アンナ・シュタルク
商人の馬車に偽装した馬車から出て、帝都の下町――シェネ・ガッセ区に降り立つ。石畳を踏んだ靴は、妾の足より少し大きいサイズで、汚れてくたびれていた。
髪は、すこしボサついて痛んだ、平民らしい赤毛の三つ編みを、麻紐ひとつで縛ったウィッグ。顔には、誰が見てもアナスタシア皇女と思わない目鼻立ちで、そばかすと日焼けシミのある――ように見せかけたメイクを施し、炎天下の催しでもメイクが崩れないという、強力なコーティング液を吹き掛けた。もちろん、目隠しは無し。
服は、古着めいた質感の厚手のリネンでできた、モスグリーンのラウンドネック丸襟長袖ワンピースである。
ここでは、妾は妾ではなく “あたし”。『帝都に越してきたばかりの商人の娘、アンナ・シュタルク』だ。
うっかり言い間違えないように、心の中でも口調を変えなくっちゃ。
貴族区からも大通りからも離れた、皇宮よりも外壁のほうが近いこの場所は、平民たちの暮らす商業区画。庭のない家々が所狭しと並ぶせいか、まだ日があるのに、どこか薄暗い。
このへんの家屋は、貴族の邸宅と全然ちがってて、2~3階建ての小さな木造や石造がひしめきあっている。たいして修繕もされず過ぎた月日が、外壁の傷や塗料の剥げからわかる。見上げれば、家々をつなぐ紐に吊された洗濯物が揺れている。
石畳の道も、普段馬車から見る清潔な大通りとは違ってて、あちらこちらひび割れ、苔むしていて、泥かなにかも所々に溜まって汚れたまま。
でも、あたしにとっては、大切な場所。なんてったって、ここで働いて、平民たちのみんなのこと、勉強してるんだからね!
馬車から降りた後、あたしは走った。今日は少し遅れちゃったし、はやく “銀狼亭” 酒場に行かなくっちゃ!
走っていると、顔なじみの住民たちが声をかけてきた。
「おう! アンナちゃん、これから仕事かい?」
「こんにちは、ヘッセンさん! そうだよー!」
「あら、アンナちゃん、こんにちは。今日は酒場にいるの?」
「こんにちは、ローベルトさん! うん!」
「アンナちゃーん! そんなに急いで走っちゃ危ないよー!」
「ありがとー! でも遅刻しちゃうからー!」
返事しながら走って、ようやく銀狼亭に辿り着く。銀色の狼の横顔が描かれた、木製の看板が掲げられた、木造二階建ての小さな酒場。あたしの職場だ。
あたしは、建物の裏にまわって、預かっている合い鍵で、裏口の扉をあけた。
「おはようございまーす! アンナ、入りまーす!」
あたしは、大きな声で中に声をかける。昼をとっくに過ぎてるけど、従業員同士は常に「おはようございます」と挨拶する決まりだ。
店の1階には、まだ誰もいなかった。おかみさんもレオンも、まだ2階で休んでいるのかしら。それとも、買い出しに行ってるのかな?
あたしは、裏口そばの衣装掛けポールから、生成りの粗布でできた白い前掛けエプロンをとって、ワンピースの上からサッとまとい、背中で留め紐をむすんだ。近くのチェストの上から、焦げ茶色の三角巾も取って、頭につける。
それから、掃除用のバケツに水を――って、水瓶の水がもうない。先に、共同水場から汲んでこなくっちゃ。
皇宮みたいに水道がついていたら楽なのにな――なんて思ったりもしながら、水汲み用の取っ手つき桶を取って、また裏口から外に出る。
このあたりの建物には水道がついていなくって、代わりに、帝都の公共浄水施設から伸びる公共水道とつながった、共同水場がある。ここらの建物を使う人たちは、みんなでここの水を汲むのだ。
近くには、使われていないポンプつきの古井戸もある。共同水場ができる前は、あのポンプのハンドルを何度も何度も上下させて、水を汲んでいたのですって。今は、蛇口をひねればいくらでも水が勝手に出てきて、楽になったのだとか。
顔なじみの奥さんたちと軽く雑談しながら、桶に水を溜め、水の入った桶を店まで運ぶ。こぼれないように気をつけて運んだら、水瓶に流し込む。
水を用意できたから、今度は掃除。掃除用バケツに水を汲んで、雑巾でテーブルやバーカウンターの上を、モップで床を拭いた。
掃除の合間に、食材の残りも確認。ソーセージの在庫が残り少ない。やっぱり、おかみさんたちは買い出しに行ったのかな。
4分の3程を掃除し終えたころ、裏口から母子の声がして、ガサガサいう買い物袋の音とともに、扉が軋む音がした。
「おかえりなさーい!」
あたしは、掃除を続けたまま、厨房にいる二人に声をかけた。
「あら、アンナちゃん。いっつも早いわね」
「もう開店5分前ですよー? 準備もあるんだから、この時間には居ますって!」
「それが、そうでもないの。前に辞めた子なんか、1時間も後にだって平気で来ていたんだから」
のんびりとした中年女性の声につづき、同世代の男子の声が聞こえる。
「母さん、そんな話してる場合じゃないだろ! ったく、肉屋のおかみさんと長話しすぎだっての!」
がちゃ、ばたん、と開閉する冷蔵庫の扉の音や、戸棚を開け閉めする音がした。その後、親子が店側にやってくる。
エルザ・ディートリヒは、夫を亡くして息子と二人、親から継いだ店を切り盛りして暮らしている40代の女性で、銀狼亭のおかみさん。息子のレオンは、18歳の男の子。身長は、あたしより2、3センチ高いくらい。二人とも、波のかかった栗色の髪と、緑色の瞳をしていて、よく似ている。
「さあ、店を開けるよ!」
おかみさんが声をかけつつ、開店中の看板を外に出しに行く。
庶民向け酒場 “銀狼亭”、これより営業スタートだ。
***
妾が初めて “アンナ・シュタルク” として平民区画に降り立った、その一ヶ月前のこと。
「……というわけで、妾は、変装して平民になりすまし、平民街に通って、平民について学ぼうと思う」
思い立ったが吉日、リュシエールとの散歩を終えた妾は、居室に戻って早速、侍女たちにそう説明した。
予想どおり、猛反対された。危険だ、そんなことする必要はない、貴族たちの相手ができるようになれば十分だ、と。
だが、その程度で折れる妾ではない。
「みなが協力してくれずとも、妾は行く。皇宮を抜け出してでも、絶対に行く!」
困り果てた侍女たちは、まずベルンシュタイン夫人に相談する。相談された夫人が、妾の説得を試みる。同様のやり取り。
こうなると、困り果てた夫人もまた、とある人物に相談する。母上である。
かつては母上も、妾がこういうことを言い出した際、妾を諫めておられた。だが今は、こういうときの妾が、絶対に折れないと知っている。
なので、病床の父上に代わり、とある別の人間に任せる。
皇族にも構わず意見でき、妾が多少言うことを聞く相手でもあり、我が父皇帝マクシミリアンが信を置く側近にして忠臣――まあ、つまり、帝国宰相アーベントロートである。
アーベントロートは、薄い眉を寄せ、こめかみを揉みほぐしながら、いつもの低く抑揚のない声で妾に問いかけた。
「平民に扮し、平民区画にお通いになりたいとか」
「そうだ」
「考え直すつもりは」
「ないな」
「皇后陛下がご反対なさっていても…」
「変わらない」
口上を事前に打ち合わせたかのように、妾達は流れるようなやり取りをする。
アーベントロートは、不満を隠そうともせず、大きく息を吸って、思いっきり大きく溜め息を吐いた。妾は、キュッと唇を引き結び、小首をかしげる。
「…その顔やめてください」
アーベントロートが、せめてもの抵抗とばかりに言うので、引き結んでいた唇は出してやった。
「侍女殿らにも協力してもらいます。平民の扮装や言動、振る舞いには、当の平民よりも、潜入捜査の専門家を頼るのがよろしいでしょう。“蒼翼隊” にも、変装して護衛するよう、話をつけます。必要な服、身分証明書、戸籍なども、すべて、こちらで手配させましょう」
「うむ、任せる」
「ですから、絶対に、おひとりでは行かないでください。多くの人間を動かします、準備も多くございます。お時間を頂戴することになりますが、絶対に、ぜったいに、抜け出したりなさいませんよう。絶対に、おひとりでは行かないでください」
大勢動かすことがそれほど問題なら、妾が自分ひとりで…と、内心で一瞬よぎるが、絶対に声には出さない。それを口に出したら最後、アーベントロートからの長い長い説教をくどくどと受けることになるからだ。
妾は、頷いて「承知した」とだけ応じた。
アーベントロートは、考えを巡らせるように目を細め、天井のあたりに視線を走らせて、しばらくののち、大きな溜め息をまたひとつ吐いた。
Q: どうして “その顔” やめてほしいんですか?
A: かわいいから




