65話 王印
俺は息を呑んだ。何故なら霧が晴れた時。
小鳥遊 結奈は、呪文を唱えていたから。
「『第五の福音』」
小鳥遊結奈が、素早く唇を動かしている。
俺の直感が危険だと警報を鳴らす。
「『ーー貴方は咆哮する』」
あれは、発動させてはいけない。
「っ、……あの小鳥遊を止めろ!!」
リリィ、フェリス、アンナが一斉に襲いかかる。
だが水精霊と大天使が防御に入り、受け止められた。
「『ーー己の矜持を秘めて』」
押し切れない。
彼女の呪文が順調に完成していく。
なあ、スピネル様。
何故、あの天才は福音の呪文が使える?
「『ーー貴方は、貴方を愛した』」
貴方はその化け物に何物を与えた?
あの天才がスピネル様の詞を己の言葉としたとでも?
嘘だろ。
やめてくれ。
「『ーー故に、神の祝福を』」
呪文を発動する寸前、彼女は大天使の頬を抑えて近づき、その目を覗き込む。
それはまるで、その目の反射を通して自分の姿を捉えているかのように。
美少女と、美しい大天使が目を合わせる様は絵画のようだった。
けれどーー、俺の背筋は。
驚くほど冷たく、凍りつく。
「……まさか、本気を出す事になるとは思いませんでした。相沢君……、貴方の名前ーー覚えてあげます」
第五の福音。スピネルの唄。
その効果はーー『変化』
光に包まれた彼女は。
天使と同じような翼を生やした。
「さあ、行きましょう……『羽矢』」
『羽矢』
小鳥遊は、全く同じ動作で、呼びかけにコクリと応じた大天使と同時に攻撃を放つ。
放たれた羽矢は、大天使と遜色ないくらいの威力を帯びていて。
防げ、と命令を送った通り、アンナは氷の壁を張りーーその壁は即座に貫通された。
「ぐっああ……!」
攻撃が俺たちを襲い、矢が左腕を貫通したフェリスが特に呻く。
ーー化け物だ。
あれが、本物の。
天才だ……。
「っ……、まだだ! 押し返せ!!」
状況を好転させる為、命令し正面からぶつかり合う。
相手のマスターは大天使の能力を『共有』したとはいえ、所詮生身の人間だ。一撃、一撃でも当てさえすれば倒せるのに変わりはない。
『血刃』
『氷剣』
俺たちの全力を放つ。
だが、片手を振りかざすだけで余裕綽々と受け止める彼女達に、俺の足元がぐらついた。
理不尽だ。
どれだけ分かっていても、肌に感じても、やはり自分とは違う人種の人間に出会うと頭を鈍器で殴られたような鈍い痛みが走る。
「っ、ーーま、まだ……」
苦し紛れに指揮を振るう。
途端、大天使が放った矢がフェリスを貫く。
声を失った俺は、フェリスと視線が交差し、何かを言おうと口を開こうとしたフェリスの言葉を拾おうとしてーー彼女が光の粒子に変わったのを眺める他なかった。
「ーーフェリス……!!」
一体、失った。
先ほどまでは数的優位に立っていたのに、もう互角だ。
耳を澄ます。
観客の応援の殆どが、小鳥遊 結奈に向かっている。
その理不尽なまでの力と、『変化』という彼女の呪文に視線が釘付けになっている。
自分を応援する声がない。
自分を見てくれている視線がない。
違う。
こんな筈じゃなかった。
俺は、ここに自分を証明しに来たはずだ。
自分が生きる理由は、使役師なのだと、肯定しに来たはずだ。
全部全部、甘い幻想と共に。
その全てが粉々に崩れていく、ガラスが割れたような音が鼓膜に響いていた。
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「あれは、凄いな……」
「本物の天才ですよ。言葉になりませんね」
スカウトマンらは、感嘆の声を上げる他なかった。
相沢選手が朱雀を倒しリードをとった時点では、押し切れるか? と会場中に期待が高まったが、今の状況を見ればそれが淡い幻想だったと分かる。
天才とは、こういう人間を言うのだろう。
少なくとも彼は、本選にいてもおかしくない強さは持っていた。
もし相手が小鳥遊でなく、本選出場という実績を取れていれば。八代は彼を夜廻組にスカウトし、彼自身がパイプを持っている京都対異空校か静岡対異空校辺りに推薦していただろう。
「惜しいな……」
八代の呟きは、小鳥遊という天才を応援する歓声にかき消えていった。
放送部屋の一角。
「凄い……」
その戦いは素人である紫田から見ても引き込まれるものだった。ド派手な魔法が繰り出され、魔法を剣で切り落とすのは最早普通。
激しい攻防は見応えがあり、そこにどれだけの心理戦があるのかは分からないが、とにかく必死に戦う二人はーー本当に輝いていた。
それを柴田は、唇を噛みながら少しばかり羨ましく思ったのだった。
観客席の一角。
「相沢君……! まだや、まだ負けてへんでぇ……!!」
そんな樋口の呟きを聞きながらシャネルは思う。
日本では、スピネルという神が信仰されている。それは彼女の宗教観からすれば不快な部分ではあったが、ここに来てからはある意味受け入れる姿勢を持ち始めていた。
この日本人達が、己の言語で神に祈りを捧げる。日本の神、スピネルは人間と距離の近い存在だ。祈祷に応え、呪文に効力を持たせていることからも分かる。
「セスト様……」
スピネルについて知れば知るほど、彼女は変な神だ。
勿論、彼女は知識として世界には様々な宗教が存在し、人々は己の神を誇りの思っている。
だがスピネルは、神らしくない。
弱く脆く、神と名乗りながらも唯一神ではないと名言し、例え誰であろうとその人の信じる神を尊み、決して否定してはならないという掟を作った。
スピネルは自分の歪さを自覚した神だ。
そんな事を考えつつ、彼女は日本に来て初めて、少しだけスピネルについて好奇心が湧いたのだった。
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足が重いのを自覚する。
ーーどうしてなの?
その疑問ばかりが頭を駆け巡っている。
私は、満足していた。彼の呪文を行使できるという、特別な立場に立って、それで満足していた。
この私が。
愛しのマスターをあの可愛いリリィに譲っても良いのではないか、と考えるくらいには、彼女に心を許していた。
でも結局。
リリィに譲るのは無理だと悟った。
私はどうしてもマスターを、自分のモノにしたくて堪らない。
できる筈だ。
私は一度、マスターの期待に応えるために、自分で自分を変えることができた。
リリィの苦しげな表情が目に入る。
ナイフを振るう彼女に余裕はない。打開策の光が見えたような様子もない。
私は……。
途端、辺りを見渡す。
気づけば砂浜に立っていた。
どこか見覚えのある場所だった。
ここはーー浜辺の汀。
茫漠たる海が、視界に広がる場所。
マスターが手を引いて私の意識を目覚めさせてくれた場所。
「ああ、そう……私の待ち望んでいた誰が人はーー貴方でしたのね、マスター」
少し視界を落とす。
するとそこに花が一輪、転がっているのを見つけた。
これは、皇花だ。
牡丹花の異名であるそれは。
正に、王である私に相応しい花。
それを拾い上げた時。
ガラスのような水晶で出来た鏡面世界の中。心を縛っていた鎖が、引きちぎられる光景が目に浮かんだ。
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絶望に伏した境地の中、俺は体力の限界を自覚した。
どうしてか、体が酷く寒い。
その絶望はあの時、白狐に蹂躙された時の感覚に似ていた。
瞬間。
ーー靴音が驚くほど澄んで響いた。
「アンナ……?」
リリィも俺も、足を止めていた。
そんな中、アンナが俺へと歩み寄る。
彼女がつま先を地面に付けた先から、冷気が漏れ出す。歩いた背後に、氷の茨道が出来る。
もう満身創痍な俺たちに、アンナは口を開くと同時に言った。
『氷壁』
先ほどから何度も砕かれていたその壁は、今度は砕かれなかった。
大天使と小鳥遊が同時に放った羽矢を、あっさりと弾いた。
氷の壁には、傷一つできていない。
「えっ……?」
その様子に、観客だけでなく小鳥遊までもが呼吸を忘れたように目を見開く。
だが、次の瞬間からパキッと音が響いて氷が粉々に砕け散った。
まるで時間差で、砕ける運命であったのを思い出したかのように。
「リリィ」
「アンナ……?」
「ーー貴方には随分と助けられたわ。後は私に任せなさい」
その言葉と共に、リリィと目を合わせていたアンナは視線を外し、真っ直ぐ俺に向かい合った。そこで気づく。
彼女の蒼の瞳に、紋様が刻まれている。
花が形取られたそれはーー『王印』の証だった。
「お、王印? どうしてアンナが……!!」
「リリィには見えなかったのに。ーーやっぱり、マスターには見えるのね」
俺の疑問と共に、俺に背を向けたリリィが敵に突撃した。時間を稼ぐようにその闘志を燃やす。敵の攻撃全てを捌き、必死に戦う彼女は。
泣きそうな顔をしていた。
「っ、アンナーー!!」
リリィが叫ぶ。
彼女の言葉に呼応するように、アンナの顔が悲しさを帯びる。
俺の頬を両手で優しく包み込んだアンナは、穏やかな声で言った。
「マスター、私は貴方が本当に欲しいものをあげるわ。永遠で、一番大きな愛をーー貴方にあげる。だから使徒として貴方に傅く事に畢生を尽くすと決めた私に、応えて欲しい」
「……俺が欲しいもの……」
ああ、確かに欲しい。
自分を裏切らない愛情。たったひとつ、欲しいと願い続けていたもの。
それを彼女が、与えてくれる?
王印を宿した彼女が。
二十等級の使徒と同等の力を宿した彼女が。
ーー人間になる資格を得た、彼女が?
それはあまりにも。
俺にとって、究極で、甘美な提案だった。
「……颯真様を、任せました!!」
その言葉と共に、リリィは最後の時間稼ぎに感電を撃ち放ち、ついでと言わんばかりに水精霊に深傷を負わせる。
そして相打ちのような形で同時に光の粒子となって消え去った。
アンナはそのタイミングを見計らって、もう一度俺たちの周りにドーム状の壁を貼り、観客からの視線と相手からの攻撃を完全に閉じた。
「マスター。……私は、王になるわ。二十等級の力を得て、この世の全部の理不尽を跳ね返すの。世界だって滅ぼせるほどの力よ」
マスターとしての感覚で分かる。
彼女の王印は、未完成だ。きっと何か一欠片が足りない。
「俺は何をすれば……」
「マスター、私は貴方を愛しているわ。貴方に傅いているの。でも女王としての私は傲慢よーーだから、マスター。貴方も、王である私に傅くのが条件」
「っ……!」
「私に口付けをして頂戴。心を服従させ合いましょう。そしたら、私はきっと王の力を宿せるわ」
頭が上手く回らない。
彼女は俺の欲しいものを、正しく理解している。
「っ」
俺の頭の中を見透かされている。
弱みを、内面の醜さを、全部見透かした上でーー受け入れ、愛してくれている。
そんな彼女に。
俺は依存したくなる気持ちが、溢れ出てくるのだ。
でも。
それでもッ……!!
「……俺は、応えられない」
それでも。
脳裏に浮かぶのは、美香だった。
はっきりと、もう自覚があった。その程度には、俺は美香に恋をしていて、裏切る気も無かった。
心の声が自分に叫んでくるのだ。
道を踏み外すなと、嘆くように。
「……マスターは」
アンナの呟きに、俺は顔を上げる。
彼女は瞳に涙を貯めていた。
その首元にかけられた水晶の色が、琥珀色に輝いたまま。
「私の心を、解いてくれたから」
彼女の言葉と共に、氷の壁が透明色になる。
外では時間が止まったかのように全てが静止している。
「マスター、氷を砕くわよ」
氷の色が再び不透明さを帯びる。
「……ごめん、アンナ」
「いえ。マスターは、幸せを掴めば良いのよ」
アンナの瞳から王印が消える。
いつもの綺麗な目がそこに戻っていた。
そしてパキッと氷が砕けると同時に俺は目を瞑り。
天使の矢が身体を撃ち抜く感触だけが後に残った。
準決勝。
勝者、小鳥遊 結奈。
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”貴方は咆哮する。己の矜持を秘めて。
貴方は、貴方を愛した。故に、神の祝福を。”
ーー神、第五の福音より
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