銀狼亭での日々
銀狼亭での給仕仕事は、最初こそ戸惑うことも多かったけれど、おかみさんやレオンが優しく指導してくれるおかげで、すぐにスムーズに働けるようになった。
注文をとるのも、お酒や料理を運ぶのも、使った食器を洗うのも、営業前後に掃除するのも、どれもとっても新鮮な体験! 皇女のままだったら、きっと一生する機会がなかっただろうと思う。
アンナ・シュタルクでいる間は、ヴァレンティーナの指導に従って、心の中でもなるべく “あたし” と同じ口調を保つようにしていた。こうすると、咄嗟のときでも、言葉遣いの違和感を最小限にできるみたい。
銀狼亭に出勤後、店の柱時計が17時を告げる。外はすっかり日が落ちて、オレンジみがかった酒場の魔導灯が、煌々と店の内外を照らしていた。
店が開くとほぼ同時に、銀狼亭の常連客たちがやってくる。
顔に大きな傷跡があり、杖を片手に足を引きずって歩く老人男性、クロイツァーさん――退役兵士。今は亡きレオンの父親との親交が深かったそう。
無口だが、酒が入ると途端に饒舌になるブレンナーさん――革細工職人。
強面の荷馬車御者、ヘッセンさん――こう見えて動物好きで、人なつっこい。馬の話をすると喜ぶ。
気の強そうな姐御肌の女性、ローベルトさん――雑貨屋の店主で、おかみさんと仲良し。おかみさんがあたしを良く言ったのか、初対面からとても好かれている。
ぶっきらぼうな老人男性、メルツさん――公共浴場管理人。おかみさんの煮込み料理が好きで、毎度注文する。
彼らについては、“影” の情報として、ヴァレンティーナが教えてくれた事前知識と一致していた。
その他にも、あたしが勤めはじめてから、よく来るようになったお客さんたちがいる。あたしの護衛 “蒼翼隊” の見守りメンバーから「注意してください」って言われたけれど、どういう意味での注意かしら?
無口でおどおどしていて、お酒をあまり飲めないシュミットさん――魔導具修理工。注文はちゃんとするけれど、お水のおかわりが一番多い。
帝都衛兵のエーバーハルトさん――職業柄もあってか、「帰り道が心配だからお供する」と言われたことがあって、丁重にお断りした。失礼かなって思ったけれど、その後もよく来店している。
行商人のランゲさん――なにかと商品をタダでくれようとするけれど、これも丁重にお断りしつづけている。あたしが品物を気に入らないのだと思っているのか、毎度品物を変えて、あたしにプレゼントしようとしている。
どの人も、別に強そうではないし、特に脅威ではなさそうなのだけれど……。まあ、護衛のみんなが言うなら従うべきね。
「いらっしゃいませ! 銀狼亭へようこそ!」
次々入ってくるお客さんたちに向かってあたしは、笑顔を向けながら、元気よく声をかけた。淑女は大きな声を出すべきではないけれど、平民ならむしろ好まれるらしい。
「おう、アンナちゃん。今日も元気だな!」
「よっ、銀狼亭自慢の美人看板娘!」
「アンナちゃ-ん、いつもの黒ビールを頼むよ!」
「こここ、こんばんは、アア、アンナさん……」
「どうも、アンナさん。その、…今日も素敵で」
うん、今日もとっても喜ばれているわ! さすがはヴァレンティーナの指導ね。
バーカウンターにはおかみさんが居て、直接注文をとれるので、あたしはレオンと一緒にテーブル席の注文を取りにいく。注文を聞いたら、小さなクリップボードに挟まれたメモ用紙――カレンダーの裏紙などが再利用されている――に、鉛筆で注文を書いていく。これをもとに、おかみさんやレオンが調理したり、お会計を計算したりするのだ。
“普通の人”は暗記できないらしいから、あたしも、これを見て会計や飲み物の用意をしているフリをしなくちゃいけない。
「アンナちゃーん! こっちの注文も頼むよ」
「はーい! ただいまー!」
「ちょいと、クロイツァーさん。目の前の美女に注文したらいいじゃないか。あんまり、アンナちゃんを忙しくさせるんじゃないよ」
バーカウンターに腰掛け、あたしを呼んでいるクロイツァーさんに、彼のすぐそばで注文を受けているおかみさんが苦言を呈す。
クロイツァーさんは、はっはっはと楽しげに笑いながら、カウンター内にいるおかみさんへ向き直った。
「そりゃあ、おめえ、ここら一番の美少女と話してぇもんよ。男ってのは、そういうもんだ」
「うちの酒と食事を気に入ってくれてるんじゃないのかい?」
「勿論そうだ。そのうえで、よ」
「この店ぜんぶの接客をアンナちゃん一人にさせちゃ、アンナちゃんが大忙しになっちまうだろ? ワガママいわず、私に注文しな」
「はっ、そりゃそうだ。仕方ねえ、我慢するか…いつもの頼む」
「あいよ」
おかみさんとクロイツァーさんの会話を聞き、あたしはニッコリした。接客仕事は楽しいけれど、一気にたくさん処理できるものじゃない。そうした気遣いはありがたかった。
おかみさんだけでなく、息子のレオンもあたしに気遣ってくれる。
「はい。ご注文うけたまわります」
「あ、あのー……できれば、アンナさんに」
「ウチそういう店じゃないんで。注文するんですか、しないんですか? 冷やかしなら追い出しますよ」
「ア、エト、……すみません、じゃあ、ビールを一杯…」
「ビールですね。かしこまりました」
テーブル席を一緒に対応しているレオンが、そうしてピシャリとお客に返事しているのも聞こえてきた。
二人とも、本当にいい人たちだ。
よし、あたしも頑張って働くぞ!
「ビール2つと…、このハーブ入りソーセージの盛り合わせってやつを」
「ビールおふたつ、ソーセージ盛り合わせ、おひとつですね!」
「アッ、ア、ア、アンナ、さん……ぼぼ、ボクのこと覚えてますか…?」
「魔導具修理工のシュミットさん、ですよね。どうされました?」
「ア、エト、エト、その、おお、お水おかわり、ください……」
「はい、お水ですね」
「アンナちゃーん! こっち、ビールもう一杯追加!」
「ブレンナーさん、もう四杯目ですよ! そろそろ止めておかないと、また奥さんに叱られます!」
「頼むよ、もう一杯だけ!」
「おかみさーん!」
呼びかければ、おかみさんがフライパンに目を向けたまま返事をする。
「アンナちゃん、そいつにはジョッキに水いれて出しときな!」
「はーい!」
「そ、そんなぁ……」
「アンナさんっ、やっと…! いえ、すみません。あの、チーズ漬け焼き、ひとつください」
「チーズ漬け焼き、おひとつですねー」
「あの、アンナさん…今度、銀狼亭が休みの日の予定って、」
「お客さーん、ウチは店員へのナンパNGですー。やめてくださーい」
そう言ってすかさず、レオンが割って入って阻止してくれる。
変装している身の上なので、無用の接触は避けたいものの、上手に断れなくて困っていたのだけれど、そうしたら、おかみさんがルールを追加してくれたのだ。本当に、二人とも優しくて助かっちゃう。
そうじゃなかったらお誘いが多すぎて、下手したら、1人2時間としても、銀狼亭の休みのほうが丸一日大忙しになるところだった。
ビールの注文なら、酒樽に刺さった蛇口からジョッキに注いで配膳を。料理の注文なら、おかみさんかレオンが作ってくれるのを待って、ほかほかに湯気立つ料理をトレイに載せて運ぶ。
こぼれないように、重いトレイを水平に保って運ぶのは存外難しい。両手でも難しいのに、片手なら尚更だ。あたしにはまだ、二人のように両手持ちで飲み物を沢山運べない。
皇宮の夜会で、もっと不安定な細長いシャンパングラスを、もっと沢山トレイに載せて運んでいる使用人たちは、かなり高度な技術を持っているのかな。すごいなぁ。
そうして忙しく働いているうちに、銀狼亭の夜は更けていく。
お客さんが帰ったら、食器を流しに片付け、テーブルを拭いて綺麗にする。全員お帰りになったら、開店の看板を店内にしまって、扉を施錠する。
閉店後は、営業中だとホールに留まるよう言われているあたしも、バックヤードに入って、皿洗いを手伝う。
「おつかれさまでした! それじゃ、また明日!」
「ああ、今日もご苦労様。レオン、」
「わかってるよ、母さん。さ、アンナ、いこう」
「うん!」
以前、店でとあるトラブルに巻き込まれてからというものの、帰り道は、馬車留めまでレオンが付き添ってくれている。
本当は、蒼翼隊の隊員が数人体制で常時あたしを見張ってくれているので、レオンに付き添ってもらう必要はない。だけどそんなことは、おかみさんもレオンも知りようがないことだ。
「女の子が夜道を一人で歩くなんて」と二人をひどく心配させてしまうので、両親の商会馬車の迎えに着くまでならと、レオンの同行を頼むことにしたのである。
「今日も忙しかったな」
月明かりが照らす小道を歩きながら、レオンがそう声をかけてくる。
「そうだねー」
「おまえが来てから客がすごく増えて、儲かってるってさ。母さんが言ってた。ほんと、ウチなんかに来てくれてありがとな」
「ううん! こちらこそだよ。二人とも親切で、ほんとに助かってる。銀狼亭で働くことにして、よかった!」
「でも、来月には辞めて、帝都も出てっちまうんだよな? ずっと居てほしいけど」
「うん…。ごめんね」
「いいよ。親の都合じゃしょうがないし、2ヶ月でも助かりすぎるくらいだから」
期間を2ヶ月にする、というのは、アーベントロートとの間で決めた折衷案だ。そして、わずか2ヶ月で給仕の職を離れ、帝都からアンナ・シュタルクの姿も無くなる言い訳は、『両親の仕事の都合で、さらに引っ越す予定がある』ということにしてある。
商人は、そもそもが各地域の商品を相互に流通させる職業だ。領境、どころか国境すらまたいで移動しつづけていることも珍しくない。それもあって、両親が商人という設定は便利なのである。
また、『貴族にも納品することがある』という設定により、うっかり平民らしからぬ仕草をしてしまっても、『貴族相手の際にも通用するマナーを教育された』と言い訳ができ、身元が割れるリスクをさらに抑えていた。
そんな会話や考えをしているうちに、あたしたちは、商人馬車に偽装された一頭立て馬車のもとに辿り着いた。御者に扮した蒼翼隊員が、御者席からあたしに会釈を向ける。
「お疲れ様です、お嬢様。それと、いつもお世話になります、レオンさん」
「いいえ、おれたちのほうこそアンナさんに世話になってますんで」
いつものやりとりを聞きながら、あたしは馬車に自分で足をかけて、乗り込もうとする。
「アンナ!」
ふいに後ろからレオンに呼ばれ、あたしは、扉に手をかけた姿勢のまま振り返った。
「なあに?」
「えっと、その……気をつけて! 帰れよ!」
「? うん、レオンもね」
律儀だなあと思いながら、あたしは馬車に乗り込み、扉を閉め、中の椅子に腰掛けた。
御者席の蒼翼隊員が、馬に手綱でピシャリと合図を送り、ぱかぱかと馬車が動き出す。
このようにして、あたしが銀狼亭で働く日々は過ぎ去っていっていた。
***
【Side: レオン・ディートリヒ】
……また、アンナに言えなかった。『好きだ』、って。
月明かりに照らされて、いつもの大通りを通って遠ざかっていく馬車を見送りながら、おれは自分の臆病を嘆いて、歯を噛みしめていた。
はじめて出会ったときから、すっげーかわいいって思ってた。だからって、すぐ好きだの付き合いたいだのって思ったわけじゃない。
ただ、知れば知るほど、アンナ・シュタルクという女の子は真面目で誠実で、しかもすごく賢くて、なのに所々妙に抜けているところもあって、すごく良い子で、……それで、どんどん好きになっていった。
たった2ヶ月しか働かない予定なのに、銀狼亭のことを、すごく真剣に考えてくれる。
出勤日はいつも、母さんよりよっぽど時間を気にして、早めに来て、店の中をピカピカに掃除してくれる。そればかりか、テーブルや椅子に木のささくれがあると言って、ひとっ走り行って雑貨屋で紙やすりを買ってきて、お客や店員を傷つけないようにと、やすりがけをして丸めてくれた。
しかも、過去のどの給仕よりも大量のチップを貰っているのに、それを全額、店に渡してしまう。母さんが貰っていいと言っても、「この店に満足してくれたという証しだから」といって、最初に決めた給料以外は頑として受け取ろうとしなかった。
あと、なぜかバレないようにしているみたいだけれど、マジで頭が良い。
注文客が多くて忙しくなると、注文のメモを書き終わるまえに別の客の注文を聞き始める。しかも、メモはどれも正確だ。たぶん、暗記が得意なのだろう。
計算も、異常に速くて正確だ。計算器具なしに、どれだけ注文が多くても瞬時に合計金額をそらで言う。
それでいて、何もかも完璧にできるわけじゃないところが、すごくかわいい。
最初は本当に世間知らずで、流し台に蛇口がないのにどうやって水を出すのか、なんて言っていた。共同水場から汲んでくるのだ、と母さんが説明すると、なぜかひどく感心したように目を輝かせ、面倒な水汲みを率先してやってくれるようになった。
今では掃除熱心なキレイ好きなのに、最初は、雑巾やモップの使い方すら覚束なかった。はじめに水を含ませることすら知らなかったようで、汚れをから拭きし、一向に落ちそうにない汚れを不思議そうに見ていた。
ぼろい古着を着ているけれど、たぶん、本当はすごく金持ちの家のお嬢様なのだろう。少なくとも、水道と蛇口が敷設された家に住める金持ちだ。都市間を転々とできるような商人ともなると、身近にいないから想像しにくいけれど、儲かっているのだと思う。
母さんは、「親御さんが庶民向け市場を開拓しようとしていて、その調査のためにアンナちゃんは銀狼亭で働くことにしたんじゃないか」と言っていた。
なのに、金持ちなことも優秀なことも、ちっとも鼻にかけることをしなくて、いつも謙虚で、誰に対しても丁寧だ。おれだけじゃなく、母さんもお客たちも、そんなアンナのことを好きになるのに時間はかからなかった。
最近になって増えた常連客も、明らかにアンナ狙いの下心満載な奴らばかり。
アンナと過ごせる期間は短いが、その間、絶対にアンナを護ってやらなきゃな、と、母さんともよく話している。
……ほんとは多分、アンナに想いを伝えるべきじゃない。どのみちアンナは帝都を出ていかなきゃだし、何より、アンナにその気がなかったら、銀狼亭に居づらくさせてしまうかもしれない。
そうなったら、ただでさえ短い勤務期間が、もっと短くなってしまうかも。そうしたら、母さんがカンカンになってゲンコツを落としてくるだろうし、そうじゃなくてもすごく悲しい。
それでも、……たぶん、言わずに離れてしまったら、後悔する。
こんな気持ちは、初めてだった。
「……せめて、きれいな花束のひとつも用意するか」
アンナを乗せた馬車が見えなくなった静かな夜道で、おれはぽつりと呟いた。
アナスタシアの脅威基準:戦ったら勝てるかどうか
ようやく恋愛小説っぽい展開を書けた気がします!
アバカスとは、西洋版のそろばんです。遠くの国でも同じような形態に落ち着くのって、人類みな兄弟感がありますよね。




