嘘つき
馬車がぱかぱかとエッセンバッハ公爵家に向かい、最小限に緩和された揺れが車内に伝わる。
日は既に落ちているので、窓にはカーテンが引かれ、車内の天井から、魔導灯の柔らかな光が投げかけられていた。
妾は、ユリウスと向かい合って座席に座っていた。今は二人きりなので、妾は、レース飾りつきの目隠し――髪と耳飾りの邪魔にならぬよう、本日は耳掛けの仮面型――を外し、深紅のベルベット張りの座席に置いていた。
ユリウスは、黙ったまま妾をじっと見つめている。今度は呼吸を忘れておらず、ただ、幸せそうな表情を浮かべていた。
なんだか気恥ずかしくなって、妾は両手のブレスレットを示し、先に言葉を発した。
「見てくれ、ユリウス。どう思う、これ。耳飾りも」
耳飾りも指さしつつ声をかけると、ユリウスは、ふと眠りから覚めたかのように両目を瞬かせたあと、目を細め、にこりと微笑んだ。
「とても豪奢なダイヤモンドにございますね。アナスタシア様に、よくお似合いだと思います」
「そうか? 無理におだてなくてもいいぞ。こんな…見せつけるみたいにジャラジャラさせて、『品がない』と笑い物にされるんじゃないか、今から不安でしょうがない」
「まさか、本心にございますよ。アナスタシア様ご自身が、どのような宝石の輝きよりも煌めき、美しさと品位に満ちていらっしゃるのですから、だれが笑い物になどいたしましょう。
もし万が一、そのような無礼者がいたなら、私が即刻手打ちにいたします」
うーむ、励まし方が物騒だ。
「ありがとう、手打ちにする前に相談はしてくれ。そなたが良いと言ってくれるなら、周りにどう思われても、ある程度なら構わない」
「アナスタシア様……」
うれしげに見つめてくるユリウスの琥珀色の瞳と目が合う。少し恥ずかしくて、目をまた逸らしたくなったが、ぐっとこらえ、笑顔を返した。
なんだかくすぐったくなって、クスクスと笑い声が漏れる。
「それらのお飾りは、お気に召していらっしゃらないのですね」
ユリウスに尋ねられ、妾は頷いて返した。
「髪飾りは気に入っているのだがな。ドレスのバラに似合う、蝶々で。その他は、多分に政治的な理由で身につけさせられている」
「それは、それは」
「まあ、致し方ない。アーベントロートの奴に、『望みどおり平民になりすませるよう、どれほど骨を折ってやったと思っている』と脅されてはな」
茶化してそう言うと、ユリウスの表情は途端に暗くなった。
「…その件なのですが、やはり、中止になさいませぬか? 平民と交わってお過ごしになるなど…アナスタシア様の御身に危険が及ぶと思うと、私は不安で…とても、不安で……」
心底苦しげな表情でそう言われ、妾は「しまった」と思い、無意識に唇をキュッと引き結んだ。
平民として酒場 “銀狼亭” で働くことについて、ユリウスにも伝えはした。だが、彼を納得させるには未だ至っていない。妾を止める手段が彼には無いというだけで、可能ならば、今すぐにでも平民区画から妾を遠ざけたい考えのままである。
ユリウスが、今にも泣きそうな顔をして、懇願するように妾を見つめてくる。思わず、妾はウッと小さく呻いた。
レオノーラでもベルンシュタイン夫人でも、アーベントロートでも母上でも、ほとんどの相手からは叱られようが諫められようが、妾の意志さえ固く在れば気にならない。
だが、ユリウスのこの顔、この目付きにだけは負けそうになる。胸がちくちく刺され、固いはずの意志まで解けて、霧散させられそうになるのだ。
我が方の形勢不利。三十六計逃げるに如かず、話題を変えて誤魔化さねば…。
「なに、かれこれひと月になるが、蒼翼隊やアーベントロート、それと “影” のおかげで、何も問題など起きていない。そう心配することはないぞ」
妾がそう言うと、ユリウスは目を伏せ、ぼそぼそと何かを呟いた。なんと言ったのかは、そのときには分からなかった。
それを聞き返すことはせず、妾は「なんでもいいから話題の種はないか」と、カーテンを除け、夜の帝都を覗き込んだ。
現在地は、皇宮の外、高位貴族のタウンハウスが立ち並ぶ貴族区画の道路だ。平民区画のシェネ・ガッセと異なり、馬車が複数台行き交える広い道路には、妾たち以外の貴族乗用馬車が数多く行き交っていた。
「見てくれ、ユリウス。夜なのに、貴族たちの乗った馬車がこんなにたくさん。方向を同じくする馬車は、皆、エッセンバッハ公爵家に向かっているのだろうか?」
「……そうですね。今宵は、他に大きな夜会が無いようですから」
物言いたげな沈黙を置きつつも、ユリウスはそのように応じた。
よし、いや「よし」ではないかも分からんが、ともかく話題を逸らした。
「そうか! 楽しみだな。デビュタンティンの夜会では、例の問題のせいで、食事をとることすら、ままならなかったものなあ。妾、誕生日だったのに」
思い出すと、今でも口惜しい。あの夜会で、デビュタン・デビュタンティンたちと楽しく語りながら分け合う予定だった、大きくて豪華な誕生日ケーキもあったのだ。
それどころではなくなってしまったので、妾と母上と、あと侍女らや女官らとで少しずつ食べて、大臣や官僚たち、文官ら騎士兵士らのうち希望者にも振る舞い、それでも残った大部分を皇宮使用人たちにも食べてもらうことになったのである。
ユリウスのどこか沈痛な面持ちを吹き飛ばそうと、妾はつとめて明るく笑って見せた。
「だから今宵は、エッセンバッハ公爵家の馳走をうんと楽しんでやるつもりだ!
それと、前に伝えたとおり、妾は、ユリウス以外の者とは踊らないことに決まったからな、今夜はきっと安心だ。それに、アクセサリーはともかく、今宵のドレスは羽のように軽い。これなら、全曲通しでだって踊れる気がする。
そなたはどうだ? ついてこられるか?」
妾がいたずらっぽく笑いながら問いかけると、ユリウスも笑みを取り戻したようだった。
「アナスタシア様がお望みとあらば、夜会が終わっても踊り続けますよ」
「ふふふ、よく言った。今宵こそ、共に楽しもう!」
そんな話をしていると、馬車の揺れが変わり、移動を止めたと分かった。
ユリウスの背後にある、御者席窓越しにコッコッとノックが入り、戸がほんの少し開く。
「到着でございます」
御者の声が告げた。
「うむ、ご苦労!」
よし、乗り切った。あとは、ユリウスと一緒に楽しめばいい。
妾は、脇に置いていた目隠しを手に取り、顔に取りつけた。
馬車の扉が、従者の手によって大きく開かれる。ユリウスが先に外に出て、妾にエスコートの手を伸ばした。その手をとって、妾も馬車を降りる。
腰のクリノリンに魔力を流せば、スカートが大きく膨らみ、美しいベルラインが描かれた。
「さあ行こう、ユリウス」
「はい、アナスタシア様」
ユリウスの腕に妾の手をかけ、お互いに歩幅を揃え、エッセンバッハ公爵家タウンハウス――白亜の宮殿風の建物――に向かって歩き出す。
馬車の中でユリウスが何を呟いていたのか、思い出すのも気づくのも、これよりずっと後のことになる。
思えば妾は、このときすぐに気づくべきだった。気にするべきだった。
ユリウスは、こう呟いていたのである。
『嘘つき』――と。




