56話 失敗
学校が終わった放課後。
俺は用事を思い出しながらスマホを取り出した。この用事を済ませたら美香とでも帰るか、と思いながら俺はスマホを確認しながら歩く。
すると、俺を呼び出したその子に声をかけられた。
「ごめん、お待たせ相沢君」
スマホから目を外し、相手の顔を捉える。
相手は女の子だが、見覚えのある顔であるものの彼女とはあまり親しくした覚えがない。一応同じクラスの子だった筈だ。
金髪に染めた派手な髪色と着崩した制服、腰に巻いたカーディガンから、俺の印象としてはギャルだな、という程度だ。
彼女が今日の話はみんなに内緒にして欲しい、と言いつつ俺を呼び出した意図を勘ぐりながら俺は返答する。
「どうしたの池田さん?」
彼女はここ二週間ほど、最近ずっと俺にアプローチを仕掛けてきている子だ。俺自身、彼女持ちである事を公言していないので、バッサリと断りにくかったのである。
熱っぽい視線を感じた。視線は俺の顔に釘ついていて、まるで夢の王子様を見るかのような顔だ。
「うん! ごめんね、急に……あのね、実は最近女子の間で相沢君かっこ良いって噂になってて。私、それでちょっと焦っちゃって。良く相談に乗ってくれてたじゃん? その内に、私相沢君の事好きになっちゃったの……」
この子の目に映る俺は、どんな姿をしているのだろう。何を見て俺にそこから先の言葉を投げるのだろうか。
俺は人から愛された事がなかった。自分の性格が良いとは特別思わない。むしろ、冷たい方だろう。
多分、人に恋をする理由は様々だ。
人から愛してもらった事がないのと同様に、俺も誰かを愛した経験はたった一度だけで、それも酷く歪な形だった。
俺は人を好きになる基準が分からない。相手の何を好いていれば、それが恋になるのか分からない。
目の前の彼女と美香とで何が違うのだろうか。
この子と、美香で、俺はどうして美香の方が好きだと断言しているのだろうか。
「私と付き合ってください」
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廊下を歩きながら、私は颯真を探す。
「あ、美香。今日一緒に帰らない?」
「ごめん、ちょっと用事があるから」
友達に声をかけられるも、私は断りながらいつもの場所へと向かう。玄関口近くの階段の一角が私達の待ち合わせ場所だ。
歩きながら、私は颯真を見つけた。
彼を見つけ、心を弾ませながら私は笑顔で彼に声をかけようとして、途端、固まる。
「ーー私と付き合ってください」
私は何故か後ろめたい気持ちに追われつつ、身を隠し彼らのやり取りを覗き見する。
相手は同じクラスの女子生徒で、そこそこ可愛い見た目をしている。私は激しい心の痛みに襲われながら呼吸を荒げる。
「えっと……」
大丈夫、だよね……?
私は自分にそう言い聞かせる。不安な気持ちに襲われて仕方がない。きっと大丈夫。だって、颯真は私の彼氏なんだから。
どうして、不安になるのだろう。
顔が曇る。いつも隠していた言葉が、思わず心に浮かんでしまう。
……どうして颯真は、一度も私に好きって言ってくれないんだろう。
彼と一緒にいる時、楽しいと言われた。嬉しいとも言われた。頬を赤らめたりする可愛い反応を見た。あの日、私の王子様を手中に納めた時、彼とキスをした。
でも、彼は決して私の事を好きだとは、一言も言わなかった。
颯真は奥手だ。
あれ以来、キスどころか手を繋ぐことすらしてない。
近くにいるのに、すごく距離があるような気がしてしまう。
「……お願い」
断って。
颯真は私のものになった筈なのに。
涙が溢れそうになる。怖くてしょうがない。
私はその場とは反対方向に足が動いていた。一歩を踏み出して、聞かないことにしようと考える。逃げるように走り出した時、私の耳は確かに声を拾った。
「ごめん、俺大切な彼女がいるんだ」
私は颯真の声が、幻聴か本当の声か分からないまま走って逃げた。でも、段々とその言葉を思い返しながら、現実感が増していく。その場からゆっくりと、下を向いていた顔が上がった。
はっきりと断りの返事を入れた俺に、池田さんの顔が困惑に包まれる。彼女は戸惑いながら、ショックを受けた顔で声を絞り出す。
「えっ………何で?」
「え?」
「だっ、だって。てっきり私脈アリだと思ってたし。彼女いたの?」
「……うん」
「じゃ、じゃあ私の悩みを聞いてくれたのは? 誰も私の事好きじゃないって悩んでた時、否定してくれたのは?」
「ごめん。本当に他意はなくて」
「そ、そっか……ごめん私の勘違いだったみたい」
短いやり取りを終える。
当然の帰結だった。俺には彼女がいる。美香を裏切るつもりはないし、裏切ればどう転ぶかも知っている。
それに。
彼女からは、リリィ達の時のような苦しさを感じない。
俺はもし俺が美香と付き合っていない状況だったとしても、彼女より美香を選ぶだろう。
「……ごめん、じゃあね」
「うん」
池田さんと別れ、俺は足を止めていたので、美香との待ち合わせ場所へ急いで歩く。
「あ、美香」
彼女は案外すぐに見つかった。俺が声をかけると、彼女はビクッと跳ねながらも俺に不安げな目を向けて、すぐに視線を逸らす。けれど、表情からは少し安堵が伺えた。
「あれ、ちょっと髪切った? 可愛いね」
「え、うん。昨日、切ってもらった」
気になったので指摘を入れてみると、彼女は少し嬉しそうに顔を綻ばせながらも、何か後ろめたさがあるのか、視線が宙を彷徨っている。
「帰る?」
「うん……ねぇ、颯真」
「何?」
俺が声をかけると、彼女は頷いてからこちらを見やった。俺を見つめる、その目にはどこか既視感がある。
まるで彼女の理想の完璧な憧れの人、俺をそう見たいかのような、期待と不安の入り混じった目だ。
俺という偶像を演じた、偽物。
彼女が今、何を思っているのか分からない。
その静寂を打ち破るかのように、彼女は頬を赤く染めながら甘えるように言い放った。
「ちゅーして欲しい」
「え!? ……キスは、ちょっと、えっと、人に見つかったらまずいだろうし」
しどろもどろになりながら、俺は狼狽える。
キスは最初の時以来していない。あれ以降どうにも抵抗があった。
「お願い」
「……分かった」
覚悟を決めて、俺は緊張で震える手を押さえ、彼女の頬に手を伸ばす。その色白の頬は触れたら壊れそうだった。
意を決して接してみると、案の定、とても柔らかく嫋やかで、脆そうだと感じる。
俺は意を決して顔を近づけた。
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「あ、美香」
声を掛けられた。
先ほど颯真が別の女の子と話していた場所からそう遠く離れていなかったので、怪しまれるかな、とビクッと体が跳ねたけど、彼の顔を見ると杞憂だと思った。
結局最後までは聞いてない。
でも颯真は断ったのだと思う。
私は颯真が好きだ。細かい変化に気づいてくれる所とか、歩く速さを合わせてくれる所を踏まえても、颯真はとても良い彼氏だと思う。
彼と目が合わせられなくて、チラッと盗み見ながら彼の顔を堪能する。歩く度に揺れる髪の黒が輝いていてとても綺麗だ。どんなシャンプーを使っているのだろうか、と思いながら、チラッと自分の髪触る。彼に負けず劣らずの艶やかな髪で、少し安心した。
艶のある髪に似合う、彼の真っ白い肌を見る。昔はもうちょっと日焼けしていたのに、今では紫外線を嫌うようになった。たまに友達の女子からも羨ましがられるほどで、昔ちょっとだけ遠目から見た彼の綺麗な姉譲りの遺伝子なのだろう。
彼を分類するなら、高スペックという事になると思う。私には勿体無いくらいだ。周りからは可愛らしいと褒めてもらえる事が多いけど、可愛らしく見えるだけじゃ足りない。私の顔の造形は、他の本当に可愛い女子と比べると見劣りする。
だからこそ、私は不安で仕方がない。お互いがつり合っているかどうか分からない今が。彼が本当に私の事が好きだったのか、それとも偶々フリーだったから、偶々仲が良かった私に付き合ってくれたのか。分からない。
頬に触れる颯真の手は少し冷たく、それでいて少しゴツゴツとした男の子の手だ。彼には、いや……颯真にはこの世界の彩りがどう見えているのだろう。
彼の瞳に映る世界は。
鮮やかだろうか、暗い灰色だろうか。
私は、颯真のことを何も知らない。
「んっ」
唇に湿った感触が伝わった。颯真とのキスは二回目だけど、私の腰に手を回して上手く身長差を感じさせない、そのキスの仕方がとても好きだ。
それと同時に、どうしてか慣れているようにも思える。誰かと付き合った経験はないと言っていたのに、信用しきれなくて心がモヤつく。
颯真に他の女の影を見たくない。颯真の喜びも、怒りも、哀れみも、楽しみも、全部私が一番見たい。颯真の憂いた顔も陰りの多い表情も、全部分かってあげられるのは、颯真の特別である私だけであってほしい。
彼の宝石のような綺麗な瞳を再び見た。彼の魅力はどこか、と聞かれればきっと目が綺麗な所だと私は答えるだろう。
少し濁っているにも拘らず、奥まで見えるような澄んだ眼だ。
彼は、私の事を特別な目で見ているのだろうか。
欲しい言葉や言いたい想いを沢山、思いついた。
けれど不安で恥ずかしくて、私は喉に突っかかった声を諦め、彼の核心に触れない。言葉は何一つ出てこなかった。
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美香を腕の中から離して、甘い香りが残される。彼女の陰りのある顔の真意を俺は読めず、自分の照れくさい気持ちに、愛想笑いを浮かべながら頬を掻いた。
俺はこの感情に気づいてはいけない、とぼんやり思う。それが恋だと言い切れる自信がないから。俺は昔からずっと変わらず、誰かから愛が欲しい。
目の前の彼女は、俺を恋愛的に愛してくれているだろう。けれど、どれくらい愛してくれているのかを俺は知る術がない。
俺は彼女にどういう風に愛を証明して欲しいのだろう。恋とは酷く不安定に揺らめく火だ。燃え尽きる日が来る、永遠ではないその感情。俺はそれを、俺が望んでいる愛とは定義しないだろう。
俺は今、愛を手にしているのだろうか。それでも、いつか彼女と裏切らず、彼女に一途に尽くしと付き合い続けていたら分かるのだろう。俺は自分に言い聞かせて、再び目を閉じた。
外界から情報がシャットアウトされ、俺は自分の鼓動の音を静かに感じ取っていた。




