本当に?
その後、ユリウスが許婚として正式に決定され、妾とユリウスの間に婚約が結ばれた。
帝都アイゼンシュタットから魔導馬車でも片道5日の距離にあるヴァイセンドルフ領で暮らすユリウスとは、そうしょっちゅう会うことはできなかった。
よく顔を合わせるようになったのは、彼が14のときに父親からアーデルシュタイン侯爵位を継ぎ、帝都と隣接するアーデルシュタイン領を治めるべく、帝都のタウンハウスに移り住んでからのことである。
それまで彼とは手紙のやりとりをし、日々の出来事を分かち合いながら、互いへの理解を深めていった。少なくとも、妾はそうしようとした。
妾が手紙を送りすぎるせいか、返事がくるのは5通に一度ほどだった。
年に1、2度ほど、彼は父親に連れられて皇宮を訪れた。顔を合わせる回数が増えるにつれ、彼はさほど緊張せず妾と話すようになり、才気煥発との評価にふさわしい大人びた振る舞いをするようになった。
だが、妾との間に壁をつくっているような印象があった。
「剣術をがんばっているそうだな。ヴァイセンドルフ辺境公爵は、数多くの武功をおさめた武人で、その訓練は苛烈できびしいと聞く。……つらくはないか?」
「いいえ。すべてはアナスタシア様にふさわしき夫となるため。そう思えば、よろこびはあれど、つらいなどと思うはずもございません」
ユリウスは、人好きのする微笑みをうかべてそう答える。
「そうか、そなたはがんばり屋だな」
妾は、教師の振るう模造刀がバシンと当たると、痛くて痛くて、おもわず泣き伏せてしまうほどつらいというのに。
妾と共に訓練場に通う、未来の騎士を目指す子供たちもそうだ。訓練をがんばる理由は皆にあるが、訓練をつらいと思わぬ者はいない。
「なぁ、そなたは何が好きだ? どんな遊びが好き? 妾はな、侍女に教えてもらった恋愛小説を読むのが最近お気に入りだ。
劇にもなっている、市井でも人気の作品でな。先日、友人のメルヴィーユ侯爵令嬢と観に行ったのだ。劇もとてもすばらしかった!」
興奮ぎみに話す妾とは対照的に、ユリウスは静かに微笑んだまま妾の話を聞く。そして、口を開いたとおもえば、こう言った。
「アナスタシア様がお好きなものを、私も好きになります。その小説について、私に教えて頂けませんか?」
妾は思わず、しばし黙り込んだ。
「……あ、ああ。もちろんだ。妾の本を貸そう。そなたの好みに合うとよいが……」
その日は、約束どおり妾の蔵書から小説の1巻目を貸し与えた。それを受け取り、ユリウスは帰って行った。
それから10日もたたないうちに本は送り返されてきた。ユリウスの短い手紙とともに。
『とても面白かったです』
……本当に?
証拠もなく疑うのはよくないとは思うが、ユリウスはウソをついている、と妾は思った。
彼が帰るのに5日、送り返された本が皇宮にとどくのに5日。つまり、ユリウスは自宅に着く前に本を送り返してきたのだ。
馬車移動はヒマであろうし、移動しながら読破したのだろう。でも何だか、本を楽しんだというより、さっさと片付けてしまわれたように感じた。
ユリウスは、妾と心を通わせるつもりがないのかもしれない。
うすうす気づいていたことだが、あらためて認識すると、もの悲しい気持ちになった。
……いや。それならそれで、仕方ない。ユリウスとの結婚は、妾の即位にあたって必要なものだし、ユリウス自身も誠実な努力家だ。
たとえ心を通わせるつもりはなくとも、妾との結婚に向けて彼が尽力してくれていることは、いくつかの噂話や報告から鑑みて間違いない。すくなくとも、『この政略結婚を成功させたい』という目的において、我々の意見は一致しているとみていいだろう。
それで十分、と割り切るしかない。
愛なき政略結婚で結ばれた夫婦は、互いに愛人をもつことが多いという。ユリウスは、妾と結婚するだろうが、愛する人を他に持つのかもしれない。
もしそうなったとしても、ユリウスが皇配をきちんと担ってくれる限り、妾は許そう。許さねばなるまい。
そんな光景を想像するだけで、妾の胸はシクシクと痛んだ。父上が病に倒れているとはいえ、仲睦まじい両親を見て育った妾には、そうした割り切りがまだできない。
「彼も……妾を、好きになってくれたらいいのにな」
ぽろぽろとあふれてきた涙を、妾は、そっとハンカチでぬぐった。
***
学問に戦闘訓練、礼儀作法に芸術にと、さまざまなことを学んで過ごし、いよいよ明日、16歳の誕生日を迎える。
皇宮の者たちも、母上も妾も、パーティーの準備に忙しかった。
16歳の誕生日パーティーは殊更に特別だ。なにせ、妾のデビュタンティン(社交界お披露目)でもある。マナーを学び、健康に成長した妾の姿を、帝国全土の貴族たちに初めて見せる日なのだ。
わくわくする気持ちと、不安な気持ちとが混在する。うまくやれるのだろうか……。
こんなときは、愛馬のリュシエールに話を聞いてもらうのが妾の常である。妾は厩舎に向かい、馬用ブラシを手にすると、1頭だけ輝くように白い馬のもとに向かった。
妾がやってくるのを見ると、リュシエールは首をもちあげ、ブルルと鳴く。
馬はかしこい生き物だ。こちらの言葉をよく理解しているし、身体の構造上人語を発することはできずとも、視線や身振り、鳴き声で気持ちを伝えてくる。
幼少から共に過ごしてきたリュシエールの気持ちは、まるで人が言葉を話しているかのようによく理解できた。
『アナじゃないのン。久々ねン。どうしてたのン? さびしかったじゃないン』
「すまんなリュシエール。もうじき妾の誕生日だから、パーティーの準備に追われていたのだ」
『アラ、もうそんな時期なの。でも、おめでたそうな顔じゃないわねン』
「わかるか? 今年はデビュタンティンでもあるからな。今年のデビュタン・デビュタンティンらと共に、明日の夜会で初めて妾が社交界入りするのだ」
『ふうン? それで、どうして顔が曇ってるわけン?』
「……不安なのさ。第一印象って大事だろう? 何度も練習はしてきたが、なにか失敗するんじゃないか、恥をかいて侮られてしまうのではないか、とな」
言いつつ、馬用ブラシをリュシエールの肌に滑らせ、彼女の白い毛を整えていく。リュシエールは気持ちよさそうに目を細めた。
リュシエールは気位が高く、妾以外の者を乗せないうえ、手入れですら一部の厩舎員にしか許さない。なので、定期的に妾がこうしてブラッシングしている。
『アナったら、いつも心配性すぎるわ。アナタは所作も見目もとても美しい人間なのだから、堂々と構えていなさいよン。わたくしみたいにねン』
「見習いたいよ」
くすくすと笑いながら返す。
『そうだわン。ちょっと庭を走ってこないン? 気持ちのいい風をあびて運動したら、きっと不安も吹き飛ばせるわヨ』
「そうだな、そうしようか」
控えていた厩舎員に合図し、リュシエールの手綱を柱から外させた。
彼女に鞍が取り付けられ、外に向かう彼女について厩舎を出る。
鞍の足置きに片足をのせ、ひらりと身体を引き上げ、リュシエールをまたいで反対側の足置きにも足をかける。
「女性が馬にまたいで乗るなど、はしたない」らしいのだが、横乗りは苦手だ。それに、危険だと思う。
それを証明するべく、侍女頭らの前で横乗り早駆けからの落下を実演してからは、誰にも横乗りしろと言わなくなった。むろん、受け身をとったので大事には至らなかったのだが。
「前進!」
合図とともに、リュシエールは風のように駆け抜け、皇宮の森へと飛ぶように向かった。
***
また、姫様が馬と会話している……。
まるでリュシエールが相談にのっているかのように一人で話し続ける様を、厩舎員たちは、いつも不思議に思いながら見守っていた。
自分たちとて馬の気持ちを多少わかるつもりだが、あの会話?の行間が埋まるほどではない。
自分たちの目には皇女が奇行に走っているようにしか思えないが、はたして皇女が馬の言葉を異様に理解しているだけなのか、それとも単に独り言を言っているだけなのか、区別できる日は永遠に来なさそうであった。