【Side: ユリウス】そこじゃない
皇宮の侍従に通された《薔薇窓の間》で、出された紅茶と茶菓子をいただきながら、アナスタシア様のお越しを待つ。
凱旋直後の皇族にどういった仕事があるのかは見当もつかないが、2時間くらいは待つことを覚悟していた。
しかし、意外にも1時間ほどで侍従が来て、アナスタシア様のお越しを伝えた。居住まいを正し、最愛の人がやってくるのを待つ。
侍女らを伴い、やってきたアナスタシア様は、カジュアルなティーガウンをお召しになっていた。長旅でお疲れのところ、お嫌いなコルセットを締められていないことに安堵する。
アナスタシア様は、どんなお召し物でも最高にお美しくていらっしゃるのだから、あえて彼女を苦しめる必要など欠片もない。
つい先ほどまで窮屈にまとめられ、兜に押し込まれていたであろう、彼女の光り輝く黄金の髪が、天の川のように背を流れて揺れている。
「またせたな」
両手でスカートを広げて優雅に一礼する侍女らを後ろに従え、アナスタシア様は、スカートを片側だけつまみ、右手を胸に当てて挨拶してくださった。
侍従の合図と同時に立ち上がっていた私も、紳士の作法に則り、外套をばさりと翻して、彼女に最上礼を返す。
「いいえ。ほとんど待っておりませんよ。無事のご帰還を心よりお慶び申し上げます、アナスタシア様」
「うむ、ありがとう。こんなに早くそなたに会えて、妾は嬉しい」
「ええ、私もです」
メイドの一人が椅子を引き、アナスタシア様の着席を手伝う。
すぐに熱いお湯で新しい紅茶が淹れられ、アナスタシア様のティーカップに注がれた。ほかほかと湯気を立てるカップを取り上げ、流れるような優雅な所作で、彼女が中身を口に運ぶ。
「はあ、美味しい。パレードに帰還報告で忙しくて、ずっと喉が渇いていた」
「お疲れ様でございました。パレード中は難しかったでしょうが、ご報告の前に喉を潤されたほうがよろしかったかもしれませんね」
「うん、そう…そうだな。なんだか張り詰めていて、忘れていた」
「初めてのことですからね。私こそ、お疲れのところ、お越しいただいてしまって申し訳ありません。出直しましょうか?」
尋ねると、アナスタシア様はふるふると首を左右に振った。
「いい。いいんだ、本当にそなたに会いたかったから」
アナスタシア様が微笑む。この世の何よりも美しい微笑み、晴天の夜空よりも深いサファイア・ブルーの瞳。
彼女が私を求めてくれる、至上の喜び。
これが私への報いなら、これまでの人生の苦痛も、これからある苦痛も、すべて『致し方ないことだった』と受け入れられるだろう。
「少し外してくれ」
アナスタシア様が、部屋にいた侍女たちや使用人・護衛たちに声をかける。
彼女らは、すぐに礼をして応じ、《薔薇窓の間》を出て行った。
扉が閉まるのを見届けた後、彼女は、恥ずかしそうに顔を伏せた――いつになく愛らしいお姿に、胸の奥がギュッと締め付けられる。
「ユリウス、その…頼みがあるんだ」
「なんなりと」
胸を押さえながら、食い気味に応じる。
「すこしだけ、その……甘えさせてほしい。……いいだろうか?」
よろこんで!!!!!
思わず叫びかけた言葉を呑み込み、私はつとめて冷静に「もちろんです」と応じた。
彼女が席を立ち、うながされるまま、私も席を立ってついてゆく。
促された先には、《薔薇窓の間》の内装に合った、ベージュ色のカウチソファがあった。
私が先に座って、少し足を開き気味で座るよう指示される。そして――アナスタシア様が、その隙間に入って、私の腿の上にちょこんと座り、私の胸元に身を預けた。
女性らしい小さな肩、細くしなやかな御身は、腕を回すと、すっぽりと小さく収まってしまう。
やわらかくて、いいにおい。
至福――。
心臓が早鐘を打つ。動揺が彼女に伝わっていなければいいのだが。
ああ、幸せすぎる。今日私は死ぬのか? いや死ねない。アナスタシア様が必要とされるなら、この胸くらい永遠にお貸しします。
「アナスタシア、さま……?」
顔に血が上って、紅潮しているのが自分でもわかる。
ダンス以外で、こんなに彼女と触れ合うのは初めてだ。
だが、彼女がしゃくりあげる音が聞こえてきて、至福も高揚も、冷や水を浴びせられたようにサアッと消えていった。
アナスタシア様が……泣いている。
「アナスタシア様? どうされたのですか?」
「うん、あのっ……あのな、……言えなくて。すまな、う……グスッ……」
先の違和感が記憶に蘇る。
アナスタシア様のお帰りが遅れた理由は、悪天候ではなかった。
であれば、本当は何が起きた?
「アナスタシア様。誰が、あなた様を悲しませたのです?」
自分が、かつてないほど殺気立つのを感じながら尋ねると、アナスタシア様は首を振った。
「……いい。そいつらは、もう…この世にいない」
彼女の答えを聞き、殺意が引いていく。
それでも、アナスタシア様の悲しみは癒えないので、私はハンカチを取り出し、彼女の涙をそっと拭った。
「皆の前では、こわがっているところも、不安がっているところも、見せてはいけないんだ。なにも怖くない、何者にも勝てて当然だ、という態度でいないと……そうじゃないと、皆を…不安にさせる、から。
だから、今だけは……少し、泣かせてほしい……」
「…承知しました。どうぞ、ご存分に」
私は、アナスタシア様を強く抱きしめ、美しい金髪の頭を撫でた。
彼女が泣いていると、悲しい。しかし、私にだけ見せてくれる顔だと思うと――どうしようもなく、歪んだ独占欲が満たされ、暗い喜びが込み上げた。
アナスタシア様は、それから数分ほど泣いて――そして、すっきりした様子で顔をあげ、「もう大丈夫だ」と笑った。
「ありがとう。そなたが泣きたいときや不安なときには、今度は妾が受け止めてやろう」
私は、アナスタシア様のお言葉の暖かさに、思わず微笑んだ。彼女の頬に手を触れ、撫でる。
「ありがとうございます。アナスタシア様のおそばに居られるなら、私には、悲しみも不安もございませんよ」
「…そうか。なら、安心だな」
それから、私たちは再び茶会の席に戻り、侍女たちや使用人・護衛らを呼び戻した。
そして、いつも通りに互いの近況を話し合い、あらためて、これから頻繁に会えることを喜び合った。
***
「アナスタシア様に、本当は何があったのか、教えてください」
屋敷の自室に戻ってすぐ、私は、アーベントロート卿に通話をかけた。
通信機ごしに、宰相室のものであろう、慌ただしい会話や足音、がさがさと鳴る書類らしき音や、扉の開閉音が忙しなく聞こえる。
『ああ……』
アーベントロート卿の声は、前に聞いたときと比べ、憔悴していて覇気がないように思われた。
彼が返答を考えている間にも、宰相室の騒音が鳴り響いている。すっかり夜も更けているというのに、彼も部下たちも忙しく働いているようだ。
『そう…ですね。……殿下と、お話された。そう、……』
てきぱきと無駄のない会話が印象的だった彼が、どこか取り留めのない口調で呟いている。
よほど疲れているのだろう。罪悪感が胸をちくりと刺したが、アナスタシア様の涙を無視するわけにはいかない。
『わかりました』
アーベントロート卿の声が、何かを決断したような響きをもって伝わる。
『ただ…一般回線ではお話しできません。…ので、皇女殿下にお伝えします。…開示しても構いませんと。…直接伺ってください。よろしいでしょうか?』
帝国正規軍や各領の領軍だけが特別に使用を許されているという、秘密回線の存在を思い出す。傍受対策に優れた特殊な魔導通信網で、軍事作戦などの国家機密がやり取りされるらしい。
アーベントロート卿が言及している一般回線とは、それと比べて脆弱性のある、一般の魔導通信網のこと――つまり、今している通話で使われているもののことだろう。
「わかりました」
『はい。では、失礼します』
こちらが応じるのも待たず、通話は切られた。
まとめると、『アナスタシア様を通じて、機密事項である、起こった出来事について聞いて良い』ということらしい。
私は、次にアナスタシア様にお会いできる日を待ち、事の次第を彼女に教えていただくことにした。
***
「ユリウス、よく来てくれた。アーベントロートの奴が、先だっての初陣で起きた出来事を、そなたに伝えてもいいと言ってきたよ。
この間は、秘密にして悪かったな。いちばん親しい侍女たちや女官たちにすら、まだ打ち明けていない。皇宮中枢の外に、とても出せる情報ではなかったから…。
さあ、かけてくれ。話したいことが沢山ある。……妾も、そなたに聞いてほしい」
アナスタシア様は、ずいぶんと元気を取り戻された様子で、私を嬉しそうに出迎えてくださった。
この日は、きっちりコルセットを締めたデイドレス姿で、頭から爪先まで完璧に整えられていた。姫君らしく飾られたアナスタシア様の美貌は、いつにも増して輝かんばかりだ。
今日通された場所は、《静謐の間》という見慣れない部屋だった。華やかな《薔薇窓の間》とは異なり、最低限の家具が置かれ、少しばかり絵や剥製がかかっているだけの、飾り気のない場所である。
「ここはな。盗み聞きや覗き見を防ぐ魔法がかけられていて、秘密の会話ができる部屋なのだ」
アナスタシア様が説明してくださり、部屋の意図を理解した。
気軽に客人をもてなす空間ではなく、内々で国家の機密を扱うための部屋、というわけか。
アナスタシア様と連れだって、革張りのソファに座り、お茶の用意がされたテーブルを挟んで向かい合う。
最初の紅茶を一緒に口に含み、喉を潤わせている間に、私とアナスタシア様以外の人間が退室した。私たちが、ふたりきりになる。
かちゃり、とアナスタシア様がティーカップをテーブルに戻す。
そうして、彼女の整った形状の唇が動き、話し始めた。
「――初陣では、罠にかけられた。我々は皆、まんまとしてやられたのだよ」
***
アナスタシア様のご説明によると、次のような事態が起きた。
まず、帝国南東に位置するフェルゼンラント辺境州において、小規模な反乱が起きた。反乱勢力を構成する人間は、当初、地元の鉱山労働者たちと伝えられていた。彼らは、つるはしを振り回し、待遇改善を訴えているとのことであった。
反乱勢力は、鉱山の一帯を領として管理するリューデル伯爵家を取り囲んでおり、伯爵は籠城を強いられ、助けを求めているとの情報が、辺境州全体の責任者であるフェルゼンラント侯爵から皇宮に伝えられた。
ただ、フェルゼンラント侯爵家軍だけでも――それで足りなかったとして、近隣領の援軍を足せば十分に鎮圧できる程度とのことで、帝国軍の派兵は求められなかった。
そこで、皇位継承者であるアナスタシア様の初陣として活用する、という提案が、皇宮内で持ち上がったのだという。
グランツェルリヒ帝国の皇位を継ぐ者には、戦場経験がなくてはならない。そのノルマを、この“ちょうどいい手頃な内戦”で片付けてしまおう、という話だった。
「――“初陣”という言葉に舞い上がって、妾は、報告を聞いて抱いた違和感を、すっかり忘れ去ってしまったのだ。もっと、よく考えるべきだった。
その反乱勢力は、規模が小さすぎた。いくらなんでも、勝ち目がなさすぎる。鉱山労働者たちは、そんなに愚かなのか? と。――まあ、結果論だな」
その反乱は、そうして帝都を離れるアナスタシア様を狙った、巧妙に仕組まれた罠だったのである。
帝都アイゼンシュタットを離れるまでの間、アナスタシア様と護衛の精鋭からなる帝国軍は、情報を規制し、いくつかの小隊に分かれて秘密裏に移動していた。
しかし、帝都を離れた後は合流し、ひとつの中規模軍として堂々と行軍して進んだ。アナスタシア様の軍事演習を兼ねているためである。
「直前までは、そう、和気あいあいと進んでいた。『ピクニックだ』と、憚りもせずに言って、兵達が笑っていたよ。
否定はしなかった。実際、着く頃には鎮圧が終わっている見込みであったし、妾のすることといえば、現地兵達の健闘を称えて、帰ることだけ。
ちょっとでいいから取りこぼしでもあって、多少、作戦行動らしい空気を味わえないか――そんな風に思っていた。まったく、甘えた考えだった」
道中に問題はなく、あとひとつ領境を超えれば紛争地帯、といったところで、事は起こった。
報告にあった反乱勢力とはまるで違う、正規の訓練を受けた軍隊が突如として現れ、アナスタシア様たち帝国軍を包囲しつつあることが分かったのだ。
それら敵対勢力は、隣接するルーメリア共和国の軍であった。敵軍は3つの軍団に分かれ、三方からアナスタシア様たちを包囲しようと近づいてきていた。
その総数は、アナスタシア様たち中規模軍の優に2倍であった。
どんなに優秀な精鋭も、数の前では無力である。強さが2の兵が1人より、強さが1の兵が2人いるほうが強い。さらに、戦略上、包囲しているほうが、包囲されているほうよりも有利に戦える。
精鋭揃いのはずの軍は、阿鼻叫喚のパニックに陥った。
アナスタシア様を逃がそうにも、三方包囲のせいで、どこに向けても追いつかれてしまう。デコイの小隊を複数走らせたとて、アナスタシア様が捕まらずに済むかは運次第だった。
「恐ろしかった。名ばかりの総司令官の妾とは違う、歴戦の司令官や将校たちが、皆して青ざめ、怒声をとばして指揮系統を維持しようとした。笑っていた兵達も、真っ青な顔をしていた……。
あんなに学んできた戦略・戦術の数々を、1パーセントも思い出せなかったように思う。机上と戦場とは、全然ちがった。強いプレッシャーと死の恐怖とが、頭を真っ白にしてしまう。
だけど、妾がやらなきゃと思った。妾も血の気が引いていたし、手も声も震えて、叫び出さないのがやっとだったが、自身に麻酔魔法をかけて、恐怖を麻痺させた。
――軍の規定で、術式を込めてきていたんだ。治療用だと思っていたよ。治療にも使うだろうが、かすり傷ひとつ負っていなくとも必要になるだなんて」
そうしてアナスタシア様は、うろたえる帝国軍に檄を飛ばした。
『うろたえるな、帝国軍人たちよ! 妾には策がある! 《常勝の金獅子》の末裔たる、このアナスタシア・エルスティナ・フォン・グランツェルリヒの名において約束する! 妾が必ず、我が軍の勝利を得てみせる!』
帝国軍兵たちは、大の男が狼狽え青ざめる状況のなか、勇敢にそう言い放った14の姫君に圧倒され、落ち着きを取り戻した。
アナスタシア様は、近くの高台を拠点として防衛陣を固めるよう、司令官と将校らに命じた。彼らは、アナスタシア様の策を尋ねた。
『今から大規模出力の攻撃術式を書き、それで敵軍を最低1団全滅させ、包囲に穴を開ける。なので、防衛拠点を立ち上げ後、30分――いや、15分ほど時間が欲しい。
次善の策として、今すぐ援軍を頼む伝令を出し、助けが来るまでここで持ちこたえることとする』
戦場その場で術式を書くなど、前代未聞のことであった。簡単な魔法なら兎も角、軍事利用可能な規模の術を即席で編み上げるなど、不可能としか思われなかった。
「正直、麻酔魔法で正気をなくしていなければ、妾とて、とても冷静に術式を書いていられなかった――と、思う」
アナスタシア様は、大判の作戦地図をひっくり返し、裏面にペンを走らせ、術式を書き始めた。
『信じろ』
アナスタシア様のお言葉に、司令官・将校らは同じく覚悟を決めた様子で敬礼を返した。
そうして、15分で編み上げられた術式は、運良く動作し、アナスタシア様の膨大な魔力を殆ど使い切り――
敵軍を2団、まるまる吹き飛ばした。
「ありえない無茶だった。我が方が吹き飛んでも、ちっとも不思議じゃなかった。だが、奇跡的にうまく動いて――それで、狙い通り弾着したんだ。残ったのは、我が軍より数の少ない1団のみ」
アナスタシア様が起こした奇跡に、帝国軍は沸いた。士気はこれ以上ないほどに上がり、その名に恥じぬ精鋭軍たちは、残ったルーメリア軍を悠々と喰らい尽くした。
***
「――と、いうわけだ。士官教育を受けてきたはずが、まんまと敵の策略に乗ったあげく、戦略も戦術もない、力業の奇術で切り抜けてしまった。
もうな、恥ずかしいだろう? 色々と。妾も、皇宮の者たちもしてやられて、あわや精鋭達は全滅、妾は敵国に囚われの身となりかねなかった。一大スキャンダルだよ」
アナスタシア様に、嘘をついておられる様子は一切ない。
だが、にわかに信じがたい話であった。
アナスタシア様おひとりの力で、文字通り一騎当千の働きをしてしまうだなんて……。
そんな、物語ではあるまいし。
「本当の、話なのですか?」
思わずそう尋ねてしまったが、アナスタシア様は気を悪くした様子もなく、くすくすと笑って応じた。
「信じられないよなあ。わかるよ。高火力術式を、試験もせずに実戦投入だなんて。妾に術式製作を教えた、教師のクビが飛びかねない行いだ」
アナスタシア様は、おどけたように手で首をはねるジェスチャーをしてみせた。
ちがう、そこじゃない。そこじゃないのだが、それ以上は突っ込まないことにした。
「――それで、非常に恥ずかしい失態であるからして、公の発表は、事実と異なるものにすることとなった。だから、内密に頼む。
ああ、打ち明けられてすっきりした!」
アナスタシア様は、にこにこと無邪気にお笑いになりながら、冷めてしまった紅茶を取り上げ、喉を潤していた。
バカップル、永遠にイチャイチャしろ。幸せであれ……。




