜と半熟ゆで卵のサラダ、白パンと全粒粉パン。デザートには、ヨーグルト。
余談だが、妾はかなりよく食べるほうだ。貴族女性には珍しく、剣術を嗜むうえ、現役騎士並みのトレーニングを欠かさないからだろう。友人たちと食事するとき、妾はいつも、誰より多く食べる。
そのせいか、一度でも食事を共にした相手からは、茶会ですら「足りますか?」「お代わりを用意しましょうか?」と心配そうに聞かれるようになってしまう。
いいって。常に空腹みたいな扱いをするな。足りなかったら帰ってから宮殿で食べるから。もう誰も食べなさそうな、残ったものがあれば食べているだけだ。
そんな妾でも、男性のうえ、筋肉質でガタイのいいユリウスには及ばぬらしい。彼の皿に載った料理の量は、あきらかに妾より多い。配膳量は、ヴァイセンドルフ邸の使用人に問い合わせたのだろう。
「久々に一人ではない朝食をとれてうれしいよ。母上がご多忙ゆえ、いつもは食堂を一人で使っている」
「そうでしたか。…私も、誰かと食事をするのは久しぶり…ですね。それも、アナスタシア様とお食事ができるだなんて、幸せです」
「ふふ」
色々あったが、ユリウスと仲直りができてよかった。
これから皇位を継ぐ妾も多忙になってゆくのだろうが、せめて食事の時間だけは、こうして家族で共にできるようにしたい。
「先日の詫びに、といってはなんだが、今日から早速そなたの要望を叶えていこうと思う。今日は仕事を休んで、そなたのために時間をとるぞ。平民を学ぶ活動も、少し早いが中止とした。発端が発端であるし、これ以上、そなたに負担をかけたくないのでな」
「アナスタシア様っ…。ありがとうございます…!」
目を輝かせたユリウスに、妾は思わず笑みをこぼす。
「そなたはまだ全快していないであろう。今日は、ゆっくり過ごそうな。そなたは、どう過ごしたい?」
「私は…、そうですね。アナスタシア様と二人、暖かいお部屋でゆっくりできれば、何よりに存じます」
「ふむ。では、妾の居室で過ごすのはどうだ?」
「! あ、ありがとうございます! ぜひ…!」
妾の居室には、寝室だけでなく、一通りの居住スペースが備わっている。寝室と居間は別であり、居間にはソファとローテーブルが備わっていた。
同性の親しい友人を1人2人呼ぶときは、この居間に通すことがある。男性を入れたことはないが、婚約者なのだから許されるであろう。
食事のあとは、毎朝のトレーニングに向かった。ユリウスには安静にするよう命じたところ、「トレーニングを拝見したいです」と言われたので、侍従に命じて椅子を用意させた。ユリウスに、そこへ座って見るよう伝える。
運動着姿の妾が重りをつけて走る姿を、ユリウスは、飽きもせずただじっと眺めていた。
トレーニング後、シャワーと着替えのために自室に戻る。
2年前の初陣後に帰還した際、妾がユリウスに甘えたときのように、ソファの上で妾を抱きしめて過ごしたい。という、ユリウスの要望があったので、楽に過ごせて生地重ね少なめのモーニングドレスを着ることにした。
支度が済み、ユリウスを部屋に呼ぶ。彼に割り当てた客室で待つよう言ったのに、廊下でずっと待っていたらしい。
紅茶と茶菓子を用意させ、先にソファに座ったユリウスの膝に腰掛けて、彼の厚い胸板に身を預ける。
彼の力強い両腕が、ぎゅっと妾を包み込んだ。
悪くない。非常に悪くない気分だ。むしろ、すごくいい。
部屋に控えた侍女らやメイドたちが、微笑ましいものを見る目で妾たちを見つめている。
笑顔でユリウスに目線を合わせれば、ユリウスもまた、微笑んで妾を見つめ返す。
やはりどこか疲れて見えて、瞳が昏く虚ろに感じる。今日この時間を経て、彼の心が癒やされるといいのだが。
それから妾たちは、他愛のない話をして、お菓子をつまんだり紅茶を飲んだりして、夕食までゆっくりと幸せな時間を過ごす――――
――ものと思っていたら、冒頭の事態となったのである。
***
ユリウスが妾に恋愛感情を持っていないだなんて、そんな見当違いの誤解をしていた、鈍感すぎる過去の妾を殴りたい。
すっかり緊迫した空気の居室で、妾はそんな非現実的な願いすら考え始めていた。
今朝までの甘い空気、どこにいった。帰ってきてくれ。真剣にそう願うが、帰ってくるはずもなく。
ただただ、ユリウスの狂気と、『これ…どうしたらいいんだ…?』という妾と侍女らと使用人たちの緊張だけが、妾の部屋を満たしている。
「ユリウス、ごめんな。本当に悪かったよ…」
泣きそうな声で何度となく繰り返した謝罪を口にするが、ユリウスは頭を左右に振る。
「アナスタシア様は、なんにも悪くございません」
「いや、けっこう大分、かなり悪かったと思う。先日思っていたよりもずっと、今すごくそう思っている」
「いいえ、アナスタシア様は悪くありません。アナスタシア様が間違っている筈がございません。私が悪いんです」
このやり取りもまた、ずっとループしている。
助けてくれ。どうしたらいいのだ。何を言っても駄目なのだが。
もう戦略的撤退を選びたいところだが、ユリウスを否定したり嫌がったりする素振りを見せれば、さらに状況が悪化するだろうことは火を見るより明らかだ。
あきらめるな。冷静になれ、アナスタシア。
とりあえず、この事態の原因を考えてみよう。妾の浮気未遂はもちろん原因としても、ここまで彼の思考がネガティブに陥っているのには、もっと直接的な原因があるはずだ。
どうあがいても思考がネガティブになってしまう原因――まず考えられるのは、極度の疲労、寝不足。
魔法暴走の直後なら、極度の疲労があってもおかしくない。だが、あれから数日が経っている。
あとは、寝不足。考えてみれば、今朝からユリウスの顔つきが気になっているのだ。顔色じたいはいいので「問題ない」という彼の言葉を信じたが、今の状況を含めて鑑みると、やはりおかしい…。
「ユリウス。ちゃんと眠れているか?」
「……はい。何も問題ございません」
問題あるから聞いているのだが。
どうしたものか、と思いつつ、彼から少し身を離そうと動く。鍛え上げられた彼の腕に阻まれ、最初は動かないが、妾の動きに応じて力が緩む。
わずかに身を離すと、彼の顔と向かい合えるようになる。妾が目を向けるのに合わせ、彼も妾と目を合わせた。
やはり、顔色は悪くない。ただ、目がよくない。疲れて見えるのに、瞳孔が不自然にかっぴらいている…と言うべきか…。
妾は、下ろしていた手を持ち上げ、彼の頬を撫でるようにして這わせた。すると、ざらりと粉っぽい感触がする。
「? そなた、化粧をしているのだな」
意外に思いつつ、妾は言及した。
貴族女性であれば化粧をしていて当たり前だが、化粧をしている男性はそう多くない。特別、美容に気を遣っている者のみがしている。
ユリウスのように騎士として戦闘訓練をする者の場合、汗をかいて運動することが多いこともあって、化粧をする者はほぼいないイメージだった。
何の気なしに言ったその言葉を聞いて、ユリウスの体にビクリと緊張を走ったのを感じる。彼の両耳だけが、サッと白くなった気がした。
……もしや。
「レオノーラ! 妾の化粧落としを持て!」
「…え? あ、はい!」
「ま、待ってください」
ユリウスが狼狽した声をあげる。
優秀な侍女長レオノーラは、化粧落としを染み込ませた布をすぐさま持ってきた。
それを受け取り、妾が構える。ユリウスは、妾から手を離し、自身の顔をかばうように上げた。
「ユリウス、素顔を見せてくれ」
「だ、だめです。見ないでください」
「後で妾のノーメイク顔も見せてやるから。超レアだ、いいだろう? ほら」
「う、だ、駄目です、アナスタシア様…!」
ユリウスは抵抗したが、妾を強く払いのけることはしない。少々強引に、妾はユリウスの顔を拭き、化粧を取り去った。
まず見えたのは、左目を大きく縦断する傷跡。それから、病的に青ざめた白い肌色。そして、両目の下に大きくできた、色濃く青黒い隈。
「見ないで、ください……」
ユリウスが泣きそうな声で言い、まだ顔を隠そうとする。
「ユリウス……」
妾は、大きく息を吸い込んだ。
「寝ろ!!!!!!!!」
化粧する余裕がなかった日の出勤時、「なんだか今日顔色悪いですね」と職場で言われたことがあります。




