恋人になってみる?
ユリウスに言えなかった問題――それは、銀狼亭で起きた性加害事件である。被害者は妾――いや、アンナ・シュタルクであった。
その晩、見慣れない粗野な若い男性客が来ていたのだが、そいつが注文のためにあたしを呼び、あたしが近づいたところで、あたしの臀部と太腿を舐めるような手つきで触ってきたのだ。
あたしはひどく驚き、鉛筆も注文票も取り落としてしまって、そいつを突き飛ばすようにして慌てて離れた。あまりのことに声も出ず、自分の血の気がざあっと引く音がはっきりと聞こえて、思考が真っ白になったことを覚えている。
あたしの異変に、おかみさんやレオン、それに常連客たちもすぐに気づき、どうしたのかと駆け寄ってきた。すると、声も出ないあたしの代わりに、危害を加えた粗暴な男は、さも興ざめしたという態度で説明した。
「んだよ、酒場の女がケツ触られたくらいで動揺しすぎだろ。おぼこぶってんのか?
ったく、萎えさせんじゃねーよ。客にご奉仕してチップを稼げってんだ」
その瞬間、おかみさんとレオンと、常連客たちの怒号が鳴り響く。粗暴な男は、瞬く間にとっちめられて取り押さえられ、保安隊に引き渡されていった。
どうやら平民の間では、こういうことがよくあるらしい。しかも、今回は加害者が逮捕・拘留されることとなったが、相手が権力者である場合はそうならず、連行すらされずに加害者が釈放されてしまう場合もあるそうだ。
貴族についても、妾が知らないだけで、下位の貴族女性や平民女性に対し、こういった狼藉――もっとひどいものも働く男がいるという。その場合でも被害者が守られることはほぼなく、対抗する術がないという。
嘆かわしい。仮に体を売って生きている女だったとしても、同意もなく他人に突然体を触られる筋合いはないはずだ。
ましてや、爵位を盾に婦女への狼藉を意のままにするなど、言語道断である。早急に調査・対策をまとめ、法改正につなげなくては。
それは近いうちに実施するとして、問題は、今回あたしが被害を受けた件をどう扱うか、である。
皇女アナスタシアに対する狼藉として扱うのであれば、無論男は即刻処刑となる。しかしその場合、平民アンナ・シュタルクと身分を偽り酒場で働いていたことを、余計な人間にまで知らせなくてはならない。
平民女性への狼藉として扱うのであれば、現行法では大した罪にならない。まったくふざけていることに、男は、長くともたった3ヶ月程度で刑務所から出てきてしまう。罰金支払いが可能であれば、禁固刑すら免除だ。
無論、そのような甘い罰で許すつもりはない。とはいえ、法を無視して私刑に走るのもよくない。
噂によれば、「どうせ相手にされない」と被害者女性から訴えを出されていない、同様の前科がいくつもあるらしく、再犯の可能性も高いとみられている。
さてどうしたものか、と、翌日、皇宮の執務室で公務をこなしつつ考えていると、“影” から報告を受けた。『例の男が拘置所から失踪した』という。
まさか、脱走されたのか? 保安隊は何をしているのだ、とこぼしつつ、“影” に男の捜索を頼む。
男は、失踪5日後に発見された。全身に無数の凄惨な怪我を負い、ゴミ置き場で生ゴミと混ぜられ、遺体となって遺棄されていた、という。
どうやら、ひどい拷問を受けた末、とびきり苦しい死に方をする毒を飲んで死亡したらしい。
誰にやられたのか尋ねたが、“影” では掴めていないと言われた。皇室直属の諜報部隊に分からないのであれば、皇宮の関係者ではなさそうだ。
まあ、恨まれて当然の行いを元々しているであろうし、彼を恨む誰かの手にかかった、と考えるべきか…?
これ以上の調査は、担当の保安隊に任せるべきだろう。“影” のメンバーからもそう進言され、妾は同意した。
――という顛末を、一貫して妾の平民生活に反対していたユリウスには言えずにいた。こんな話をしたら、いっそう心配させてしまうだろうし、妾もユリウスの異議をはねつけられなくなる。
まして、婚約者のユリウスだって触れたことのないデリケートゾーンを、どこの馬の骨とも分からぬ粗暴な男が勝手に触れただなど、最悪だ。こんな話がばれたら、ユリウスがどう反応するか、想像もしたくない。
やはり、この話をユリウスに明かすわけにはいかなかった。
あと少し、ほんの1ヶ月弱の間だ。その終わりまでは、平民になりすます生活を続けさせてもらおう。
***
今日も、よく働いた。
銀狼亭の裏口から出たあたしは、月明かりに照らされた裏路地に立った。狭い星空から月が覗いていて、閑散とした共同水場の影を落としている。
今夜も銀狼亭は大賑わいで、貴族の夜会と違って賑やかだった。
どちらがダメとか良いとかではなくて、どちらにも良い点・悪い点がある。あたしは、いろいろな人とお話しするのが好きだから、どちらも好き。
ただ、銀狼亭でキツいなって思うのは、常連の男性客の一部が泥酔すると、下ネタが多くなること。あと、悪口の言葉選びが、なんというか、どれも強い。
おかみさんが叱って止めてくれることもあるけれど、そういうのが普通みたいなのよね。
社交界での言葉遣いのマナーって、遠回しで婉曲で、考えがよく読めないような話し方が多いのだけれど、あれのおかげでショッキングな会話が防がれているのね…。
そんな物思いにふけって待っていると、馬車留めまでの帰りの付き添いのため、レオンが裏口から出てきた。
「おまたせ。行こうか」
「うん! …ん?」
レオンの手には、ラッピングされた小さな花束が握られていた。
あたしが「それなに?」って顔して、レオンの目と花束を交互に見やると、レオンは、耳まで顔を真っ赤にしながら、その花束をあたしに差し出してきた。
淡いリネン布と、銀灰色のリボンで素朴にラッピングされたその花束は、淡いピンク色のさした白バラ・ピンクのガーベラ・赤いカーネーション・白くて小さな花のかすみ草などが束ねられた、小ぶりな花束だった。
ピンク基調でまとめられた、かわいらしい一束である。
「あのさ……これ、アンナに渡したくて。花とか、あんま得意じゃねーけど……お前のことさ、いつも頑張ってて、すげぇって思ってる。……よかったら、受け取ってくれねぇかな」
「あたしに……?」
胸がくすぐったくなるような、心に温かいものを注がれたような嬉しさを感じて、あたしはレオンの花束を受け取った。
ふわり、と、花の香りが鼻腔をくすぐる。
上質な花が使われていた。お花の市場価格まできちんと調べたことはないけれど、レオンは、かなり奮発してこれを買ってくれたのだろう。
「ありがとう、うれしい」
あたしは心からそう言って、レオンから贈られた花束を抱きしめるように胸元に寄せた。
「大事にするね」
「…っ、…ああ……うん、…その、喜んでもらえて良かったよ」
「うん、すっごく嬉しい!」
あたしはニカッと笑ってレオンに言った。レオンは、まだ顔を真っ赤にしたまま、恥ずかしそうに視線をそらす。
レオンと並んで帰り道を進みながら、あたしは花束に視線を向ける。とてもきれいだ。
いい働きの報酬に、花束をもらうなんて。あたしの知らない文化だけれど、なんだかすごく嬉しい。
皇女としては、もっと素晴らしい花に毎日囲まれて過ごしているはずなのに、この素朴でかわいい花束が何故かすごく嬉しい。
レオンがこれを用意してくれたってことが、あったかくて嬉しいって思うんだ。
思わずニコニコして、ちょっとスキップまでしながら、帰り道を歩んでいく。
ああ、こんな素敵な人たちと過ごせる時間が、もう半月もないだなんて。
でも、仕方がないよね。あたしは、自分で望んだ使命を果たさなくちゃいけない。
きっと、レオンたちも幸せに暮らせる帝国にしてみせるわ。
「……あのさ!」
レオンが立ち止まり、不意に声を大きくして呼び止めた。あたしは、どうしたのだろうと振り返る。
「うん?」
「おれ、お前のことが好きだ! アンナ!」
「えっ…?」
あたしは、衝撃的な告白に目をまるくし、レオンを見つめ返した。
「ごめん。こんなこと言われても、困るよな。お前、もうすぐ帝都を離れるんだし。でも、どうしても、離れる前に伝えておきたくて……」
あたしは驚いていた。
皇女の身分ぬきに関わった他人から、あたしの正体を知らない人間から、好意を伝えられるだなんて思わなかった。
それに……なんだか嬉しかった。許婚がいるのにいけないことなのだろうけれど、レオンみたいに真面目な人が、あたしのこと好きって思ってくれたんだ。
「……ありがとう、レオン。うれしい」
あたしは、その気持ちを率直に伝えた。レオンが、とっても勇気を出して、実らない目算のほうが大きい恋なのに、告白してくれたから。
レオンは、断りだと思ったのか、少しだけ残念そうな、悲しげな微笑みを浮かべた。
「うん……」
「あたし、言ってなかったんだけど、実は許婚がいるの」
「…まあ、お前、居そうだよな。いいんだ、断ってくれて…」
「だからね。操はあげられないし、結婚もできないのだけれど、それでもいいなら恋人になってみる?」
「……なんて???」
あたしの提案に、レオンは素っ頓狂な声をあげた。
「恋人って、それ…許婚…え…?」
「なにか問題あるかな?」
「え、……あるんじゃ、ねえの? ……普通に考えて」
「そう?」
そうか、これは貴族社会的な考え方で、平民のレオンには馴染みが薄いのかもしれない。
貴族の結婚は、政略結婚。愛がなくても、当たり前。それでも愛し合える夫婦は居るには居て、あたしの両親はそうだけれど、そういうのは稀なのだって。
この間の夜会でも、どこそこの夫人が若い燕のだれそれと何々とか、本邸に妻のいる男性が愛人宅に入り浸っているとか、いっぱい噂されていたもの。
「許婚とは、いわゆる政略結婚なの。だから、お互いに愛を他で見つけてもいいはずだわ」
「いや! ……いや! それ、確認したほうがいい、その許婚に。本当にアンナがそうしてもいいのかどうか、聞いてこい。おれとの話はそれから!」
レオンに言われ、あたしは、確かにそうか、と思った。
何事も報連相は大切だ。まして、政略結婚相手は、誰よりも近いビジネス・パートナーでもある。
物事をこちらで勝手に決めるのはよくない。
「……そうだね! 聞いてみる」
「…大丈夫かな。おれ、すげえ心配になってきたわ……」
「大丈夫! 6歳のときからの幼馴染みでもあるもの。なんだって相談できるわ」
「お、おう」
先ほどまでの切ない雰囲気から一転、すっかり心配そうな顔をしたレオンに見送られ、あたしはいつも通り馬車に乗り込んだ。
「またね、レオン!」
「おう、気をつけてな! …色々と!」
馬車の扉が閉じられ、一人になったあたしは、すっかり甘い恋の空気に酔っていた。
――なんと愚かだったのだろうと、後で猛烈に後悔することになるとは知らずに。
盛り上がって参りました!




