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目隠し皇女は、許嫁の愛が重すぎることにまだ気づいていない。アナスタシア皇女伝  作者: 佐藤みさき
第一部 第一章 アナスタシア編

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アンナ・シュタルク

 商人の馬車に()(そう)した馬車から出て、(てい)()の下町――シェネ・ガッセ区に降り立つ。(いし)(だたみ)()んだ(くつ)は、(わらわ)の足より少し大きいサイズで、(よご)れてくたびれていた。


 (かみ)は、すこしボサついて痛んだ、平民らしい赤毛の三つ編みを、(あさ)(ひも)ひとつで(しば)ったウィッグ。顔には、(だれ)が見てもアナスタシア皇女と思わない目鼻立ちで、そばかすと日焼けシミのある――ように見せかけたメイクを(ほどこ)し、(えん)(てん)下の(もよお)しでもメイクが(くず)れないという、強力なコーティング液を()()けた。もちろん、()(かく)しは無し。

 服は、古着めいた質感の厚手のリネンでできた、モスグリーンのラウンドネック(まる)(えり)(なが)(そで)ワンピースである。


 ここでは、(わらわ)(わらわ)ではなく “あたし”。『(てい)()()してきたばかりの商人の(むすめ)、アンナ・シュタルク』だ。

 うっかり言い()(ちが)えないように、心の中でも口調を変えなくっちゃ。


 貴族区からも大通りからも(はな)れた、(こう)(きゆう)よりも(がい)(へき)のほうが近いこの場所は、平民たちの暮らす商業区画。庭のない家々が(ところ)(せま)しと並ぶせいか、まだ日があるのに、どこか(うす)(ぐら)い。

 このへんの家屋は、貴族の(てい)(たく)と全然ちがってて、2~3階建ての小さな木造や石造がひしめきあっている。たいして(しゆう)(ぜん)もされず過ぎた月日が、(がい)(へき)の傷や()(りよう)()げからわかる。見上げれば、家々をつなぐ(ひも)(つる)された(せん)(たく)(もの)()れている。

 (いし)(だたみ)の道も、()(だん)馬車から見る清潔な大通りとは(ちが)ってて、あちらこちらひび割れ、(こけ)むしていて、(どろ)かなにかも所々に()まって(よご)れたまま。


 でも、あたしにとっては、大切な場所。なんてったって、ここで働いて、平民たちのみんなのこと、勉強してるんだからね!


 馬車から降りた後、あたしは走った。今日は少し(おく)れちゃったし、はやく “(ぎん)(ろう)(てい)” 酒場に行かなくっちゃ!


 走っていると、顔なじみの住民たちが声をかけてきた。


「おう! アンナちゃん、これから仕事かい?」

「こんにちは、ヘッセンさん! そうだよー!」


「あら、アンナちゃん、こんにちは。今日は酒場にいるの?」

「こんにちは、ローベルトさん! うん!」


「アンナちゃーん! そんなに急いで走っちゃ危ないよー!」

「ありがとー! でも()(こく)しちゃうからー!」


 返事しながら走って、ようやく(ぎん)(ろう)(てい)辿(たど)()く。銀色の(おおかみ)の横顔が(えが)かれた、木製の看板が(かか)げられた、木造二階建ての小さな酒場。あたしの職場だ。

 あたしは、建物の裏にまわって、預かっている()(かぎ)で、裏口の(とびら)をあけた。


「おはようございまーす! アンナ、入りまーす!」


 あたしは、大きな声で中に声をかける。昼をとっくに過ぎてるけど、従業員同士は常に「おはようございます」と(あい)(さつ)する決まりだ。

 店の1階には、まだ(だれ)もいなかった。おかみさんもレオンも、まだ2階で休んでいるのかしら。それとも、買い出しに行ってるのかな?


 あたしは、裏口そばの()(しよう)()けポールから、()()りの()()でできた白い(まえ)()けエプロンをとって、ワンピースの上からサッとまとい、背中で(とど)(ひも)をむすんだ。近くのチェストの上から、()(ちや)(いろ)(さん)(かく)(きん)も取って、頭につける。

 それから、(そう)()用のバケツに水を――って、(みず)(がめ)の水がもうない。先に、共同水場から()んでこなくっちゃ。

 (こう)(きゆう)みたいに水道がついていたら楽なのにな――なんて思ったりもしながら、(みず)()み用の取っ手つき(おけ)を取って、また裏口から外に出る。


 このあたりの建物には水道がついていなくって、代わりに、(てい)()の公共(じよう)(すい)()(せつ)から()びる公共水道とつながった、共同水場がある。ここらの建物を使う人たちは、みんなでここの水を()むのだ。

 近くには、使われていないポンプつきの古井戸もある。共同水場ができる前は、あのポンプのハンドルを何度も何度も上下させて、水を()んでいたのですって。今は、(じや)(ぐち)をひねればいくらでも水が勝手に出てきて、楽になったのだとか。


 顔なじみの(おく)さんたちと軽く雑談しながら、(おけ)に水を()め、水の入った(おけ)を店まで運ぶ。こぼれないように気をつけて運んだら、(みず)(がめ)(なが)()む。

 水を用意できたから、今度は(そう)()(そう)()用バケツに水を()んで、(ぞう)(きん)でテーブルやバーカウンターの上を、モップで(ゆか)()いた。

 (そう)()の合間に、食材の残りも(かく)(にん)。ソーセージの在庫が残り少ない。やっぱり、おかみさんたちは買い出しに行ったのかな。


 4分の3(ほど)(そう)()し終えたころ、裏口から母子の声がして、ガサガサいう()(もの)(ぶくろ)の音とともに、(とびら)(きし)む音がした。


「おかえりなさーい!」


 あたしは、(そう)()を続けたまま、(ちゆう)(ぼう)にいる二人に声をかけた。


「あら、アンナちゃん。いっつも早いわね」

「もう開店5分前ですよー? 準備もあるんだから、この時間には居ますって!」

「それが、そうでもないの。前に()めた子なんか、1時間も後にだって平気で来ていたんだから」


 のんびりとした中年女性の声につづき、同世代の男子の声が聞こえる。


「母さん、そんな話してる場合じゃないだろ! ったく、肉屋のおかみさんと長話しすぎだっての!」


 がちゃ、ばたん、と開閉する冷蔵庫の(とびら)の音や、()(だな)を開け閉めする音がした。その後、親子が店側にやってくる。


 エルザ・ディートリヒは、夫を()くして(むす)()と二人、親から()いだ店を切り盛りして暮らしている40代の女性で、(ぎん)(ろう)(てい)のおかみさん。(むす)()のレオンは、18(さい)の男の子。身長は、あたしより2、3センチ高いくらい。二人とも、波のかかった(くり)(いろ)(かみ)と、緑色の(ひとみ)をしていて、よく似ている。


「さあ、店を開けるよ!」


 おかみさんが声をかけつつ、開店中の看板を外に出しに行く。

 (しよ)(みん)向け酒場 “(ぎん)(ろう)(てい)”、これより営業スタートだ。


***


 (わらわ)が初めて “アンナ・シュタルク” として平民区画に降り立った、その一()(げつ)前のこと。


「……というわけで、(わらわ)は、変装して平民になりすまし、平民街に通って、平民について学ぼうと思う」


 思い立ったが(きち)(じつ)、リュシエールとの散歩を終えた(わらわ)は、居室に(もど)って(さつ)(そく)()(じよ)たちにそう説明した。

 予想どおり、(もう)(はん)(たい)された。危険だ、そんなことする必要はない、貴族たちの相手ができるようになれば十分だ、と。

 だが、その(てい)()で折れる(わらわ)ではない。


「みなが協力してくれずとも、(わらわ)は行く。(こう)(きゆう)()()してでも、絶対に行く!」


 困り果てた()(じよ)たちは、まずベルンシュタイン夫人に相談する。相談された夫人が、(わらわ)の説得を試みる。同様のやり取り。

 こうなると、困り果てた夫人もまた、とある人物に相談する。母上である。

 かつては母上も、(わらわ)がこういうことを言い出した際、(わらわ)(いさ)めておられた。だが今は、こういうときの(わらわ)が、絶対に折れないと知っている。

 なので、(びよう)(しよう)の父上に代わり、とある別の人間に任せる。


 皇族にも構わず意見でき、(わらわ)が多少言うことを聞く相手でもあり、()が父(こう)(てい)マクシミリアンが信を置く側近にして忠臣――まあ、つまり、(てい)(こく)(さい)(しよう)アーベントロートである。


 アーベントロートは、(うす)(まゆ)を寄せ、こめかみを()みほぐしながら、いつもの低く(よく)(よう)のない声で(わらわ)に問いかけた。


「平民に(ふん)し、平民区画にお通いになりたいとか」

「そうだ」

「考え直すつもりは」

「ないな」

「皇后陛下がご反対なさっていても…」

「変わらない」


 口上を事前に打ち合わせたかのように、(わらわ)達は流れるようなやり取りをする。

 アーベントロートは、不満を(かく)そうともせず、大きく息を吸って、思いっきり大きく()(いき)()いた。(わらわ)は、キュッと(くちびる)を引き結び、小首をかしげる。


「…その顔やめてください」


 アーベントロートが、せめてもの(てい)(こう)とばかりに言うので、引き結んでいた(くちびる)は出してやった。


()(じよ)殿(どの)らにも協力してもらいます。平民の(ふん)(そう)や言動、()()いには、当の平民よりも、(せん)(にゆう)(そう)()の専門家を(たよ)るのがよろしいでしょう。“(そう)(よく)(たい)” にも、変装して護衛するよう、話をつけます。必要な服、身分証明書、()(せき)なども、すべて、こちらで手配させましょう」

「うむ、任せる」

「ですから、絶対に、おひとりでは行かないでください。多くの人間を動かします、準備も多くございます。お時間を(ちよう)(だい)することになりますが、絶対に、ぜったいに、抜け出したりなさいませんよう。絶対に、おひとりでは行かないでください」


 大勢動かすことがそれほど問題なら、(わらわ)が自分ひとりで…と、内心で(いつ)(しゆん)よぎるが、絶対に声には出さない。それを口に出したら最後、アーベントロートからの長い長い説教をくどくどと受けることになるからだ。

 (わらわ)は、(うなず)いて「承知した」とだけ応じた。


 アーベントロートは、考えを(めぐ)らせるように目を細め、(てん)(じよう)のあたりに視線を走らせて、しばらくののち、大きな()(いき)をまたひとつ()いた。

Q: どうして “その顔” やめてほしいんですか?

A: かわいいから

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