57話 リリィとのデート
帰宅した俺はアパートの玄関先で靴を脱いだ。美香と途中まで同じ帰り道を歩き、自転車を引いていた俺の背中には汗が滲んでいる。
とりあえずシャワーを浴びてスッキリしようと思い、俺は学校の鞄を壁際に置いて浴場に向かった。
体の汗を流し、サッパリしながらズボンを履いたまま上半身裸で鏡を確認する。少し筋肉がついて来た体と綺麗な肌に満足し、俺はドライヤーの電源を付けた。
上にTシャツを着た後、俺は自分の部屋に入り綺麗に掃除された床を踏みしめながら歩く。そして黒のシーツが敷かれたベッドへと飛び込む。
ボスッと自分の体がクッションに反発し少し浮き上がるのを感じ、俺は体を負担していた自重を薄くする為にクッションへと顔を埋めながらうつ伏せになる。
私室だ。部屋が汚いと許せないので、とても清潔に整えられてあるが、それ故に物が少ない。俺は起き上がって、薄暗い部屋の電気を付け、それから小さな机の前に座ってパソコンを開く。
今日は四時半からリリィと二人で異空に潜る。いつもの探索と違い、デートのような物なので難易度が低くて景色の良い異空を選ぶ予定だ。
俺はヘッドホンを付けて音楽を流しながら、稼いだ金額と使った金額が記されたデータを開く。わざわざ作ったこのデータ記録は、どこで金を使ったのかを振り返る為のものだ。
対異空高校の学費は三年合計千五百万円で、今まで稼いだ金を全て貯めていたとしても半分に届かないくらいだ。勿論、学費は一年ずつ支払うので当面は五百万円を目標にすれば良いのだが、対異空高校に通うなら探索に行ける機会は限られるだろう。
だからこそ、俺は今特待生の枠を取ろうとしているのだ。
俺はデータの一番下にある、最後に使った支出を確認し、ため息を吐いた。
「まあ、これは……いずれにせよ必要だったし」
俺は言い訳をしながら、十五万円という破格の買い物になったその支払額を見ながら、頭を抑える。特待生枠を前提にしているせいで、貯金が疎かになっている気がするが、別に今の時点では特待生など決まっていないのだから慎重になるべきだ。
俺は再び、ため息を吐いた。
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翌日になった。
日差しを遮る木々。標高が高いからか、少し冷えた気温。木で作られた人工物の板の道を歩きながら、俺は手に握りしめた血の付着した魔石を鞄にしまう。
山の上、それも舗装された登山道のような異空。
第三十五異空である。
横に並ぶリリィの横顔を盗み見ると、彼女は関心深く景色を見ながら歩いていた。
「やっぱり、実際の登山道そっくりなだけあって上がり下りが激しいな」
俺は山道を歩きながら、近くに生えた木々を見る。どの木もかなり背が高く、現実での木なら百年は間違いなく生きているだろう。
木々についた葉がほとんどの日差しを遮っており、合間から差し込む木漏れ日が光源だ。
「そうですね。颯真様の世界では、こういう場所に穢者は出ないんですよね?」
「ああ。ただ、さっき出た猿型の穢者みたく、普通の野性の猿や鹿は出るだろうけどな」
俺はリリィの話に頷きながら答える。
道中では穢者を一匹倒したくらいで、それ以降は二十分ほど歩いているのだが他に遭遇していない。
第一異空に比べれば相当な遭遇率の低さだ。この異空に人気がない理由の一つだろう。
「リリィ、こういう苔が生えた杉の切り株の上に、新しい杉が生えてるだろ?」
「はい、見えますよ」
「こういう杉は他の背の高い杉に日差しを奪われるせいで、成長がゆっくりなんだよ。それに最終的な高さもそう高くなれないんだ」
「へー……物知りですね」
俺が雑学を語ると、彼女は興味を持ってくれたのか、その木と俺を交互に見つめながら相槌を打った。
彼女は知らない事が多い。いや、きっと知識は普通程度に持っているのだろう。けれど、致命的に経験という物が、使徒には抜け落ちている。
「リリィは聞き上手だな」
「……そうなんでしょうか」
他と関わった経験、誰かから学んだ筈の経験、自分が失敗した時から得た経験。そういう物が全部、生まれ変わった時に抜け落ちる。
きっと、俺がこういう話を、例えば友達にしても興味を持ってくれないだろう。けれど、彼女は俺の話に興味を持って、きちんと聞いてくれる。だから、つい興が乗るのだ。
「そろそろ安全地帯につきそうか」
「そういえば、今向かっている安全地帯は川の付近だそうですけど、何をするんですか?」
「……うーん。まあもう着くし、すぐ分かるよ」
俺はリリィの質問を曖昧に誤魔化し、山を少し下った先に木々が開けて強くなる川の音を感じ取った。
「ここ、ですか」
「結構綺麗な川でよかった。あ、ちょっと待ってて。設置するものがあるんだけど、すぐ終わるから」
そう言って俺はある物をマジックバッグから取り出して、小石の山で出来た開けた地面に置いた。
「重っ」
重量があるため、床に設置した一平方メートルほどの大きい四角の木材の箱のようなそれは、マジックバックから取り出した瞬間から重力を帯びた。俺は怪我をしないようドスンと少し荒々しく地面に置く。
するとその箱はゆっくりと空気が入って膨らむ風船のように膨張し、俺が距離を取りながら離れると、それは小さなコテージになった。
魔道具の一つなのだが、地上では使えない為、使役師が泊まりかけで異空に潜る時のテント代わりになる事が多い。お値段は二十万円。
かなり手に入りやすい筈の魔道具よりなのだが、それでもかなり高いという他ないだろう。他の使役師なら普通にキャンプ用のテント用具を買うに違いない。
だが、このコテージにも大きなメリットが一つある。
「入ってくれ」
「っ、凄いですね……」
リリィが感嘆の声を上げながら中に入って行った。階段を上り、ドア前に来ると俺は靴を脱ぐように言う。
素直に従ってお互いに靴を脱いで靴下のまま部屋の中へと入った。
「綺麗、ですね……」
「ああ。前に人間の生活を教えるって約束してたから、体験して欲しいと思って。サプライズみたいになっちゃったけど、気に入らないなら普通に探索すれば良いし。でも普段やらない事をするのも、新鮮じゃないか?」
「……はい、まあ教えて欲しかったのは颯真様の私生活なんですが。でも、とても嬉しいです」
「良かった、気に入ってくれて」
部屋の中にはベッドが二つとソファーが一つ、小さな長方形型の机はマットの上に強いてあってその先にはテレビもある。
「凄いだろ? 実はこれ、シャワーもあるんだ」
「シャワー……というとあの蛇口というものから水が出て、それで体を洗うやつですよね?」「ああ。せっかくだし、汗だくのままでいるのもどうかと思って」
「私なら一度聖遺書に戻して頂ければ、綺麗になりますよ?」
「そっか。まあ、一応見せておくよ」
俺はリリィにシャワー室を見せる。
典型的な奴で、手洗いとシャワーが一緒にあるやつだ。電気は通ってないが、魔石を介してお湯が出るようになっている。
「不思議ですね……見た経験なんてないのに、ちゃんと知っています」
「……俺はぱぱっとシャワー浴びちゃうから、先にベッドにでも寝転がっておいてくれ。あ、一応パソコンも起動しておこうか。試しに触ってて良いから待ってて欲しい」
そう言いつつ、俺はリリィを椅子に座らせる。
「分かりました。ありがとうございます」
「いやいや、待たせて悪いのはこっちの方だし。音楽、映画、アニメ、漫画、小説とか娯楽は一通り揃ってるから。ちょっと触っておいてくれ。使い方は多分、大丈夫だよね? 」
俺は机に最近購入した新品のノートパソコンを設置しておく。私用のパソコンは流石に人に見せられないものが多いので、持ってきていない。
リリィは頷きながら、答える。
「はい。パソコンを使おうと思ったら、急に使い方が分かりました。人間は、こうはならないんですよね?」
「ああ、まあね。人は経験に基づいて知識をつけるから」
「人間は……普段こういう環境で暮らしてるんですか? ご飯なんかも食べるんですよね?」
質問を問われ、俺はリリィの関心に少し興味を持つ。
「ああ。それもあとで用意するけど、基本はみんな家で暮らして、家にいる以外では学校に行ったり会社に行ったり、って感じになるよ。で、今だと家では皆んなパソコンやらスマホやらで殆どの時間を使ってると思う」
「この部屋に、人の生活が詰め込んでるあるんですね」
「その通りだ。食事、睡眠、娯楽。人の生活は基本この三つに依存してるからな」
俺はそれだけを言い残し、シャワー室に入った。尚、一応鍵は閉めた。理由はないが、一応閉めておいた。
シャワーから出ると、リリィはマットの上に座って机の上のパソコンに登録されたお気に入りの音楽プレイリストを聞いていた。俺が近づきながら、何を見てるのか、と問いかける。
タオルで頭部を拭きながらリリィの隣に座ったが、妙にチラチラと見て来ている。それに何故かどこか顔も赤い。シャワー上がりだから少し暑くて、俺は冷房を強めた。
「何聞いてたの?」
「あ、これです」
「あ〜。どう?」
「はい、とても新鮮で楽しいです」
「それは良かった」
俺は歌を聞くのが趣味だ。というか芸術全般が好きだ。音楽、物語、絵。全部、人の個性とテーマが現れる。その世界に、俺は惹かれていた。
「颯真様はこういうのが好きなんですか」
「ああ。綺麗だろ?」
「私はよく分かりませんが。そうですね、綺麗な気がします」
そういえば、俺は何で芸術が好きなんだっけ。
単に娯楽としてでは無い気がする。楽しいだけなら釣りやスポーツだって同じだ。けれど芸術は特別だと思う。
別に芸術に詳しいわけじゃない。
いや、むしろ詳しく無いから、どんなものでも憧れるし好きだとも思える。
芸術は、クリエイターやアーティストの表現が詰め込まれている。その人の表現したい人生が、テーマが、己が、備わっている。
「考えたこともなかったな……」
独り言のように呟く。
それを拾ったリリィは、ふと不思議な顔をした。そして流れていた歌を止める。
「ねぇ、颯真様」
「何?」
「さっぱりしたいので、一旦、私を聖遺書に戻してくれますか?」
「あ、ああ」
俺は玄関口まで行ってリリィに靴を履かせてから聖遺書に戻し、すぐに召喚し直した。
彼女が光に包まれて現れると、改めて靴を脱いで部屋に上がり、俺の服を引っ張って一緒に座るよう無言のメッセージを伝えてきた。
リリィと一緒に座ると、彼女から話を切り出した。
「まずは、私の為に時間を作ってくれてありがとうございます」
「全然構わないよ。話したい事があるんだよね」
「そうですね。すみません、私たちの間に溝ができている気がして。話し合わないといけないとは思ってたんです」
リリィがゆっくりと言葉を紡ぎ、俺は黙って頷いた。
「アンナも気にしていますし、フェリスも間接的に事情を聞いてはいます。メイも心配していました」
「……ああ。悪いと思ってる」
「別に、颯真様が悪い訳ではありません。けれど私たちはマスターの事を何も知らないでしょう? 颯真様は、私達に自分の事を話さないじゃないですか」
「いや、それは……」
「それとも、誰にも話したりしていないのですか?」
「……」
「颯真様は、分かりやすいんですよ。ナナの時に、察してはいました。きっと貴方は何か抱えている物があるんじゃ無いかって。だから、色々聞きたいんです」
リリィの言っていることは図星だ。
人は誰しも、人には言えない悩みや葛藤を抱えているのだろう。俺は暗い部屋の中で、自分の状況を誰かに慰めて欲しくて、辛さを耐えるように、枕をギュッと抱きしめていた自分の光景を思い出す。
けれど、それを自分から人に話すだろうか。
相手は迷惑するだろう。
「私が知りたいんです。何でも聞いてあげます。だから、遠慮せず話してください」
リリィに心を引き出されるような気がした。
的確に、俺が求めていた言葉を言われて、俺は唇を噛み締め、隣に座るリリィの手を握った。
そして俺はたった一人で清算していた過去に見切りをつける為、リリィに一言、短く言った。
「ああ」
「……では颯真様。貴方はどんな人生を歩んできましたか? 私に、教えてください」
教えてください、か。
人の心を引き出すのに、この上なく良い言葉だと思う。
それから、俺は何から話せば良いのか分からなかったが、とりあえず少しずつ話し始めた。
「俺は、日本の大阪で生まれてそこで育ったんだ。家族は五人で、母と父と姉と兄がいた。母と父にはあんまり愛してもらえなくて、子供の頃はグレた子供だったよ」
「私には想像できない話ですね」
俺は身の上の話をゆっくりと吐き出していく。
その話を聞くリリィの表情は複雑だ。単純にどういう物なのか想像しにくいのだろう。日本も家族も子供の身振りも彼女には想像できない。
知識に、イメージが追いつかないというのはどんな感覚なのだろうか。
「伝わりにくい話で悪いな……。で、俺は子供だった訳だ。当然子供なんて甘えたがりな訳何だけど、俺は一度も愛情を与えられなかった」
「……続けてください」
話していくうちに、自然と恥ずかしさが消えていく。
「だからか、家の外で人からちょっとずつの好意や優しさが向けられる度に、それを常に自分の物にしたくなった。愛してくれる人が、自分が初めて寄りかかれる背中になると思った」
話もスラスラと思い浮かぶ。何度か自分の悩みを話せるような都合の良い相手が現れて、こういうシーンが訪れるのを妄想していたせいかもしれない。
「俺、幼稚園の頃までは内気な子供でさ。ちょっと捻くれてる上に周りに心を許さないような嫌な奴だったよ」
「……」
「でも小学生に上がってから、上手く行き始めて。友達とかもできて、学校が楽しくなったんだ」
思い返しながら、結局何を伝えたいのか、自分の中で頭を整理し始めた。
「だからこそ、家の中が辛かった。自分のお母さんとお父さんを両親だって認めたくなかった。俺の家の外で知った親という偶像とあまりにも、違ったんだ」
「はい」
「それで、俺は考えた。親元から出たい、自分の欲望のままに自由な人生を生きてみたいって。そんな自分の人生を妄想して、理想ができたんだ。人に愛されながら生きていける人生が良いってさ」
俺は自分の核心を話しだす。
「手段は何でもよかった。ただ、この世界にいて良いんだよ、って人に愛されたかった。だから、俺は何者かになりたいと思ったんだ。でも勉強もスポーツもーー自分には才能がない、って簡単に思い知った」
世の中を見渡せば、腐るほど天才がいる。
それこそーー呆れるほどにだ。
「でも、まだ使役師に対する憧れは持ってたよ。まだこの才能だけは、未知数だからって。けれどいつからかーー何もかもが無理だって、否定する自分がいた」
何より……ずっと、母さんと父さんに否定される度にーー自分でも無理だと思うようになった。
潰されて、潰されて……全部持ちきれなくなって。
やがて、地面に這いつくばりながら、手を伸ばすことさえしなくなった。
「あの杉みたいですね……」
「え?」
「高い木に、陽の光を奪われるところがです」
リリィの呟きを聞き逃し、俺は問い返した答えが飲み込めないままでいた。
それでも俺は話を続ける。
「……俺の世界はずっと灰色だったんだ。その中でも中学生に上がった頃姉さんが引き取ってくれて、親から解放された。引き取られたその時はもう鎖と共に、夢を追う意思も消えてた」
「でも今は違うんでしょう?」
リリィが言いかけた言葉の上に言う。
「……数ヶ月前のあの日は、突然だった。自分を見つめ直した時、あまりにもみっともなくて姉さんに苦労をかけてばかりの馬鹿だって気づいて。恥ずかしくなったんだよ。だから始めたきっかけは自信でも決心でもなくて、焦りからだった」
「それが、私たちが出会ったきっかけですか?」
「ああ」
俺は頷く。
「ナナの件は本当に偶然だった。ナナがいなかったら俺はどこにでもいる普通のマスターになってたし、きっと白狐に勝つこともできずに、一時抱いた気の迷いだったって使役師をやめてた。
ーー本当に偶然だったんだ。俺はあの日ナナに勇気付けられて確かに決意が固まった。俺でも誰かに愛してもらえるんだって、思えたんだ。だから俺は今、使役師としてこの世界の何者かになりたいと思ってる」
結論、俺はあの日ナナに救われて彼女に背中を押された日から、夢へのスタートダッシュを切って何者かになる為に使役師の頂点に憧れた。
「話は分かりました。でも。……ねぇ、颯真様。それなら、颯真様は何で彼女が出来て夢を叶えた今でも、夢を追ってるんですか?」
……息が止まったような気がした。
「確かに夢を追ってた動機は叶った。でも今はその延長線だ。俺は何者かにはなりたいままだし、それに何より人の生活にはお金が必要だ」
言いながら、思う。
苦し紛れに用意された言い訳を喋っている、と。
「嘘です」
リリィは俺に顔を近づける。
「マスターの動機は、変わってないでしょう? 現にずっと目に宿った燃え上がるような炎の燃料は、変わってないじゃないですか」
「……」
「言葉の節々から感じる、やる気が変わらないままなんです。……ねえ、マスター。なんで、ですか?」
図星をついてくるリリィに、俺は思わず後ずさる。しかし、すぐに距離を詰め直してくるリリィに俺は冷や汗を流した。
「ずっと、不思議だったんです。颯真様は、察しが良いのに……何で見て見ぬふりをしてたんですか? 何でもっと優しく、傷つけてくれなかったんですか……」
リリィの目から涙が溢れ出す。何粒もの涙が絨毯にシミをつけていく。
俺は言葉が上手くまとまらず、セリフを用意できない。
答えない俺を、待つようにリリィは俺の胸ぐらを掴みながら無言で泣いていた。
「……俺なんかが、愛される筈ないと思ってたんだ」
いつだってそうだった。誰かから好意を向けられる度に、心のどこかで否定している自分がいた。愛を求めながら、愛を認めない様子はとても歪だった。
分かっていた。きっと俺は、親と共に愛にさえ偶像を抱いてしまった。向けられる愛が、俺の抱いた偶像の愛と姿が違えば、それが愛情だと確信を持てなかった。
「じゃあ、あなたは今彼女さんに愛してもらえてないと思ってるんですか?」
「違う、美香は……」
ーー俺はどうやって美香の方が愛していると決めているんだろう
俺が抱いていた疑問。
耳に入るクラスメイト達の恋愛は、サバサバした物だった。人の恋愛は酷く不安定で脆く、かわりやすい。
……俺は美香が本当の俺を知れば嫌いになるかもしれないって、不安なんだ。
「美香……あの時の。分かりました。良いですか、颯真様。これだけは言っておきます」
「え?」
俺が彼女の言葉に固まると、彼女はすぐにあの時のような犬歯が見える獰猛な顔で俺の顔を捉えながら、宣言した。
「私は絶対に、貴方を手に入れます。颯真様が他の女に取られるなんて、嫌です。絶対に、絶対に絶対に絶対に、渡しません……!! 好きなんです、マスター。私をあの時変えてくれたマスターが、優しくしてくれた、かっこいいマスターが、大好きです」
久しぶりに呼ばれたマスター、という呼び方は最初の日みたいで。まるで最初の日の彼女が……いや、最初の日から好きでくれていた彼女が、俺に想いをぶつけているようだった。
真っ赤に染まった彼女の頬を見据える。
とても美しく、かっこいいその姿は、やはりあの時あの日と変わらない。
ああ彼女は相変わらず。
「可愛いよ、リリィ」
「んえっ………!? な、何言ってるんですか!! 惚れましたか!?」
「違う違う。……ごめん、リリィ。俺は今、美香と付き合ってるんだ」
「……分かっています」
「俺が彼女に嘘をついたままでいるのは、いつか彼女に、俺の本心を言いたいと思ってるからだ。だから、俺は嘘が本当になる時まで俺は美香を騙し続けるよ」
セリフを用意せず、ただ心の底から湧き上がった言葉をそのまま口にだす。
「酷いですね、マスター………ばーか」
「分かってる。ちゃんと言うべきだった。許して欲しい、リリィ」
「……それは、いつか許せる時が来たら許します」
それだけ言うと、彼女は我慢できなくなったのか、声も無く泣き始めた。顔を見られったくないのか彼女は横のソファーに置いてあったクッションで顔を隠す。
彼女に手を握られたまま。
リリィはただ俺には縋らず、ソファーのクッションを抱えて泣いていた。




