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目隠し皇女は、許嫁の愛が重すぎることにまだ気づいていない。アナスタシア皇女伝  作者: 佐藤みさき
第一部 第二章 ユリウス編

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【Side: ユリウス】そんなこと、私が一番わかっている

「ひぃっ…ま、まいった! もうやめてくれっ! 命だけは助けてくれ!」


「…………はぁ?」


 ()(ざま)(すわ)()み、(そう)(しよく)の派手なレイピアを落として手放したまま、(けつ)(とう)相手の男が後ずさる。

 中肉中背の男の体には、私が刻んでやった浅い切り傷が(いく)つもできており、動きにくそうな(そう)(しよく)過多の礼服を、血で(よご)していた。


「これは試合ではない、“(けつ)(とう)”だ。(もう)()んだのは、そちらだろう? (たたか)いの終わりは、勝利か、さもなければ“死”だ」


 (にら)()えたままそう告げれば、(たい)(せん)相手は、ブタのような悲鳴をあげて(さら)に後ずさった。(かれ)の背が、(けつ)(とう)場の(とう)()(さく)にぶつかる。


 私は、相手にゆっくりと歩みを進めていった。()(ちゆう)、落ちたままのレイピアの持ち手を足で引っかけ、相手に向かって()()ばしてやる。


「得物を拾え。立って構えろ」


 (すき)だらけの相手に、何度も()(かえ)し言った言葉を改めて伝える。


 これが試合なら、相手はとっくに負けていた。だから代わりに、相手の急所をとったら都度、()(めい)(しよう)(あた)えず表皮だけを()いた。

 武器を取り落としたら「拾え」と命じ、(こう)(げき)を待ってやった。


 死体になった後の(そん)(かい)は罪になるが、(けつ)(とう)中につけた傷なら許される。


 北部では、“見せしめ”用の(ざん)(さつ)死体を(つる)して、(さん)(ぞく)(とう)(ぞく)どもの犯罪(よく)()に使っていた。これには、一定の効果がみられるらしい。

 目の前の(おろ)(もの)も、できるだけ(むご)たらしく切り刻んで、アナスタシア様や私に関わろうとする(てい)()貴族の男どもへの“見せしめ”死体にしてやるつもりだった。


 (つる)すことはできないだろうが、社交界の連中は(うわさ)好きだ。(けつ)(とう)(いど)んで(かえ)()ちに()い、ズタボロの()(ざん)な死体となった貴族の男の話など、大喜びで広めてくれるに(ちが)いない。

 現にこの男は、人を集めやすい夕暮れ時の(こう)(にん)(けつ)(とう)場をわざわざ指定し、さらに自身の友人や知人たちまで見届け人――という名の()()(うま)として()()んでいた。


「はやくしろ。(みな)、待っているだろう?」


 愛用のバスタードソードを構え、(あご)で観衆を指しながら皮肉ってみる。

 相手はレイピアを拾わぬまま、(さく)の外の観衆に視線を向けた。


 コロセウムを()した石製の円状観覧席には、20名余りの貴族の男女が居た。

 その目のどれもが、眼前の“ショー”に対する興味関心に(かがや)いている。


 相手は(ふる)えながら、まだ得物を拾おうとせず、私に視線を(もど)した。


「た、たすけてくれ。許してくれ、(あやま)るから」

「謝罪などいらない。得物を拾え。立て」

(たの)む! 死にたくない! だ、だれか、(こう)(しやく)を止めてくれーっ!」


 相手が後ろを向いて立ち、(てつ)(さく)を両手で(つか)んで、(おり)の中の(しゆう)(じん)めいた姿で観衆に助けを求める。

 しかし、(だれ)(ひと)()として止めようとしなかった。


「そんな……」

「実に美しい友情だな」

「ぐっ……」


 (さく)(つか)んだまま(かれ)()(かえ)る。出血も傷もまだ大したことないだろうに、今に(たお)れそうなほど真っ青な顔をして、(あぶら)(あせ)をかいていた。

 歩みを進めて、(きよ)()()めても、まだ得物を拾おうとしない。


 ――ここまでか。仕方がない。


 私は(けん)を持ち上げ、相手を()()()りにしようと()()ろした。


「そこまで!」


 (するど)い声が(ひび)き、寸前で私は(けん)を止めた。ヒイッと悲鳴をあげ、(おく)れて相手が地面に転がる。


 声のもとに視線をやると、今回の(けつ)(とう)(しん)(ぱん)(しや)が手旗を挙げていた。


「アーデルシュタイン(こう)(しやく)の勝利! ハルデンフェンス()(しやく)令息は、法典に(のつと)り、勝者の要求に(すみ)やかに従うとともに、規則に応じた(ばい)(しよう)(きん)()(はら)うこと!」


 私は、(けん)を下ろさぬまま(まゆ)を寄せた。


「私の望みは、ハルデンフェンス(きよう)が死ねば十分に(かな)う」

「ヒイイッ!」


「それはなりません。(こう)(しやく)閣下、(けつ)(とう)はたった今終わりました。(けん)をお収めください。これ以降の傷害(こう)()は、法に反します」

「どちらかが死ぬまで、(けつ)(とう)は終わらないのでは?」

「いいえ。(たい)(せん)(しや)はそのつもりで(いど)むべきではございますが、両者生存のまま勝敗を決することも、(しん)(ぱん)(しや)には許されております」


 チッ、と舌打ちを打つ。言われたとおり(けん)(さや)に収めた。

 (けつ)(とう)を受けると決めたとき、関連する規則を改めて(かく)(にん)していた。ハルデンフェンス(きよう)は知らなかったようだが、(しん)(ぱん)(しや)の言うことは正しい。


 こんなことなら、遊んでいないでさっさと始末をつければよかった。

 いや、ハルデンフェンス(きよう)はともかく、(しん)(ぱん)(しや)はどうやら()()れだ。歩き方や姿勢、目線の動き方で伝わってくる。(おそ)らく、引退したベテラン兵士か何かだ。

 どのみち、()(めい)(しよう)(あた)える(しゆん)(かん)は見破られていたか。


 地面に転がったハルデンフェンス(きよう)を見下ろす。(かれ)は頭を(かか)えて丸まり、失禁しながら(ふる)えていた。


「……ハルデンフェンス(きよう)

「ひゃいっ!」


 意識はあるようだ。


「二度と、私にも、アナスタシア様にも、関わろうとするな」

「わわ、わ、わ、わかりましたっ!!」

「もし、この約束を破れば、…そうだな……」

「や、やぶりませんっ!!」


 ハルデンフェンス(きよう)の声を無視して、考えを(めぐ)らせる。

 約束を破られた場合、正規の手順に沿って(うつた)えを起こせば、さらなる(ばい)(しよう)(せい)(きゆう)や、国からの厳重注意も可能だろう。しかし、(めん)(どう)だな。

 ならばいっそ、


「……私は、対面勝負よりも、()りのほうが得意だ。ハルデンフェンス(きよう)


 約束を(たが)えれば、私みずから貴様を殺しに行く。


 そう意図を()め、目線を合わせる。幸い、ハルデンフェンス(きよう)の表情から察するに、補足の説明は必要なさそうだった。


 (けつ)(とう)場を後にしながら、私は、街中で使うなら小型のボウガンが良いだろうか、などと考えていた。


***


 その後も、似たような(はく)(しやく)()以下令息らの(けつ)(とう)予定があった。毎度、今度こそはと相手の命を(ねら)ったものの、(ことごと)く同じ(しん)(ぱん)(しや)が来て、同じく決定打を止められた。


 調子にのった下位貴族令息たちが死にもせず軽傷を負っただけでは、見せしめの役に立たないと思っていた。

 だが、連続勝利が5回に(たつ)したころ、以降の(けつ)(とう)予定が向こうからキャンセルされた。以来、新たな(けつ)(とう)の申し入れも、()(ぼう)中傷の手紙も届かなくなった。


 逆に、なぜか謝罪の手紙が届くようになった。どの家の(だれ)が何を言ってきたかも、こちらは覚えていないのに。


 ブレンナーから話を聞いた(さい)(しよう)殿(どの)が、何か手を打ってくれたのだろう。

 そう思っていたのだが、様子を見に(おとず)れたアーベントロート(きよう)は、明確に否定した。


「今日、その対策について話すつもりだったのですが、(かれ)らは(すで)に心折れたようです」

「そうなのですか? 何故(なぜ)?」

「さあ。…まあ、軽い気持ちで行動していたのでは? 身分の高い者は、身分の低い者からの(けつ)(とう)(もう)()みを(きよ)()できますし、()殿(でん)が受けるとは思っていなかった、とか。期待通り(きよ)(ぜつ)されたら、『(おそ)れをなして()げた』とでも(けん)(でん)するつもりだったのかもしれません」


「はぁ…。しかし、5回(けつ)(とう)して、死人の一人も出ていませんよ。それも、敗者は(みな)、たいしたことのない軽傷を負っただけ」

「それでも、(かれ)らが一生もののトラウマを負うには十分だったようです。なにせ、(てい)()には、人生で一度も自分の血を見たことがない(ぼつ)ちゃんが多い」

「ええ? レイピア使いが多いとは思いましたが、仮にも(けん)を習って、()()をしたこともないはずが…」

(てい)()では、まともに教えない、チャンバラごっこ教師のほうが人気でして。痛い思いをしてまで、実用的な(けん)(じゆつ)を学ぶ人間のほうが少ないのです。レイピアが人気なのも、単に軽くて持ち上げやすいから、でしょうな」


 思わず白目をむいてしまった。(てい)()貴族は、(ずい)(ぶん)と平和ボケしているらしい。

 北部の貴族は、男子に必ず(けん)(じゆつ)を学ばせる。もちろん、実用的なものをだ。領軍に従事する身でなくとも、馬車移動中に(ぞく)(おそ)われることはある。その際、()(てい)(こう)のまま殺されるような者を、北部では貴族と呼ばない。


「実用的な(けん)(じゆつ)を学ばせる家の出なら、そもそも、軽々しく(けつ)(とう)(もう)()まないのでしょう」

「無知ゆえの(ばん)(のう)感、ですか」

「そんなところです。そして、あなたにボロ負けした(ぼつ)ちゃん(たち)と、(けつ)(とう)を見ていた観衆は、みずから社交界に()殿(でん)(うわさ)を広めたようです。

 ――(れい)(こく)で、血に()えた、(よう)(しや)のない(おそ)るべき『氷の()(じん)』だと」


 それを聞いて、思わずフフッと笑ってしまった。


(てい)()の人間は、詩人ですね」

「お望みなら、(うわさ)の火消しをしますが」

「いえ、結構です」


 いずれアナスタシア様のお耳にも入るだろうが、あのお方は、他人の(うわさ)よりも自分の目をお信じになる。

 それに、事実としては、(けつ)(とう)(もう)()まれたから受けて、勝ったというだけのこと。(さぐ)られて困ることは何もないし、勝手に(おび)えて()げてもらえて好都合だ。


「あぁ、そういえば。(てい)()裁判所の、(けつ)(とう)(しん)(ぱん)部門から(ちん)(じよう)が来ておりました。『殺意に満ちすぎている(へん)(きよう)(はく)令息をどうにかしてくれ』、と」

「どうにか、と言われましても…。文句なら、死ぬ(かく)()もないくせに、軽々しく(けつ)(とう)(もう)()む側に言ってください」

「私もそう回答しました。ただのご(れん)(らく)です」


 フー、と、アーベントロート(きよう)が深く()(いき)をつく。


 (かれ)も、早くに(こう)(きゆう)に上がったとはいえ、北部貴族の生まれだ。(かれ)もまた、一部(てい)()貴族の理解しがたい(おろ)かしさに、苦労してきたのかもしれない。


「…まぁ、ともかく、()殿(でん)が自らの手で問題を解決したということは、よい結果だと私は考えております」

「そうですか」

「今後とも、何かあれば必ずご(れん)(らく)ください」


 それから(かれ)は、いくつかの皇配教育科目の(しん)(ちよく)(かく)(にん)し、満足したように(うなず)くと、いつものように(あわ)ただしく帰って行った。


***


 ヴァイセンドルフ家の家訓は“(じよう)(ざい)(せん)(じよう)”。平和な時こそ油断せず、(たん)(れん)(はげ)むべし。

【父上】のご高説はいつも耳を(すべ)っていくようだったが、古くからの家訓や心得には重みがあり、目にしただけでも深く脳に()()んだ。


 この(てい)()で最も(せん)(とう)訓練に力を入れているのは、言わずもがな、(こう)(きゆう)直属()()(だん)、および(てい)(こく)軍である。

 先代ヴァイセンドルフ(へん)(きよう)(はく)のお()()(さま)の時代までは、(かれ)らとヴァイセンドルフ領軍との合同訓練が、(てい)()訪問時のルーティンとなっていたそうだ。


 私から合同訓練の()(らい)を出すと、すさまじい速さで(しよう)(だく)の返事が来たので、お言葉に(あま)えて(こう)(きゆう)に向かった。


 ()()(だん)長も、軍将校の方々も、私を(うれ)しそうに()(むか)えてくれた。お()()(さま)によく似ておられる、と代わる代わる言われる。

 私が生まれる前にお()()(さま)()くなったそうなので、会ったことはなく、(しよう)(ぞう)を見かけたこともないから、顔すら分からない。そんなに似ているのだろうか。


 訓練の手応えは大きく、団長クラスや将校クラスの相手と試合させてもらうと、学びが多かった。それに、勝っても負けても()(がお)で「よくぞここまで(きた)()げられました」と、自分ごとのように(うれ)しそうに()めてくれるので、悪い気がしなかった。

 なんだか、(かれ)らの孫になったような気分だ。


 そんな中、敵意がにじむ若い男の声が、私を呼んだ。


「アーデルシュタイン(こう)(しやく)


 ()(かえ)ると、(きん)(ぱつ)(へき)(がん)で、()()として(きた)えていることがわかる体格の、同世代の貴族男性が立っていた。


 この男は、確か…あの悪夢の()(とう)(かい)で、アナスタシア様とセカンド・ダンスを(おど)っていた――


「私は、レーヴェンタール(へん)(きよう)(はく)が長男、ジークベルト」


 目に敵意を宿らせてはいるが、レーヴェンタール(きよう)(れい)()(ただ)しく右手を胸に当て、軽く一礼してきた。

 これまで相手させられてきた()(しよう)ライバル(たち)に比べると、名乗りを忘れず、(あい)(さつ)もしっかりできていて、身分に(ちが)わぬ品格を持っている。


「……どうも。私に何か?」


 (たず)ねつつも、おおまかに用件の予測はついていた。


 体の向きも変えて、レーヴェンタール(きよう)と正面きって向かい合う。


「あなたも、私に(けつ)(とう)(もう)()みたいので?」


 意外にも、レーヴェンタール(きよう)は首を左右に()った。


「いいや。レーヴェンタール家の者は、神聖なる(けつ)(とう)を、個人の私情で(あつか)ったりしない。(けつ)(とう)(もう)()んでいいのは、命をかけて、家の(めい)()を守らねばならぬ時だけだ」


 さすがは、ヴァイセンドルフ家に並ぶ二大(へん)(きよう)(はく)家といったところか。教育がしっかりしている。


 内心で感心していると、レーヴェンタール(きよう)は、こちらに一歩、あゆみを進めた。


「だから、あなたには試合を(もう)()む。貴族として、()()としての(ほこ)りをかけて。

 皇女殿(でん)()とあなたとの(こん)(やく)は、皇室が決めたことだ。本来、私を(ふく)めて、外野がとやかく言う筋合いはない。

 それでも、皇女殿(でん)()と結ばれる可能性は(ひら)けるはず。()(てい)(こく)では、強さこそ正義。あなたに勝って、私は、皇室に皇配候補の再検討を申し入れる」


 こいつを殺そう。

 そう決めた。


 激しい(せん)(とう)訓練の結果なら、試合中の“事故死”だって(めずら)しくはない。


「いいでしょう」


 (たが)いの目線がぶつかり合い、火花を散らす。


 私は、(こし)()いた愛用のバスタードソードに手を()えた。慣れ親しんだ重み。

 北部では、これで(いく)()も敵を(ほふ)ってきた。(けもの)も、人も。


「では、10分後に第三(とう)()(じよう)にて」

「わかりました」


***


 一(せん)目は様子見に、試合のつもりで一勝を得た。


 二(せん)目では、目を(ねら)った。その先の脳もまとめて()()すつもりだった。

 だが、ギリギリで(かわ)された。(へき)(がん)(きよう)(がく)に見開いていた。


「貴様ッ……!!」


 意図が伝わったのだろう、レーヴェンタール(きよう)(にく)(にく)しげに言った。


 試合のルールとしては反則なので、レーヴェンタール(きよう)の一勝となってしまった。

 “事故死”を優先したいが、生かしたまま試合にも負けがついたら最悪だ。

 家格は同等。向こうは(ちやく)(なん)という不利があるものの、『現皇配候補に(たたか)いで勝利した』という実績を(たずさ)えて皇室に(じき)()されれば、再考される可能性は十分にある。


 もしそうなったら、アナスタシア様は……。


 殺さなくては。こいつを、今ここで。


 有効打の(はん)()でだって、()(めい)(しよう)(あた)えられる。

 寸止めや軽い(いち)(げき)(とど)まらせたりせず、“勢い余って”()(ころ)してしまおうと(たた)みかけた。だが、レーヴェンタール(きよう)は、これまでの相手とは比べものにならぬ技量の持ち主で、私の(こう)(げき)()()く止めて受け流し、少しの()()で済ませてしまった。


 結局、試合には二勝一敗で勝てたが、レーヴェンタール(きよう)の息の根を止めることはできなかった。最悪の事態は(まぬが)れても、これから(かれ)は強大な敵となるだろう。


「…こ、この(あく)()め!」


 (ちよう)(しゆう)(かん)(せい)にかき消されかける声で、レーヴェンタール(きよう)は、顔を青くして()()てた。出血している腹の切り傷を()さえていて、(ひん)(けつ)を起こしているのかもしれない。


「貴様のような者は、皇女殿(でん)()にふさわしくない!」


 そんなこと、私が一番わかっている。

 だから、ライバルを一人残らず(つぶ)すのだ。可能なら殺してしまいたい。


 そうすれば、私だけが、アナスタシア様の(となり)に居られる。


「…それは、お前が決めることじゃない」


 口ではそう言葉にすると、グッ、と、レーヴェンタール(きよう)は言葉に()まった。

 アナスタシア様に()(さわ)しい男は(だれ)かなど、レーヴェンタール(きよう)にも私にも、決める筋合いなど有りはしない。それだけは事実だ。


 それに、今は何を言っても負け犬の(とお)()えでしかないことを、(かれ)も重々承知しているのだろう。


 ふと、(かれ)の上に見覚えのある姿が見えた。

 背後の(こう)(きゆう)(ろう)()バルコニーから、(いと)しい人が(はく)(しゆ)を送ってくれている。


 アナスタシア様!

 私は、おもわず()(がお)(あふ)()るのを感じながら、(かの)(じよ)に手を()った。


 アナスタシア様は、春一番のように(こう)(きゆう)から()け出てきて、私の(けん)(とう)(たた)えてくださった。

 ふかふかのハンカチーフまで(たまわ)る。私の(あせ)(よご)してしまうのが(もつ)(たい)ない。後でよく洗って、クローゼットで大切に保管しよう。


 救護係から手当を受けたレーヴェンタール(きよう)は、いくらか回復したのか、アナスタシア様に話しかけてきた。

 ()()(かい)だったが、アナスタシア様のほうには全くご興味がないご様子で、少し安心した。


「よければ、(わらわ)とも一(せん)交えていかないか?」


 なんて?


 ……いや。アナスタシア様は、こういうお方だった。

 私も、(いく)()となくアナスタシア様との試合を()いられてきた。本気を出さないとバレて(しか)られるし、アナスタシア様のお強さを疑いはしないものの、好きな女性を相手に本気を出すのは心理的に難しく、精神が(けず)られたものだ。


 しかも、そこまでして(がん)()って本気を出しても、アナスタシア様がお勝ちになる。

 こちらに移住して初めての試合では、負けるはずがないと高を(くく)っていた。身長的にも筋力的にも、幼い(ころ)(ちが)って性差が出てきているだろうし、北部で(せん)(せき)も積んだ。今の私は昔とは(ちが)う、と。


 しっかりわからされた。アナスタシア様もまた、昔とは大きく(ちが)っていた。

 何が起きたのかも分からないうちに敗北した。

 やはり、アナスタシア様は(すえ)(おそ)ろしい天才であられる。


 レーヴェンタール(きよう)が、(こん)(やく)の再考についてアナスタシア様に(じき)()した。なりふり構わなくなっているな、この男。


 だが、不安はない。むしろ、これで決着がつくなら好都合というもの。

 アナスタシア様が負けるはずは、ないのだから。


***


 ――予想通り、レーヴェンタール(きよう)はストレートに敗北し、0勝三敗で完敗した。


「ユリウスは(わらわ)に勝ったことがある」とアナスタシア様が(おつしや)り、身に覚えがなさすぎて(どう)(よう)してしまった。

 そういえば、筋力差解消強化なしで相手せよと命じられ、(たたか)った際にギリギリ勝てた()(おく)がある。


 ともあれ、お茶会の予定はなかったのに、アナスタシア様と過ごせて幸せだった。おもわぬ(しゆう)(かく)だ。

 それに、レモン水というのは美味だったので、自宅でも作らせようと思った。

作中モブは『氷の鬼神』とかいう渾名をつけている一方、作者は『クレイジーサイコヤンデレ』という単語が頭から離れなくなっています。

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