6話 かつての記憶と今
とある短日の、陽が落ち始めた時刻。
冷えた風が辺りに吹き荒れ、落葉樹がサァッと枝を揺らす。そして夕陽が曇天に覆い隠された。
薄暗い緋色に染まった雲達が、茜空の中で天に流れる。それらが光を断絶し、地上に影を作る様は何とも言い難い美しさがあった。
息を呑むようなその光景を、しかし目元を腫らして俯く子供は見逃した。
彼は、黒を基調としたランドセルをだらんとぶら下げた手に引っ掛けている。しかし持つ気力すら無いのか、コンクリートの地面が代わりにその重さを預かっていた。
……どこか既視感のある光景だ。
真っ赤に腫らした眼と、ここまで逃げてくる為に切らした白い息。双眸に宿る瞳の、その栗色の虹彩は琥珀のように美しい。なのに、それはどこまでも哀に満ちていた。
それは、紛れもなく。
子供の頃の自分の姿だった。
……ああ、なんだ。
いつもの悪夢か。
幼い頃から、俺は愛されていなかった。
想定外にも母の胎の中に生まれた俺の生命は。
誕生の瞬間、祝福を浴びなかった。
母にも父にも愛されず、ただ孤独に育ってきた。
他の子供がみんな受け取る愛を与えてもらえない。でも自分に飯と宿を与え、学校に通わせてくれるのは両親。そんな恩と恨みを同時に抱えながら成長した。
だから俺は両親に愛されてなくとも、彼らに依存していたし、愛して欲しかった。
どんな経緯があったのかはもう思い出せない。
でも、一悶着あったのだろう。珍しく母と言い合いをしたのを覚えている。
そんな最中、とある言葉が今でも忘れられないほど印象的に、深く突き刺さった。
ーー本当に馬鹿な子
俺に向けられた憎しみすらこもった目。どうしてそれだけ嫌われているのか、はっきりとした理由は分かるはずもない。やつれた母、彼女が兄にかける異常な期待の言葉の数々、俺に向けられた悲痛な憎しみ。
どこかが狂っていた。
それでも俺は自分も家族も。
……そのどちらをも救ってあげたかったのだ。
母の口癖を思い出す。
産まなければ良かった。
働いて返せ、と言われても勉学は不出来で、俺は早いうちに出来損ないの烙印を押された。
上には五つ離れた姉と一つ離れた兄がいたが、両親が愛していたのは兄である遼馬だけだった。
だからこそ、馬鹿な子と、自分に向けられた目に一切の愛が宿っていない事を、自覚してしまったその時。
自然と涙が溢れ出て、俺は玄関から外へ飛び出した。
……ただ、ほんの少しでも良いから。
父と母の腕の中の暖かさを知ってみたかったのに。
家を飛び出した先に、当てもなく歩いていた。
「……」
偶然だった。金も持たずにふらりと普段は興味も持たない電気屋に立ち寄って、小さなモニターを見たのだ。
映っていたのは使役師関連のCMだった。
とにかく、美しい歌声が流れていたのを覚えている。哀しみの悲痛を咽ぶような曲だった。
ただ、その曲が流れているだけなのに、心はあっけなく画面に奪われていた。
モニターに映る十代後半ほどの若い少女が眼を開いた。それはあまりにも美しい、宝石のような瞳だった。
少女は格好からして使役師だと一目で分かる。艶やかとしか言いようの無い整った美しい女性は、甘やかされて育った愛らしい少女とはとても言い難い”闇”を眼に宿している。
しかし彼女は嫣然と微笑んだ。その笑顔は慈しみに溢れているのに、その美しすぎる眼だけは酷く反比するように、ドロっとしていて光を飲み込むように暗かった。
「っっ〜〜!!」
その美の骨頂にいるかのような彼女に、頬を真っ赤に染め、例えようのない感情を抱いた。俺はその刹那、確かな憧れを覚えたのだ。
翌日再び足を運んでしばらく待つと、あのCMが流れた。食い入るように見ていると、また前日と同じような燃える何かが心を熱くする。しばらく見ていたけれど、人の目が怖くて俺は名残惜しくもサッと店を出た。
その次の日も足を運んだ。それは三度見ても俺の心を奪って行く。けれど店に用がない俺は、すぐに別れを惜しみながら店を出た。
その次に足を運んだ日は、しばらく待っても映像は流れなかった。流石にいつまでも待っている訳にもいかず、俺は諦めて店を出た。
それからはもう何度も足を運んでも、どれほど待とうともあの映像が流れることはなく。
あの女性の名前が『小鳥遊 優彩』である事を知ったのはその何年も後の事だ。
多分、俺はその日から使役師に憧れを持つようになった。
焦がれてしまった。
恋してしまった。愛したがってしまった。
あの理想の狂気に。
淡い、淡い、夢……。
そう錯覚するほどの朧げな記憶としてだけ、今も心に残っている。
俺に生きる活力を与えてくれた、大切な思い出だったのに。
ただ生まれ、ただ死んでいく。そんな生物の一人として誕生した俺は。親に足蹴にされながらも、この世界で生きていくしかない俺は。
ーー何を残せるのだろう。
彼女にもう一度会いたい。
あの輝きが、欲しい。
あの弱くありながら、強かである様子が。
生まれた意味はそこにあった。
はっきりと言葉にして、自分が羨んでいる事を自覚した時。
俺は彼女への憧れを思い出した。消えかけていた情熱が、はっきりと形になった気がする。分かったのだ。俺は本気で、その人を超えたいと思ったのだ。
そう考えた瞬間、いてもたってもいられなくなって。
その為に、今のたった八年しか生きた事のない人生をもう少し頑張って生きてみようと決心がついた。
……けれどやはり。そんな幼い頃に抱いた懐かしい情熱は、新たな燃料を与えられないまま再びゆっくりと冷めていって。
成長と、環境の変化に抗えぬまま流され。暗い心を灯していた熱は揺らぎ消えかけそうになった。
あの時抱いた強烈な焦燥は、今はもう消えてしまっただろうか。それともきっと心の奥底で燃えているのだろうか。
使役師になった今でも、薄れた感情の正体から俺は目を逸らし続けている。